Blue Moon 〜小さな夜の奇跡〜

葉月 まい

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真夜中のケガ

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「きゃー! 待って、そう

突然聞こえてきた甲高い声に、小夜さよは思わず立ち止まって顔を上げた。
五月三十日の土曜日、横浜・みなとみらいの一流ホテルのエントランス。
時刻は深夜一時に近かった。

優雅な身のこなしのドアマンに「お気をつけて」と見送られ、微笑みながら会釈をして外に出た時だった。
背の高い男性がスッと小夜とすれ違ったかと思うと、どうやら彼のあとを追いかけているらしい五、六人の若い女性が、悲鳴のような声を上げながら小夜にぶつかって来た。
ドンッという強い衝撃を受けて、小夜は後ろに突き飛ばされる。
咄嗟に手をつくのを躊躇した結果、そのまま地面に倒れ込んだ小夜はガツンと頭に衝撃を受け、中途半端に右手首もひねってしまった。

「痛っ……」

顔をしかめたが最後、スッと気が遠くなる。

「おい! 大丈夫か?」

誰かの声を聞きながら、小夜はそのまま意識を失った。



(……え?)

ぼんやりと目を開けた小夜は、状況が呑み込めないままゆっくりと瞬きをする。
どうやら車の後部シートに寝かされているらしく、夜の闇に流れるような明かりが、窓の外に見えた。
車の振動も身体に伝わってくるが、頭はまるで守られているように、何かにそっと包み込まれている気がした。

(なんだろう、大きな手? それにこれって、膝まくら?)

感じられる温かさに、少し首を動かしてみる。

「気がついたか?」

急に誰かに真上から顔を覗き込まれて、小夜はハッと身体を起こした。
ゴン!と互いのおでこがぶつかる。

「いてっ!」
「あ、ごめんなさい」

小夜は慌てて謝る。
だが途端にズキズキと頭が割れるように痛み、ギュッと目を閉じて再び倒れ込んだ。

「大丈夫か?」
「あ、はい」

かろうじて返事をするが、後頭部の痛みは増すばかりだった。
小夜を膝まくらしていた男性が、心配そうに再び顔を覗き込む。

「動くとよくない。このままじっとしてて。今、病院に向かってるから」
「病院、ですか?」
「ああ。夜間診療の病院がすぐ近くにあるんだ」

その時、ゆっくりと車が停車した。

「着いたぞ」

運転席から声がして、小夜が見上げていた男性が頷く。

「すぐに彼女を診てもらいます。本田さん、あとで連絡しますから」
「わかった」

ワンボックスカーの後部スライドドアが電動で開き、男性は小夜を抱き上げて車を降りた。

「あの、歩けますから」
「だめだ。頭を打ってしばらく意識がなかった。じっとしてろ」

抱かれている恥ずかしさに小夜は焦るが、男性は険しい表情のまま足早に建物に入った。
そしてそのまま受付へと向かう。

「すみません、外科で診ていただきたいのですが」
「はい、どうされましたか?」
「十五分ほど前に、突き飛ばされて地面に頭を打ちつけました。十分ほど意識を失っていたので、検査をお願いします」
「そちらの女性ですね? わかりました。このストレッチャーへ」
「はい」

男性はそっと小夜をストレッチャーに寝かせると、手渡された問診票に記入していく。
小夜はその様子を横目でうかがった。
背の高い男性は黒いキャップを目深にかぶり、黒い眼鏡と黒いTシャツ、おまけにボトムも黒と、全身真っ黒だ。

(この人、さっきホテルのエントランスですれ違った人かな? 女の子たちがあとを追いかけてたみたいだったけど)

そうだ、思い出した。
その女の子たちに突き飛ばされて、危ない!と思ったものの、手をケガしたくなくて頭から地面に倒れてしまったことを。

(でも結局手もかばい切れなかったのね。右手首がちょっと痛い)

後頭部の割れるような痛みよりも、つい手の方を気にしてしまう。
その時、男性が視線を伏せたまま小夜に尋ねた。

「ごめん、代筆するから名前や住所を聞いてもいいか?」
「あ、はい。名前は藤原 小夜です」
「藤原……『さよ』はどういう漢字を書く?」
「小さい夜で、小夜です」

小さい夜、と呟いたあと、男性は切れ長の目をふっと小夜に移した。

「あの……?」

どうしたのかと、小夜は首をかしげて男性を見つめる。
しばらく視線を合わせたあと、男性はハッとしたようにまた目を伏せた。

「悪い。えっと、生年月日と連絡先も頼む。もちろん個人情報は悪用しないから」

こんな時に律儀な人だなと思いながら、小夜は生年月日や住所、電話番号を伝えた。

「保険証は持ってるか?」
「財布に入れてあるのですけど、私のかばんがどこにあるのか……」
「そうだった。君のかばんは車の中にある。あとで持って来てもらうから」
「はい、ありがとうございます」
「礼なんか言わないでくれ。悪いのはこっちなんだ」

どういう意味なのだろうと思っていると、ナースに「藤原さん、診察室へ行きますね」と声をかけられ、ストレッチャーのまま運ばれる。

「付き添いの方もどうぞ。先生に詳しい状況をお伝えください」

そう言われて、男性も診察室に入った。

「藤原 小夜さんですね。ケガをした時の状況を教えてください」

小夜の代わりに、男性がドクターの質問に答えていく。

「なるほど。ホテルのエントランスの石畳に倒れて、頭を打ったのですね。藤原さん、今どこが痛みますか?」
「後頭部と右の手首です。あの、検査は頭だけでなく、手首も診ていただけますか? 明日仕事ができるかどうか、心配なので」
「わかりました。どういったお仕事なのですか?」
「昼間は楽器店で接客業を、夜は週末だけホテルのバーでピアノを弾いています」

すると男性がハッとしたように小夜を振り返った。
どうしたのかと思いつつ、「へえ、ピアニストなんですね」とドクターに言われて返事をする。

「いえ。音大は出ましたが、ピアノで食べていけるほどではありせん」
「そうですか。週末だけ弾いているのですね、わかりました」

電子カルテの入力を終えると、ドクターは顔を上げた。

「では頭部のCTと手首のレントゲンを撮りますね。付き添いの方は待合室でお待ちください」
「はい。よろしくお願いします」

男性は立ち上がると、深々とお辞儀をして診察室を出ていった。



検査の結果、脳にも手首にも大きな異常はなかったが、念の為ひと晩入院することになった。

「気分が悪くなったらすぐにナースコールしてください。なにもなければ明日には帰れますから。後頭部の腫れと手の擦り傷も、数日で引くと思います。それから右手首ですが……」
「あ、はい」

ドクターは小夜の右手を取って、少し動かす。
ズキッと痛みが走り、小夜は思わず顔をしかめた。

「骨には異常ありませんが、軽い捻挫ですね。一週間ほどは動かさない方がいいと思います」
「えっ、それでは仕事は……」
「ピアノのお仕事はお休みした方がいいですね。弾くと痛むと思いますし、悪化しますから」
「……わかりました」
「では、お大事に」
「はい。ありがとうございました」

ドクターが病室を出ていくと、ベッドの上で半身を起こした小夜は右手首を見下ろしてため息をつく。
湿布を貼られ、包帯で固定されていては、ピアノは弾けそうになかった。

(どうしよう、明日からの仕事……)

楽器店での仕事は休みをもらえそうだが、問題はバーの方だ。
ピアノ仲間に代役をお願いするにしても、こんな夜更けでは連絡できない。

(仕方ない。明日の朝、手当り次第に当たってみよう)

そう思っていると、コンコンとドアがノックされた。

「はい、どうぞ」

返事をすると、先程まで付き添ってくれていた男性が入ってきた。
だがすぐあとに、まったく同じ服装で背格好もそっくりな男性が入ってきて、小夜は目を丸くする。

「えっ、あの……」

驚いて交互に見比べていると、二人は帽子を取って小夜に頭を下げた。

「この度は大変申し訳ありませんでした。私、株式会社スリーセブンエージェンシーの本田と申します」

そう切り出したのは、どうやら車を運転していた男性らしい。
付き添いの男性よりは声がやや高く、見比べてみると身長は少し低かった。

「ドクターから説明を受けました。大事には至らなかったものの、今夜ひと晩入院することになったと。それからお仕事も一週間お休みされるとのことで、重ね重ね本当に申し訳ありません」

深々とお辞儀をする二人に、小夜は慌てて声をかける。

「いえ、そんな。あなた方は何も悪くありませんから」
「ですが、原因はこちらにあります。入院や診察の費用、お仕事をお休みされる期間の補償金、それからご迷惑料もお支払いいたします。ですので、なにとぞ今回のことは内密にしていただき、勝手ながらその旨一筆いただければと……」
「はっ?」

どういうことかとポカンとしていると、付き添ってくれていた男性が口を開いた。

「本田さん、その必要はない。彼女は俺を知りませんから」
「えっ!?」

その反応に、小夜も、え?と驚く。

(どういうこと? 私がこの男性のことを知らないのが変なのかしら)

すると本田と呼ばれた男性が、あたふたと取り繕った。

「そうでしたか。では、あの、そういうことで。えっと、明日の朝、退院の手続きの時にまた参ります。どうぞお大事になさってください」
「はい。ありがとうございました」

二人が病室を出ていくと、小夜は首をひねって考え込む。

(内密にしてほしいって、私がケガをしたことを? なぜ、そんな……)

考えようとしたものの、時刻は既に深夜の二時。
小夜はいつの間にか、スーッと眠りに落ちていった。



「やれやれ。大変だったな、想」

病院を出てホテルへと戻る車の中で、マネージャーの本田がハンドルを握りながら想に声をかけた。

「とにかくあの女性に大きなケガがなくてよかった。まったく……、ファンの追っかけもここまでくると問題だな。俺がお前のフリして注意を引きつけるのは成功したけど、まさか関係ない人にぶつかってまでホテルに入ってくるとは思わなかった」

想は窓に肘をついて、流れる景色をぼんやりと見ている。

「だけどあの藤原さん、だっけ? ほんとにお前だってわかってなかったのか? 実はわかってて、あとでSNSでバラされたら大変なことに……」

いや、と想はようやく本田に返事をする。

「彼女は俺のことなんて、まったく知りませんでしたよ」
「本当か? 今どき想を知らない女の子なんているかよ?」
「いますよ、たくさん。俺、そこまでうぬぼれてませんから」

そう言いつつ、違うな、と頭の中で否定する。
最初はいつものように、どこかかっこつけていた。
抱き上げると顔を真っ赤にして焦った彼女に、ファンの子だからこんな反応をするのだと思った。
なるべく目を合わせないようにしていたが、名前の漢字を尋ねた時、小さい夜と聞いて思わず顔を上げてしまった。
視線が合い、マズイと思ったが、彼女はキョトンと小首をかしげて見上げてきた。
ファンではないにしろ、普通ならそこで気づいて、あ、この人!といった反応が返ってくる。
それなのにあの時の彼女は、微塵もそんなことを思っていない表情だった。

(間違いない。あの子は俺が誰かなんて、知りもしなかった)

それが嫌だとも、ショックだとも思わない。
むしろ、自分を知らない子がいてくれてホッとする。

『新進気鋭のシンガーソングライター 想』

自分のその肩書きを知らないでいてくれる方が、なぜだか安心した。

(小さな夜で、小夜……か)

あの時、彼女に名前の由来を聞きたくなった。
どうしてその漢字なのか、と。
もしかしたら、自分と似ているのかもしれない。
そう思った。

「セレナーデ……」

小さく呟くと、本田が「ん? なにか言ったか?」と聞いてくる。

「いや、なんでもありません」

そう答えると、想はまた窓の外に視線を戻した。
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