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3.俺は紳士的な幽霊でありたい
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「セレストお嬢様、史学のお時間です」
「ありがとう。準備します」
中年の使用人の女性はマーサという名の侍女だった。侍女が入室して声を掛けるとセレストは読んでいた分厚い史学の本を閉じ、胸に抱え込んだ。家庭教師が来る前に一度内容に目を通しているらしい。
──偉いなぁ。誰か褒めてやればいいのに……。
彼女の後ろに立つ幽霊らしきものになってから数日が過ぎた。
父親は元から城勤めで忙しくしていたようだが、悲しみを打ち消すべく更に仕事にのめり込んでいるようで連日帰りが遅い。兄は寄宿舎付きの学園に通っているらしくあの日以来見ていない。
セレストは10歳に満たないであろう幼い少女にしては恐ろしく勤勉だった。彼女もまた悲しみを紛らわせるのに必死なのか、元からそうであったのかはわからない。
──しかし史学の授業か、たのしみだな。
相変わらず誰に気づかれる事も無く、セレストの後ろに立っているだけの幽霊の身分。記憶らしきものが何ひとつ無い今、家庭教師の授業は手掛かりを探す貴重な情報源でもある。
地理、歴史、文学、どれもこれも初めて知るものなのか、或いは知っていたはずなのか、判別はつかない。
何某か言葉を聞いて思い出すものがあるかもしれないと期待はしたが、今のところ空振りばかりだ。悩んでもこの状況は変わりそうに無いので、さしあたって知識を蓄える事に集中している。
実際にしている事といえば授業の盗み聞きなのだが、ひたむきに勉学に励む少女の姿勢は好ましく、そんな彼女と共に学んでいる気分になって、楽しい時間でもあった。
──でも幽霊に学習能力があるのは驚きだよな……。脳みそ無いのにどうやって覚えているんだろう? 覚えた端から忘れていくわけでも無さそうだし……。
どこにも行けない、何も出来ない一方、思考する時間だけは山ほどあるので、ふとした合間に浮かぶ疑問は多い。
ここ数日で自身について判明した事といえば、ひとつは食事を摂る必要が無い事。幽霊ならば当然、だろうか。それなりに豪奢な晩餐の食事風景を見ていても、食欲は起こらなかった。
◇◇◇
「お嬢様、湯あみの用意が整いました」
「わかりました、すぐに参ります」
──くっ……。今日もこの時間がきてしまった……。
日が落ちた頃やってくる目下最大の悩みの種に、思わず頭を抱えてしまう。自分の頭にすら実際には触れられないのだが、そういう心境なのだ。
如何に誰にも見えない幽霊であろうと男だ。幼かろうがセレストは女性だ。彼女の尊厳を損なう真似はしたくない。だというのに抵抗する術も無く、この身体は移動する彼女の後について行ってしまう。
どれほど試みても自力で離れる事は叶わず、念じに念じた末に出来る距離といったら大人の歩幅一歩ぶんが精々だった。その距離も偶然の産物か、誤差の範囲である。
──俺は何も見ない、何も見ないぞ。俺は断じて変質者などではない……。
幽霊だが紳士でありたい。湯あみの為に誂えられた部屋に入る瞬間から、そう念じてぎゅっと目を瞑る。セレストは幼いとはいえ、なまじ美しい姿かたちをしているだけに、その場に居合わせてしまう罪悪感に拍車がかかる。
朝の着替えの時間なども当然同じように目を閉じてやり過ごしているのだが、視界は塞げても耳を塞ぐ手段が無い。湯加減を訪ねる侍女の声や水音が、このおかしな状況の情けない心境を加速させる。
周囲の音から、恐らく自室に戻ったであろう頃合いを見計らって目を開ける。湯上りの髪を梳いて乾かす侍女の指先を鏡越しに眺めているセレストは、ほんの少し気が緩むのか僅かに口をあけどこかぼんやりとしている。普段は人形のように表情が乏しい彼女の、ささやかに見せる年相応の貌は、白い頬が湯あみの熱を保ったまま薄紅に色づいている。気を抜くと見とれてしまい、また頭を抱える。
支度を整えて侍女が退室すると、身体が冷えないうちにセレストはベットに潜り込む。湯あみから彼女が眠りにつくまでの時間、毎夜何ともいたたまれない気分で過ごしている。
自身の睡眠についてはよくわからない。幽霊なのだから夜もずっと意識があるものだと思っていたが、覚えのないうちに気が付けば朝になっている。いつの間にか眠っているのか、寝ているとしたらその間どうなっているのか、立ったまま寝ているのかまるでわからない。
ベットに眠るセレストを眺めているうちに朝になっている感覚だが、時間の経過が曖昧だ。
──しかしだな。こちらが幽霊とはいえ、まだ相手は幼いとはいえ……未婚の貴族令嬢の部屋に毎夜男が居るのはどうなんだ……。いや幽霊だから、いいのか? いや、どうなんだ。まずいんじゃないのか?? いやしかし幽霊だしな……離れられないし……。寝顔が可愛いし…………やっぱり駄目なんじゃないか!?
そうして悶々と頭を悩ませているうちに意識は途絶え、つぎの朝を迎えているのだ。
「ありがとう。準備します」
中年の使用人の女性はマーサという名の侍女だった。侍女が入室して声を掛けるとセレストは読んでいた分厚い史学の本を閉じ、胸に抱え込んだ。家庭教師が来る前に一度内容に目を通しているらしい。
──偉いなぁ。誰か褒めてやればいいのに……。
彼女の後ろに立つ幽霊らしきものになってから数日が過ぎた。
父親は元から城勤めで忙しくしていたようだが、悲しみを打ち消すべく更に仕事にのめり込んでいるようで連日帰りが遅い。兄は寄宿舎付きの学園に通っているらしくあの日以来見ていない。
セレストは10歳に満たないであろう幼い少女にしては恐ろしく勤勉だった。彼女もまた悲しみを紛らわせるのに必死なのか、元からそうであったのかはわからない。
──しかし史学の授業か、たのしみだな。
相変わらず誰に気づかれる事も無く、セレストの後ろに立っているだけの幽霊の身分。記憶らしきものが何ひとつ無い今、家庭教師の授業は手掛かりを探す貴重な情報源でもある。
地理、歴史、文学、どれもこれも初めて知るものなのか、或いは知っていたはずなのか、判別はつかない。
何某か言葉を聞いて思い出すものがあるかもしれないと期待はしたが、今のところ空振りばかりだ。悩んでもこの状況は変わりそうに無いので、さしあたって知識を蓄える事に集中している。
実際にしている事といえば授業の盗み聞きなのだが、ひたむきに勉学に励む少女の姿勢は好ましく、そんな彼女と共に学んでいる気分になって、楽しい時間でもあった。
──でも幽霊に学習能力があるのは驚きだよな……。脳みそ無いのにどうやって覚えているんだろう? 覚えた端から忘れていくわけでも無さそうだし……。
どこにも行けない、何も出来ない一方、思考する時間だけは山ほどあるので、ふとした合間に浮かぶ疑問は多い。
ここ数日で自身について判明した事といえば、ひとつは食事を摂る必要が無い事。幽霊ならば当然、だろうか。それなりに豪奢な晩餐の食事風景を見ていても、食欲は起こらなかった。
◇◇◇
「お嬢様、湯あみの用意が整いました」
「わかりました、すぐに参ります」
──くっ……。今日もこの時間がきてしまった……。
日が落ちた頃やってくる目下最大の悩みの種に、思わず頭を抱えてしまう。自分の頭にすら実際には触れられないのだが、そういう心境なのだ。
如何に誰にも見えない幽霊であろうと男だ。幼かろうがセレストは女性だ。彼女の尊厳を損なう真似はしたくない。だというのに抵抗する術も無く、この身体は移動する彼女の後について行ってしまう。
どれほど試みても自力で離れる事は叶わず、念じに念じた末に出来る距離といったら大人の歩幅一歩ぶんが精々だった。その距離も偶然の産物か、誤差の範囲である。
──俺は何も見ない、何も見ないぞ。俺は断じて変質者などではない……。
幽霊だが紳士でありたい。湯あみの為に誂えられた部屋に入る瞬間から、そう念じてぎゅっと目を瞑る。セレストは幼いとはいえ、なまじ美しい姿かたちをしているだけに、その場に居合わせてしまう罪悪感に拍車がかかる。
朝の着替えの時間なども当然同じように目を閉じてやり過ごしているのだが、視界は塞げても耳を塞ぐ手段が無い。湯加減を訪ねる侍女の声や水音が、このおかしな状況の情けない心境を加速させる。
周囲の音から、恐らく自室に戻ったであろう頃合いを見計らって目を開ける。湯上りの髪を梳いて乾かす侍女の指先を鏡越しに眺めているセレストは、ほんの少し気が緩むのか僅かに口をあけどこかぼんやりとしている。普段は人形のように表情が乏しい彼女の、ささやかに見せる年相応の貌は、白い頬が湯あみの熱を保ったまま薄紅に色づいている。気を抜くと見とれてしまい、また頭を抱える。
支度を整えて侍女が退室すると、身体が冷えないうちにセレストはベットに潜り込む。湯あみから彼女が眠りにつくまでの時間、毎夜何ともいたたまれない気分で過ごしている。
自身の睡眠についてはよくわからない。幽霊なのだから夜もずっと意識があるものだと思っていたが、覚えのないうちに気が付けば朝になっている。いつの間にか眠っているのか、寝ているとしたらその間どうなっているのか、立ったまま寝ているのかまるでわからない。
ベットに眠るセレストを眺めているうちに朝になっている感覚だが、時間の経過が曖昧だ。
──しかしだな。こちらが幽霊とはいえ、まだ相手は幼いとはいえ……未婚の貴族令嬢の部屋に毎夜男が居るのはどうなんだ……。いや幽霊だから、いいのか? いや、どうなんだ。まずいんじゃないのか?? いやしかし幽霊だしな……離れられないし……。寝顔が可愛いし…………やっぱり駄目なんじゃないか!?
そうして悶々と頭を悩ませているうちに意識は途絶え、つぎの朝を迎えているのだ。
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