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白い湯気に煙る回廊から――七年前・秋
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トルトファリアの現国王カリム王の体調がおもわしくないことを知らない人間は、世界中に一人としていないと言って過言ではないほどに、周知の事実だった。
「姫様! 殿方用のお風呂に入ってはいけないのだと、あれほど言いましたのにっ!」
けれども金髪碧眼の侍女ラーラに叱られている裸んぼうの少女が、そのカリム王の娘だと知っている人間はあまり居なかった。
「ああっ! もうすぐ御年十二才になられるというのにっ!」
「なあ、ルーク。何故駄目なんだ?」
「僕に聞かないでください……」
「お前も知らないのか。何だ」
「ああもうっ! 裸のまま城内をうろうろなさってはいけません! 姫様!」
じたばたする子供を大きなタオルで捕獲したラーラは、首を傾げている王女の横で妙に疲れているルークを睨めつけた。
「何故姫様をお止めしてくれなかったの?」
ルークは心外だとばかりに顔を顰めた。
「ラーラ、僕が本当に止めなかったと?」
「……そうね。ごめんなさい」
素直に謝ったラーラは、銀髪の子供と暫し顔を見合わせた。
(僕がリディアに敵う訳ないじゃないか)
彼の友人の少女は、何を学び忘れたのか一般常識から遠くかけ離れた人間に成長を遂げていた。
確かに血筋はこの国で一番尊いものであるかもしれないが、その割にはあまりやんごとない方々としての振る舞いをしない。
女中達や兵士、城に働きにきている近くの町の人々は「気さくで可愛らしい方じゃないか。まるでうちんちのガキンチョみたいで親しみが持てるよ!」とにこにこしているが、ラーラ曰く「それでは駄目なのです!」と言うことらしい。
(まあ、このままの調子で育ったリディアが中央に呼び戻されたら、きっと大変なことになるんだろうけれど)
タオルに包まれ、部屋に連行されていく少女を見ながらルークは思った。
(たぶんそういうことにはならない)
カリム王には三人の王子がいた。
一番上の王子はリディアが産まれるずっと前、二十五年前に亡くなったが、それでも二人の王子が存在している。王位継承権はその二人の王子が持っていて、リディアには無い。それが彼女の将来を暗示していた。
(例え中央に戻らないにしても、このまま一生僕と一緒に風呂に入ろうとする王女様っていうのは……どちらにしても不安だけれど)
ラーラに抱えられながら「何故駄目なんだ?」としつこく尋ねているリディアと、無言で歩みを進める侍女の姿を見送ったルークは、ようやく一人で入浴することが出来た。
その夜、眠りにつこうとベッドに足を入れたルークの部屋を、ラーラが訪れた。
「こんな夜中にごめんなさいね、ルーク」
「いいえ。それよりもどうしたんですか? いつもは早く寝ろと怒ってばかりなのに」
「怒ってばかりとはなんです? 怒らせるようなことをあなた達がするからでしょう!」
「主に、リディアがですよ!」
自分の無実を晴らさんと言い張ると、眉を吊り上げていたラーラが肩を落として溜め息を吐いた。
「……一体どうしたんですか?」
様子のおかしい侍女の姿に、ルークはベッドから降りて樫の椅子に腰を下ろし、向かいの椅子を勧めた。
きちんと話を聞こうと思ったのだ。
ラーラは二人の子供に無意味なことや酷いことをしたことはなく、そしてこれからも無いだろうことが確信出来るほどに優秀で優しい侍女だったから。
勧められるまま椅子に掛けた侍女の沈んだ顔を眺め、ルークは頭を懸命に回転させた。
(リディアの悪戯はいつものことだから除外して……残るは僕? 何かした覚えは無いけれど?)
ふと、嫌な予感がした。
(まさか故郷バーディスルに何かあった?)
辻褄は合う。
ラーラが沈んでいるのは、バーディスルの王子であるルークに凶事を伝えることを躊躇っているからだと推測出来た。
大陸丸々一つを支配しているトルトファリアに対し、バーディスルは小さな島国。その上建国されてから百年も経っておらず、権威と呼べる物も無い。だからこそ大国が求めるままにルークが人質としてやってきたというのに、それでは足りなかったのか。
はたまたトルトファリアとは別の支配領域を広げようと企む他国の仕業か。
侵略されたのか、宣戦布告か。貢物の要求か、新たな人質か。
絶望的な思いでテーブルの木目を見下ろしていると、ラーラが口を開いた。
「わたくし、王都に戻ることになりました」
告げられた内容は予想を大きく裏切ったもので、ルークは口を開けて放心してしまった。
「母が王宮の仕事を紹介すると……。確かに手紙でこんな辺鄙な所で一生暮らすなんて嫌だと書いたことはありますわ! でもまさか本当に王都に行くことになるだなんて!」
(そんな事か)
思わず口を突いて出そうになった言葉をルークは慌てて呑み込んだ。
どうやら職場が変わることへの不安が彼女の表情を暗くしていただけだったようだ。
ラーラは堰き止められていた水のように、自らの胸に巣食う不安をまくしたて始めた。
「わたくしが居なくなってしまったら、一体誰が姫様の面倒を見て差し上げると言うの? そうですわ! わたくし以外に適任者がいるとは思えません! 何しろ皆さま姫様に弱いのですもの! 裸で城から逃げ出しても、きっと元気で良い事ですと微笑んだりしてしまうのですわ! ああ、そんなこと!」
ラーラは拳を振り上げ、立ち上がって熱弁を振るいはじめたが、何かを思い出した途端にしおしおと椅子に座り込んだ。
「ああ、けれど今更無かったことになど……わたくしの母にどんな迷惑が掛かるか……」
「大丈夫。王宮は民間人にこだわったりしませんよ。そんなに王都での暮らしに不安があるのなら、母上をここに呼べばいいんです」
思わず口を挟むと、俯いていたラーラが顔を上げて笑った。
「違うわ。母はカリム様付きの侍女なのです。だから母に迷惑が行くかと……このこと、わたくしルークに話してなかったかしら?」
「初耳ですよ」
「そうだったかしら? ええ、だからわたくし心配で。虚飾城に呼べと貴方は言うけれど、母は今の仕事に誇りを持っているの。決して仕事を辞して、ここへは来ませんわ。ああ! わたくし、一体どうしたらいいのかしら?」
テーブルに突っ伏してしまったラーラに少し驚きながら、ルークは恐る恐る口を開いた。
「あの、ラーラ? 母上に断って貰わなくても、直接手紙でお断りすればいいのでは? それにカリム様の侍女に何か出来る人はそうは居ないのでは? 第一、王宮で働きたいと願う人はたくさん居るのですから、ラーラだけが特別にお叱りを受けるとは思えません」
「……」
ラーラは少しばかり思い詰め過ぎていたようだ。
彼女もそれを自覚したのか、耳たぶまで赤くして照れくさそうに笑い出した。
「そうですわね。いやだ、何故思いつかなかったのかしら。わたくしったら自意識過剰ね、恥ずかしい!」
(この辺境で長く暮らしていると、些細なことでも動揺するようになるのかもしれない)
難しい顔でそんなことをルークは考える。
小さな島国出身の彼ですら驚愕するほどに、虚飾城での日々は平穏極まりなく、刺激と呼べるような出来事は何一つ無い。平和ボケしてしまって通常なら考え至れることも、徐々に出来なくなってしまうのかもしれない。
「けれどもお断りするのに手紙では申し訳ないですわ。何しろ相手は王宮なのですもの」
冷静になったらしい侍女の様子を見、やっと眠れると安堵したルークに、ラーラがさらりと爆弾を落とした。
「わたくし、王都に行って直接お断りしてきますわ。それが礼儀と言うものですものね」
「えっ?」
口を開けたまま固まるルークを尻目に、ラーラはいそいそと立ち上がった。
「ですからその間、姫様のことをよろしく頼みますわね!」
うふふ、と笑って手を振り、おやすみとすたこら部屋を出て行ってしまったラーラに、ルークは軽い目眩を覚えた。
ラーラが一時的に傍から居なくなることを、暴れんぼう王女が聞き分けるとは思えない。
(まさかラーラ、初めから計算して……?)
答えは分からない。
しかし悪戯の制止をするより厄介なことを頼まれたのは事実だ。
近いうちに大荒れとなる王女の機嫌を思って、ルークは深い溜め息を吐いた――。
「姫様! 殿方用のお風呂に入ってはいけないのだと、あれほど言いましたのにっ!」
けれども金髪碧眼の侍女ラーラに叱られている裸んぼうの少女が、そのカリム王の娘だと知っている人間はあまり居なかった。
「ああっ! もうすぐ御年十二才になられるというのにっ!」
「なあ、ルーク。何故駄目なんだ?」
「僕に聞かないでください……」
「お前も知らないのか。何だ」
「ああもうっ! 裸のまま城内をうろうろなさってはいけません! 姫様!」
じたばたする子供を大きなタオルで捕獲したラーラは、首を傾げている王女の横で妙に疲れているルークを睨めつけた。
「何故姫様をお止めしてくれなかったの?」
ルークは心外だとばかりに顔を顰めた。
「ラーラ、僕が本当に止めなかったと?」
「……そうね。ごめんなさい」
素直に謝ったラーラは、銀髪の子供と暫し顔を見合わせた。
(僕がリディアに敵う訳ないじゃないか)
彼の友人の少女は、何を学び忘れたのか一般常識から遠くかけ離れた人間に成長を遂げていた。
確かに血筋はこの国で一番尊いものであるかもしれないが、その割にはあまりやんごとない方々としての振る舞いをしない。
女中達や兵士、城に働きにきている近くの町の人々は「気さくで可愛らしい方じゃないか。まるでうちんちのガキンチョみたいで親しみが持てるよ!」とにこにこしているが、ラーラ曰く「それでは駄目なのです!」と言うことらしい。
(まあ、このままの調子で育ったリディアが中央に呼び戻されたら、きっと大変なことになるんだろうけれど)
タオルに包まれ、部屋に連行されていく少女を見ながらルークは思った。
(たぶんそういうことにはならない)
カリム王には三人の王子がいた。
一番上の王子はリディアが産まれるずっと前、二十五年前に亡くなったが、それでも二人の王子が存在している。王位継承権はその二人の王子が持っていて、リディアには無い。それが彼女の将来を暗示していた。
(例え中央に戻らないにしても、このまま一生僕と一緒に風呂に入ろうとする王女様っていうのは……どちらにしても不安だけれど)
ラーラに抱えられながら「何故駄目なんだ?」としつこく尋ねているリディアと、無言で歩みを進める侍女の姿を見送ったルークは、ようやく一人で入浴することが出来た。
その夜、眠りにつこうとベッドに足を入れたルークの部屋を、ラーラが訪れた。
「こんな夜中にごめんなさいね、ルーク」
「いいえ。それよりもどうしたんですか? いつもは早く寝ろと怒ってばかりなのに」
「怒ってばかりとはなんです? 怒らせるようなことをあなた達がするからでしょう!」
「主に、リディアがですよ!」
自分の無実を晴らさんと言い張ると、眉を吊り上げていたラーラが肩を落として溜め息を吐いた。
「……一体どうしたんですか?」
様子のおかしい侍女の姿に、ルークはベッドから降りて樫の椅子に腰を下ろし、向かいの椅子を勧めた。
きちんと話を聞こうと思ったのだ。
ラーラは二人の子供に無意味なことや酷いことをしたことはなく、そしてこれからも無いだろうことが確信出来るほどに優秀で優しい侍女だったから。
勧められるまま椅子に掛けた侍女の沈んだ顔を眺め、ルークは頭を懸命に回転させた。
(リディアの悪戯はいつものことだから除外して……残るは僕? 何かした覚えは無いけれど?)
ふと、嫌な予感がした。
(まさか故郷バーディスルに何かあった?)
辻褄は合う。
ラーラが沈んでいるのは、バーディスルの王子であるルークに凶事を伝えることを躊躇っているからだと推測出来た。
大陸丸々一つを支配しているトルトファリアに対し、バーディスルは小さな島国。その上建国されてから百年も経っておらず、権威と呼べる物も無い。だからこそ大国が求めるままにルークが人質としてやってきたというのに、それでは足りなかったのか。
はたまたトルトファリアとは別の支配領域を広げようと企む他国の仕業か。
侵略されたのか、宣戦布告か。貢物の要求か、新たな人質か。
絶望的な思いでテーブルの木目を見下ろしていると、ラーラが口を開いた。
「わたくし、王都に戻ることになりました」
告げられた内容は予想を大きく裏切ったもので、ルークは口を開けて放心してしまった。
「母が王宮の仕事を紹介すると……。確かに手紙でこんな辺鄙な所で一生暮らすなんて嫌だと書いたことはありますわ! でもまさか本当に王都に行くことになるだなんて!」
(そんな事か)
思わず口を突いて出そうになった言葉をルークは慌てて呑み込んだ。
どうやら職場が変わることへの不安が彼女の表情を暗くしていただけだったようだ。
ラーラは堰き止められていた水のように、自らの胸に巣食う不安をまくしたて始めた。
「わたくしが居なくなってしまったら、一体誰が姫様の面倒を見て差し上げると言うの? そうですわ! わたくし以外に適任者がいるとは思えません! 何しろ皆さま姫様に弱いのですもの! 裸で城から逃げ出しても、きっと元気で良い事ですと微笑んだりしてしまうのですわ! ああ、そんなこと!」
ラーラは拳を振り上げ、立ち上がって熱弁を振るいはじめたが、何かを思い出した途端にしおしおと椅子に座り込んだ。
「ああ、けれど今更無かったことになど……わたくしの母にどんな迷惑が掛かるか……」
「大丈夫。王宮は民間人にこだわったりしませんよ。そんなに王都での暮らしに不安があるのなら、母上をここに呼べばいいんです」
思わず口を挟むと、俯いていたラーラが顔を上げて笑った。
「違うわ。母はカリム様付きの侍女なのです。だから母に迷惑が行くかと……このこと、わたくしルークに話してなかったかしら?」
「初耳ですよ」
「そうだったかしら? ええ、だからわたくし心配で。虚飾城に呼べと貴方は言うけれど、母は今の仕事に誇りを持っているの。決して仕事を辞して、ここへは来ませんわ。ああ! わたくし、一体どうしたらいいのかしら?」
テーブルに突っ伏してしまったラーラに少し驚きながら、ルークは恐る恐る口を開いた。
「あの、ラーラ? 母上に断って貰わなくても、直接手紙でお断りすればいいのでは? それにカリム様の侍女に何か出来る人はそうは居ないのでは? 第一、王宮で働きたいと願う人はたくさん居るのですから、ラーラだけが特別にお叱りを受けるとは思えません」
「……」
ラーラは少しばかり思い詰め過ぎていたようだ。
彼女もそれを自覚したのか、耳たぶまで赤くして照れくさそうに笑い出した。
「そうですわね。いやだ、何故思いつかなかったのかしら。わたくしったら自意識過剰ね、恥ずかしい!」
(この辺境で長く暮らしていると、些細なことでも動揺するようになるのかもしれない)
難しい顔でそんなことをルークは考える。
小さな島国出身の彼ですら驚愕するほどに、虚飾城での日々は平穏極まりなく、刺激と呼べるような出来事は何一つ無い。平和ボケしてしまって通常なら考え至れることも、徐々に出来なくなってしまうのかもしれない。
「けれどもお断りするのに手紙では申し訳ないですわ。何しろ相手は王宮なのですもの」
冷静になったらしい侍女の様子を見、やっと眠れると安堵したルークに、ラーラがさらりと爆弾を落とした。
「わたくし、王都に行って直接お断りしてきますわ。それが礼儀と言うものですものね」
「えっ?」
口を開けたまま固まるルークを尻目に、ラーラはいそいそと立ち上がった。
「ですからその間、姫様のことをよろしく頼みますわね!」
うふふ、と笑って手を振り、おやすみとすたこら部屋を出て行ってしまったラーラに、ルークは軽い目眩を覚えた。
ラーラが一時的に傍から居なくなることを、暴れんぼう王女が聞き分けるとは思えない。
(まさかラーラ、初めから計算して……?)
答えは分からない。
しかし悪戯の制止をするより厄介なことを頼まれたのは事実だ。
近いうちに大荒れとなる王女の機嫌を思って、ルークは深い溜め息を吐いた――。
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