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26. ジプシー
しおりを挟む翌朝マルグレーテとテオは、女将からパニーノを受け取ると、駅馬車の乗り場へ向かった。
ミラノからクレマまで来た。マリア・クラウゼンのいるクレモナという町はもうすぐだ。馬車で行けば今日のうちに着けるかもしれない。
しかし、広場の乗り場にいた御者はこう言った。
「ミラノ行きはあるが、クレモナに行くのに馬車は出てねえぞ。そこのセーリオ川の方を下ってけば、いずれはクレモナに着くさ」
マルグレーテとテオは、ミラノで買った地図でクレモナの位置を確認した。少し遠回りだが、御者の言う通り川沿いに行けば確実にクレモナに到着する。二人は歩いてクレモナまで行くことにした。
しかし、川沿いは石畳みの敷き詰められた町の通りのように整えられているわけでもなく、砂利道やでこぼこ道、泥道などばかりであった。歩いて町を越えたことのないマルグレーテは、朝は元気に足を進めていたのだが、昼前になってすっかりへとへとになってしまった。ドレスを着ているわけではなかったが、靴やスカートの裾に泥が付いて重くなると、ますます歩きづらくなった。
足が棒のようになり、前に進むのが難しくなるという経験をマルグレーテは初めて味わった。それでも弱音を吐かずに気合いでなんとかしようとしている彼女に、テオは少し休もうと提案してくれた。
午後の昼下がり、二人は河岸に座って川を眺めながらパニーノを食べた。流れる川の水はさやさやと音を立て、時おり雲から覗く太陽の光に水面が反射し、きらきらと輝いた。
「……ごめんなさい、テオ」
食べながら、マルグレーテはぽつりと呟いた。
「足手まといになって……呆れているでしょう」
おそらくテオ一人ならば今頃はもっと先へ進めているに違いない。落ち込んだように言うマルグレーテに、テオは小さく口の端を上げた。
「呆れるもんか。別に急ぎじゃないし、のんびり行くのも俺の主義だ。そんなに気を遣わなくていい」
優しい言葉に、マルグレーテは眉尻を下げ「ありがとう」と言うとパンにかぶりついた。食べながらマルグレーテは言った。
「テオは今までの旅はずっと歩いていたの?」
テオは頬張っていたパンを飲み込んでから答えた。
「小さい時ーージプシーと一緒だった時は、荷馬車で移動してた。けど、そこから離れて旅芸人と一緒になってからはほとんど歩きだ。時々通りかかった荷馬車に途中まで乗せてもらったりすることもあったけど、それ以外はやっぱり好きなように歩いてたかな」
「そう、歩き……。疲れたりしないの?」
「疲れたら休むさ。行くあてもないから自由だろう。腹が減ったら人前でバイオリンを弾く。それだけだ」
マルグレーテは感心して頷いた。テオは軽く言っているが、そんな簡単な話ではないだろう。町での歩き方、すりの見分け方、宿屋の値段など、もっと考えることはたくさんあるはずだ。
きっとすべてがテオの一部になっているのだ。小さい時からずっと旅をしていたから、深く考えずに必要なことをやってのけているのだわ。
「……テオってすごいのね」
そう言われて、テオは少し眉を寄せた。
「すごいことなんかないさ、ただ生きてるってだけ。自分の家もないし、家族も友達もいなかった……俺は君こそすごいと思うよ」
テオは食べ終えて、手についたパンくずをパンパンと払った。マルグレーテはテオの言葉にきょとんとした表情を浮かべる。
「私の? どこが?」
「君は俺と会うまでの旅の間にもう友達を作ってるじゃないか。そんなこと俺にはできない」
マルグレーテは肩をすくめた。
「たまたま運が良かっただけよ。下手したら人さらいと仲良くなっていたんだもの……そういえばテオと友達になったのは、私が強引に決めたからだったわね。不本意そうだったあの顔、今でも覚えているわ」
テオはマルグレーテの方を見て小さく笑みを浮かべた。
「貴族の令嬢はこうも自分勝手なのかって、辟易した。ただ俺の音楽を気に入ってくれてるってことだけは信用できるから、話に乗ったんだ」
「薄っぺらい信用ね」
マルグレーテが目を細めたのにテオが言った。
「でもあれから君は、俺のバイオリンをすりの子どもから取り戻してくれただろ。あの時俺は、君がその辺にいるような金持ち連中と違うって思った。君が俺のバイオリンをほんとうに大事に思ってくれてるってわかったんだ。そうじゃなきゃ、高価そうなブレスレットと交換してくれるわけがない」
川から突然パシャンと音がした。魚が跳ねたらしい。テオは視線を川に移したまま揺れる水面を眺めていたが、やがて言った。
「俺は君と出会ってから新しいことだらけだ。ウィーンに行って初めてエドガーみたいな友達もできたし、シュタンマイアー先生みたいな師匠とも出会えた。ただの辻バイオリン弾きだったら経験できないようなことだってあったんだ……感謝してる」
「お互い様ってことね」
マルグレーテはテオの言葉に胸が温かくなるのを感じていた。彼の役に立てたならそれほど光栄なことはないわ。
微笑めば微笑み返してくれる。今は当たり前になったけれど、これも偶然じゃないわ。テオに友達として認められた時の嬉しさは、マルグレーテの心の奥深くに残っていた。
それから二人は再び歩き始めた。テオはぬかるみやぐねぐねと曲がる道は避け、なるべく直線の道を選んでくれた。
しかし日が傾いてくる頃になると、マルグレーテは口もきけないほどに疲れていた。
旅行鞄はずっとテオが持ってくれているのに……私ったら。マルグレーテは自分が情けなくて、俯いたまま顔を上げることもできなかった。ただ足元の地面を見つめ、足を前に出すことだけに集中した。
急にテオが立ち止まったので、どうしたのだろうとマルグレーテは顔を上げた。目の前に石造りの建物が建っている。十字架があるから教会かしら。周りには木々や荒野ばかりで、他に民家は見当たらない。
テオが振り返って言った。
「たぶんここは修道院だ。泊めてもらえるか訊いてみよう」
やっと休める! マルグレーテはほっと胸を撫で下ろしてテオの隣までふらふらと歩いた。
扉の横に吊るされたベルをカランカランと鳴らす。しばらくすると、ガチャガチャと閂が外れると音がして扉が開いた。
中から顔を出したのは、修道女の服に身を包んだ中年の女性だった。彼女は眉間に皺を寄せて、テオとマルグレーテをじろじろ見た。
「なにかご用ですか」
テオが答える。
「旅の者だ、どうか一晩泊めてほしい」
マルグレーテは言葉を発しなかったが、懇願するような目で修道女を見上げた。
しかし彼女は眉間に皺を寄せたまま言った。
「あいにくと空いている部屋はありません。もう春です、外で寝たところで凍える心配はないのですから野宿でもなさい」
そう言うやいなや彼女は扉をバタンと閉めてしまい、すぐにガチャガチャと閂がかかる音がした。
二人は顔を見合わせた。マルグレーテは信じられないというように首を振った。
「あれでも修道女なの?」
テオは肩をすくめて、マルグレーテの鞄を抱え直した。
「まあ、俺が男だからだろ。女子修道院だから仕方ない……まだ歩けるか?」
「……ええ。もちろんよ」
マルグレーテの足は疲れ果てていたが、先ほどの修道女に対する怒りでむくむくと力が湧いた。何が神の使いよ。人に施しをもらっているくせに、それを分け与えようともしないなんて!
「マ、マルグレーテ?」
急に自分よりも歩みが速くなった彼女に、テオは戸惑いの声をかける。しかしマルグレーテには彼の言葉が耳に届かないようで、ただ鼻息荒くテオの前を進み続けた。
きっとまた見た目で判断されたのだわ、もし豪華な服を着ていたら絶対に泊めてくれたはず。修道女までがそんな状態だなんて世も末だわ。
テオは返事もしなくなってしまったマルグレーテに気まずい思いを抱えながら、早足の彼女を追いかける。
二人はそんな調子で川沿いの林の中をぐんぐん進んだ。辺りは時間が経つにつれてだんだん暗くなっていく。もう日が沈む頃だ。と、遠くの林の向こうが明るくなっているのが見えた。
「あれは何かしら」
マルグレーテが立ち止まって不安そうにテオの方を振り向いた。
テオは目を眇めた。誰かが火を焚いている。近づいていくと、話し声と共に音楽が聞こえてきた。
その特徴的な音楽に、テオはわかったように頷いた。
「……ジプシーだ」
テオがそう呟くとマルグレーテは「えっ」と驚きの声を上げて彼らのいる方を向いた。
聞こえてくる音楽は妖しい短調で、だんだんと速いテンポになっていくのがわかる。
「まあ素敵! 行ってみましょうよ」
マルグレーテは嬉しくなってテオの手を取った。テオは口をへの字に曲げた。
「けど、連中は野宿が基本だ。言葉だって通じるかわからないし、会ったところで寝床を提供してくれるってわけじゃ……」
「そんなことかまわないわ。ね、近くに行くだけでいいから!」
マルグレーテが熱心にそう言うので、テオは肩をすくめて彼らの方へ向かった。
ジプシー達は林の抜けた空き地で火を焚いているようだった。
大きな荷馬車が止まり、その前で馬の世話をしている者、また夕食の準備をしている者がいたが、彼らに仕事を任せて陽気にバイオリンを弾く者、それに合わせてギターや木管楽器を演奏する者もいた。
演奏者達は、マルグレーテとテオの姿が目に入ると、ふと手を止めた。
「おんやおやぁ、旅のお方達かあい?」
木管楽器を吹いていた黒髭の男がのっぺりした声を出した。わかりにくいが、かろうじてイタリア語だとわかる。
テオは頷いた。
「宿を探してる。この辺りのこと、知らないか?」
「へへっ、知らねえなあ。いいじゃねえか、今夜はあったかいぜ、草の上で寝るのが一番だ」
そうだそうだと、周りにいた演奏者達も同調した。馬の世話をしていた男がこちらに歩み寄ってきて言った。
「俺達にゃ、テントやハンモックがあるぜ。貸してやるよ。ホテルみてえに金なんか取らねえ。安心しな」
親切にそう言ってくれたが、テオは「いや」と首を振り、後ろにいるマルグレーテの方にちらりと視線をやった。
「悪いけど、彼女はそういうわけにはいかないんだ。すごく疲れてるし」
テオの気遣いに、マルグレーテは慌てて首を振った。
「テオ、私なら大丈夫よ。どこでも平気」
「お嬢さんは、あたしらとここで寝たらいいよ」
突然荷馬車の方から声がして、全員がそちらを見た。長い黒髪の女が腰に手を当てて立っている。ランプの灯りで照らされた彼女の艶麗な美しさに、マルグレーテは思わず目を見張った。
「ほっほう、こいつあ珍しい! ピロシュカが寝床に誘うとはなあ」
野次を飛ばした髭の男を、女は鼻で笑い飛ばした。
「ばっかだねえ、お嬢さん相手に何かやろうなんて考えるわけないだろ……どうだい、藁でこさえたベッドがあるけど」
黒髪の女は仁王立ちしながら、後半はマルグレーテに向けて言った。マルグレーテは確認するようにテオを見た。彼は肩をすくめてみせる。好きにしろということだ。
マルグレーテは再び女の方を向いた。
「では、お言葉に甘えて。一晩お世話になります、ええと……」
マルグレーテは礼儀正しくちょこんと頭を下げてから戸惑うように言った。すると女はからからと笑って荷馬車から飛び降りると、マルグレーテとテオの前まで歩み寄った。
「ピロシュカだよ。堅苦しいのはなしといこうじゃないか」
流暢なイタリア語の気さくな話し方に、マルグレーテはほっとしたように笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、私はマルグレーテ」
「よろしく、マルグレーテ。あんたは?」
ピロシュカは隣に佇むテオの方を見た。
「……俺はテオだ」
「テオとマルグレーテね。で? あんた達、ウィーンから来たの?」
ピロシュカの言葉に、二人は驚いて顔を見合わせた。ピロシュカは笑った。
「あんたの話し方がなんとなくウィーン訛りだったからね。ま、どっから来たかなんてどうでもいいさ」
その時、真ん中で夕食の準備をしていた中年くらいの男が、大きな声で何か呼びかけるように言った。
その声に荷馬車の中にいた者や、裏で馬の世話をしていた者、空き地の方から木の枝を抱えた者が、わらわらと焚き火の周りに集まってきた。焚き火の大鍋には煮込んだ野菜や肉が見える。どうやら夕食時のようだ。漂うスパイスは嗅いだことのない不思議な香りだったが、マルグレーテの食欲をそそるのには十分だった。
呼びかけた男が木の器に料理をよそい、皆に配り始める。皆が同じ量だ。男は何かを言いながらマルグレーテやテオにもよそってくれた。
マルグレーテには男が何を言っているのかわからなかったが、「ありがとう」と礼を述べて微笑みを向けた。すると、男は顔を真っ赤にしてそっぽを向いてしまった。すかさず食べている連中からそれをからかう野次が飛ぶと、皆がどっと笑った。男が何か言い返し、大声の会話がいくらか続いた。
言葉がわからないマルグレーテは、困ったように横にいたテオの顔を見上げたが、テオはむっと怒っているような怖い表情だったので、マルグレーテは彼に話しかけるのをやめた。
煮込み料理の入った木の器を受け取ると、マルグレーテとテオは髭面の男に促されて、大きな木の丸太に腰かけた。彼はイタリア語に似た何かを言いながら、にこにこと親切にスプーンや水まで手渡してくれた。
料理は不思議な香りと同じく、不思議な味がした。しかし何かよくわからないスパイスが効いていて美味しかった。それに最近はパンばかりで、こうした煮込み料理は久しぶりだったため、身体が温かくなるのを感じた。
マルグレーテが食べ終わると、ピロシュカがやってきて隣に座った。
「口に合ったかい?」
ようやくわかる言語に、マルグレーテはほっとした表情で頷いた。
「ええ。初めて食べましたが美味しかったです……あの、皆さんは何語を話していらっしゃるのかしら」
「ハンガリーだ」
ピロシュカが答える前にテオが言った。ピロシュカが目を瞬かせて笑みを浮かべた。
「おや! あんた、わかるの?」
ピロシュカが尋ねると、テオは首を振った。
「いや、ハンガリー語ってわかるだけで理解はできない。あんたはイタリア語がうまいな」
ピロシュカはにっと笑った。
「まあね。書けはしないけどさ、喋るのは得意だよ……テオって言ったね、あんた、楽器をやるのかい」
ピロシュカがテオの足元にある楽器ケースを見ながら言った。
「バイオリンだ。一応弾いて食べてる」
「バイオリンをやるって?」
テオの小さな返事を、向かいに座っている若い男が拾って声を上げた。
「そいつあ絶対聞かなきゃあならねえ! 弾いとくれよ、俺ぁツィンバロム弾くからよ」
「いや、俺は……」
「おっ、ミハイがツィンバロムやるんなら、俺も合わせてターロガトーを吹くかな」
テオが答えるのを遮って、髭面の男が同調して言うと、周りにいる者達が「いいぞ」「やれやれ」とわめき出した。
「ま、まってくれ!」
テオは首を振って彼らを止めた。皆少し静かになってテオの言葉を聞く。
「俺よりあんた達の方がずっとうまいに決まってる。さっきだって、そこの老人がバイオリンを弾いてたじゃないか」
テオが指したのは、白髪にぼろぼろの帽子を被った白髭の老人だった。彼の手元には古ぼけたバイオリンが置かれている。老人はイタリア語が理解できないらしく、言葉を返すことなく黙々と煮込み料理を食べていた。
「さっき弾いてた音階だって、俺には未知だ。悪いけど……」
テオがそこまで言うと、最初にテオに演奏を頼んできたミハイという若い男が笑い声を上げた。
「おいおい、尻込みするこたあねえさ! 弾いて食ってんだろ、それで十分だ」
マルグレーテの隣に座るピロシュカも同調した。
「そうだよ、ヤーノシュじいさんはいつも同じ曲しか弾かないんだ」
「たまには違う曲がききてえ!」
「そうだそうだ!」
再びわあわあと騒がしくなり、テオは困ったように頭に手をやった。と、隣のマルグレーテに袖を引っ張られる。
「弾いてあげたらいいじゃない、みんなこんなに楽しみにしてくれてるのよ」
テオは眉尻を下げて首を振った。
「ジプシーの前で演奏なんて、恥をかくだけじゃないか。俺にだってプライドがある。笑われるのはごめんだ」
マルグレーテは首を振って真剣な表情でテオの目を見た。
「テオったら! 私はウィーンで最高と呼ばれる音楽を耳にしてきたの。その中で一番をつけるとしたら迷うことなくあなたを選ぶわ。あなたにはそれだけの技術がある。もっと自信を持って」
そう言われて、テオは口をへの字に曲げてマルグレーテを見ていたが、やがて俯くと「わかったよ」と声を漏らした。
そして足元に置いていた楽器ケースを開けた。
どうやら演奏してくれるらしいテオに、ジプシー達は一層わあわあと声を上げた。テオが調弦を始めると、ミハイも嬉しそうにツィンバロムを用意し、あの髭面の男も空になった木の器を置いて木管楽器の音出しを始めた。
テオは調弦を終えて立ち上がった。さっさと弾いてしまいたいのだ。少し思案してからバイオリンを顎に挟み、弓を傾けた。
流れ始めたのはテオの得意な曲だ。マルグレーテはうっとりとその音に聴き惚れた。何度聞いても、テオの演奏に飽きることはないわね。
音楽に耳を傾けていたのはマルグレーテだけではなかった。木管楽器のリードを確かめていた髭面の男も、ツィンバロムを用意していたミハイも、空の木の器を回収していた夕食係の男も、白髪の老人も、ピロシュカも、ジプシー達は皆お喋りをやめ、手を止めて驚いたようにテオを見つめた。切なく美しい、情熱的な旋律がその場にいた人々を包み、暗い林に響いていた。
テオは一曲弾き終えると腕を下ろし、眉を寄せた。
「……一緒に演奏するんじゃなかったのか」
一同は一瞬しんと静まり返ったが、すぐにどっと拍手と歓声で騒ぎ出した。
皆が何を言っているのかわからないが、感嘆の声を上げているらしいことはわかる。髭面の男は「ブラボー! ブラボー!」と怒鳴っては口笛を吹いているようだ。
テオはそれに返事をすることなく、ケースの置いてあるマルグレーテの隣に再び腰かけた。
やっとミハイがイタリア語で言った。
「おっめえ、すっげえじゃねえかっ! なんだよ、今のバイオリンはよお!」
ピロシュカも歯を見せて笑うように言った。
「あんた、良い音出すねえ! そりゃあ出し惜しみしたくなるよ」
「いや、俺は別に、そういうわけじゃ……」
テオが言いかけた時、突然例の白髪の老人がよろよろとテオの前にやってきた。若者の顔を見ながら手を震わせて何か言っている。
ピロシュカが笑って言った。
「テオのことを讃えてんのさ。何か不思議な力が宿ってるに違いないって言ってる。他のみんなもそうさ……ねえ、今のはテオの独奏になっちまったけど、今度はちゃんとみんなで演奏しようよ! ミハイ、シェベーク!……」
ピロシュカが楽器を持っていた男達に呼びかけると、マルグレーテ達のわからない言葉で何か言った。三人はペラペラと話した後、ミハイがテオの方を向いた。
「ええっと……テオだっけ、今から俺達が演奏するからよ。おめえは聞いててもいいし、一緒に弾くのでもいい」
「俺ぁ、あんたも一緒に弾いてくれた方が嬉しいなあ」
木管楽器を持った髭面の男はミハイに付け加えるようにそう言った。
彼は楽器のマウスピースに口をつけた途端、いきなり曲を吹き始めた。向かいに座るミハイも躊躇うことなくツィンバロムの音を鳴らし始める。
短調で妖しいメロディーだったが、陽気なリズムで、髭面の男はおどけたような表情で吹いていた。と、聞いているマルグレーテの後ろの荷馬車から、突然何かを叩く音が鳴り始めた。驚いて振り返ると、荷馬車の奥にいた中年の女がタンバリンを叩いていた。女はにっと笑みを浮かべてみせたので、マルグレーテも微笑み返した。その女の隣には、いつのまにかどこかへ行っていたピロシュカが、アコーディオンを持って現れた。彼女は得意そうに楽器をかまえると、流れている陽気な短調の伴奏を弾き始める。白髪の老人は古ぼけたバイオリンの弦を、指ではじきながらリズムを刻んでいた。追加されていく楽器のおかげで曲に厚みができ、演奏は豪華なものになっていく。
すごい、すごいわ……これこそがジプシーの演奏なのね! マルグレーテは嬉しくなって一緒に音楽に合わせて手を叩き始めた。テオも一緒に叩いてくれるかしらと思い、隣の彼を見ると、テオはじっと自分の方を見ていた。
マルグレーテはにこっと笑みを向けながら「楽しいわねっ!」と演奏の中で声を張り上げた。
テオはただ、マルグレーテの方を見ながら小さく微笑んで頷いた。
その時、木管楽器の男が楽器から口を離して「テオ、弾いてくれっ! 頼むよ」と叫んだ。
テオは演奏されている最中の曲を聞きながら少し考えていたが、こくこくと頷くとバイオリンを持って立ち上がった。
青年が弾き始めたのはメロディーに対する飾りの和音だった。それは他の楽器の音ともうまく合わさっていて、最高の調和を生み出していた。
マルグレーテはその美しさに思わず手を口に当てた。
彼はほんとうに天才だ。一体何をどう考えて弓を動かしているのか、マルグレーテには全く想像できなかった。いや、何か考えているのではなく、ただ自分自身の感覚だけで音を紡ぎ出しているのかもしれない。
しかし聴いているうちに、マルグレーテは胸がちくちくと痛むのを感じた。
彼の音楽は素晴らしい。きっとジプシーや他の演奏家達と共演することで、彼の技術は天井知らずで上がっていくだろう。それなのに、テオは自分と一緒に暮らすと言ってくれている。彼の音楽はより多くの人に聞いてもらうべきなのに、自分といては彼の才能を無駄にしてしまうのではないだろうか。そんな考えが浮かび上がり、マルグレーテはいつのまにか浮かない顔になっていた。
ピロシュカは楽しげにアコーディオンを弾いていたが、マルグレーテの表情に気づき、おやと思った。
ジプシー達の音楽はどんどんテンポが速くなっていき、演奏者達の腕や指も忙しくなっていった。それでもリズム通りに奏でていくテオの指の速さに、皆が目を見張った。囃し立てる方の観客の手拍子も追いつかなくなり、やがて木管楽器のけたたましいリードミスの音で演奏は終わりを迎えた。
演奏者達に拍手と歓声が送られる。マルグレーテも同じように拍手を送った。
楽器を下ろしたテオは、肩で大きく息をしながら、マルグレーテの隣にドンと座った。
「素晴らしかったわ。よくあそこまで弾けたわね」
マルグレーテの言葉に、テオは心底疲弊したような表情で、目の前の焚き火を見つめながら言った。
「疲れた……ジプシーとの共演なんて、もう二度とやらない……絶対に」
そう言うと、素早く楽器をケースにしまってしまった。
演奏が終わった後は、皆がそれぞれの寝床に散った。ある者は林の中にハンモックを張り、またある者は焚き火のそばで横になった。荷馬車の上の屋根にのぼって横になる者もいたし、荷馬車の真下で眠る者もいる。
「おやすみなさい、テオ」と言う呼びかけに青年が頷くのを見ると、マルグレーテはピロシュカの後に続いて荷馬車に乗り込んだ。
荷馬車の中は、藁の匂いでいっぱいだった。ピロシュカが案内したベッドは、藁の山の上にシーツがかけられているもので、乗ってみるとふかふかだった。
車内で寝るのはピロシュカとマルグレーテ、それに中年の女が二人だった。しかし、シーツのかけられたベッドに乗るのはマルグレーテだけで、三人のジプシー女達は車内に散らばる藁の山の中で直に藁の上に寝て、シーツがわりに藁をかけて眠るようだった。
「あの……私もそうして寝た方が……」
マルグレーテが躊躇いがちに言うと、ピロシュカがあっはっはと笑ってから首を振った。
「心配いらないよ、あたしらはいつもこうやって寝るのさ。あんたはあんたの寝方で横になりゃあいい、遠慮しないで、その上で寝たらいいよ」
ピロシュカはそれから他の女達と二言三言話した後、マルグレーテに向かって「ほら、灯りを消すよ、早くベッドに上がりな」と言った。マルグレーテはピロシュカに「ありがとう」と礼を言ってからベッドに上がった。
やがて車内に置かれていたランプの火が消される。
暗い中で、目の前にある藁の匂いに包まれながら、マルグレーテは今の状況に感動していた。自分は今、ジプシー達と一緒に寝ているのだ。私が藁のベッドで寝たことを叔父様に話したら驚くでしょうね。手紙に書かなきゃ……。
マルグレーテがゆっくりと目を閉じようとした時、「ねえねえ」と誰かがすぐそばで小声で言ったのが聞こえた。
「……ピロシュカさん?」
暗闇の中、ピロシュカがベッドに肘をついてこちらを見ているようだ。
「ちょっと話を聞かせなよ」
暗くて顔はわからなかったが、声はからかうような口調で、にやにやと笑っているようだった。
テオは灯りの消えた荷馬車の方に視線を向けた。どうやら女達は眠ったようだ。あちこちからぼそぼそとジプシー達の話し声が聞こえていたが、だんだんとぱちぱちと燃える焚き火の音が響くだけになった。
テオは、荷馬車のすぐ近くで鞄を枕にすると横になった。
「おっと、もう寝ちまうつもりかい」
ミハイという若い男が小さな声で尋ねると、テオは起き上がらないままで「歩き通しだったから疲れてる」と答えた。そのまま眠りにつこうとしたが、ミハイは彼の意向に反してテオの脇まで歩み寄り、へっへっへと笑いながらその場に腰を下ろした。
「寝るのには早すぎるぜ、少し話せるだろ」
「……勘弁してくれ」
「いいじゃねえか。なあなあ、教えてくれよ。あの娘とはどういう関係なんだ」
テオが眠そうに彼を見上げると、ミハイはにやついた笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。
「……何を言ってるのかわからない」
テオの返事に、ミハイは「その手には乗らねえ、何度でも訊くぜ」と言って、眠ろうとしているテオの身体をぐらぐらと揺すった。
「なあ、言えよ。ちゃんと答えたら寝かしてやるからよ、なあなあ」
身体を揺すられ、テオは不機嫌そうに唸ったが、揺れは止まらないので、仕方なく「答える、答えるからやめろ」と答えた。
テオはむくりと起き上がった。
「……別に取り立てて言うほどのことでもない、恋人だ。いずれは一緒に住もうと思ってる。おやすみ」
それだけ言うと、テオはすぐにまた横になった。
「お、おいおい、絶対それだけじゃねえだろ! あんな宝石みたいなお嬢さんを、一体どうやって連れ出したんだ。かっさらったのか?」
「連れ出したわけじゃない……もう頼むから寝かせてくれ」
テオが心底嫌そうに顔だけ起こして睨みつけたので、ミハイはさすがに口をつぐんだ。
しかし、別の方から「連れ出してないってことは、マルグレーテがあんたについてきたか、追いかけてきたんだね」と声がした。
驚いてそちらに視線をやると、荷馬車の土台に、とっくに寝たと思っていたピロシュカが座っていた。
ピロシュカは続けて言った。
「なるほど、ウィーンのお嬢さんだったけど、あんたに惚れてここまでついてきたってわけ。かわいいとこあるじゃないか」
テオは舌打ちすると、横になった身体を動かして、ピロシュカとミハイに背を向けた。
ピロシュカはテオの返事を待たずに続けた。
「それにしたって、テオ。あんたジプシーと居たことあるだろ」
「えっ? そうなのか」
ミハイが目を丸くしたのに、ピロシュカは頷いた。
「そうじゃなかったら、あたしたちの音楽とあんな風に合わせることなんかできないよ。ジプシーを知ってる耳だ」
テオは相変わらず返事をしなかった。ピロシュカは続けた。
「人の恋路を邪魔したいわけじゃないけど、あんたの音楽はあたしらジプシーと一緒にいた方がずっと伸びる。ねえ、そうだろ? だけどマルグレーテはお嬢様だ。あんたのジプシー向きな音楽にとって足枷だよ。かわいそうだけど、あの子といてもあんたの音楽は大した成長ができないんじゃ……」
「黙れ」
遮ったテオの声は静かだが、激しい怒りを感じ、ピロシュカは口を閉ざした。
テオは起き上がって、ピロシュカを鋭い目で睨みつけた。
「俺のことをなんでも知ってるような口をきくな。他人にとやかく言われる筋合いはないし、不愉快だ。彼女の何を知ってるっていうんだ。俺は、俺のために彼女といる。俺は確かに音楽を糧にして生きてるが、音楽のために生きてるわけじゃない。それだけだ」
ミハイはテオの醸し出す恐ろしい雰囲気に、固まってしまった。刺すような視線を受けているピロシュカは、じっと彼の目を見返していたが、やがて口の端をにっと上げて「聞いたかい」と語りかけるように言ったーーテオとミハイではない人物に。
誰に言っているのだと二人が眉を寄せると、荷馬車の寝床から、誰かがピロシュカの方へと歩いてきた。テオはぎくりと肩を強張らせた。
現れたのは、恥ずかしそうに笑みを浮かべているマルグレーテだった。
「え……お、お嬢さん!?」
ミハイが驚いたように言った。
「まさか、今の話、全部きいて……いや、ちょっとまてよピロシュカ、お前! そうか、わざとテオを怒らせたんだな?」
ピロシュカがくくくと笑って肩を震わせながら頷いた。
「そうさ。マルグレーテの悩みをちょいときいてね。不安そうにしてたから、はっきりテオの口から言ってもらった方がいいって思ったんだ。うまくいってなによりさ」
乗せられた。
テオは、悔しさよりもマルグレーテに今の会話を聞かれたということに顔を真っ赤にさせた。そしてがばっと音を立てるように彼らに背を向けて顔を隠すように横になってしまった。
その姿に、ピロシュカとミハイはにやにやと笑みを浮かべた。ピロシュカが「さあて」とマルグレーテに言った。
「今のであんたの不安はなくなったね、マルグレーテ。今度こそもう寝るよ」
「あ、はい……テ、テオ。その……ありがとう、おやすみなさい」
マルグレーテの呼びかけに、テオは顔は出さなかったが、左手だけそっと伸ばしてひらひらと振った。
「照れ屋だねえ」
ピロシュカがくすくす笑いながら言ったが、テオが起き上がることはもうなかった。ミハイはその様子にひひひと笑っていたが、テオに呼びかけるように「そいじゃ、俺達もそろそろ寝るかあ」と言うと、焚き火に土と石を被せて火を消した。
途端に辺りは真っ暗になった。
林の中は静まり返り、林の奥で流れる川のさざめきと虫の声、そしてジプシー達の寝息が聞こえるだけになった。
テオは、もぞもぞと身体の向きを変えて夜空を見た。美しい星達が瞬いている。
テオは前にマルグレーテと星空を見上げたことを思い出した。すりの少年からバイオリンを取り戻した夜のことだ。マルグレーテはあの時までずっと俺のことを“テオ様”なんて呼んでたっけ。テオはふっと笑みを浮かべて目を閉じた。
先ほどピロシュカに言ったことに偽りはなかった。音楽は好きだが、それよりもマルグレーテを優先したいという気持ちの方が強い。テオはそんな自分を意外に思った。少し前までは考えられなかっただろう。そもそもマルグレーテと再会するまでは、彼女のことを必死に忘れようとしていたのだ。
俺は、俺のためにマルグレーテといるのか。自分で口に出して言ってみると、案外しっくりくるものだ。
他人と共に生きようなどと今まで考えたこともなかったテオだが、自分の心が思いのほかマルグレーテでいっぱいであることを、この時彼は自覚するのであった。
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