Bravo!

Rachel

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10. 共演と嫉妬

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 ウィーンの町の年始めの月は、昼間でも冷たい風が吹く日が続いた。時おりちらちらと雪が降ることもあった。
 テオはここ数年冬の間は南で過ごしていたので、寒さに対して身構えていた。しかし、エドガーの屋敷は温かかった。暖炉に隙間のない壁、分厚い窓、上等な衣服、そしてベッドのおかげで、寒さに対してなんの心配もない。テオにとっては初めての温かい冬だった。

 エドガーが想定した通り、一日一日と経つうちに勧誘の手紙の数は減っていった。手紙の返事が来ないことに見切りをつけた部分もあったようだった。
 その一方で、テオはシュタンマイアーの催す小さな演奏会に快く出演した。彼が演奏するたびに観客の人々の心を引きつけたので、音楽愛好家の中ではテオのファンは増える一方であった。

 そしてもちろん、あちこちで行われる劇場の演奏会にも、テオは客としてエドガーやマルグレーテと共に参加していた。楽団の演奏から学ぶことも多かったのである。それに、テオにとって二人と演奏会に行くことが楽しみの一つとなっていた。

 今夜はトーア劇場の演奏会に来ていた。シュタンマイアーがソリストを担当した演奏だったので、また素晴らしい技術を学べたとテオは十分満足していた。
 公演を終え、エドガーとマルグレーテ、テオが「フルートのソロが魅力的だったな」「叔父様は眠っていたじゃないの」「俺も見た」などと会話しながら、ロビーに向かっていた時、突然声をかけられた。

「ねえ、あなたがシュタンマイアー先生の教え子?」

 突然腕を掴んできた手に、テオは明らかに眉をしかめて振り返った。
 テオの腕を掴んでいるのは、簡素で庶民的なドレスを着た赤毛の若い女性だった。初めて見る顔にマルグレーテとエドガーも目を瞬かせた。

 彼女はテオのしかめ面に一瞬だけ怯んだが、すぐに人なつこい笑みを浮かべて言った。

「そうでしょう? シュミット伯爵令嬢と一緒にいる不機嫌そうな顔の青年ってあなたしかいないもの。やっと見つけたわ!」

 三人は思わず顔を見合わせた。テオは眉を寄せたまま彼女の腕を振り払った。

「触るな、馴れ馴れしい」

 その言い方は、聞いていたマルグレーテも驚くほど冷たく、赤毛の女性もびくっと肩を震わせた。
 一瞬沈黙が降りたが、エドガーが「まあまあ」と笑みを浮かべて言った。

「君を探していたみたいだぞ、テオ君。お嬢さん、私も一緒でよければ話を聞こうじゃないか」

 エドガーは、出入り口へ殺到する大勢の客達から離れ、ロビーの端に置かれた長椅子の方へ皆を導いた。
 マルグレーテは赤毛の女性の隣に、その向かいにエドガーが座った。テオはというと、エドガーの座る長椅子にもたれて立ったまま、不機嫌そうに腕を組んでいた。

「それで」

 エドガーは改まったように女性を見た。

「君は一体誰かな? 姪の事も知っているようだが」

 女性は優しげな声のエドガーにほっとしたようで、笑顔を取り戻して答えた。

「私はアラベラ・ゲイルです、はじめまして。父はオットー・ゲイル、宮殿や劇場でチェロを弾いています」

 エドガーは目を丸くして、ああと思い出したように頷いた。

「ゲイル殿の娘さんか。知っているよ」

 アラベラ・ゲイルは嬉しそうに赤毛を揺らして頷いた。

「よかった、父は昔シュタンマイアー先生の教え子だったんです! 私も父から教わってまあまあチェロを弾けるようになりまして……。父は今も先生の指揮する演奏会によく出演しています。この前の宮殿の舞踏会でも弾いていたんですよ」

 マルグレーテはアラベラを羨ましく思った。音楽を教えてくださるなんて、素敵なお父様ね。
 テオはしかめ面をなおさないまま冷たい声で言い放った。

「それで? 俺の事を父親から聞いたとして、俺に何の用だ」

 マルグレーテは苦笑いを浮かべた。相変わらずのそっけなさだ。私が初めてテオに声をかけた時もこんな感じだったわね。

「テオ、そのチェリストの方は娘さんに話をするほど、あなたのバイオリンを気に入ってくれたのよ」

 マルグレーテの言葉に、テオはしかめ面からわずかに和らげたような顔をマルグレーテに向けた。
 しかし、アラベラは言った。

「うーん、確かにそれもそうなんだけど、ちょっと違うかな。実は私、八区にある酒場で、小さな楽団を組んでるんです。あなたにぜひ入って演奏してもらいたくて!」

「断る」

 即決だった。マルグレーテとエドガーはちらとテオの方を見た。有無を言わせない表情をしている。
 それでもアラベラは笑みを崩さずに言った。

「まあそう言わずに! 庶民派の酒場だけど意外とちゃんとした舞台もあるの」

「舞台云々の話じゃない、気が向かないと言ってるんだ。もういいだろう……エドガー、マルグレーテ、行くぞ」

 テオは話は終わりだと言うようにアラベラに背を向けてさっさと立ち去ろうとしたが、次の彼女の言葉に足を止めて固まった。

「舞踏会の日の夜は小さな酒場で弾いていたのに? あの時は酔っていたから弾けたっていうの」

 テオは、振り返らずに口をぎゅっと結んだ。エドガーとマルグレーテは顔を見合わせる。なぜそれを知っているのだろう。彼女はまさかあそこにいたのだろうか。
 その疑問に答えるかのようにアラベラはテオの背中に言った。

「巷で噂になってるのよ。とんでもなく優れた若いバイオリン弾きが、大量に酒を飲んだ後一曲披露したってね。お金持ちの令嬢も一緒だったときいて、後からあなたのことだとわかったわ。私も聴いてみたかった、そこに居合わせなかったのがほんとうに残念」

 テオは前を向いたまま低い声で言った。

「……あの夜は特別だ」

「へえ、そう。じゃあ伯爵令嬢様がいたからあの夜は“特別に”酒場で演奏したってわけ?」

 その挑発するような言葉に、テオはぐるっと振り向くと、怒りを露わに彼女の目の前までずんずんと歩み寄る。

「いい加減にしろ。これ以上あの夜の事を持ち出してみろ、許さないぞ」

 誰もが震え上がる地を這うような恐ろしい声と、今にも射殺さんばかりの彼の目に、笑みを浮かべていたアラベラも、さすがに「ひっ」と小さな悲鳴を漏らした。

「ま、まって、テオ! 落ち着いて」

「そ、そうだ、今のは私も怖かった」

 すかさず立ち上がったマルグレーテとエドガーが、両端からテオの腕に手をかける。

「アラベラさんは、あなたのバイオリンと共演したいと言っているだけじゃない。まずあなたの言い分を彼女に伝えてみたら? ほら、あなたはいろんな酒場で演奏はするけど……?」

 マルグレーテに言われて、テオは唸ったが小さい声で続けた。

「……俺はどれだけ条件が良くても専属にはならない。これまでいろんな場所で演奏してきたが、どの店にも居着かないと決めている。それが俺のやり方だ」

「あ、あら、そう……そう、そうなの」

 そうきいて、アラベラは気落ちしたような声で返事をした。先ほどの勢いが失われ空気の抜けたような彼女に、マルグレーテは少し気の毒に思い、優しく声をかけた。

「なにか特別な理由があるのではなくて? そうでなければ、音楽家のあなたが音も聴いていないのに楽団に勧誘などしないはずだわ」

 その言葉にエドガーも言った。

「確かに。そりゃあテオ君のバイオリンは優れているが、楽団の雰囲気によっても向き不向きがあるだろう」

 アラベラは眉尻を下げて下を向いていたが、やがてそのまま頭を下げた。

「……ごめんなさい、その通りです。切羽詰まっていたの」

 マルグレーテはアラベラにできるだけ優しく言った。

「話して。なにか協力できるかもしれないわ」

 テオはその言葉にあからさまに嫌そうにため息を吐いたが、マルグレーテに睨まれてそっぽを向いた。
 そんな二人の攻防を知ってか知らずか、アラベラは話し始めた。

「実は……うちの楽団はもうすぐ店を追い出されそうなんです。インパクトがないと言われてしまったの。一生懸命演奏しているのに、聴いてくれる人も少なくて」

 エドガーはふむと頷いた。

「この町の住人の音楽評価レベルは高いからな」

「だからインパクトのある演奏家を探しているんです。みんなが注目してくれるような人を。その人が楽団にいれば、追い出されずにすむでしょう」

 テオはギリリと歯ぎしりした。なんだこの甘ったれは。一生懸命弾いていたらどうにかなるとでも思っているのか? 他人を頼ろうとして自分が変わろうとしてないんじゃないか。
 テオがイライラと舌打ちした横から、エドガーが静かに言った。

「ゲイル殿のお嬢さん、それでは全く解決していないよ。お客や店主が求めているのは、新しい人間じゃなくて、きっと変化だ」

「変化……?」

 ぽかんとしているアラベラにエドガーが言った。

「たとえば、楽団の編成や曲はどうかな。決まったパターンが多くはないか? 新しい曲を弾いたりはしたのかい」

「それは……その……」

 テオはふんと鼻で笑った。

「なんの工夫もしないで他人に頼ろうとしたのか? そんな甘っちょろい考えで、よく楽器で稼ごうとしたもんだ。ただの趣味でやるなんざ、いいご身分だな」

「テオ、そんな言い方しないで」

 マルグレーテがたしなめたのにテオは口を尖らせて彼女を睨みつけたが、目が合った彼女の悲しそうな瞳に、すぐに下を向いて「ごめん」と言った。
 テオは、前にもマルグレーテのような貴族令嬢が“嗜み”で音楽をやっていた事に不満を抱いたことがあった。しかし、音楽を好むことのなにが悪いのかと思いなおしたのである。

 エドガーは少し考えていたが、次のように提案した。

「まず君達の音楽を聴いてみないとどうにもできんな。その検討も、やはり我々のような素人ではいかんだろう。君のお父さんには相談してみたのかい?」

 アラベラはぎくりと肩を震わせたが、小さな声で言った。

「父には言っていません。実は店を追い出されそうなことは、楽団のみんなにも言っていないの。なんでもやってくれる父には頼みたくなかったし、楽団のメンバーはほとんど音楽家の子どもだから、それぞれの親に頼るのはやめてほしかったの。自分でどうにかしたくて……助っ人を探してるのも私の独断よ」

 意外な言葉に三人は顔を見合わせた。彼女なりに歩み出そうとしていたのだ。
 エドガーが笑みを浮かべて言った。

「君の考えはわかった。それならシュタンマイアーに助言してもらうのはどうかな?」

 アラベラは目を丸くした。

「シュタンマイアー先生に? でも……できるかしら、そんなこと」

「できるさ。そうだ、一度劇場で出演させてもらったらどうかな、演目も気楽なものして……それも相談してみよう。ふむ、これは新しい企画になりそうだぞ」

「げ、劇場!?」

 アラベラはさらに目を大きくさせた。
 マルグレーテは叔父の提案に賛成の声をあげた。

「素敵ね! 劇場で演奏すれば、楽団だけじゃなく、お店の宣伝にもなるわ。店主さんの考えも変わる可能性だってあるわね!」

「しかし客の呼び込みが必要だな、やはりテオ君にもゲストとして出演してもらわないと、シュタンマイアー自身が引き受けないかもしれん……」

 エドガーがそう言ってちらとテオの方を見た。テオはむっと口を結んだままだ。

「一度だけよ、テオ。所属するわけじゃないわ」

 そう言ったマルグレーテと、期待したようなエドガーの顔を見ると、テオはため息をついた。

「わかったよ」

 アラベラは恐る恐るというようにエドガーとマルグレーテの方を見て言った。

「あの……どうしてそこまでしてくださるんですか」

 エドガーはにっこり微笑みながら答えた。

「私はこれでも音楽愛好家なんだ。音楽家が困っていたら私の築いたコネでどうにかする。この町から音楽が消えてほしくないからね。君の楽団のためにできるだけのことはやってみるつもりだよ」

 その言葉に、アラベラは叔父を食い入るように見つめると唇を震わせ、がばっと頭を下げた。

「ありがとうございますっ……!」

 テオはそんな様子をぼんやりと眺めていた。そういえば、エドガーは貴族だった。伯爵の弟で、他の称号を持っていると言っていた。
 テオは自分が心底嫌っていた権力者の世界に足を踏み入れているのだとぼんやり感じていた。




 エドガーの頼みにより、シュタンマイアーはこの企画を快く引き受けてくれた。彼の元へアラベラ率いる楽団員たちが揃う日、エドガーとテオ、マルグレーテは練習室を訪れた。

 部屋ではすでに音出しが始まっていた。
 シュタンマイアーは三人に挨拶をすると、テオの方へ歩み寄り小声で言った。

「あなたが私の頼み以外で舞台に立つことを決心してくれて、私は嬉しいですよ」

「……エドガーに協力してやろうと思っただけです。マルグレーテもそれを望んでる」

 テオはそう言って肩をすくめたのに、シュタンマイアーはおやおやと眉をあげた。
 テオの音楽至上主義の姿勢は人情が薄いのではと思っていたが、そうでもなかったようだ。しかし、それはシュタンマイアーも同じであった。
 エドガー・フォン・シュミットには彼も昔から何度も救われていた。経済的な面でも、社会的にもこの町で安定した生活を得られるようになったのは彼無くしてはあり得ない。エドガーの行いは一般的に多いとされる利益や打算で判断する貴族とは違い、純粋に音楽を愛する人間としての行動であった。
 それゆえに、シュタンマイアーもエドガーにはいつも協力的であった。


 アラベラの楽団の編成はチェロが一人(アラベラである)、バイオリンが二人、ヴィオラが二人、オーボエが一人、ホルンが一人であった。

「酒場の楽団にしてはまあ悪くない編成ですね」

 テオがそう言ったのに、シュタンマイアーも頷いた。

 しかし、聴けば同じ曲の繰り返しでレパートリーが少なかった。テオに言わせれば、いつかの二人のアコーディオン弾きのように単調だ。
 そこで、シュタンマイアーは全員で弾く曲は一つだけに定め、それ以外の曲は全員参加ではなく、それぞれの楽器をメインにアンサンブルになるような曲を選び出して練習させることにした。

 テオは楽団員の輪の中に入ろうとせず、一人で黙々と練習するばかりだった。楽団員達はちらちらと離れたところからテオを見ている。彼らは全員で弾く曲をテオと合わせたいようだ。
 そんな様子に、マルグレーテはくすりと笑うと、テオに声をかけた。

「ねえ、テオ。もう最初から弾ける?」

 テオは別段嫌な顔をすることもなく、楽器を下ろした。

「……弾けないこともないけど、もっと練習しないと」

 マルグレーテはテオの返事を聞くと嬉しそうに言った。

「ふふ、それはわかっているわ。とにかく弾いてみてほしいの。ね、いいでしょう。これ、お願い」

 マルグレーテが全員で演奏する楽譜を選びだして、テオの目の前に差し出す。
 テオはマルグレーテの顔をみて小さく息を吐くと「わかったよ」と言って、その楽譜にざっと目を通した。そしてすぐに楽器を構えた。

 美しい音楽が紡ぎ出される。マルグレーテは始まった演奏に笑みを浮かべるとくるっと後ろを向いて、テオの音色に目を見開いているアラベラ達楽団員に一緒に弾くよう促した。
 マルグレーテの気遣いに、彼らは慌てて楽譜を辿りながらテオのバイオリンに音を合わせて演奏し始める。
 テオは急に合奏になったので驚いたように後ろを向いたが、マルグレーテのにんまりしている顔を見て口の端をあげ、そのまま演奏を続けた。

 演奏会の詳細を決めるべく、書類を書き留めながら話し合っていたエドガーとシュタンマイアーは、いつのまにか合奏になっているのに気がつき、話し合いを中断させた。
 演奏にはまだ穴があったが、それでも一本のバイオリンを先頭にまとまりつつある。シュタンマイアーは彼らの音を聴きながらどう音楽を作っていこうかと考え、その隣でエドガーは招待する客層を誰にしようかと思い浮かべていた。
 マルグレーテは変わらず情熱的な音色を奏でる友人の姿に微笑み、今後の彼らの練習もうまくいきそうだと、楽しげに眺めていた。




 迎えた本番の日。
 公演は昼過ぎからだったが、ウィーンの町では朝早くから雪がちらちら降っていた。公演直前の時間になると雪はやみ、トーア劇場には大勢の客がつめかけた。
 酒場に通う地元の庶民達から、シュタンマイアーの音楽を気にいる貴族達までというように客層は様々だ。
この演奏会の提案者であるマルグレーテとエドガーは、一番前の特等席に座った。

 拍手とともに楽団のメンバーが舞台に上がる。アラベラは全く緊張していないようで、美しい紅いドレスを身につけ、堂々と自信のある姿で現れた。
 楽団が入場した後、ゲストとしてテオが舞台に上がり、一際大きな拍手が起こる。彼は相変わらずの氷のように冷たい表情だったが、礼儀正しくお辞儀をしてみせた。
 
 演奏は、オーボエの弾むようなメロディーから始まった。その次にホルンとチェロの演奏、オーボエとバイオリンなど貴族の好みそうな優雅な音楽を間に挟みつつ、酒場で馴染みのある曲もシュタンマイアーによって施されたアレンジが加わって演奏された。

「すばらしいな。酒場の楽団がここまで技術をあげるとは」

 エドガーの呟きに、隣のマルグレーテも頷いた。
 そう、楽団は皆よく練習した。シュタンマイアーの指導に従い、そうすれば成功すると信じて疑わなかった。
 でもとマルグレーテは思った。やっぱりテオのバイオリンがアクセントになっているわ。楽団の中にもバイオリンがいるが、テオの出す音色とは、与える印象がまるで違う。
 この演奏会の試みで、酒場の店主は楽団を手放すことはないだろうが、テオも雇いたいと言い出すに違いない。そしてテオはもちろん断るだろう。
 だが長く練習したためか、彼のバイオリンはこの楽団にすっかり馴染んでいるように感じた。そう、シュタンマイアーの正式な楽団と弾いていた時よりももっと。

 テオ自身も明らかに弾きやすそうにしていた。舞踏会のような息苦しい場所ではなく、このように庶民のみんなと演奏する方がやはり気楽なのだろうか。
 そうと思うと、マルグレーテは急にテオが遠ざかっていく不安を覚えた。彼のいる領域には踏み出せない、大きな隔たりがあるような気がしたのだ。
 マルグレーテは、嗜みとしてしか音楽ができない。自分自身が音楽を仕事にすることなど考えられないことである。
 それは結局、貴族の娘としての結果であり、生きる術としているテオ達とは全く違うことをマルグレーテはしみじみと感じた。そしてそれがたまらなく嫌だと思った。今すぐに、私も一緒に演奏を! と言いたくなるほどに、テオを独り占めしたいという気持ちになっていた。

 いけない。マルグレーテは首を振った。
 テオが何をしようが何を望もうが、私が口出しできることではないわ。むしろそれを応援してあげなきゃ。そう自分に言い聞かせながら、彼女は拍手を送った。

 一通りのプログラムが終わり、大きな歓声と拍手が会場を包んだ。
 楽団は一度舞台袖に下がり、アンコールが始まると、テオとアラベラが楽器を手に、再び舞台へ出てきた。
 バイオリンとチェロの協奏らしい。

 二人がお辞儀をしたのに、マルグレーテは拍手を送った。アラベラさんはここまでほんとうによくやったわ。先ほどエドガーとマルグレーテに挨拶に来たアラベラの父ゲイル氏は、この公演が企画されたことに非常に驚いていたようだった。まさか自分の娘が劇場で演奏するなど思いもしなかっただろう。
 父親に頼ることなく、自分で楽団をどうにかしようとしていた彼女は強いとマルグレーテは思った。
 勝気な笑みを浮かべている彼女とは対照的に、テオは無表情のままで、アラベラと目を合わせると弓を傾けた。ゆったりとした音楽が紡ぎ出される。

 マルグレーテははっとした。この曲……! 忘れるはずもない。あの舞踏会の夜、酒場でテオがマルグレーテのためにーー彼がマルグレーテの手の甲に口づけをするために、弾いてくれた曲だ。
 酒場では速い調子で弾いていたが、今日はゆったりとした速度で、色情さえ感じさせる弾き方だ。そして何よりあの時と違って、今回はアラベラのチェロが共演している。かつてアコーディオン弾きがやったようなテオのバイオリンを引き立てるのではない、互いが互いを引き立てているような演奏であった。

 マルグレーテは心臓をぐわっと掴まれたような心地になり、胸にひびが走ったかのように苦しくなった。喉は押しつぶされているかのようだ。聴きたくない、やめて、演奏しないで。
 突然アラベラの舞台用の笑顔が、自分を嘲笑しているように見えた。この曲はテオが自分のために弾いてくれたものだと思っていたのに。

 マルグレーテは自分の中に沸き起こる嫌な感情に、はっとした。
 たまたまあの時の曲を二人が弾いているだけじゃない。私は客よ、ただ黙って音楽を楽しめばいいの。
 そう、演奏されている音楽は素晴らしかった。二つの楽器が調和し、バイオリンもチェロもうっとりするような音色を奏でている。
マルグレーテは必死に、純粋に音楽だけに集中しようと自分に言い聞かせた。
 いよいよ曲が最後の頂点にさしかかった時、シンと静かになった。そしてフィナーレの音の入りを合わせるために、アラベラとテオが目を合わせる。
 その時、楽しそうに笑っているアラベラに、テオが小さな笑みを返したではないか。すぐに同時に二つの楽器の音が重なり、最後の旋律を奏で始めた。二人の息はぴったりだった。

 マルグレーテはもう耐えられなかった。曲が終わる前に席を立つのはマナー違反であることはわかっていたが、震える口元を抑えると下を向いて屈みながらすっとその場を後にした。
 隣に座っていたエドガーは、静かに去っていく姪の後ろ姿に目を細めた。理由はなんとなく察しがついていた。私は追いかけるべきではない、触れるべきではないーーそっとしておいてやるべきだ。夜であればさすがに一人でいさせるわけにはいかなかったが、白昼であれば心配はない。エドガーはそのまま舞台に向き直って演奏を聴いた。



 アンコールの演奏が終わり、テオは拍手を受けながら、ほっと胸を撫で下ろしていた。どんな客であろうと、このような正式な舞台に立って演奏するのには、彼は未だに慣れなかった。
 一緒に演奏しているアラベラは終始笑っていて、楽しそうだった。きっとこうした目立つ場が好きなのだろう。まったく気楽なもんだ。テオは呆れた視線を投げた。

 アンコールをこの曲にしたいと言い始めたのはアラベラだった。どの曲にしようかと話し合いをしていた時、町の噂になったあの夜の酒場での演奏を聴いてみたいとアラベラが言い出したのだ。
 仕方なくその場で演奏してみると、シュタンマイアーがそれに感嘆し、それをチェロと共演させてみてはどうかと提案して、結局その通りになった。
 テオはこの曲を演奏するとあの酔っ払った時のことを思い出して恥ずかしかったので、曲が違う形に変えられ、シュタンマイアーの編曲によって正式なものになっていくことにほっとしていた。

 マルグレーテはあの時の曲だと気づいてくれたのだろうか。そう思い、一度きりのお辞儀をなおして顔をあげた。
 エドガーの隣が空席になっている。マルグレーテがいない。彼女はどこだ? テオは眉をぐっと寄せてエドガーに目を合わせた。
 こちらの視線に気づいた彼は、テオの眼光にびくっとしたが、肩をすくめて出入り口の方へ首を傾けた。

「テオさん? 一度舞台から捌けるわよ」

 アラベラの小声に、テオははっとしてすぐに舞台袖に移動した。そして脇の椅子に楽器を置く。
 まめな劇場従業員が水を配ってくれていたが、テオは受け取らずにぐるぐると考えていた。

 出て行ったのか? あのマルグレーテが演奏中に?
 テオは眉をしかめた。音楽を愛する彼女が自分の演奏の途中で抜け出すなどということは、今までに一度もなかったのだ。
 一体なぜ。あの曲を……あの夜のことを思い出したくなかったのか?



「テオさん、そろそろ配置の準備ですよ」

 楽団員の第一バイオリンの男にそう言われ、テオははっとした。
 まだ二回目のアンコールが残っている。最後の演奏は、楽団員全員とテオで弾くことになっていた。
 椅子の上に置いてあるバイオリンに手を伸ばそうとしたが、テオは顔をしかめて、舞台袖からもう一度ちらりと客席を見た。マルグレーテは戻ってきていない。

 テオは楽器に伸ばしていた手を下ろした。そして、準備を終えてこれから舞台へという楽団員たちの方を向いた。

「悪い、最後のアンコールは俺抜きでやってくれ」

 楽団のメンバーは驚きの声をあげた。

「えっ!?」

「なんだって?」

 テオは舞台袖の出入り口へと向かっていく。

「ちょっと用事ができた」

「よ、用事だって? 今?」

「アンコールは?! あなたがいなきゃ……」

 アラベラがテオの背中に向かって動揺した声で言うと、テオは振り返って言った。

「俺は楽団のメンバーじゃない。最後はあんたたちだけで客席を圧倒させてみせろ」

 テオはそのままバイオリンを置いて去っていってしまったが、彼の言葉はアラベラ達の不安な心を奮い立たせるような言い方であった。
 ほんの少しの間、皆はテオの椅子に置かれたままのバイオリンを見ていたが、やがて互いに顔を見合わせると頷き合った。アラベラが言った。

「彼の言う通りだわ。これは、私たちの演奏会よ、さあやりましょう!」





 テオは控え室を出ると、客席のすぐ外の廊下に出た。廊下には人影がなく、ひんやりとしていた。
 マルグレーテはどこだ。廊下に並ぶ窓からは、午後の日差しがうっすら差し込んでいる。
 廊下よりもさらに外へ出た。廊下の外は中庭を囲んだ回廊になっていた。さすがに寒さを感じ、テオはぶるっと震えた。雪はとっくにやんでいるが、外には冷たい空気が漂っている。冬の中庭は木々に葉もなく、ただ寒いばかりの寂しい場所になっていた。

 そこに、目当ての人物はいた。
 彼女は回廊の真ん中にある中庭の方を向いて、顔を傾けていた。

「マルグレーテ?」

 テオの呼びかけに、彼女はぎくっとしたようで、慌てて手で顔を拭い始めた。
 まさか泣いていたのか? テオは驚いて彼女の方へ駆け寄った。

「どうしたんだ、こんなに寒いのに。具合でも悪いのか?」

 マルグレーテは首を振り、妙に明るい声を出してこちらを向かないまま答えた。

「い、いいえ、違うの!」

 声が裏返っている。

「な、なんでもないのよ。私がおかしいだけ。ごめんなさいね、演奏の途中に抜けるなんて」

 くるっとこちらを向いたが目を合わせようとせず、ごまかすように早口でそう言う彼女に、テオはわずかに眉を寄せた。
 マルグレーテは続けた。

「そ、それよりこんなところにいてはだめじゃない! まだアンコールの曲が残っているのではなくて? さあ、早く会場に戻らなきゃ」

 そう言って彼の顔も見ずに、そそくさと廊下の方へ戻ろうとするマルグレーテに、テオは顔をしかめて、彼女の手首を掴んだ。

「まてよ」

 マルグレーテはぐっと立ち止まった。

「なんで演奏の途中で抜け出したりしたんだ、演奏に不満があったのか」

「ち、違うわ」

「じゃあ、なんだ。最後の曲が始まるまではちゃんと聴いてくれていたじゃないか……あの、あの夜を思い出したくなかったのか?」

「違うわ!」

 がばっとマルグレーテは顔を上げ、やっとテオの目を見た。
 彼女の目は赤かった。やはり泣いていたのだ。テオは、初めて見る彼女の泣き顔に驚きつつも言った。

「正直に答えてくれ。俺がここの舞台であの曲を演奏することが嫌だったのか?」

 真剣な表情で問うテオに、マルグレーテは唇を噛みしめ、顔を傾け、やがて小さく頷いた。

「……そうか」

 テオは唇をぎゅっと結び、掴んでいたままの彼女の手首をそっと離した。あの夜は彼女にとって思い出したくない出来事だったのか。
しかし、マルグレーテが口を開いた。

「あ、あの曲は……私だけのための曲だと思っていたの」

「君だけの……? いや、あれはオリジナルじゃない。元々南西の半島で演奏されてる曲だ。それをアレンジして場の雰囲気に合うように演奏した。今回のは先生が編曲した」

 疑問符を浮かべてそう言うテオに、マルグレーテは微笑みを浮かべた。

「ええ、そのようね、パンフレットも読んだわ。ただあの夜、ああやって弾いてくれたことが……大勢のお客のためではなく、私のために弾いてくれたことが、私は、とても……とても嬉しかったの」

 テオはわけがわからず眉を寄せた。

「嬉しかったって……じゃあ今日のと何が違うんだよ」

 マルグレーテは困ったように言った。

「その……あの曲の雰囲気がすっかり変えられてしまったことが悲しくて……アップテンポで楽しげに聴こえる方が好きだったし、その……」

 そこまで言ってマルグレーテはため息を吐き首を振った。

「……いいえ違うわ、今のは嘘。曲の雰囲気なんかどうだっていいの。ほんとうのことを言うと、私だけのために演奏してくれた曲を、今日みたいな正式な場で演奏するということが嫌だったの……何より、あなたとアラベラの共演が」

 テオは目を見開き、まじまじと彼女を見た。
 マルグレーテは彼の方を見ておられず、真っ赤な顔を背けた。

「……嫉妬なの。あなたが彼女と楽しそうにあの曲を弾くのを見ているのに耐えられなかったのよ。私、今まであなたの演奏さえ聴ければそれでいいと思っていた。あなたの奏でるバイオリンが好きだと思っていたの。もちろんそうよ。でも、それだけじゃなかったみたい、私は……私は、あなたのことが……」

 マルグレーテは言葉を途切らせると、「ごめんなさい」と小さく呟くように言うと、再び明るい声になった。

「おかしいでしょ。さあ、私のことはいいから、あなたはもう戻って演奏しなきゃ」

 マルグレーテはテオを廊下へ促そうとしたが、彼は動こうとしなかった。それどころか彼女の手を再び取ると、ぐっと引き寄せた。 
 マルグレーテはびっくりしたような声を出した。

「テ、テオ?」

 テオは何も言わずに黙ったままだ。
 中庭はホールからの演奏がかすかに聞こえるだけで、何の物音もしなかった。寒いはずなのに、雲の間からこの時期には珍しい陽の光がそっと差し込み、二人を包んだ。
 
 少しの沈黙の後、テオは先ほどのように手首を掴むのではなく、マルグレーテの両手をそっと握るようにして、彼女の顔を真正面から見つめた。

「マルグレーテ」

 マルグレーテは、テオの行動とその距離の近さに驚いて、彼から目を逸らすのも忘れていた。
「俺が」と、テオは言った。

「俺があの曲を演奏するのは、マルグレーテがいる時だけだ。君が居ないなら、弾く意味はない。誰よりも君に聴いてほしいからだ」

 その言葉に、マルグレーテは彼を見つめたまま口をぽかんと開けた。それじゃあまるで……。いつも冷たい印象のテオの目はひどく真剣で、熱さえ篭っているように見える。
 マルグレーテはぎゅっと手を握り返した。

「テオ、私……」

 マルグレーテがそう言いかけた時だ。

 ズザッと誰かが歩く足音がして、二人は驚いてさっと振り向いた。

 いつのまにか、廊下から通じる回廊の出入口に、豪華な身なりの老人がこちらを向いて立っていた。
 面識のない顔にテオは眉をひそめ、マルグレーテはどこかで見たことがあると思い記憶を辿る。確か、ギルデンバッハ公爵、皇族とも近い、大貴族だ。
 老人ーーギルデンバッハ公は、テオの顔を凝視していた。手をわななかせながら青年の方へ伸ばすと、涙を流しながら大きな声で言った。

「テオドール!」




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