港町恋物語

Rachel

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第五章 新しい仕事

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翌日。
結局クレメールは、貿易船の事務所ではなく、大工の組合の元へ足を運んだ。船大工以外は経験のないクレメールは、受け入れてもらえるかと不安な気持ちを抱えていた。もし断られたら他を探そう、どこを探してもだめなら、やはり乗組員になろう。
そう思っていたのだが、大工組合で紹介状を見せると難しい手続きもなく、すぐに現場に案内され、持ち場が与えられた。

「今ちょうど修道院の建て直ししててよ、人手が足りてなかったんだ」

髭面の親方らしき男がそう言ってノコギリをクレメールに手渡し、すぐに作業が始められた。そのままこき使われ、日も暮れた頃にようやく帰っていいぞと言われた。
デュクレ船長もまあまあだったが、大工のランディール親方も相当人使いが荒い。しかし給金は週末ときちんと定められ、もらえる金額も良い。クレメールはこれが決め手だと自分に言い聞かせた。

身体はへとへとだった。重い木材を数えきれないほど運び、ノコギリを動かし、やすりをかけた。明日も同じ作業が続くそうだ。
よろよろと家に戻ると、小屋の前に座り込むジレンが見えた。どうやら屋根は完成したらしい。近づくと、ジレンは座り込んでうとうとしているようだった。すぐ目の前の小さな小屋に目を移す。今日打ち付けたらしい屋根は、不恰好だがしっかりと頑丈にとめられている。やるじゃないか、ジレンも。

「ジレン」

クレメールは少年の肩を揺すった。

「ジレン、起きろ。こんなところで寝てたら風邪ひくぞ」

「うん……ん、あれ? クレメールさん」

ぼんやりとした声を出して、ジレンは目を覚ました。

「なかなかよくできてるじゃないか、結構頑丈な屋根だな」

そう言われてジレンはぼうっとしながらも「へへへ」と笑いお腹をかいていたが「あっ!」と声を上げて飛び起きた。

「クレメールさん、仕事、仕事はどうなったの!」

ジレンの問い詰めるような言い方に、クレメールは後ずさりながらも答えた。

「……大工の手伝いをすることにした。今、西のクレメンティーナ修道院を建て直してる。給料もまあまあいいから……」

そこまできいたジレンの顔に満面の笑みが広がる。

「大工!? ほんとかよ、クレメールさん……! いやあ、よかったなあ! よかった、ほんとに!」

「あ、ああ」

その喜びようにクレメールも笑みを浮かべたが、ジレンはまた「あっ!」と声をあげた。

「行かなきゃ、クラリスの家に!」

クレメールは急に出てきた名前にぎくりと肩を強張らせた。

「え、で、でも……」

「報告するって約束したんだろ! 早く! 彼女の家はどこだ、案内してくれよ」

そう言いながらジレンが袖を引っ張るので、「わかったわかった」と、クレメールも従った。

もうすっかり暗くなった街を、クレメールはジレンに引きづられるように歩いた。
クレメールは歩きながら、ざわついた心の中を懸命に落ち着かせようとしていた。

くそ、昨日ジレンがあんなことを言うから会いづらくなってしまっている。
クレメールは拳を握りしめた。船乗りの仕事を選ばなかったと知って、残念そうな顔をされたらどうしよう。頭の中に、クラリスが怪訝そうに"どうして大工にしたのですか? また貿易船に乗ればよかったのに"と言うのを想像し、その時の言い訳を必死で考えていた。

とうとうクラリスの家に着いてしまった。

「へえ、ここか! すげえちゃんとした家だなあ」

ジレンはしげしげと石造りの重厚感のあるデュクレ家を眺めながら、感心したように言った。と、その時だ。
タイミングよくガチャリと音を立ててデュクレ家の玄関が開き、中からそこの住人が出てきた。彼女は明かりを灯したランタンを玄関の扉の前に置き、中に戻ろうとしてはたと止まり、こちらに目を向けた。

「まあ、クレメールさん! ジレンも!」

彼女は表情を綻ばせて名前を呼んだ。

「よっ、クラリス!」

ジレンが軽い調子でスキップするようにしてクラリスの方へ駆け寄ってきた。

「ふふ、こんばんは。今日も元気ね」

ジレンの後から遠慮がちに近寄ってきたクレメールに、クラリスは笑みを送る。

「いらっしゃい。きっと来てくださると思ってましたわ」

「クラリス、クレメールさんから報告があるんだぜ!」

ジレンがこんな風に言ったのでクラリスは「あら、なにかしら?」と尋ねてきた。クレメールは「その……」と頭をかいて下を向いていたが、クラリスの視線を感じて彼女の方を見た。

「仕事が決まった……その、だ、大工の手伝いをやることにした」

さあ、もうクラリスがどんな反応をしても耐えてみせるぞ。クレメールは覚悟を決めていた。
案の定クラリスは驚いたように目を見開き、両手で口を覆った。

「ほんとう?」

やはり、彼女は船乗りを選ぶと思っていたらしい。クレメールは気まずそうに頷いた。ええと、言い訳はなんだったか、あれだ、船乗りの賃金だと少ないから……。
しかし、次の瞬間クレメールは彼女に手を取られていた。クラリスは彼の両手をぎゅっと握り、満面の笑みを浮かべた。

「素晴らしいわ、クレメールさん! それならいつでもお会いできますのね!」

手が。手が握られている。
クレメールは自分の顔がどんどん赤くなっていくのを感じたが、なんとか「うん……」と小さく頷くことはできた。
クラリスは嬉しそうに頬を紅潮させて言った。

「今夜はお祝いですね! お食事は大したものはありませんけど、ワインを開けるわ、ふふ!」

「どうぞ中へ」と二人に言うと、彼女はすぐにパタパタと奥の部屋へと行ってしまった。おそらくワインを取りに行ったのだろう。
クレメールはおずおずと玄関口をくぐった。後ろからジレンがついてくる。

「予想以上の反応だったなあ。あんなに喜んでくれるなんて」

ジレンがにやにやしながらクレメールに言った。
クレメールは照れたように「う、うるさい」とそっぽを向いた。まだ握られた手が熱かった。

クラリスの用意した食事は今夜もクレメールの舌を楽しませた。特に、彼女の開けてくれたワインはほんとうにおいしいと感じた。
俺が仕事に就いたことを、こんなに一緒に喜んでくれるなんて思いもしなかったな。
ジレンがデザートのフルーツの皮を剥きながら言った。

「それで、次はいつクラリスの家に来るの、クレメールさん」

クレメールはちょうど飲んでいた茶でむせそうになった。また、余計なお節介を……。
ギロリと睨んだ男に、ジレンが肩をすくめる。

「だって決めておかないとさあ、クラリスだって突然来られても困るでしょ」

そう振られて、クラリスは笑みを浮かべた。

「そうね、事前に教えてくれたら、もう少し準備した料理ができるわね」

クレメールはその会話に眉を寄せた。

「クラリス、あんたは仕事があるんだろう、毎回こうしてごちそうになってばかりじゃ、あんたの負担が大きくなるだけじゃないか。どこか食堂に入って……」

そこまで言って、クレメールは言葉を途切らせた。これでは次回の食事を誘っているようではないか。それに、良家の子女を食堂に連れていくことなんて絶対だめだ。港に近い食堂は平和的であるが、客層は航海を終えた船乗りや、街の職人の男たちが多い。それに、良からぬ事を企む人間がいないとは限らないのだ。
慌てて話を撤回しようとしたが、ジレンの方が早かった。

「えっ、食堂? じゃあ俺の食堂に招待するよ、いつにするの、クラリスの都合のいい日はいつ?」

「お、おい! ちょっとまて、前言撤回だ。食堂なんかだめだ、彼女に万一のことがないとも……」

「おおげさだなあ、クレメールさん。あの食堂で何か事件が起きるわけねえだろ。ねえクラリス、いつがいい?」

少年にそう言われムスッとしてテーブルを睨んでいるクレメールを、クラリスはぼんやりと見つめていたが、ジレンの問いにはっとした。

「……あっ、え、ええと、週末かしら。お給金はいつも週末にいただくから」

「よし、週末だってよ、クレメールさん。いいんじゃねえの?」

ジレンはにやにやしながらクレメールの足をつついた。
クレメールは少年を睨みつけたが、クラリスが「クレメールさんのご都合に合わせますわよ」と微笑んだので、クレメールは頭をかきながら「じゃあ……来週末で」と答えた。





食後のお茶も終えてクラリスに礼を言うと、クレメールとジレンは帰路についた。
冷たい海風が吹きつける。ジレンはクラリスにかけてもらった温かい上着の前をかけ合わせた。

「クラリスの面倒見がいいのは弟と妹がいるからなんだな……弟さんの古着とは言え、こんな上等な服をもらえるなんてラッキーだぜ」

ジレンがへへへと嬉しそうに言ったが、クレメールは何も言わずにただ前を見て歩いていた。ジレンは肩をすくめると彼の隣に駆け寄って並んで歩きながら言った。

「なあ、クレメールさんは何をそんなに悩んでるわけ? 順調なんだからさ、もっと喜べよ」

クレメールは両手をポケットに突っ込んで言った。

「順調って……何がだよ」

「クラリスとの仲に決まってるだろ。来週末の食事、俺はこっそり影から見守らせてもらおうかな……」

クレメールはジレンに呆れたような眼差しを向けた。

「お前なあ、ほんとに彼女に怒られるぞ。いらんお節介はやめろ。それに、お前も一緒じゃないなら俺は行かないぞ」

ジレンは残念そうな目をクレメールに向ける。

「はあ? そこは1人で頑張れよ……。なんで俺も一緒なんだ、それこそクラリスに怒られる」

「まだ未婚の婚約者でもない男女が夜一緒にいるってのは、世間体に良くないんだ。というかそもそも彼女を食堂に誘うなんてどうかしてる! 場末の酒場とは言わんが、客層が安全なわけじゃない。さっきも見ただろう、彼女はああいう家に住むような人間だ、評判を下げることはしたくない」

クレメールの真面目な返答に、ジレンは眉を寄せた。

「世間体? なんだよそれ……じゃあ、あんたと彼女との仲を発展させることは望んじゃいけねえってのかよ」

「最初からそう言ってるだろ。彼女にはもっと生まれのいい人間がいいんだ。弟のマルセルは海軍に務めてるから、きっとその辺りから紹介……」

「冗談じゃねえ! 勝手にクラリスの相手を決めるなよ。それこそでっかい世話だ。彼女が世間体の話をしたってのかよ、気にしてんのはクレメールさんの方だろ」

ジレンの言うことは最もらしく聞こえた。その通り、クレメールにとっても世間体は後付けの理由に過ぎなかった。クレメールは口を結んで無言で歩いた。
ジレンは頭をかいた。落ち込んでいる様子の隣人がもどかしかった。

「俺はさ」

少年は少し考えてから言った。

「……クラリスは、そんなに心の狭い女じゃないと思うぜ。ちゃんとあんたそのものをみてるじゃねえか。あんたがどんな人間だろうとな」

クレメールは前を向いたまま目を細めた。
ジレンには、クレメールが自分の生まれを気にしていることがわかっているのだ。しかし結局クレメールはそれからずっと口を開くことはなく、家の前で「おやすみ」だけを言うだけだった。


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