ある間諜と子爵令嬢の独白

Rachel

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3. 舞踏会の花(間諜視点)

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「……だからね、私が黄色い花を忘れたって泣きつくことにしたわ! あの女は同情して花を私にくれると思うの。そうすればお人よしの彼女は舞踏会に出席できないはずだわ」

嬉々として友人たちに楽しそうに話す主人を天井裏から見下ろして、俺はため息を吐いた。
相変わらず彼女は成長しない。一体いつになったらレリアに対する意地悪をやめるのだろう。他人にかまわず自分の問題をどうにかすればいいのに。いっそのこと誰か婚約者をあてがうよう父親に働きかけてみるか。おとなしくなれば俺の苦労も減る……が、そうなればモルドレッド邸に行く必要もなくなる。

"用がなくても会いに来ていいのよ"

突然先日の出来事が頭に蘇り、急に顔が熱くなった。

横から不意打ちで声をかけられたときはほんとうに心臓が飛び出るかと思った。いつものように警告を書いた紙切れを置きにいっただけのつもりだったから、あのときはめちゃくちゃ焦っていた。よく転ばなかったなと自分に感心する。
それにしてもあの子爵令嬢レリアとあんな風に会うことになるとは。あの誕生日会のときよりもたくさん話してしまった。

間近で見る彼女は、やはり花が咲いたように美しかった。はしばみ色の瞳がこちらを見ているとわかっただけで、心臓が早鐘を打ち、緊張が走った。仕方ない、慣れてないんだ。
だが彼女は、美しいと言われても嫌そうに目を細めるだけだった。"私は絵でも彫刻でもない"ーーそう言った彼女に対して、一度でも彼女のような美女の隣を歩いてみたいと思った自分がいることに、申し訳なく思った。ほんとうの名前を名乗ってしまったのも、彼女に対してすまないと思う気持ちからだった。
だが、彼女自身は俺に恩義を感じているらしかった。それはひとえにあの紙切れのおかげだろう。

ギロー伯爵令嬢の暴走を止めるために、自分の正体を明かさずに彼女に警告するには、あれしか方法がなかった。結果的に彼女とは直接会うことになったのだが。
彼女には俺のことをどこまで知られてしまっているのだろうか。あの誕生日会の時点で、ハープ弾きではないとわかってしまっていたことはうかつだった。言わないだけで、きっともっと多くを知っているにちがいない。彼女は勘がいいし頭も冴えている。もしかしたらあのわがまま娘がにらんだ通り、ほんとうに王太子妃になるかもしれないぞ。王太子だって、能天気な貴族令嬢の中にレリアのような女性がいたら放っておかないだろう。うん、きっとそうだ。

その日の夜、モルドレッド邸のレリアの部屋に行くと、彼女はやはり笑顔で迎えてくれた。
主人ジョゼフィーヌの考えた黄色い花の計画の報告をし終えてから、レリアの王太子妃になる可能性のことを話すと、彼女はくすくすと笑い出した。

「買いかぶりすぎだわ、私だって他のご令嬢と一緒よ。王太子妃になる人は、ほとんど決まっているようなものなの。そういう人は幼いときから食べる物も話す言葉も会う人も限られていて、王族になるための勉強をしているのよ」

そ、そうなのか。王太子が気に入ったら誰でもなれるものなのかと思っていた。
自分の知識のなさを反省していると、彼女が少し声を潜めて「それにね」と俺の耳もとに顔を寄せる。緊張して手が震えそうになるのを堪えた。

「これは絶対に誰にも言っちゃだめよ。私の推測だと……王太子には意中の方がいるの。隣国の王女様」

なんだと!?

「もちろんあくまで憶測の話よ。ただ私がそう思っただけ」

「な、なんで、そんなこと……」

「ただの勘だけど……社交界で見た様子だときっとそうだわ。王太子の隣国への訪問が多いのはそれもあるからだと思うの。ジョゼフィーヌ様には言わないでね」

言うもんか。言ったらきっとその日は嵐だ。しかし、隣国の王女か……王宮内は荒れるだろうな。もしかしたら軽い仕事でも間諜の募集があるかもしれない。ギロー伯爵令嬢のところはやめて、売り込みにいくか。

「ねえ、ジャン」

急に名を呼ばれてドキッとした。レリアは肩をびくつかせた俺に、小さく笑った。
仕方ないだろ、本名を呼ばれるのは慣れていないんだ。今までの主人からは数字か、あるいはただ「影」と呼ばれていた。ギロー伯爵令嬢からは「お前」以外呼ばれたことはないが。

「ジャンはどうして口元を隠しているの? あなたの顔はもう知っているんだから見せてくれてもいいじゃない」

俺は口を覆っている布に手を当てた。

「これは……隠していないと落ち着かないから。その、職業柄というか……俺はいつもこうしてる。誰にも顔を見られるわけにはいかない」

するとレリアは大きな目を丸くさせた。

「まあ。それじゃあハープを弾いていたあの格好はまれだったのね」

レリアにまじまじと見つめられるのが恥ずかしくて、目を逸らして頷いた。

「あんな仕事はもう金輪際受けない」

レリアはくすりと笑みを漏らして「頑なね」と言った。

「たぶんこういう仕事をしている人間はみんな顔を明かさない……この国の同業者にはあんまり会ったことはないけど」

「私もあなたが初めてだわ。末端貴族だから、縁がないのかも」

普通なら間諜は人に姿を見せないものだ。俺だって今までずっとそうだった。
そのときだ。

コンコンとノックの音がして「お姉様?」と、扉の外から声がする。
うわっ。
俺は驚いてすぐに天井裏に飛び乗った。不覚だ。誰か近くに来ていたのに、足音に気づかなかったなんて。
レリアが俺の方を確認してから扉を開ける。

「まあ、ルイーズ。どうかしたの?」

モルドレッド家の次女だ。もう寝巻きに着替えていて、手に燭台を持っている。

「あら、てっきりアンヌが来ているのかと思ったわ……お姉様、今誰かと話していなかった?」

まずい、聞かれていたのか?! どこまで?!
天井裏で慌てている俺とは違い、レリアは落ち着いて答えた。

「いいえ、本を口に出して読んでいたの……うるさかった?」

ルイーズは首を振る。

「ううん、そうじゃないの。お姉様、この頃ちゃんとお食事していないでしょう。今夜だって食卓にいなかったわ。だから今日はアンヌに部屋に持ってきてもらうよう頼んだの……あ、ほら来たわ」

アンヌ……メイドのことか。なるほど、姉が食事の席にいなかったことを心配しているのか。
レリアは嬉しそうに妹の頭を撫でた。

「ありがとう、ルイーズ。心配させてしまったのね……ありがとうアンヌ、そこに置いてちょうだい」

部屋の中に食事の盆を持った女が入ってくる。慌てていたから天井の板は閉めていない。頼むから上を見ないでくれ。
俺の心配をよそに、メイドはすぐに部屋を出た。

「皿の回収は明日の朝でいいわ。わざわざありがとう、二人とも。ちゃんと食べるから安心して」

姉がそう言ったのに、ルイーズはほっとしたような表情を浮かべた。

「よかった。おやすみなさいお姉様」

レリアは「おやすみなさい」と返事をし、アンヌと一緒に去っていく妹を見送ると、安堵の息を吐き、パタリと扉を閉めた。

「ああ、驚いた……。突然ごめんなさいね、ジャン。もう大丈夫よ」

俺は耳をそばだてて足音がすっかり聞こえなくなったことを確認すると、再び部屋の中に下りた。
火の灯った燭台だけだったテーブルには、先ほどメイドが置いていった食事が湯気を立てている。貴族の夜食はこんなに豪華なのか。
俺がじっとそれを見ていると、レリアが俺の前の椅子を引いた。そして自分は向かいの椅子に座る。

「ジャンも一緒に食べましょう」

"ジャンも一緒に食べましょう"?
意味を把握するのに時間がかかった。

「……あ、あんたの食事なのに」

「一人でこんなに食べられないわ。さあ、そこに座って」

レリアは微笑むとこちらに料理をよそってくれたので、俺は口元の覆いを取った。

実際のところ、おいしいかどうかという感覚はわからなかった。
いや、彼女と顔を突き合わせて食事だぞ、まずいわけがないだろ。彼女は外見を他人が気にするのは嫌だなんだと言っていたが、こんなの気にするなという方が無理だ。口に入れるものすべてが舌で踊っていた。
レリアは食べながら俺を見て「このスープ、とってもおいしいわよ、食べてみて」「ジャンって、幸せそうに食べるのね」など話しかけてくれていたが、俺は食べるばかりで相槌と言えば頷くだけだった。
仕方ない、誰かと一緒にこうして落ち着いて食事なんてしたことがなかったんだ。

皿が空になると、レリアは少し真面目な顔をして言った。

「舞踏会の話だけど、ギロー伯爵令嬢は黄色い花をわざと忘れて私の同情を引こうとするって言っていたわね」

俺は腹が満たされて少しぼんやりしていたが、ふと我に返った。

「……ああ、そうだ。だから宮殿に早めに行って、あの娘に会う前に会場に入ってしまえば、問題は起きないはずだ。それが一番いい」

ところが、真面目に答えたのにレリアはにこにこと俺を見て笑っている。
なんだ、なにがおかしい。

「もしかしてジャンがもう口をきいてくれなくなったんじゃないかと思っていたの。よかった」

カッと自分の顔が熱くなるのを感じた。同時に口元をあらわにしたままだったことに気づき、黒い布で覆う。

「しょ、食事のときは話せない。食べるのに忙しい」

レリアは「ふふ、そうよね。ごめんなさい」と笑みを向けてから、また真面目な顔に戻った。

「黄色い花の件だけど……今回はジョゼフィーヌ様とぶつかってみようと思うの」

ぶつかってみる? どういうことだ。

「もし彼女が私に黄色い花を譲ってくれと言ったら、はねつけようと思うの。お忘れになったのならお帰りなさい、私はそんなにお人好しじゃないってね」

挑発するつもりか。

「危険だ、もっと憎まれるじゃないか」

「ええ、わかってる。でも今まで彼女のされるがままになっていたから、何をしても抵抗しないと思われているのかもしれない。今回の件で試してみたいの。ね、ジャン。いいでしょう?」

いいでしょうって。別に俺に決定権があるわけじゃないけど。
だが彼女の言う通り、今までギロー伯爵令嬢の企みはのらりくらりとかわしてばかりで、本性を表したジョゼフィーヌと対峙してはいない。レリアはこの機会に、なんとか解決しようとしているのだーーそうなれば俺が彼女に会いに来る理由がなくなるのに。

「……わかった。だが無茶はするな」

そう返事をすると、レリアは嬉しそうに「ありがとう」と笑みを浮かべた。
それを見ると、俺はみぞおちが痛くなるのを感じた。



第六王子の誕生日の日。
宮殿の入り口にはたくさんの馬車が立ち並び、大勢の招待客でごった返していた。
俺は城壁の前に生えた大きな木の茂みで、自分の主人の姿を追った。彼女の標的であるレリアはまだ来ていないようだ。
社交デビューしていない三女は留守番だろうが、次女のルイーズは姉と一緒に来るだろう。ギロー伯爵令嬢のけしかける企みに、レリアは妹を巻き添えにするつもりはないだろうから、入場は別々かもしれないが。
ギロー伯爵令嬢は、取り巻きの友人たちに囲まれて、出入り口付近の噴水でぺちゃくちゃとおしゃべりし始めた。扇でばさばさとあおぎながら香水の香りを撒き散らしている。
全く。余計なことを企んでいないで、さっさと宮殿に入ればいいのに。

「遅いわねえ、あの子爵家の子」

「お金もないから大して着飾ってこれないくせに、わざと遅らせているんじゃない?」

「下僕か御者なんかとよろしくやっているのかもしれないわ」

「馬小屋でね」

「まあ、お下品だこと」

風に乗って聞こえてくる彼女たちの会話に吐き気がした。最悪な連中だ。思わず顔を逸らした。
と、その時だった。

一台の馬車が、御者席に誰も乗っていないのに動き出しているのが見えた。乗ってきたのは老夫婦のようで、御者は石段を上る危なっかしい主人たちを手伝っているようだ。
貴族の乗る馬車の馬なら勝手に動き出したりしない、もっと行儀の良い馬のはず。どうしたっていうんだ。
そこまで考えて俺ははっと気づいた。馬車があった場所は、ギロー伯爵令嬢たちの風下だ。おそらく馬は、女たちの香水の匂いに引かれたのだ。
そうしている間に、馬はもう彼女たちのすぐそばまで来ていた。
うわ、これはまずいぞ。

運悪く、ジョゼフィーヌは馬に背を向けていた。周りにいた令嬢たちは馬に気づいて「きゃあ」と言って逃げていく。周りのおかしな様子にジョゼフィーヌは振り返ると、顔の目の前に馬の鼻先があった。明らかに匂いを嗅いでいる。
やっぱり香水が気になったんだな。

「きゃあああっ」

叫びながらジョゼフィーヌは慌てて逃げ出した。前を見ていなかったものだから、すぐ目の前の噴水の中へ間抜けにも頭からボチャンと落ちた。そこでようやく御者が駆け寄ってきて馬を引きとめた。
出入り口付近の招待客たちはざわざわと彼女に注目している。
あーあ、あの女びしょ濡れじゃないか。いい気味だ。
ギロー伯爵令嬢は震えながら噴水から出た。派手に飾った髪の毛も崩れ、化粧も落ち、全身から水が滴っている。

「い、い、一体どういうつもりよっ!」

金切り声を上げて例の御者を怒鳴りつけた。

「あ、あなたが、う、馬をちゃんと見ていなかったせいで、私は……」

「も、申し訳ございません!」

御者はすまなそうに頭を下げた。
あんなに怒鳴りつけたところで彼は謝ることしかできないのに。
すると、招待客たちの中からざわざわと会話が聞こえてきた。

「ギロー伯爵家の娘さんじゃない?」

「なんてみっともない」

「馬が暴れたわけじゃないだろうに」

「御者が気の毒だ」

それはジョゼフィーヌの耳にもしっかりと届いたようで、彼女は顔を引きつらせた。そして先ほどまで一緒にいた取り巻きの友人たちに助けを求めようと「ねえ」と声をかけた。
だが、彼女たちは目を逸らして「も、もう行かなきゃ」「いつまでもここにいては王太子に会えませんもの」「お帰りになった方がよろしいんじゃなくて?」と口々に言って会場へ入っていった。
そりゃそうだ、悪い噂の巻き添えをくらうからな。
騒ぎを聞きつけた伯爵家の侍女たちが駆け寄るが、ジョゼフィーヌは茫然とするばかりでその場に立ち尽くしている。
こうしてみると、なんだか哀れだな……これで彼女の評判はガタ落ちか。きっと今後は社交界で孤立するかもしれない。

そんなことを考えていると、ジョゼフィーヌを遠巻きに見ていた人々の間から、一人の女性が彼女の方へやってくるのが視界に入った。
あれは……レリアじゃないか! 
いつの間に到着していたのだろう。品の良い紺のドレスに身を包み、胸には黄色い花がさしてある。
ジョゼフィーヌは彼女の姿が目に入ると、驚いたような表情を浮かべた後、顔を歪めた。そりゃあこんな姿を見られちゃ屈辱だろうな。

「な……なによ! 私を笑いに来たの?」

だがレリアは笑うどころか微笑むこともなく、無表情のまま彼女の目の前で片手を胸に当て片膝を折って下を向いた。相手を敬う姿だ。確かに子爵家よりも伯爵家は格上だが、こうして見るとふるまいの違いが身分と合わなくて滑稽だな。
レリアは小さな声で言った。

「ギロー伯爵令嬢様、私が別のドレス一式を用意しております。もしよろしければそれをお召しになってはいかがでしょう」

嘘だろ。貸すつもりなのか? この女に?
濡れねずみになっている本人も目をまるくさせている。

「なんですって……?」

レリアはちらりと顔を上げた。

「このままではお風邪を召してしまいます。どうかお聞き入れください」

侍女たちは戸惑ったように顔を見合わせている。ジョゼフィーヌはじっと見上げるレリアの目に、少したじろいだようだったが、「わ、わかったわ」と頷いた。
おいおい、正気か。

それからレリアは付き添いの使用人に頼んで自分の馬車からドレスを持ってこさせると、ジョゼフィーヌとその侍女たちを伴って宮殿の中へ入っていってしまった。

俺は宮殿の中に入るかどうかは決めていなかった。他の隠密と鉢合わせはしたくないから、極力この場所は避けているのだ。
だが、レリアがあれからあのわがまま娘とどんな話をするのかはとても気になる。散々迷ったが、俺は木の枝から屋根の上に飛び乗り宮殿の中へと侵入した。

宮殿にはあちこち仕掛け扉があったり隠し通路があるので、下手に動けない。入ってしまったら出られる保証もないのだ。なるべく人のいない場所を歩き、ようやくレリアたちのいる部屋の天井裏へたどり着いた。しかしここには入れるような隙間はなく、角の狭い空間にやっとしゃがんで入れるくらいであった。
しかも、わずかな灯りが漏れるだけの隙間しかないので中の様子は見えないが、「コルセットを締めますよ」「両手を上げて」などという声が聞こえるので、ジョゼフィーヌが着替えるのを侍女たちとレリアが手伝っているようだということはわかる。これからまだ髪の毛と化粧も整えるのだろう。

「あんた……妹はどうしたのよ」

ジョゼフィーヌの声だ。

「先に会場へ入ってもらっています。しっかりした子ですから、一人でもうまく立ち回れるでしょう」

落ち着いた声で返事をしたのはレリアだろう。その後ジョゼフィーヌは黙っているようだった。どうせ不満そうな顔を浮かべているに違いない。そういえば二人の会話は初めて聞く。

「子爵家でもこんな上等なドレスを持っているのね」

ジョゼフィーヌがまた言った。

「なんで着替えなんか持っているの。いつも持ち歩いてるわけじゃないでしょう」

そうだ、それには俺も驚いた。黄色い花の話はしたが、まさかドレスまで替えを持ってくるとは予想外だ。

「偶然です」

レリアが静かに答えた。

「今日は第六王子殿下のお誕生日。王子だけでなく国王陛下やお妃様も出席されます。何か不都合があってドレスを汚してしまえば欠席という形になる。それは臣下の身としてあるまじきことですから」

もっともな返事をする。うまくかわしたな、さすがレリアだ。
それからしばらく沈黙が続いたが、ジョゼフィーヌの小さな声がした。

「私を……私を助けてくれたのはどうして?」

そうだ、なぜこんな女を助けたんだ。ついさっきまで、あんたの悪口を言って笑っていた女だぞ。以前は毒まで盛ろうとしてたことだって伝えたのに。
レリアは少し黙っていたが、やがて答えた。

「理由はありません。あるとすればたまたま着替えを持っていたからです。替えのドレスを持っていなければ、このようにお貸しすることはできませんでした。お役に立ててよかったですわ」

レリアが答えた後また沈黙になったが、それから急に鼻をすする音がした。げえ、あの女が泣いているらしい。侍女たちが慌てたように宥め出した。

「お、お嬢様、泣かれてしまうとお化粧が……」

「だ、だって……」

ぐすぐす言っている声が聞こえる。勘弁してくれ。この女が泣くと長いんだ。前に父親に叱られたとき、三時間は泣いていた。

「私、あんたのことが嫌いだったの……だって、と、ても、き、きれいなんだもの……今日だってこんなに……」

「ギロー伯爵令嬢様」

レリアの声が響いた。

「舞踏会は始まっております。今夜は王子にご挨拶するという役目が私たちにはありますわ。終わった後でお話は必ず伺います。ここはぐっと辛抱なさいませ」

まるで妹に言い聞かせるような口調だった。それをきいて、ジョゼフィーヌの泣き声は止まった。
へえ、すごいな。

その後は侍女が「それでは白粉を」「紅をいれます」などという声が聞こえるだけで、令嬢の二人は沈黙していた。

「さあ、終わりましたわ!」

しばらくして侍女が声を上げると、ジョゼフィーヌが椅子から立ち上がる音と、ドレスの裾がこすれる音がする。

「よかった。侍女さんたちの腕がよろしいのね。あっという間だったわ」

レリアの労う言葉に、侍女たちが「まあ」「ありがとうございます」と照れた声がする。
それからレリアが「では最後の仕上げに」と言った。カサカサと何かを取り出しているように聞こえる。何をしているのだろう。

「黄色、の花……」

ジョゼフィーヌがぽつりと呟いた。ああ、レリアはそれを付けてやったのか。
ガチャリと部屋の扉が開く音がする。これからホールへ向かうのだろう。まさか自分の分の花をつけてやったということはないだろうな。レリアは花を余分に持ってきているのだろうか。俺は気になって部屋から廊下へ続く天井裏の方へ移動した。そこの空間は広く、あちこちに隙間があって、やっと二人の姿がちらりと見えた。
よかった、レリアも胸元に黄色い花をつけている。そして侍女たちが「行ってらっしゃいませ」と見送る様子が見えた。
ジョゼフィーヌはわからないというように後ろを歩くレリアに尋ねた。

「で、でもどうして? 花まで用意してくれているなんて、まるで……」

「ふふ、偶然ですわ」

レリアは美しい微笑みを浮かべてそう答えた。
その笑みは何もかも見透かしたような笑みで、俺は背筋がぞくぞくするのを感じた。ジョゼフィーヌも同じだったか、あるいは悪寒が走ったようだった。どこか怯えたようにさえ見える。
確かにこれで嫌がらせは落ち着くかもしれないが……やりすぎだ。
それから二人はダンスホールの方へと行ってしまった。王子への挨拶をしに行ったのだろう。

ホールの中となると、俺はもう入れない。あそこの天井裏は細工がしてあるので、事前に調べておいても危険だ。俺は天井裏からパッと飛び下りて、人目のつかない柱の影に身を寄せた。
ホールの中がよく見える。大勢の人々が集まり、皆が着飾っているが、やはりその中でもレリアの姿は他とは比べられならないほど美しく見えた。あまり目立たない紺色のドレスを身につけているはずなのに、かえってそれが彼女の美しさを際立たせていた。ほんとうに大輪の花が咲いているようだ。男も女も彼女に見惚れている。
一人の貴公子が彼女に話しかけている様子が見えた。もう見てられない。俺は踵を返して影を歩き、外の暗闇の中に収まった。



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