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鍵と記憶と受付嬢
第9話
しおりを挟む少年は、『暇』というものが嫌いだった。
冷たい檻の中で、薄汚い布切れを体に巻き、横たわっているだけの日々。外の世界で同年代の子供たちがしているような娯楽は一切ない。
たまに外から小綺麗な服を着た者が覗き込んでくるが、中にいるのが子供で、しかも男となるとすぐに別の奴隷を求め消えていく。
「おい、飯だ。食え」
「…………………」
檻の中に乱暴に置かれたのは、具の殆ど無い冷めたスープだった。
少年は這いつくばって、皿に顔を近づけた。まともな食事をしていないせいで、腕や脚は棒のように細くなり、ろくに動かす事もできないのだ。
最後に陽の光を見たのはいつだろうか。
最後に誰かと話したのはいつだろうか。
最後に人の温もりに触れたのはいつだろうか。
『僕の名前は、何だっただろうか』
視界が白く霞んでいき、少年は涙を流しながら思い出せもしない記憶を探った。
眠りに落ちる前に感じたのは、誰かの悲鳴と嗅ぎ慣れた煙の香り。それと、味もしないスープの冷たさだけだった。
ーまた外れか。
念写された絵を見て首を横に振る観光客に、グレイは礼を言いながらそんな風に思っていた。
「はぁ…」
もう何度めのため息だろうか。ついさっきまでは頑張ると決めていたのに、こうも手がかりがないと心が折れそうになる。いや、もう折れているかもしれない。
この辺鄙な東の島に、船に揺られて1日、港から都市部まで馬車で半日費やした。着く頃には日も沈みかけ、グレイが人探しを始めたのは3日目の朝からだった。
手始めにシュウから預かった住所を尋ねたが、行ってみればそこは空き家になっていた。それからは、ただ通行人に尋ねるだけの繰り返し。
そして既に3日目も終わろうとしているが、一行に探し人を結びつける手がかりはナシだ。
だが幸い、今この場にあの口煩い敏腕秘書はいない。偶の休日なのだ、少しくらいの休息は許されるであろう。
「いらっしゃい」
適当な理由で自分を説き伏せたグレイは、近くの酒場に足を運んだ。そこで地酒を頼み、椅子に深く腰掛けタバコを吹かす。うまい酒に、ゆったりした空間での息抜き。それだけでここ数日の苦労が報われるような気がした。
それから暫くは、穏やかな時間が流れていた事だろう。グレイも本来の目的を忘れかけ、その場の雰囲気を楽しんでいた。
「…シルヴィア」
胸ポケットに入れた絵を見て、グレイは小さく呟いた。その名を口にしたのは、随分久しく感じられた。
もう長い間会っていない彼女は、本当に存在していたのかすら危ぶまれる。もしかしたら自分が眠り姫で、今この状況は全て夢なのでは。起きたらシルヴィアが、ベッドの側で泣きながら心配しているのではとくだらない思考が働く。
でもあの悪魔の仕業か知らないが、残酷にも、その場にいたグレイの記憶から彼女の存在が消える事はなかった。シュウはあの日、長期依頼で王国の真反対に位置する島国にいたので、悪魔の影響を受けなかったとか。
「奥様ですか?」
「いや、そんなんじゃないよ。古い…パーティーメンバーみたいなやつさ」
まだ開店して間もないのか、暇そうな店主が絵を見て話しかけてきた。店には他にも客が数名いるが、皆1人の時間を楽しんでいるようだ。
「今日は一緒ではないんですか?」
「少し前にいなくなったんだ。今はもうどこにいるのやら…」
「これだけ綺麗な女性なら、何かしら目撃情報がありそうですけどねぇ」
「2年以上前の物だから無理もない。今は銀髪だし、左目の色も違う。雰囲気もだいぶ…落ち着いたのかもな」
グレイは乾いた笑みを浮かべながら酒を飲み干したが、黙り込んだ店主を見てグラスをそっと置いた。
「どうしたんだ?」
「いや…今お客さんが言った条件が、殆ど当てはまる人物を知ってるんですが…」
店主の言葉に、グレイは波が引いていくかのように酔いが覚めるのを感じた。
朝日が街を照らし始めた早朝、グレイはある商店の中に身を潜めていた。この店のオーナーには、酒場の店主を通して既に了承は得ている。
酒場の店主曰く、2年程前からこの地に住み着いた女がいるらしい。女は全身を灰色のローブですっぽりと覆い、時折見せる顔には左目を隠す大きな眼帯をしているそうだ。おまけに、目を惹くほど綺麗な銀髪。
そして噂では一度だけ、女が名乗ったことがあるそうだ。女は自分を、リベルタスと言っていたとか。
「ぁ…」
人混みの中に、目当の人がいるのを見つけ、グレイは言葉では言い表せない感情を抱いた。
ただ1つ言えるとすれば、彼女は生きていた。大切な人が息をして、自分の足で歩き、この世界で生きてくれている。
そんな当たり前のような事に、これ程までに心救われた事はなかったかもしれない。世の中には、当たり前だと思っているものがある日突然、霧のように消えてしまうという事を、グレイは嫌というほど知っていた。
だから彼女の姿を見た途端、こっそり忍び寄るという計画も忘れ、気が付けば一目散に駆け寄っていた。
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