虚飾城物語

ココナツ信玄

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第二章

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 暗い表情でリディアの手首を掴んだルークは、幼い子供に言い聞かせるような声音で語り出した。

「いいですか。この世界には三人の神が居ます。世界神シーア・シリスと古代神アイラ・ル・ラナ。そしてもっと古代の神ディーマ。もちろんトルトファリアが信仰しているのはシーア・シリスです」

「ふーん」

 気のない返事をしながら、突然にして始まってしまった授業から何とか逃げ出そうと捕まれた腕を振ってみた。しかしルークの手は剥がれない。

「ちゃんと聞いて下さい! こんなことは世界基準の常識なんですからね! 知らない自分をもっと恥じなさい!」

「分かった! 分かったから手を離せって」

「駄目です。貴方は逃げるのが上手ですから」

 相手は何枚も上手の様子。リディアは観念して講義を受けることにした。

「でもルーク。三人も神様がいるのに、何故我が国はシーア・シリスを信仰してるんだ? 誰でも良いじゃないか。同じ神様なんだから」

「同じ神などではありませんよ」

 重くて堪らないのだとでも言うかのように、ゆっくり頭を振るルーク。

「アイラ・ル・ラナもディーマも、世界を治めるのには相応しくなかったんです。二人とも世界を滅ぼしてしまったのですからね」

 ルークは上を見上げ、天井に描かれた世界誕生の壁画を指差した。

「始まりはディーマでした。三人の神と混沌しか存在していなかったこの世に飽いたディーマは、戯れにこの世界を創り出した。そして人が生まれ、世界は繁栄したのです」

「? お前は、ディーマは世界を滅ぼしたのだと言わなかったか?」

「滅ぼしましたよ」

 ルークが指差した壁画には、丸い盆に乗った黒い虫のようなものが、赤い炎に焼かれている所が描かれている。

「ディーマは世界を創り出した時と同様に、平和のうちの繁栄に飽いたのです。だから滅ぼしたのですよ。自らが創った世界を自らの手で」

 よくよく見ると、虫と思われたものは天から降り注ぐ炎の雨に曝され、苦痛に喘ぐ無数の人間の姿なのだった。

「ディーマが世界から去った後、生き残った者はほんの数人だったと言われています。焼き尽くされた大地の上で、人々が呆然としていると、新たな神が世界に降り立ちました。アイラ・ル・ラナです」

 炎の盆の右横に指を移すルーク。
 そこには一つの青い玉の絵があった。

「焦土の上に立ち尽くす人に哀れを感じたアイラ・ル・ラナは、人々が望むままに水と生きた大地を与えました。やがて人々はアイラ・ル・ラナの庇護の下、再びの繁栄を築き始め……しかし最初は数人だった人間の数が増えるにしたがって、人々は諍いを起こすようになったのです。人々は集まり、話し合い、アイラ・ル・ラナに願った。気の合わぬ者同士が顔を会わせないでいられるように、と」

 唯一つだけだった大地は人々の願いのままに数を増やしたのだろう。青い玉の絵の下には、たくさんの青い玉の絵が描かれていた。

「人は増え続け、諍いを起こすたびに大地は増え続けた。それはある意味正しかったのです。顔を会わせさえしなければ人々は争わなかったのですから。しかしその均衡は崩された。アイラ・ル・ラナが、ある一つの大地に住む一人の人間を殊更慈しんだから。その人間は一身に神の加護を受け、その人間の子も加護を受け、またその子供の子も加護を受け……大いなる加護を受けた一つの部族が生まれることになりました。しかしその他の人々はそれを許さなかった。当たり前です。自分達はその加護を受けていないのですから。人々は妬み、羨み、憎み、加護を受けた部族を攻撃しました。けれどもアイラ・ル・ラナは他の人々に同じ様な加護を与えなかった。それどころか加護を与えた部族が住まう大地以外の全てを、混沌に叩き落してしまった……」

 次の壁画には、一つの玉だけが空に浮き、その他の多くの玉は枯れた蔓のようなものに覆われてしまっている所が描かれている。

「混沌に波が立ったため、眠りについていたディーマが再び目覚めました。そしてまた世界に興味を抱き、ちょっかいをかけてきたのです。アイラ・ル・ラナは怒り、ディーマを混沌に封印すべく強大な力を使いました。ディーマもまた、その力に拮抗するべく力を使いました。強大な力と力がぶつかり、唯一つ空に残った大地も混沌に浮かぶ数多の大地もその衝撃に揺らぎ、崩壊しました。全てが混沌に漂い、二人の神が争いを繰り返す中、割って入った者、それがシーア・シリス神です。混沌に落ちた大地の上でかろうじて生き残った人々を哀れに、そして二人の神の争う姿に辟易したシーア・シリス神は、人々に新たな大地を与え、二人の神に世界に干渉することを禁じたのです。そうして私達はシーア・シリス神の下に、こうして生きているのですよ」

 満足そうに最後の緑の丸い盆を指差したルークに、リディアは慌てた。

「待て待て待て! 魔人族はどうした? 教えてくれるものと待っていたのに、一言も出てこなかったじゃないか!」

 リディアはこの世のなりたちの授業を受けるためにここにいたわけではない。
 プンプン怒り出したリディアの姿に、ルークは小さく笑う。

「魔人族とは……アイラ・ル・ラナ神の加護を受けた一族の呼び名ですよ」

 額に手を当て、ルークは溜め息を吐いた。

「その加護故、滅びた哀れな一族です。まあ、この創世神話を信じる者以外、実在していたと語る人間はいませんが」

「なんだ? つくり話か?」

 顔を顰めたリディアに、ルークは苦笑した。

「貴方が神話を信じないのならば、つくり話なのでしょうね」

「何? やっぱり嘘なんだな? 真面目に聞いて損をしたぞ!」

「魔人族のことを教えて欲しいと言ったのは貴方でしょう。それに世界神の名前などは一般常識なのですからね。これを期に覚えておいて下さい! でないと物知らずの女王と罵られることになりますよ」

「いいさ。忘れたら、またお前に聞くもん」

「リディア……」

 講義は終わったものの、何やら小言の嵐の予兆が見えてきた。
 丁度その時、書庫の入り口から声がかかった。

「リディア様、ルーク様! こんな所にいたのですか。もうすぐ夕食の時間ですよ」

 リディア付きの侍女だった。

「分かりました、ミリア。すぐに行きます」

 ルークはリディアの手首を離し、随分と長く腰を下ろしていた椅子から立ち上がった。
 しかしリディアは動かない。

「どうしましたリディア? 行きましょう?」

 顔を覗き込もうとルークが身を屈めた瞬間、素早く椅子から立ち上がったリディアは、くるりと友人に背中を向けた。

「リディア?」

 後ろを向いて立ち尽くす王女の姿を訝り、ルークは気遣わしげな声を掛ける。

「あっち向いてろ! こっち見るな!」

 返って来たのは怒りに似た激しい言葉。
 ルークは突然声を荒らげた少女に怒ることもなく、王族としての振る舞いを教示することもなく。何も言わず、何もせず、ただその場に佇んでリディアの背中を見守った。
 どれぐらい経ったのか。
 図書室に差し込んでいた柔らかな陽光が、橙色に変わってきた時、リディアの肩が震え始めた。

「……ラーラを思い出したのですか?」

 ルークの言葉を引き金に、リディアは体全体を震わせ始める。

「彼女のことを思い出すのは悪いことではありません。貴方が忘れず、慕っていることを、ラーラも嬉しいと思うでしょう」

 そう言ってルークが震える体を背中から抱きすくめると、リディアの肩がひきつけでも起こしたかのように大きく波打った。

「ラーラは……貴方が王位に就くことを誇りに思ってくれますよ」

 ルークは胸の中で震えるリディアの頭を優しく撫でた。途端、頑なに後ろを向いて歯を喰いしばっていたリディアが、子供のように泣き出した。
 一瞬だけ躊躇して、大声で泣き喚くリディアの髪にルークは顔を埋める。

「本当は、人の上に立つ人間は他人にそんな姿を見せてはいけないのだと貴方を叱るべきなのでしょうが……まだ即位してませんからね。今はいいことにしておきます。ラーラも許してくれるでしょう」

 温かいルークの腕の中で、リディアは金髪碧眼の、明るい侍女の姿を思い出していた。

(ラーラがいたら……私とルークを捜しにきていたのは彼女だったはずなのに……)

 虚飾城での寂しい幼少時代を、ルークが来るもっと以前から慰めてくれていた優しい侍女は、六年前に王都に呼び戻された時の姿のままリディアの記憶に残っている。

 必ず帰ってきますわ、姫様!

(そう言ったのに。約束したのに……ラーラはもういない)

 一層王女は悲痛な声を上げて泣いた。
 ラーラは王都イルガイアで殺されたのだ。
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