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第二十二章
力の有無-08
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リンナが寝静まり、心拍数の安定を確認したクアンタは、彼女を起こさぬようにそっと身体を起こすと、そのまま物音を立てずに部屋を出て、部屋の外で見張りをしていたワネットに声をかける。
「お師匠の警護を頼む」
「クアンタ様は何処へ?」
「少し、夜風に当たる」
「お休みになられなくて大丈夫でしょうか?」
「私に睡眠は必要ないし、身体機能に影響はない」
護衛の事も心配ないと、携えた二刀を見せつける様に持ち上げると、彼女も僅かにため息をつきながら「かしこまりました」と納得してくれた。
とは言え、帯刀した客人が堂々と廊下を練り歩くのもよろしく無い筈であると考えたクアンタは、使用人用の通用口を用いて皇居の外へと出ていくと、そこに一人、月夜を眺める様に見据え、佇んでいる女性を見つける。
「アルハット、夜遅くに、どうした」
「それは貴女もでしょう?」
名を呼ばれた女性――アルハットは、月から視線をクアンタへと向け、僅かな笑みを浮かべた。
「アルハット領への帰還は良いのか?」
「今日の公務は終了しているわ。もし何か事態が悪化した場合、ドラファルドにすぐ連絡を入れられるよう、簡易的な霊子通信機を渡してる」
そうして軽く会話を済ませる二者だったが、クアンタはアルハットと目線を合わせ、何も言わずにジッと見据える。
「どうしたの? 私の顔、何かついてる?」
「いや――お師匠が先ほどの会議で、アルハットが別人かと言った事が気になっていた。直感力が優れているお師匠がそう言うのだから、何か変化があってもおかしくないと思ったのだが」
「……そう、何か変わったように見える?」
「身体構成状態は、以前会った時のアルハットと何ら変わりない。……変わらなさすぎる位に」
一瞬、アルハットの形がピクリと震えた。
「やはり、何かあったのだな。それも、餓鬼との戦いで、餓鬼を倒せた事による精神的な成熟以外に。むしろ、精神的な成熟はほとんど成されていないと考えられる」
「……隠せない、か」
「私は、人を見る目はそう高くない。元々人間ではないという事も確かだが、そもそも人の感情に疎い私だからこそ、気付けぬ事も多いと自覚している。……しかし、お師匠の事と、お前の事は、分かっていたい」
クアンタが、アルハットの事を分かっていたいと言った意味。
その意味が分からず、しかし突然そんな事を言うものだから、アルハットは少しだけ顔を赤くして、しかし誤解であろうと首を傾げながら、問う。
「……どうして、私の事を、分かっていたいの?」
「お前は私から見ても、皇族の中で一番好ましいと感じている人間だからだ。前にも言っただろう」
前――それはアルハットにとって、遠い出来事のように感じられた。
暗鬼と……否、五災刃と初めてアルハットが邂逅し、ドラファルド・レンダを利用された時。
暗鬼と斬鬼を退けたアルハットは、クアンタに身体を預け、そしてクアンタはその時、彼女へこう言った。
『何か辛い事があったりした時や、私の胸を貸して欲しい時は、素直に言うといい。私は、お前の事を好ましいと感じているから、その位ならば何時でもしてやる』――と。
「餓鬼との戦いで、何があったんだ」
「……大した事じゃないわ。カルファス姉さまのぶっ飛び方と比べたら、本当に些細な事だもの」
「それはカルファスを比較対象にしなければならない程の事態が起こったという事だろう?」
そもそも比較対象がおかしいのだ。
人の身でありながら、自分の存在を親機として固定空間に封印し、数多の子機を使役する事で紛いなりにも根源化を実現した最優の魔術師であるカルファス。
優秀な錬金術師でありながら魔術も扱える、しかし精神的に未熟な部分があり、生まれながらの皇族というよりは普通の少女が地位を得てしまったかのようなアルハット。
もしアルハットに精神的な成熟があり、しかしそれが大した事じゃないと言うのならば、比較対象にするべきはリンナかシドニア、サーニスと言った「普通の存在」だろう。
そうではなく、カルファスを比較対象にしたという事は、カルファスのような荒唐無稽な荒業を多少なりとも起こしてしまった事の示唆に他ならない。
そして――クアンタの言葉は、概ね正しいと、アルハットは目を伏せる。
「……泉の力を取り込んで、人の身でなくなった。そして強大な力を得てしまったから、もう人類の危機程度では、手を出せなくなってしまったの。だからここにいる私は、泉に閉じ籠る事しか出来なくなった私の子機。それだけよ、本当に」
「それは……私も言葉の意味を理解できたとは言い難い。言葉にすればいいか非常に難しいのだが、大した事であるようにしか聞こえない」
「ええ、そうかもしれない。でも、こうして私の子機はここにいる。カルファス姉さまと同じで、しかも親機の私も人類への介入さえしなければ、泉の中で自由に暮らせるのよ。そう考えれば、カルファス姉さまよりマシでしょう?」
泉の中で自由に暮らせる。
この言葉から察する事が出来るのは、彼女が「人の身から外れ過ぎてしまい、源の泉を守ると言う役割の為だけに生きなければならない」という事に他ならない。
それは、言ってしまえば神霊と同化し、自分の役割に沿わなければならない、菊谷ヤエのような存在よりも、過酷な運命であるように、クアンタは捉えた。
「シドニアはその事を、知っているのか?」
「知ってる。というより、隠しておくつもりだったのに、すぐに見破られちゃったわ。……お兄様は、本当に私の事を、大切に思ってくれていたのね。嬉しかったけれど、お兄様を泣かせてしまった。私は本当に、やろうとした事が全て裏目に出てしまう。これはもう、そういう星の下に生まれたと」
言葉の途中で、クアンタはアルハットの手を取って自分の身体へと強く引き、彼女の身体をギュッと、抱き寄せた。
「少なくとも、私は本当のお前と、泉以外で会えなくなるなんていうのは、寂しい」
「……え?」
「もし私が、泉の中での生活を余儀なくされ、お師匠やお前と、偽りの身体を通してでしか、会話をする事や、触れ合う事が出来なくなるなんて事になったら……堪えられるかどうか、わからない」
「……クアンタ、も?」
「昔の私がどう考えるかは分からない。けれど今の私は、相手の言葉は自分の聴覚で受け取りたい。相手の体温はこの触覚で感じたい。それが簡単に出来なくなるなんて言うのは、想像もしたくない事だ」
だから、と。
クアンタは力強く、しかし彼女のか細い身体を潰してしまわないように気を付けながらも――彼女に自分の身体を押し付ける。
この子機が触覚を持ち、親機にこの感覚を届ける事が出来るのならば、それを感じて貰いたいと願い――不器用な彼女なりに、出来る精いっぱいの誠意を込めて。
「フォーリナーである私がそれだけ辛い事だと、想像もしたくない事だと感じたことが、お前を苦しめていない筈はない。……だからせめて、こうさせてくれ」
「……私が、必要ないって、言っても……?」
「私がお前を抱きしめたい。それで十分な理由だろう」
「……そういう事は、リンナに、してあげなさいよ」
「善処する。でも、その前に、お前だ」
温かな彼女の体温を感じる。
アルハットの肉体は、あくまで偽りの身体だ。
けれどその触覚機能を通して、本当のアルハットへとその感覚は届き――親機から伝えられた感情の流動が、子機である彼女の目から、ボロボロと涙を溢していく。
「クアンタ……私は、貴女が好きよ」
「……私をか?」
「ええ。大好き」
「私の事を好んでくれる人など、誰もいないと思っていた」
「私も、ずっと勘違いだと思いたかった。貴女にはリンナがいる。そして、種としての存在も違う。けれど、そんな貴女の事を好きになって……」
アルハットは溢れ出て、止まらない涙と共に、言葉を途絶えさせる事無く、放ち続ける。
「貴女が好き。ううん、愛してる。許されないとか、リンナがどうとか、今は忘れさせて。もう私は、貴女と本当に繋がる事が出来ないんだもの。想いを伝える位、良いわよね……?」
「勿論だ。私は、お前とお師匠になら、どんな感情をぶつけられても、構わない」
「……ヤダ……」
「何がだ」
「私……今凄く、後悔してる……貴女達を守る為の力を……私が望んだ筈なのに……どうして私は、本当の意味で、貴女とこうして抱き合えないのかなとか……そう考えたら、胸の中がグルグルするの……っ」
「未来の事など、誰にも分からない。自分のした選択が、後々の後悔を引き起こすかどうかなんて、誰にも分からないんだ。だから、その時に出来る精いっぱいの選択をすればいい」
「そうしたつもりだった……でも、苦しい……苦しいよ……っ」
「その苦しさは、私にぶつけてくれ。私には、お前にそれ位の事しかしてやれない」
「いいえ、いいえ、っ……貴女は私をこうして、抱きしめてくれてる……それでいい……それでいいのよ」
クアンタの身体を少しだけ押し、僅かに身体と身体の距離を開ける。
だが視線は互いの瞳を見据えていて――アルハットは、身長の高いクアンタに口付けを求めるかのように、顎を上げた。
クアンタも、彼女の想いを、理解していた。
だからアルハットの唇と、自分の唇を重ね合わせようとした所で――アルハットは僅かに唇の軌道を変え、クアンタの頬に、軽く唇を付けた。
「……私から求めておきながら、ごめんなさい」
「いいのか?」
「ええ。私、後悔もしているし、辛いとも思ってる。……けれど、貴女と同じ位、大切に想ってるリンナへ、不義理だけはしたくない」
「お師匠へ?」
「その意味は、いずれ貴女にも理解できる。その時に精いっぱい、あの子へキスをしてあげて。……リンナを悲しませたら、あの子が許しても、私が許さないんだから」
もう大丈夫、と言うように。
アルハットはクアンタの身体から離れて、涙を拭う。
手を振りながら去っていくアルハットの背中を、クアンタは見続けながらも――右頬、アルハットに口付けられた個所を撫でるようにして、呟く。
「……虚力、全体比三十パーセント分の補給を確認」
それだけの愛情が、アルハットからのキスには含まれていた。
彼女は偽りのアルハットかもしれないけれど――その内側に秘められた想いは、決して偽物なんかじゃない。
クアンタは僅かな微笑みと共に、月へ視線を向けるのである。
月は、綺麗に輝きを放っている。
「お師匠の警護を頼む」
「クアンタ様は何処へ?」
「少し、夜風に当たる」
「お休みになられなくて大丈夫でしょうか?」
「私に睡眠は必要ないし、身体機能に影響はない」
護衛の事も心配ないと、携えた二刀を見せつける様に持ち上げると、彼女も僅かにため息をつきながら「かしこまりました」と納得してくれた。
とは言え、帯刀した客人が堂々と廊下を練り歩くのもよろしく無い筈であると考えたクアンタは、使用人用の通用口を用いて皇居の外へと出ていくと、そこに一人、月夜を眺める様に見据え、佇んでいる女性を見つける。
「アルハット、夜遅くに、どうした」
「それは貴女もでしょう?」
名を呼ばれた女性――アルハットは、月から視線をクアンタへと向け、僅かな笑みを浮かべた。
「アルハット領への帰還は良いのか?」
「今日の公務は終了しているわ。もし何か事態が悪化した場合、ドラファルドにすぐ連絡を入れられるよう、簡易的な霊子通信機を渡してる」
そうして軽く会話を済ませる二者だったが、クアンタはアルハットと目線を合わせ、何も言わずにジッと見据える。
「どうしたの? 私の顔、何かついてる?」
「いや――お師匠が先ほどの会議で、アルハットが別人かと言った事が気になっていた。直感力が優れているお師匠がそう言うのだから、何か変化があってもおかしくないと思ったのだが」
「……そう、何か変わったように見える?」
「身体構成状態は、以前会った時のアルハットと何ら変わりない。……変わらなさすぎる位に」
一瞬、アルハットの形がピクリと震えた。
「やはり、何かあったのだな。それも、餓鬼との戦いで、餓鬼を倒せた事による精神的な成熟以外に。むしろ、精神的な成熟はほとんど成されていないと考えられる」
「……隠せない、か」
「私は、人を見る目はそう高くない。元々人間ではないという事も確かだが、そもそも人の感情に疎い私だからこそ、気付けぬ事も多いと自覚している。……しかし、お師匠の事と、お前の事は、分かっていたい」
クアンタが、アルハットの事を分かっていたいと言った意味。
その意味が分からず、しかし突然そんな事を言うものだから、アルハットは少しだけ顔を赤くして、しかし誤解であろうと首を傾げながら、問う。
「……どうして、私の事を、分かっていたいの?」
「お前は私から見ても、皇族の中で一番好ましいと感じている人間だからだ。前にも言っただろう」
前――それはアルハットにとって、遠い出来事のように感じられた。
暗鬼と……否、五災刃と初めてアルハットが邂逅し、ドラファルド・レンダを利用された時。
暗鬼と斬鬼を退けたアルハットは、クアンタに身体を預け、そしてクアンタはその時、彼女へこう言った。
『何か辛い事があったりした時や、私の胸を貸して欲しい時は、素直に言うといい。私は、お前の事を好ましいと感じているから、その位ならば何時でもしてやる』――と。
「餓鬼との戦いで、何があったんだ」
「……大した事じゃないわ。カルファス姉さまのぶっ飛び方と比べたら、本当に些細な事だもの」
「それはカルファスを比較対象にしなければならない程の事態が起こったという事だろう?」
そもそも比較対象がおかしいのだ。
人の身でありながら、自分の存在を親機として固定空間に封印し、数多の子機を使役する事で紛いなりにも根源化を実現した最優の魔術師であるカルファス。
優秀な錬金術師でありながら魔術も扱える、しかし精神的に未熟な部分があり、生まれながらの皇族というよりは普通の少女が地位を得てしまったかのようなアルハット。
もしアルハットに精神的な成熟があり、しかしそれが大した事じゃないと言うのならば、比較対象にするべきはリンナかシドニア、サーニスと言った「普通の存在」だろう。
そうではなく、カルファスを比較対象にしたという事は、カルファスのような荒唐無稽な荒業を多少なりとも起こしてしまった事の示唆に他ならない。
そして――クアンタの言葉は、概ね正しいと、アルハットは目を伏せる。
「……泉の力を取り込んで、人の身でなくなった。そして強大な力を得てしまったから、もう人類の危機程度では、手を出せなくなってしまったの。だからここにいる私は、泉に閉じ籠る事しか出来なくなった私の子機。それだけよ、本当に」
「それは……私も言葉の意味を理解できたとは言い難い。言葉にすればいいか非常に難しいのだが、大した事であるようにしか聞こえない」
「ええ、そうかもしれない。でも、こうして私の子機はここにいる。カルファス姉さまと同じで、しかも親機の私も人類への介入さえしなければ、泉の中で自由に暮らせるのよ。そう考えれば、カルファス姉さまよりマシでしょう?」
泉の中で自由に暮らせる。
この言葉から察する事が出来るのは、彼女が「人の身から外れ過ぎてしまい、源の泉を守ると言う役割の為だけに生きなければならない」という事に他ならない。
それは、言ってしまえば神霊と同化し、自分の役割に沿わなければならない、菊谷ヤエのような存在よりも、過酷な運命であるように、クアンタは捉えた。
「シドニアはその事を、知っているのか?」
「知ってる。というより、隠しておくつもりだったのに、すぐに見破られちゃったわ。……お兄様は、本当に私の事を、大切に思ってくれていたのね。嬉しかったけれど、お兄様を泣かせてしまった。私は本当に、やろうとした事が全て裏目に出てしまう。これはもう、そういう星の下に生まれたと」
言葉の途中で、クアンタはアルハットの手を取って自分の身体へと強く引き、彼女の身体をギュッと、抱き寄せた。
「少なくとも、私は本当のお前と、泉以外で会えなくなるなんていうのは、寂しい」
「……え?」
「もし私が、泉の中での生活を余儀なくされ、お師匠やお前と、偽りの身体を通してでしか、会話をする事や、触れ合う事が出来なくなるなんて事になったら……堪えられるかどうか、わからない」
「……クアンタ、も?」
「昔の私がどう考えるかは分からない。けれど今の私は、相手の言葉は自分の聴覚で受け取りたい。相手の体温はこの触覚で感じたい。それが簡単に出来なくなるなんて言うのは、想像もしたくない事だ」
だから、と。
クアンタは力強く、しかし彼女のか細い身体を潰してしまわないように気を付けながらも――彼女に自分の身体を押し付ける。
この子機が触覚を持ち、親機にこの感覚を届ける事が出来るのならば、それを感じて貰いたいと願い――不器用な彼女なりに、出来る精いっぱいの誠意を込めて。
「フォーリナーである私がそれだけ辛い事だと、想像もしたくない事だと感じたことが、お前を苦しめていない筈はない。……だからせめて、こうさせてくれ」
「……私が、必要ないって、言っても……?」
「私がお前を抱きしめたい。それで十分な理由だろう」
「……そういう事は、リンナに、してあげなさいよ」
「善処する。でも、その前に、お前だ」
温かな彼女の体温を感じる。
アルハットの肉体は、あくまで偽りの身体だ。
けれどその触覚機能を通して、本当のアルハットへとその感覚は届き――親機から伝えられた感情の流動が、子機である彼女の目から、ボロボロと涙を溢していく。
「クアンタ……私は、貴女が好きよ」
「……私をか?」
「ええ。大好き」
「私の事を好んでくれる人など、誰もいないと思っていた」
「私も、ずっと勘違いだと思いたかった。貴女にはリンナがいる。そして、種としての存在も違う。けれど、そんな貴女の事を好きになって……」
アルハットは溢れ出て、止まらない涙と共に、言葉を途絶えさせる事無く、放ち続ける。
「貴女が好き。ううん、愛してる。許されないとか、リンナがどうとか、今は忘れさせて。もう私は、貴女と本当に繋がる事が出来ないんだもの。想いを伝える位、良いわよね……?」
「勿論だ。私は、お前とお師匠になら、どんな感情をぶつけられても、構わない」
「……ヤダ……」
「何がだ」
「私……今凄く、後悔してる……貴女達を守る為の力を……私が望んだ筈なのに……どうして私は、本当の意味で、貴女とこうして抱き合えないのかなとか……そう考えたら、胸の中がグルグルするの……っ」
「未来の事など、誰にも分からない。自分のした選択が、後々の後悔を引き起こすかどうかなんて、誰にも分からないんだ。だから、その時に出来る精いっぱいの選択をすればいい」
「そうしたつもりだった……でも、苦しい……苦しいよ……っ」
「その苦しさは、私にぶつけてくれ。私には、お前にそれ位の事しかしてやれない」
「いいえ、いいえ、っ……貴女は私をこうして、抱きしめてくれてる……それでいい……それでいいのよ」
クアンタの身体を少しだけ押し、僅かに身体と身体の距離を開ける。
だが視線は互いの瞳を見据えていて――アルハットは、身長の高いクアンタに口付けを求めるかのように、顎を上げた。
クアンタも、彼女の想いを、理解していた。
だからアルハットの唇と、自分の唇を重ね合わせようとした所で――アルハットは僅かに唇の軌道を変え、クアンタの頬に、軽く唇を付けた。
「……私から求めておきながら、ごめんなさい」
「いいのか?」
「ええ。私、後悔もしているし、辛いとも思ってる。……けれど、貴女と同じ位、大切に想ってるリンナへ、不義理だけはしたくない」
「お師匠へ?」
「その意味は、いずれ貴女にも理解できる。その時に精いっぱい、あの子へキスをしてあげて。……リンナを悲しませたら、あの子が許しても、私が許さないんだから」
もう大丈夫、と言うように。
アルハットはクアンタの身体から離れて、涙を拭う。
手を振りながら去っていくアルハットの背中を、クアンタは見続けながらも――右頬、アルハットに口付けられた個所を撫でるようにして、呟く。
「……虚力、全体比三十パーセント分の補給を確認」
それだけの愛情が、アルハットからのキスには含まれていた。
彼女は偽りのアルハットかもしれないけれど――その内側に秘められた想いは、決して偽物なんかじゃない。
クアンタは僅かな微笑みと共に、月へ視線を向けるのである。
月は、綺麗に輝きを放っている。
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