少年K少女M

黒蜜きなこ

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動揺と高揚

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 二階建ての一軒家。五年前に建て替えられた割と新しめの自宅は、自営の工場が隣接している。庭には蜜柑の木が植えられており今の時期は丁度収穫時期である。車は二台。決して裕福ではないが、何不自由なく暮らせているのは両親の努力の結晶であると言える。俺には妹が一人いる。年齢は三つ離れている。現在は高校二年生で二年後には大学に通うのだろう。
 二階の六畳間の一室。そこが俺の部屋だ。バルコニーにつながる通路を挟んで妹の部屋も二階にある。
 時刻は午後八時半。普段なら風呂や夕飯を済ませて自室のパソコンやテレビを見ながら呆けている時間帯なのだが。残念ながら今はそのようなくつろぎの空間ではない。少しピリついた様な緊張感が漂っている。何故なら。

「黒木」

「は、い」

「荷物とコート、適当においていいよね?」

 自室に異性を呼ぶのは高校生以来だろうか。初めての彼女を連れてきた時に母親と妹に茶化されたいやな記憶がよみがえる。彼女の名は桜井由美さくらいゆみ。同級生だ。なぜこの様な状況になっているのかというと、発端は三日前の成人式から数時間前に遡る。


 三日前。
 成人式後の飲み会にて。

「二週間ぶり、だね。黒木」

「へ?」

 突然の言葉に思考が停止した。二週間ぶり。本日は一月十四日。つまり二週間前は元旦である。そこまで思考が追いついた所でさらに混乱してしまう。何故なら元旦は家から一歩も出ていないし、誰とも連絡を取っていない。あの祐樹とも。そもそもスマホ自体弄っていた記憶すらない。コタツの中で毎年恒例の駅伝を見ながらおせちやら買い込んでいた菓子やらを食べて、だらけきっていたからである。

「俺?」

 純粋な疑問と不可解な表情を向けた。彼女がそもそも人違いをしているのではないかと思ったからだ。

「会ったよ。夢の中で」

 何を言っている、と思った。それはそうだ。彼女は元旦に俺に会ったそうだ。夢の中で。
 脳内処理が追いつかずに完全にブレーカーが落ちた。

「――誠ちゃん。何してんの?」

「……」

「あー桜井さん!振袖凄い似合うね!」

 飲み物を待ちきれなくなった祐樹が様子を見に来ていた。強引に脳内の処理を止めてシンプルな思考回路を作り上げ、無理やり理解する。

「小谷くん。お久しぶり」

「何してるの?てか誠ちゃん、死ぬほどこぼれてるけど」

 両手で持っていたグラスの片方は、意識が薄まりすぎて斜めになってしまい、豪快に床に中身をぶちまけていた。それでも気付かないほど動揺してしまったらしい。

「大丈夫かー誠一郎」

 橘はニヤニヤしながら床掃除をパッパと済ませ、もう一度ドリンクを作り直すと言い、三人を空いているカウンター席に誘導した。左に祐樹。右には桜井がいる。少しばかり冷静になった俺は、ドリンクを持ってきた橘に謝罪と礼を伝えた。橘は俺の背中を一度だけ叩き”若いねえ”等と言いながらさっさとキッチンの方へ姿を消した。
 祐樹はその反応で察したようで、先ほどのテーブルに帰ろうとした、が。引き千切れんばかりの力で無理矢理席につかせる。

「黒木、大丈夫?」

「あ、大丈夫」

 なぜ俺はこんなにも取り乱しているのか。自分の感情が制御できなかった。彼女の顔を見ることに抵抗があった。目を見て話す自信がなかった。今は嫌だと思ってしまった。
 その後は祐樹が話を繋げてくれて、彼女が言っていた事がわかった。元旦に俺が夢に出てきた。どんな夢だったのか覚えていないが、とにかく俺が出てきた事だけは鮮明に覚えているらしい。なぜそんな事を俺に伝えようと思ったのかは、今はわからなかった。

「初夢かー僕はまだ見てないよ。誠ちゃんは?」

 見ていない。というか夢なんていつから見なくなったのだろう。残念ながら、俺は夢だとか占いだとか運勢だとかその手の類は信じていない人種だった。それに何だろう。妙に居心地が悪い。イラついているのが自分でもわかる。この場から逃げ出したいと思っている気がする。それともそんな事を考える自分に対して苛立っていたのかもしれない。数秒だけ、全体の声が少なくなった。タイミング。そのタイミングだった。

「黒木、番号交換しない?」

「――え?」

「私もう帰らないといけないから」

 突然の事で固まっていた俺の脇を祐樹が小突く。慌ててポケットに入っていたスマホを取り出してテーブルに置き、自分の番号を表示した。彼女はそれを見ながら何やら操作したかと思うと、俺のスマホに知らない番号からの着信が表示された。
 それだけ。それだけをして彼女は席を立った。そそくさと荷物をまとめてこの打ち上げの主催者組の席まで早足で歩いていき、少しの会話をしてすぐにこちらに向かって歩いてくる。近くまで来ると、俺にだけ聞こえる声で一言だけ。そのまま出口の方へ行き、数人と共に居酒屋を出て行った。
 俺は深く長い息を吐いた。祐樹は黙って灰皿を前に出してくれた。あまり顔は見なかった。どうせほくそ笑んでいるに違いなかったから。容易に想像できる。それと、自分の顔を見られたくなかった。どんな顔なのか想像もつかない。ポケットに入っているタバコを一つ取り出して火をつける。白煙が宙に浮いて、やがて淡く消える。テーブルに置かれているスマホの画面には”不在着信”の文字。

「良いんじゃない?」

「何がだよ」

 言ったことは理解していた。それが本気なのか茶化しているのかも。もう一度だけ煙草を吸いゆっくりと吐き出す。彼女から言われた一言が頭の中に響いている。なぜ二十歳になってまで。大人になってまで。それは俺の固定概念を壊すには十分だった。自分がまだ子供だったのかもしれないし、親父の様な年齢になったとしても、こんな感情になる事はあるのだろうか。

 "またね。連絡するから"

 ヘアスタイルを気にすることなく頭を搔きむしる。無造作に暴れた前髪の隙間から、吐いた白煙がゆっくりと宙を漂って、また淡く消えたのが見えた。
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