どうやら俺は悪役令嬢の背後霊らしい

遠雷

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5.黒い毛玉は毛玉ではなかった

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「エルィ・エ、リ・ラ、マ・サバクトゥ…アニ…」

 鈴の音のように軽やかな少女の声が、たどたどしく異国の言葉を紡ぐ。

 語学の授業は、普段口数の少ないセレストが自発的によく声を出す貴重な時間だ。透明感のある彼女の声は耳に心地よく響く。
 
 少しぎこちなく発せられる異国の言葉の文章は、その声と相まって何か神聖な呪文か、不思議な歌のようにも聞こえる。
 目を閉じ耳をそばだてて、ずっと聞いていたい気分になる。

 しかしだ。健気に異国の言葉を覚えようと学習に励んでいる少女の、頭の上に例の黒い毛玉が乗っている。
 セレストの黒髪と黒い毛玉はおかしな具合に同化して、後ろから見ると真っ黒な雪だるまがゆらゆらと揺れているように見える。当の本人は全く気付かずに、真剣な眼差しで語学の本を読み、またたどたどしく言葉を紡ぐのだ。

 ──何ともシュールな光景だ……。そもそもあの毛玉は何やってるんだ。重くはないのか。

 セレストに気にするそぶりが見えないからには、何かが乗っているという感覚も無さそうではある。だが万が一にもあの毛玉が良くない霊の類なら、体調や気分が悪くなりはしないかと、そっと少女の顔を覗き込むが、顔色は悪くない。

 ──……もしも俺と”同類”なら、こっちは掴めるんじゃないか?

 他の誰にも見えない何某か、という共通点からして、人間や壁や物と違ってこの毛玉には触れられるのかもしれない。そう思い立って手を伸ばせば、触れる直前に逃げられた。腕の伸ばせる範囲で追いかけるがやはり逃げられる。

 ──こいつ……っ! ……この逃げ方、俺を知覚している??

 自分には”視えて”いるのだ。毛玉の方もこちらが視えているのかもしれない。

 それからしばらくの間、真顔で黙々と語学を学ぶ少女の周りを、ころころと転げまわる黒い毛玉と追いかける青年の幽霊というおかしな光景な続いた。
 

 ◇◇◇


 毛玉との追走劇を続ける事数日。いくらか変化が起きていた。

 まず黒い毛玉は、大きくなるにつれいつしか短い足のようなものが生え、尻尾のようなものがついた。もはや毛玉というより子犬か子猫か、何某かの獣の子供のような姿かたちになっている。そのせいで以前にも増してすばしこい。

 それを捕まえようと追いかけているうちに、気づけばあれほど動けなかったはずの身体は、ほんの少し移動が出来るようになっていた。毛玉が子犬の姿になった頃には、セレストを起点に大人の歩幅で2歩ぶんほど。ささやかだが大きな変化である。

 ──毛玉犬こいつのお陰……と思うのは何だか癪だけどな……。

 行動範囲が広がった事で、日々悩みの種だった精神修行の時間は、僅かだが距離を取り後ろを向いているという芸当が出来るようになって、少しだけいたたまれなさが軽減された。

 不思議な事に黒い毛玉犬もまた、セレストの着替えやら湯あみの時間はころころとこちらの足元に寄ってきて、並んで丸まり、大人しくしている。

 ──お前も紳士的な犬なのか。偉いぞ。

 おかしな親近感を抱いて、奇妙で一方的な仲間意識が芽生えつつあった。

 
 ◇◇◇


 湯あみを終え、いつもと変わらずベットに横になったセレストを眺めている。

 このところ毛玉に振り回されていたが、傍らで過ぎてゆく彼女の日常に今のところ大きな変化は無い。一日の終わりに眠りにつく穏やかなその顔を、密やかに眺めるのは日課になっていた。幼い少女の寝顔を盗み見ている罪悪感は相変わらず無くなりはしないのだが、”無害で紳士的な幽霊”であるよう努めている。これは、見守っているのだ、と誰に対してかわからない言い訳をして、それから彼女の平穏が明日も続く事を祈る。

 ふいに黒い子犬が跳ねたかと思えば、セレストの枕元に乗り、それから彼女の首元に頭を突っ込んで甘えるように身を寄せて丸まった。

 ──あっ、こら。お前は紳士的な犬じゃなかったのか!?

 裏切られた気分で子犬に鋭い視線を投げれば、頭を枕元に埋めたまま、真っ黒い毛で覆われた丸い尻をこちらに向けてふりふりと左右に震わせている。生えたばかりの尻尾が、ぶんぶん追いやるような動きをする。

 獣の動きにしてはどこかわざとらしい仕草に、挑発されたような、からかわれたような気分になって思わず溜息をついた。
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