港町恋物語

Rachel

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第十章 示談

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クレメールは、冷たい床の上でふと目を覚ました。

寒い。身体がすっかり冷えている。
上は酒場の木のはりではなく、どこかの石造りの天井が見えた。辺りは明るく、どこかの窓から太陽の光がさしているようだ。起き上がろうとした瞬間に頭に割れるような痛みが走り、吐き気がこみ上げ、またすぐに横になった。

クレメールはゆっくり息を吐いた。
ひどく気分が悪い。ぼんやりしていた頭が覚醒していくのがわかったが、起き上がることはできなかった。しばらくそのままでいたが、ふいにガチャンと鉄が鳴る音がした。
顔を音のした方へ向けると、鉄格子が見えた。クレメールは「うわ」と思わず声をあげる。
嘘だろう、そうか、ここは……。

ガチャガチャと音を立てながら、紺色と紅色の帽子を被った髭面の男が鉄格子を開けて入ってくる。
憲兵だとわかると、クレメールはいよいよ絶望した。

「ようやくお目覚めのようだな」

憲兵が言った。

「ここは……役所か」

クレメールが横になったままかすれた声で問うと彼は「そうだ」と頷いて続けた。

「レイモン・クレメール。お前は昨夜、中心街の酒場で暴れ、3人の男に暴行を加え、大量の酒瓶を割り、酒場の椅子や机を壊した」

クレメールはそれをきいて目を閉じた。

「何か弁解はあるか」

憲兵の問いに、クレメールはただ「何も」と答えた。
憲兵は続けた。

「その状態ではまだ起き上がれまい。酔いが覚めるまではここにいるがいい。調子が戻ったら、本来お前が行く牢屋に連れて行ってやる」

そう言うと、憲兵は再びガチャンという音を立てて鍵をかけるとどこかへ言ってしまった。

クレメールはため息をつき天井を見上げると、皮肉にも笑いがこみ上げてきた。
なんて無様なんだ。
仕事をクビになり、酒を飲み、人を殴り、刑務所とは。結局俺はこういう人生しか歩めないらしい。
昨日まで過ごしてきた大工としての2ヶ月、そしてさらにそれまでずっと船乗りとして生きてきた6年間がとても遠い昔のように思える。逆に女衒として街を這いずり回っていた時の方がごく最近に感じた。それはひとえに昨日会った女のせいだろう。

あの女ーー弁護士はルボワール侯爵夫人と呼んでいたーーは、クレメールの母親の同僚、つまり娼婦であった。しかし、女は気位が高く、いつか絶対に貴族の家に入るのだと息巻いており、実際にクレメールが16の時に侯爵家に身請けされていった。
彼女はいつもクレメールのことを毛虫のように嫌っていた。彼女だけではない、その娼館にいた者たちはみんなそうだったことをクレメールは覚えている。生きにくかった、だが必死で食いつないでいたあの頃の記憶は今でも鮮明だ。
またあの生活に戻るのか。いや、そもそもこの牢から出ることはできるのだろうか。憲兵に連れていかれた母親は二度と戻って来なかった。
クレメールはぐるぐると考えながら目を閉じて再び眠りについた。



次に目が覚めた時は、辺りはうっすらと夕焼け色になっていた。牢の向こう側にあるテーブルの上のカンテラの火が心もとなくちらちらと燃えているだけで、窓の向こうは日が沈み始めているようだ。

クレメールはゆっくりと起き上がった。少し頭がぼんやりしているが、昼間よりはずっとましだった。ただまだ吐き気が残っている。

しばらく一人で座っていると、カツカツと靴の音が響いてきた。先ほどと同じ憲兵だった。彼はクレメールが起き上がっているのを見ると、再び姿を消し、他の憲兵を連れて戻ってきた。彼はガチャガチャと音を立てて牢の扉を開ける。

「移動だ」

憲兵に引き連れられて、クレメールはとぼとぼと歩いた。
歩いてみて気づいたが、自分が着ているのはシャツ一枚とズボンだけだ。上着もズボンの中に入れていた財布も全て抜き取られたらしい。返ってくるのだろうか。いや、返ってきてもこなくてもクレメールはどうでもよかった。そして、同じく歩いてみて気づいたが、自分もあちこち殴られたらしく、腕や脚に痛みを感じていた。

先頭の憲兵が立ち止まる。ようやく"本来行くべき牢屋"にたどり着いたようだ。
ガチャガチャと音がして鉄格子の扉が開けられる。

「入れ」

背中を押されて押し込められたそこは、先ほどよりもずっと広い牢であった。鉄格子の奥の壁のあちこちにカンテラがかけられてあるが暗かった。そして、そこには20人ほどの囚人がいて、皆クレメールの方をぎらぎらと睨みつけていた。
クレメールはごくりとつばを飲んだ。昔、牢に入れられたことのある彼は知っていた。集団で入れられている牢屋において、新人は大抵その空間の力関係を示すために全員から殴られるのである。
ガチャンと後ろで憲兵が扉を閉める音がするのを聞くと、囚人の中でも身体の大きな髭面の男たちが近づいてくるのがわかった。クレメールは覚悟を決めて目を閉じた。




同じ頃、クラリスは仕事を終えて帰路についていた。もうすっかり夕焼けだ。昨日の雨が嘘のようで空気が澄んでおり、いつもよりも雲が綺麗に見えた。
空を見上げて思い出すのはいつもならば水平線のどこかにいる父であったが、今はもっぱら大工になったばかりの青年のことだった。

初対面からずっと控えめで自分に遠慮がちだが、最近は優しげな微笑みを向けてくれるようになった。
来週は新しい仕事のお祝いにワインを用意しようかしら。クラリスは彼の顔を思い浮かべながら家の前まで来ると、玄関前に少年がしゃがみこんでいることに気づいた。

「まあ、ジレン。今日はお休みなの?」

クラリスは微笑みかけたが、さっと立ち上がったジレンは、ひどく顔色が悪かった。額に汗をかき、髪も乱れている。
クラリスは驚きの表情を浮かべた。

「どうしたの、何があったの」

ジレンは、困り果てた泣きそうな顔でクラリスを見上げた。

「クラリス、どうしよう。食堂の連中からきいたんだけど、クレメールさんが……大変なんだ」










クレメールは目を覚ました。カンテラの灯りは消えていたが、もう朝なのか辺りは明るい。

「いっ……」

痛みに声を上げながらクレメールは身体を起こした。

思った通り散々に殴られた。しかし、船乗りの生活で耐性がついたのか、少年だった頃よりは苦痛には思わなかった。右足にズキズキと痛みを感じるし痣はあちこちに見えるが、幸いどこも折れていないらしい。
上半身を起こすと、他の囚人達は牢の中央の方で談笑しているのかゲラゲラと笑い声を上げていた。
どうやら一人の調子の良さそうな男が冗談話をしているらしい。クレメールはほっとする。ああいう奴が一人でもいると、場が和み、殴り合いが中断するのだ。

クレメールは太陽の光で明るくなった部屋をぐるりと見回した。四隅に憲兵が立っており、その中央に鉄格子の牢があるようだった。鉄格子の向こう側の窓から見える雲を眺めた。ここに入ってからどれくらいの時が流れたのだろう。自分はこれからどうなるのだろう。まあ、取り上げられた財布の中身もたかが知れている。きっとあともう何回か殴られて、大人しくしていて数ヶ月もすれば、出ることができるかもしれない。少年の頃はそうだった。

ふいにガチャンという音が響いて、囚人達の話し声が中断した。何事かとクレメールがそちらの方を見ると、他の部屋から憲兵が入ってきたようだった。後ろから中年の女性がついてくる。

憲兵がガチャガチャと鉄格子の扉を開けた。

「ベルナール・ロー、出ろ!」

囚人達の中から髪の薄いぽっちゃりした男が進み出た。彼が鉄格子の扉をくぐると再びガチャンと扉が閉められる。
牢を出たその男は、罰が悪そうに憲兵の後ろの女性の方へ歩み寄ると、「あんたっ!」と呼びかけたその女性と固く抱き合った。
囚人達はその様子をぼんやりと羨ましそうに眺めるばかりで、先ほどの賑やかさが嘘のように終始無言であった。そうしてその男は女性と共にその部屋を出ていった。
クレメールはその2人の背中を、まるで絵を見るように見つめていた。
ああやって示談金を払ってくれる家族がいる者は幸せだ。結局罪があろうとなかろうと、ここでは地位や金がある者が優先されていく。クレメールにはそれが痛いほどわかっていた。それは訪れることのない未来で、自分には暗闇を這いずりまわる近い将来が見えた。……結局この生活に逆戻りだ。

それから一刻おきに憲兵と訪問者が来て、どんどん囚人が牢から出ていった。先ほどのような配偶者の場合が多かったが、囚人の親や上司なども時々いるようだった。
クレメールは再び窓の外を眺めた。うっすらと夕暮れになってきている。いつのまにかもう1日が終わるらしい。ここでは時間の感覚が麻痺したようになり、何の欲求も浮かばなくなる。

再びガチャンと大きな音がした。また示談金が出たのだろう。憲兵が入ってくるのをクレメールはぼんやり見ていた。その後ろからついてくる女性が、どこか見覚えのある背格好だなとクレメールは思った。

「レイモン・クレメール、出ろ」

ぼうっとしていたクレメールは、自分の名前が呼ばれたことに気づかなかった。

「おい、聞こえているのか、レイモン・クレメール!」

「……え、お、俺……?」

レイモン・クレメールが二人いるのかと思うほど、彼は自分が呼ばれたことが信じられなかった。

「早く来い」

憲兵の鋭い言い方に、クレメールは戸惑いながら牢の扉まで歩いた。開いた鉄格子の扉を恐る恐るくぐる。

なぜ? なぜ俺は出られたんだろう。また別の牢に移動するのだろうか、また殴られるのか?

憲兵の指示を待っていると、彼らの代わりに一人の女性が自分に歩み寄ってきた。
クレメールはその女性の顔を目にすると、目を見開いた。

目の前にいたのは目を赤くさせたデュクレ船長の娘だった。

「ク、クラ……」

彼がかすれた声で最後まで言わないうちに、彼女は彼の元に駆け寄ると、ためらうことなく彼の首に両腕を回してひしと抱き寄せた。

「ご無事で……よかった……」

クラリスの鼻声に、クレメールは驚くばかりで彼女の背中に自分の手を回すことも忘れた。
クレメールがその状況を理解する前にクラリスはすっと身体を離すと、彼の頬に手を当て「さあ、帰りましょう」と言った。
脚を引きずってはいたが、彼女に支えられてその部屋を出た。廊下ですれ違う憲兵達は、二人が通ると意外そうな顔をしたが、クラリスが挨拶するとすぐに頭を下げた。そのまま二人はゆっくりと役所を出た。


クラリスは無言だった。
ただ、しっかりとクレメールの腕を支えたままゆっくり歩いた。
クレメールは歩きながら、夕焼けを見た。またこうして、鉄格子からではない空の下から空を見上げることができる。クレメールはごちゃごちゃした頭を整理しようとした。

一体なぜ俺は牢から出られたのだろうか。まず、自分自身に非があることは明らかだった。酒を飲んで人を殴り、物を壊した。それはしっかり覚えている。だから牢にぶち込まれた。それなのに、どうして自分は今、牢の外に出て彼女と歩いているのだろうか。
クラリスは俺が今日、牢を出ることができると知っていたというのか? そもそも彼女は俺が牢にいることをどうやって知ったのだろうか。
クレメールははっとした。思わず立ち止まって隣を歩く彼女を見る。
クラリスもその視線に気づき、こちらを見た。彼女は何も言わずに微笑んだ。

まさか……まさか、彼女が、俺の示談金を出したというのだろうか。

クレメールは近い距離に驚き、赤面してすっと目を逸らした。再び二人は歩き出す。クラリスの方は冷静で、彼が足元がおぼつかないようなのでしっかり支えて前へ導いた。


ようやくデュクレ家に着く頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。しかし、家の中は蝋燭が灯されていて明るい。クラリスが小さな声で「ただいま」と言うと、奥の方でガタガタと音が聞こえた。

「クラリス!?」

彼女を呼ぶ少し高い声が響き、その声の主が走ってきた。

「クレメールさんには会えたのかよ……ってクレメールさんっ!」

奥から飛び出してきたジレンは驚きの声をあげた。そしてクラリスの支えるクレメールの方に突進し、両腕を彼の腰に回してがばっと抱きついた。

「クレメールさんっ! よかった、よかったほんとにっ……!」

クレメールは驚いて少年を見下ろした。ジレンは泣いているようだった。
しばらくそうしていたが、クラリスがジレンの頭を優しく撫でて言った。

「ねえジレン、クレメールさんにはベッドで休んでもらいましょう。お料理の準備をお願い。スープがいいと思うの」

「う、うん」

クラリスの落ち着いた言葉に、ジレンは涙を拭いて鼻をすすると頷いた。そうして奥の調理場へと入っていく。

「さあ、クレメールさん、二階のベッドのある部屋まで上がれる?」

クラリスの問いにクレメールはこくこくと頷いた。痛みにちょっと脚がふらつくだけで、膝を曲げられないわけではない。
クラリスに支えられながら、クレメールは二階への階段を上がった。

通された部屋は、前にもクレメールが泊まったことのある部屋だった。
クラリスは丁寧に淡いグリーンのシーツをめくり、そこへクレメールを寝かせた。

「少しここで休んでくださいね。お夕飯を持ってくるわ。ジレンが作ってくれているから」

クレメールはまたこくこくと頷いた。クラリスは、乱れた彼のぼさぼさの前髪を撫でつけながら彼の顔を見て目を細めた。

「ひどいあざ……あちこち怪我をしているかもしれないわ。手当の道具も持ってくるわね」

そう言ってクラリスが部屋を出ていこうとしたのがわかったので、クレメールは思わず彼女の手首を掴んで引き止めた。

「クレメールさん?」

クラリスは首を傾げた。

「何かほしいものがありまして? なんでも持ってくるわ」

その言い方はとても優しく、クレメールはそれが不安に感じた。

「クラリス」

ようやくかすれていない声を出せた。

「き、君が……君が示談金を払ってくれたのか」

クラリスはきょとんとしたが、すぐに笑みを浮かべて頷いた。

「ええ、あなたをあんなところにいつまでも居させるわけにはいかないもの」

クレメールは手首を掴んだまま彼女を見つめた。

「な、なんで……」

クレメールは混乱した頭を整理しつつ言った。

「示談金なんて高いはずだ……なんで……そもそも、どうやって君は、俺が牢にいることを知ったんだ……」

クレメールの戸惑った言葉にクラリスは微笑み、掴まれていないもう片方の手で彼の頬にそっと触れた。

「ちゃんと話すわ。とにかく何か食べましょう、まってて」

頬に当てられた手はとても柔らかく、いい匂いがした。クレメールは頷き、大人しく手を離した。

しばらく一人でぼうっとしていたが、やがてクラリスが下から大きな木箱を持ってきた。その後ろからジレンがスープ皿を運んできている。

「野菜がたくさん入ってるから。クレメールさん、早く元気になれよ」

ジレンはまだ泣きそうな顔をしているので、クレメールは彼に笑みを向けた。

「……ありがとう、ジレン」

ジレンの作ったスープは2日間何も食べていなかったクレメールの身体を温め、腹を満たし、活力を与えた。
すぐ空になった皿をジレンは持って階下に下りていった。その後はクラリスが手当てをしてくれた。あちこち擦ったり切れたりしている箇所に薬を塗り、赤く腫れている脚は氷を当てて冷やした。

その後、ようやくクラリスは落ち着いたようにベッドの前に置いてある椅子に腰かけた。

彼女は言った。

「昨日仕事から帰ったら、ジレンが家に来ていたの。ジレンは食堂の人達から、クレメールさんが中心街の酒場でもめて役所に連れていかれたってきいたらしいわ。その後二人ですぐ役所に行ってみたのだけど、もう遅いからと取り合ってくれなかった。だから次の日の朝、すぐにまた役所まで行ったの。でも示談にはいろいろ手続きが必要で……酒場の店主さんや、怪我をされた方達とも話をつけて、ついさっき、赦免されることに決まったの。ずっと待たせてしまってごめんなさいね」

クレメールは目を細めてクラリスの話をきいていたが、彼女の謝罪の言葉に首を振った。クラリスが謝るのは検討違いだ。第一に示談金だ。

「金が……相当かかったはずだ。役所でも酒場でも、その、俺が殴ったやつにも」

正直なところ誰を殴ったのか全然覚えていなかった。彼女は自分の代わりに全員に謝罪してくれたというのだろうか。クレメールは申し訳なさそうに言ったが、クラリスは肩をすくめた。

「私には、父の保険金がたくさんあるでしょう。滅多に使う機会がなかったけど、必要な時に利用できてよかったわ。気にしないで」

「よくない。気にしないわけがないだろう」

そうだろうとは思っていたが、やはりデュクレ船長のお金だ。こんな言い方をしているが、浪費家ではない賢い彼女にはそのお金がどれだけ大切かわかっているはずだ。
クレメールは理解できないというように頭に手をやって、髪の毛が乱れるのも構わずにガシガシとかいた。

「なんでだ。なんで、俺を助けたんだ。きいただろう、俺は酒に酔って暴れて人を殴った。物も壊した。だから役所にしょっぴかれて当然だ。そんな奴をなんで……」

クレメールは下を向いて言葉を途切らせてしまった。
クラリスはふとんから伸びている彼の手に自分の手を重ねた。クレメールは反射的に顔を上げる。

「だって、きっと何か理由があると思ったから。クレメールさんが理由なしに、そんなことをするなんて信じられなかったからよ。何かあったのでしょう?」

クラリスの問いに、クレメールは口をへの字に曲げてぐっと唇を噛み締めた。目を逸らして答える。

「……仕事を辞めた。クビになったわけじゃないけど、理由があって……辞めなきゃならなくなった」

その言葉にクラリスは目を細め、手を伸ばし、彼が自分で乱した髪をきれいに撫でつけながら言った。

「そう……それは、つらかったわね」

その優しい手つきに、クレメールは泣きそうになったが、ぐっと堪えた。

「なあ」

クレメールは大きく息を吸った。

「俺にこんな風によくしてくれるのは、親父さんのことがあるからだろう。ありがたいけど、もうやめてくれないか。俺に関わると、あんたはきっとろくな目に合わない」

クラリスは一瞬戸惑った表情を浮かべたが、すぐに微笑んで首を振った。手は彼の髪から離れてしまったが、もう片方は彼の手に重ねられたままだ。

「そんなことないわ。私はあなたといるだけで幸せだもの」

そう言われてクレメールは顔を歪めた。
だめだ。なんでそんな風に言うんだ。絶対にだめだ。
さっと彼女の手から自分の手を離し、伸ばしていた膝を立てて、そこに顔を埋めた。そのまま息を整えると顔もあげずにくぐもった声で言った。

「ほんとうにやめてくれ。そんな風に言うと、勘違いしそうになる。俺は、馬鹿で単純なんだ」

「……勘違いじゃないわ」

クラリスは、自分の方を向いている彼の頭のてっぺんを見つめながら静かに言った。

「私はあなたが好きだから、あなたのそばにいたいと思うの。父の部下としてじゃないわ、1人の男性として好きだと思っているから。私はあなたが初めてやってきたあの日から……」

クレメールは思わずがばっと顔を上げる。

「あんたは俺の過去を知らないっ! だからそんな風に言えるんだ。もう……もう、惨めになるからやめてくれ」

それはクラリスに対して初めての強い口調であったが、クラリスも負けてはいなかった。

「知らないわ。でも少なくとも、今あなたを好きな気持ちは変わらない。それでいいじゃない。あなたが拒絶しないなら、私はあなたのそばにいたいと思ってるんです」

頑なに言いながらクラリスは自分のこぶしをぎゅっと握った。
しばらくその体制のまま2人は対峙していたが、クラリスははっと気がついたような、そして恥ずかしそうな表情を浮かべて立ち上がった。

「ごめんなさい、あなたは怪我人なのに。まずはゆっくり休まなければ……その後でちゃんとお話ししましょう」

そう言うと、クラリスはタタタッと部屋を出て階下へ下りていってしまった。






クラリスは急いで階段を下りた先で息を整えた。まだ胸がどきどきしている。とうとう言ってしまった。
でも気持ちを伝えても、思った通りクレメールさんはちっとも嬉しそうにはしていなかったわ。

「やれやれ、牢屋に入る前も出てからも、相変わらずクレメールさんはわからずやのままだねえ」

はっとして声のした方を向くと、さっき泣きべそをかいていたのが嘘のように、ジレンがテーブルに頬杖をついてにやにやしていた。全部きいていたようだ。

「……私、彼に嫌われてしまったかしら。もうちっとも笑ってくれないみたいだったわ」

クラリスはぽつりと呟くように言った。言葉にすると余計に悲しさが増す。

「なーに言ってんだ」

ジレンは頬杖をついたまま言った。

「クレメールさんは最初からなんにも変わっちゃいねえよ。ただびくびくしてるだけだ、あんたを嫌いになんかならねえから安心しな」

クラリスは落ち込んだような表情を浮かべていたが、ジレンの慰めに小さな微笑みを浮かべた。
この少年は不思議だ。クレメールの安否がわかるまではずっと泣きそうな幼い表情だったのに、彼が無事だとわかった途端に、今のようにすべてをわかっているような大人びた態度になるのだ。
ただクレメールの事を慕っていることはよくわかる。



それから、3日間クレメールはほとんどベッドの上で過ごした。身体がひどく疲れていたのもあるが、脚の腫れがどんどんひどくなっていったのだ。見かねたクラリスが医者を呼ぶと、本格的に手当がほどこされ、絶対安静とだけ言われた。

「大丈夫なのかよ、クレメールさん」

心配そうにベッドに座り込んだジレンに、クレメールは笑みを浮かべた。

「昔もっとひどい怪我をしたことがある。あの時は熱まで出て、ほんとうに死ぬかと思ってたけど、結局生きてるから、今回も大丈夫だろう」

「昔って小せえ時だろ、子どもの時は治るのが早いんだよ。クレメールさん、もう歳なんだからよ……」

「歳って……おい、俺はまだ25だぞ」

クレメールが不満そうに言うと、ジレンは肩をすくめた。

「もう小さくはねえってことだよ。俺よりも一回り以上も上じゃねえか。あんまり無理すんな、完全に治るのに、たぶん昔の倍はかかるぞ」

「うるさいな、わかってるよ」

クレメールはふとんをかぶり直して寝返りを打ち、ジレンに背を向ける。
と、そこへクラリスが部屋に入ってきた。レモンのいい匂いがする。何か飲み物を持ってきてくれたようだ。

「クレメールさん、ご気分はいかが?」

「おっレモネードだ!」

クレメールが答える前にジレンがクラリスの周りを犬のように駆け回る。
クレメールは起き上がると、クラリスからカップを受け取った。両手で持ったカップは温かく、冷たくなっていた指を温めてくれた。

「ありがとう……もう十分元気なんだ。医者が大げさなだけでさ……いてっ」

腕を伸ばした時に痛みが走り思わず言ってしまった言葉に、クラリスがくすりと笑った。
散々彼女の周りを駆け回ったジレンは、再び先ほどと同じ場所にどっかり座る。

「25かあ。俺もそれくらいになったら身体にガタがくるのかなあ」

「ガタってなんだよ、ガタって」

顔を赤くしてクレメールは少年を睨みつけた。全く、こいつは俺に恥をかかせようとばかりしてくる。クラリスの前で、わざわざ年齢を明かさなくてもいいのに。
クラリスはジレンの頭に手を置いて髪を優しく撫でつけた。

「いくつになっても身体は大事にしなきゃだめなのよ、あなたもね、ジレン」

「え、俺?」

きょとんとした顔でクラリスを見上げる。

「そうよ、あなた、お仕事から帰ってきた後も夜遅くまでクレメールさんの身体に良い食事を考えてくれているでしょう。ずっと調理場の灯りがついているから昨日見にいったのよ」

クレメールは驚いて先ほどまで自分をばかにしていた目の前の少年を見た。
ジレンはいたずらがばれたような表情になった。

「ええと、それは……だって、俺……その」

そうしどろもどろに言い、最終的には立ち上がって部屋を出ていってしまった。
なんなんだ。クレメールは眉を寄せてその後ろ姿を見送った。クラリスはまたくすりと笑った。

「ほんとうよ。あの子はほんとうにクレメールさんのことが好きなのよ。食堂のお仕事も早めに切り上げてうちに帰ってくるの」

そう、ジレンも今はここに住んでいた。普段は人に頼ろうとしないジレンだが、クレメールのことが心配だからとデュクレ家から食堂に通う生活になっているのだ。彼にはマルセルの部屋を使ってもらっている。

クレメールは「へえ」と意外に思って少し照れくさくなり、カップに目を落とした。



それからさらに一週間が経った。その頃にはクレメールはすっかり元通りに歩けるようになっていた。手足にあった痣も消え、腫れていた脚ももう大丈夫だと今日来た医者に言われた。クレメールはようやくベッドの生活から解放されることになったのである。
その日の夜はジレンが昼間から準備をし、完治を祝うご馳走を作ってくれた。

久しぶりのワインに、クレメールはこうして飲む酒はほんとうにうまいなあと感じた。そして、今日ここで食事をするのが最後かもしれないということも考えていた。

「クレメールさん、明日クラリスは休みらしいから、2人でどっかに行ったらどうだ?」

ジレンがもぐもぐとパンを食べながら言った。
クレメールは頷いた。

「俺もきいた。実は、一緒に来てほしいところがある……休みの日に連れていくような場所じゃないけど」

いつになく神妙な言い方に、クラリスは目を瞬かせたが真面目な顔で「いいわ」と頷いた。
ジレンは「なんだよそれ」とつぶやいて目を細めたが、クレメールの固い表情から、どこへ連れていこうとしているのかなんとなく察した。

「じゃあさ」

ジレンは持っていたパンを置いた。

「次はちゃんと3人で休みの日を合わせようぜ。今夜はここで寝るのが最後だろ。クレメールさんも新しい仕事を探すだろうし、そしたら、なかなか会えなくなるかもしれねえ」

「ジレン」

その提案に、クレメールは眉をひそめて睨みつけた。そんな約束をしてしまっては、後になってクラリスが困るかもしれない。いやきっと困る。しかし、少年はその視線を受け流して、クラリスの方を向いた。

「ねえ、クラリスはどう?」

クラリスはきょとんとした顔をしたが、少し寂しそうな表情になった。

「そうねえ、私は前と同じ、週末がいいわ。でも……あなたたちがここにいるのも今夜で最後になってしまうのね。いつまでも居てくれてかまわないのに」

「なに言ってんだ。もともと俺には自分の家があるからな。けど、調理場だけは借りにくるからよろしく」

ジレンの言い方はさっぱりしていたので、クラリスは思わず笑みを浮かべた。こういうところも妹にそっくりだ。
クレメールはため息をついてジレンを見た。

「お前、どれだけ失礼なことを言ってるかわかってんのか?」

急に叱られたのでジレンは口を突き出した。

「な、なんだよ、だって寝るのには慣れてる家がいいし、ここの調理場はクレメールさんのとこと違って使いやすいし……」

その正直な答えに、クレメールは再び呆れたように息を吐いたが、クラリスは吹き出した。

「ふふっ、ありがとうクレメールさん、いいのよ。ジレン、好きなだけうちの調理場を使ってね」

クラリスは嬉しそうにクレメールに微笑みかけた。やはり彼は優しい。
明日彼はいよいよ自分のことを話してくれるようだが、絶対に彼から離れたくないと、クラリスは強く思った。




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