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20. 小さな友情
しおりを挟む列車は海沿いに北西へと進んだ。北へ行けば行くほど、再び寒さが増していき、春も近いのに真冬に逆戻りしているようだった。
列車に揺られながら、マルグレーテは浅い眠りの中で夢を見ていた。恐ろしい夢だった。
夢の中で、マルグレーテが列車に乗っていると、バイオリンの音が聞こえた。慌ててその音の出所を探し、一番奥の車両の部屋から聞こえるとわかる。バタンと音を立てて扉を開けると、そこにはバイオリンを傾けている見知らぬ若い女が座っていた。おやと思い、さらに中へ踏み込むと、隣の席には彼女に手を添えてバイオリンを教えている青年がいたーーテオだった。彼はにっこりと笑みを浮かべ、隣の女にバイオリンを教えていた。マルグレーテが恐る恐る「テオ、私よ、マルグレーテよ、覚えているでしょう」と言うと、甘い笑顔だったテオは急に冷たい表情になり、こちらを睨みつけてこう言った。
「よくここまで来れたもんだ。もうお前のことは忘れた。さっさとウィーンに帰れ」
地面に強く叩きつけられたような言葉だった。マルグレーテは絶望し、涙で顔を濡らしながら「ごめんなさい、どうか許して」と、なおもテオに食い下がるが、彼はもうこちらには一切顔を向けず、隣に座る女と微笑み合うばかりだった。と、その時マルグレーテは後ろから腕を引っ張られる。振り返ると憲兵が二人立っていた……マリボルでエンマを捕まえようとしていたあの憲兵だ。年嵩の方の憲兵が、マルグレーテの腕を掴んだまま言った。
「マルグレーテ・フォン・シュミット様ですね? どうぞこちらへ。ウィーンまでご同行願います」
マルグレーテは首を振り、「いやっ! 離して、人違いよ!」と必死で抵抗するが、憲兵の力はびくともしない。「離して、お願い! テオ、テオ! 助けてっ!」そう叫んでも、彼は隣の女の方を向いたままだ。すると、突然後ろから「マルグレーテ!」と、いつかきいたような怒鳴り声がした。振り返ると、自分の腕を掴んでいる憲兵の顔が、いつのまにか父シュミット伯爵の顔になっているではないか。彼は、マルグレーテが途中で抜けたあの昼食会の時と同じように、恐ろしい表情をしていた。マルグレーテの心臓は縮み上がったが、それでも涙を流しながら首を振った。「いや……帰りたくない。テオ、お願い、助けて!」再び彼の方へ声の限り叫ぶが、相変わらず彼は振り向きもしない。マルグレーテは父から腕を引かれながらも、ずっとテオの名を呼び続けていた。
ここでようやく、マルグレーテは目を覚ました。
嫌な夢だった。冷や汗をかいている。まるでほんとうに起こり得そうな夢ではないか。
落ち着こうとマルグレーテは息を吐いた。夢の中のテオが思い出される。一番最初に会った時と同じ、冷たい表情だった。声には怒りが含まれ、「お前のことは忘れた」と言っていた。傍にいた知らない女のほくそ笑むような顔が浮かぶ。
姉達や仕立て屋のロメオに言ったように、テオに新しい恋人ができていてもかまわない、ただ謝りたいと思っているはずだった。しかしもしそうだった場合、ほんとうに自分はそのショックに耐えられるだろうか。夢の時のように、すがりついても振り向いてもらえないかもしれない。彼と会うのには相当な覚悟が必要なのだ。
マルグレーテは再び息を吐くと、窓辺に視線をやった。冷たい黒い海の景色が目に入ると、身体がぶるっと震えた。
寒い。眠ってしまったからか、列車の中でも十分に冷える。前に列車に乗っていた時は、ドレスと上等な分厚いコートを着ていた。この貧しい旅装では、寒さを防ぐのは難しい。
それにエンマがいた時は、今ほど寒くないように感じたわ。マルグレーテは少し前まで一緒に旅をしていた歳上の女性のことを思い浮かべた。
彼女は自分が寒がっていると、膝掛けを出してくれたり、紅茶を運んできてくれたりした。何よりマルグレーテのことを信じて励ましてくれた。エンマは今、どうしているのだろうか。
マルグレーテはマリボルでの出来事を思い起こした。あの状況から判断して、彼女は憲兵に捕まったのに違いなかった。身元を偽ったせいで処罰されるなんてことになっていないかしら。あるいはウィーンに強制送還されているかもしれない。マルグレーテのことを尋ねられるだろうが、きっとエンマは口を割らない。そのために彼女が拷問される可能性だってある。
考えれば考えるほど思考が悪い方へ傾いていきそうになったが、ふと彼女が別れる前に言っていた言葉を思い出した。
「マルグレーテお嬢様が、どんなことでも強気で立ち向かえる方であることは、私が存じております……絶対に大丈夫ですよ。マルグレーテ様は、伯爵家のお嬢様方の中で誰よりお強いですから」
マルグレーテは冷たい両頬をパチンと自分で叩いた。
しっかりしなさい、マルグレーテ。今更何をくよくよ悩んでいるの。エンマは私が一人でも大丈夫だと思ったからあの行動に出た。今の私にできることはエンマの無事を祈るだけ、そしてテオを見つけ出すことだ。彼に恋人がいようと、怒っていようと、私は己の心に従って、やるべきことをやるのみだ。
マルグレーテは、強い瞳で窓辺の暗い海を見つめ続けた。
夜半過ぎ、マルグレーテの乗った列車は目的地に到着した。モンファルコーネの駅は、トリエステの時よりも人が少ないため寂しげに感じた。
暗い町を練り歩く勇気もなかったので、マルグレーテは駅舎で宿を取ることにした。服装のせいか、トリエステの時のように他のホテルでなくて良いのかなどと提案されることはなかった。
案内された部屋は、窓が空いているわけでも隙間があるわけでもなかったが、外と変わらないほどに寒かった。石の壁は冷たく、吐く息も白いままだ。
薪のストーブのような物が片隅にあったので、駅舎の管理人に火を入れてもらい、ようやく少しだけ温かくなった。
管理人に言われたように二重に鍵を閉めてベッドに座った。明日の予定を考えなければならない。
このモンファルコーネは工業都市で、観光地向けではない。そのため彼がここに長居している可能性は低い。テオがほんとうにイタリアを目指しているのであれば、鉄道のあるウーディネまで北上するに違いない。午前中は聞き込みをして、午後はウーディネ行きの馬車を探すことにしよう。
ただ一つ気がかりなのは、寒さを嫌うテオが、北上するだろうかということだ。ウーディネまで行かずに西へ向かった可能性も考えられる。
マルグレーテはテオのことを考えた。
確かに彼は寒いのが嫌いだ。しかしウーディネまではここからそんなに離れていないはず。長く海沿いを歩くよりはウーディネまで行って鉄道に乗る方が、早いうちに寒さから回避できるし、何より一番速くイタリアへ行くことができる。テオがイタリアを目指しているのは確かなのだ。
明日の聞き込みで新しい情報が入ったら、またプランを変えればいいのよ。マルグレーテは不安な心にそう言い聞かせてそっと眠りについた。
翌日の朝は、近くの教会の鐘の音で目を覚ました。
寒い。ちらと見ると、いつのまにかストーブの火が消えていた。小さな薄い窓の外は明るいようだ。ベッドから出たくないと思ったが、こんなところにずっといるのも嫌だと思い、マルグレーテは思い切ってベッドを出た。
寒さをしのげるものはないかと思い、旅行鞄を開けると、底の方にエンマが詰めてくれた貴族令嬢としての替えの冬用ドレスが見えた。ドレスではあるが、こちらの生地の方が今自分が着ている服よりよっぽど温かそうだ。しかしマルグレーテはそれを手に取る気になれず、ため息をついた。
今までこうしたドレスを着ていたけど、着ている間はちっともその温かさに気づかなかった。ウィーンの町で、テオが寒さを感じている横で、私はちっともそんなことはおかまいなしに、無邪気に笑っていたんだわ。ばかだわ。
そう考えると、この寒さは自分が経験するべきものだと思ったが、しかしこれで我慢をして風邪をひき、宿で足止めをくらうわけにはいかない。マルグレーテは迷ったが、安っぽいブラウスの上に上等な上着を羽織り、またその上から古着のコートを着て宿舎を出た。
広場のカフェや、パン屋、肉屋とまわり、最近バイオリン弾きの演奏を聞かなかったかと尋ねたが、これといった情報を得ることはできなかった。一度はこの町で演奏したのではと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。
「うちの旦那は音楽好きでね、もし広場や酒場で演奏されようもんなら飛んでいくんだ。最近はめっきり聞いてないよ」
パン屋の女将の話では、この町は旅の中継地として通り過ぎるだけの者が多いらしく、ジプシー達もあまり通らないとのことだった。
もしここで宿を取っていないとしたら、トリエステの聞き込みで判断した日付からすると、三日前にはテオはもうウーディネへ出発していたと考えられる。マルグレーテは教会の下でパンを食べながらそう結論づけた後、宿へ戻った。そしてあまり広げていない荷物をまとめると、駅馬車の乗り場へ向かった。
ウーディネ行きの乗り場には、マルグレーテと同じように旅行用の大きな鞄を持っている者が多かった。トリエステの駅員が言った通り、皆モンファルコーネから鉄道のあるウーディネまで行くのだ。
荷物を御者に預ける時、マルグレーテはトリエステの船着場での出来事を思い出して胸をどきどきさせていたが、他の乗客は何の心配もなさそうに鞄を渡しているので、マルグレーテもそれに従った。
よかった、大丈夫みたい。マルグレーテはケープのフードを深く被って乗り込んだ。
馬車の中に入ると、席はほとんど埋まっていたが、窓際に座る若い娘の隣が空いていたのでそこに座る。彼女は本を読んでいた。
「ウーディネ行き、出発しますよう」
御者の呼びかけが聞こえた後、馬車はすぐに動き出した。
紳士たちの談笑、子どものぐずる声も聞こえるが、馬車のガラガラという音が一番大きく感じた。馬車に乗るなんて久しぶりだわ。最後に乗ったのは、修道院からエンマと抜け出した時だ。
移動の時は、生まれてからずっと馬車だったから、なんだか懐かしく感じるわね。御者カールの手綱の取り方がいつだって優しかったことを、マルグレーテは覚えている。同時に今になってふと気がついた。テオは馬車には乗らないかもしれない。いつ出発をしたかにもよるが、もしそうであったなら、ウーディネで彼に追いつく可能性もある。もちろん、彼がその地を目指していればの話であるが。
そうではなかったらという考えを振り払おうと、マルグレーテは窓辺を見ようとし、ちらりと隣で読書をしている女の手元に視線をやった。
あら、この本知ってるわ。マルグレーテは目ざとく本の文章を見て気づいた。女が読んでいるのはマルグレーテの好きな英雄の冒険譚だった。それも右ページの残りの少なさと文章からして、もうすぐクライマックスだ。
ああ、ここの場面で主人公が奥方を助けるのよね、それに暴漢との対決の勝ち方が息を吐くほどに鮮やかで……!
「あの、なにか?」
突然イタリア語で尋ねられて、マルグレーテははっとした。
隣の彼女が怪訝そうにこちらを見ている。いけない、じっくり見てしまったわ!
「ご、ごめんなさい。そ、その……その話、とても好きだから、思わず……ほんとうにごめんなさい」
マルグレーテは顔を赤くして恥ずかしそうに謝った。
若い女は茶色の目を瞬かせてマルグレーテを見たが、肩をすくめて微笑んだ。
「私も好きなの、もう五回目よ」
優しい言葉に、マルグレーテも笑みを浮かべた。
「まあ、ほんとう?」
「ええ、妻のペネロペがとても好きで、最後はいつも泣いてしまうわ」
「私も! 弓矢対決のところからは、食事も何もかも放り出して最後まで読んでしまいたくなるわよね……あっ……ごめんなさい、ちょうど続きを読みたいところよね」
マルグレーテがそう言うと、女は首を振って本を閉じた。
「いいのよ、この本は何度も読んでいるし、あなたと話すのも楽しそうだわ。私はキアラ。お屋敷の侍女をしているの」
「私は……」
マルグレーテは嬉しくなって笑顔のまま自己紹介しようと思ったが、一瞬口ごもった。まさかこんなところで貴族令嬢だとは名乗れない。
「私は、マルグレーテ。ウィーンにいたのだけど、人を探して旅をしているの」
「まあ、こんなに寒いのに人探しですって?」
「ええ。確かにまだ寒いけど、春まで待ってられなくて……侍女ということは、あなたは主人の旅行の付き添い?」
マルグレーテの問いにキアラは肩をすくめた。
「いいえ、お屋敷のご夫妻が今ミラノの別宅にいるのだけど、人手が足りないから本邸から私も行くことになったのよ」
「まあ、ミラノに? 素敵ね……あそこのオペラは素晴らしいと聞くわ」
マルグレーテは行ったことのない町へ思いを馳せた。ミラノ。イタリアの大都市で、素晴らしい劇場もある。叔父様の想い人のマリアもいるのかもしれないわね。
しかしキアラはくすくす笑った。
「オペラなんか行かないわよ。私達侍女は屋敷に篭りきり。もちろん外出許可ももらえるけど、オペラなんてチケットが高くて行けたもんじゃないわ。昔のヴェネツィアじゃあるまいし」
「そ、そうなの」
マルグレーテは小さく驚いてみせたが、内心は相当なショックを受けていた。そうだった、ウィーンではないからツテもない、劇場に入るのにもお金が必要なのだったわ。マルグレーテは、この時少しだけ貴族をやめたことを後悔したが、ふと考えた。
私、家を出てきてしまったけど、これからどうやってお金を手に入れるのかしら。
叔父や姉達は、自分が再びウィーンに戻ってくると思っている。しかしそんな気はマルグレーテにはさらさらなかった。帰ったところで父の心は変わらないし、テオがあの町に戻りたいと望むとは思えなかった。
そんな風に考えながら急に黙り込んでしまったマルグレーテに、キアラは怪訝そうに言った。
「どうしたの? さっきから百面相をしてるけど。オペラがそんなに好き?」
マルグレーテははっとして思考を戻した。
「ええ……私は音楽が大好きなの。自分で演奏するのではなくて、もっぱら演奏を聴く方が専門なのだけど」
「さすが、ウィーン出身ね。ウィーンの人達はみんな音楽好きっていう噂は嘘でもないんだわ。あっちでは劇場には誰でも入れるの?」
マルグレーテはトーア劇場の客席を思い出した。
「劇場にもよるの。帝国の劇場は王侯貴族ばかりだけど、庶民派として比較的安いチケットの劇場でも素晴らしい演奏をきけるのよ」
「へえ、いいじゃない。マルグレーテはどっちも行ったことがあるの?」
「ええ、その、どちらの劇場にも知り合いがいて……」
もちろん知り合いとは叔父のことだ。マルグレーテは、彼のおかげでどちらの音楽も楽しめていた事に、今さらありがたみを感じていた。前にも感謝の意を伝えたことがあるけど、ほんとうに心からお礼を言いたいわ、叔父様。
それから若い二人はおしゃべりを楽しんだ。マルグレーテは探している人物テオのことを詳しく話し、キアラも面白そうに聞いてくれた。彼女は音楽に対する興味は薄かったが、文学に関しては伯爵令嬢として嗜んだマルグレーテよりも、はるかに多くの知識を持っていた。なんでもその仕えている貴族の奥方が大の文学好きらしく、よく本を貸してくれるようだった。
マルグレーテはキアラとの話がとても楽しくて、久しぶりに肩の力が抜けた気がした。
夕方になる頃、馬車はウーディネに辿り着いた。
マルグレーテは御者から鞄を受け取り、きょろきょろと辺りを見回した。トリエステほどの風は吹いておらず、モンファルコーネのような凍るような寒さは今は感じない。内陸であるからだろうか。しかし見える山の景色は寒々としていて、標高の高さを感じた。
馬車が止まったこの道は、街中へ続く道のようで、向こうの方に繁華街があるように見える。
ひとまず宿を探さねばならない。
「うう、寒い寒い」
後ろから降りてきたキアラは、着ているコートの前をかきよせた。
「マルグレーテはどの辺りに行くの? 宿はお城の近く?」
マルグレーテは肩をすくめた。
「いいえ、宿はまだ決めてないの。これからあちこち行って探してみるつもり」
それをきいて、キアラはぱっと笑みを浮かべた。
「あらっ! それなら私が泊まる宿にいらっしゃいよ、屋敷の支配人が予約してくれてるところだから、絶対に安全よ。もしかしたら、空き部屋があるかもしれないわ」
キアラの提案に、マルグレーテは少し思案した。列車の中でずいぶんキアラと話したが、彼女はほんとうに信じて大丈夫なのだろうかと少し不安がもたげたのである。
でも、あの冒険譚のペネロペが好きな人に、悪い人はいないと信じたいわ。マルグレーテはそう思い、「そうするわ」と頷いた。
「よかった! あなた、なんだか浮世離れしていて、一人で街中を歩かせるのは心配だもの。こっちよ」
むしろ心配されていたのね。マルグレーテは自分が少し恥ずかしくなって、俯きながらキアラの後ろを歩いた。
中世時代を思わせる古い建物が建ち並び、それらは夕焼けに照らされていた。街灯がちらほらと灯され始め、石畳みもそれに反射しているように見えた。賑やかな大通りが近くにあるようだが、キアラは喧騒を避けるような道をとった。
「大丈夫、この辺りは安全よ。ちょっと向こう側はうるさいけど、でもきれいな町でしょう。私も何回かミラノへの通り道として来てるけど、旅に疲れてゆっくりするにはちょうど良いところなの」
キアラの説明を聞きながら、マルグレーテは街中を歩いた。教会前の向こう側で、子ども達が笑いながら駆け回っている。広場を過ぎ、少し坂を登ったところに城のような建物が見えた。服装に少し品のある人達が歩いている。
「確かこの辺り……ああ、ここよ」
キアラは見上げたところは、立派なアパルトマンのようだった。マルグレーテは眉を寄せた。
こういうきちんとしたホテルは、事前に予約を取っていなければ空きがないのだと叔父が言っていた。それに、何より値が張るのだ。
マルグレーテがどうしようかと迷っていたが、キアラは受付の男に声をかけた。
「ガロンボ家で予約している部屋が一室あるはずですけど」
中年の男は分厚い記録帳に目を落として頷いた。
「はい、承っております、キアラ・ポローニ様ですね」
「ええ、それを二人部屋にすることはできますか? 他の空室でもいいのだけど」
男性は、キアラの後ろに立つマルグレーテの姿をちらと見てから頭を下げた。
「申し訳ございません、本館は本日、ご予約で満室となっております」
マルグレーテは、受付の男の視線からふと感じたーー彼は今、私を見た目で判断して断った、と。きっと鞄の底にあるような上等なドレスを着ていれば、なんなく部屋へ案内してくれたのだろう。なんとなくではあるが、そう思った。
「そんな! 一室もないんですか?」
キアラがそう食い下がったが、受付の男は首を横に振った。マルグレーテが尋ねた。
「では、この近くに宿はありますの?」
「そうですね……オペラハウスの向こう側か、もっと北へ行くか、あるいはやはり駅まで戻らなければならないでしょうね」
男の答えにマルグレーテは頷いた。
「分かりました」
マルグレーテは受付の場から少し離れると、友人に言った。
「キアラ、私は駅まで戻るわ」
「えーっ! 嫌よ、だってここまで連れてきてしまったのに申し訳ないわ。それに外はとっても寒いのよ。ねえ、この男は私が説得するわ。私が長椅子で寝るから、あなたはベッドを使って……」
「キアラ」
彼女の優しい言葉に、マルグレーテは微笑みを浮かべた。
「私のことは気にしないで。ちゃんと宿を見つけるから。それにキアラと一緒にこの町を散歩できて楽しかったわ」
キアラは「でも……」と眉尻を下げた。申し訳なそうな表情を浮かべている友人に、マルグレーテは心が温かくなった。やっぱり彼女は良い人間だ。今日知り合った私をこんなに心配してくれるのだから。
その時突然キアラが「あっ、そうだわ!」と声を上げ、持っている鞄をその場でガチャリと開けた。そうして一枚の緑色のショールを取り出すと、マルグレーテに差し出した。
「これ、よければあなたにあげるわ。私の母が作ったショールなの、結構あったかいわよ」
マルグレーテは戸惑いの表情を浮かべた。
「だめよ、大事なお母様のものなのに、受け取れないわ」
「いいのよ、母は編み物が趣味で一年中こんなものを作ってるの、田舎に帰ったらいくらでもあるから。今夜はとっても冷えるし、あなたに使ってもらえたらすごく嬉しいわ。もしまた会えたら、その時返してくれたらいいから。ね、ぜひ使ってちょうだい」
キアラは熱心にそう言うので、マルグレーテも受け取らないわけにはいかなかった。
「ありがとう……あなたのこと、忘れないわ」
「私だって」
二人は抱き合い、頬にキスをすると微笑み合った。短い間だが、互いに旅の良い友となったことを心から感じていた。
マルグレーテは旅行鞄を抱え直すと、「それじゃあ」と踵を返して宿を後にした。
マルグレーテは来た道を戻るように駅へ向かった。その途中で賑やかな大通りに出る道があったので、そちらへ行ってみることにした。
辺りはだんだん暗くなり、寒さも感じるようになってきた。マルグレーテは足早に、繁華街の方へと続く石畳みを歩いていった。
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