ある間諜と子爵令嬢の独白

Rachel

文字の大きさ
上 下
7 / 13

7. 噂の王太子(間諜視点)

しおりを挟む

レリアが泣きながら屋敷の裏へ去っていくのを、俺は木の上から見守った。枝を握る手に力が入る。
俺が謝ったときの、彼女のあの強張った顔……思い出すだけで胸がきりきりと痛み、自分で自分の顔を殴りたくなる。
いけないと頭を振ると、ポケットから布を取り出して口元を覆い、木を下りた。
そのまますぐ隠れ家に帰ってもよかったが、なんとなく街を歩きたくなって大通りに向かった。

昼間寄った宝飾店や花屋などはもう閉まっており、酒場や食堂からは賑やかな声が聞こえた。後ろからガタガタと馬車がやってきて通り過ぎていくが、もう壁に寄せる相手もいない。広場はすっかり暗闇に包まれており、閑散としている。片隅の酒場近くで何人かの男たちが集まって酒を飲んでいるのが見えた。人形劇の仮設舞台だけが、昼間と同じところにぽつんと佇んでいる。
いつもであればなんでもない街中が、もうすっかり彼女との思い出に染められていることに気づいた。

今日は恐らく生きている中で一番幸せな一日だった。俺と並んで歩きながら嬉しそうに笑うレリアの顔が思い浮かぶ。俺はちゃんと笑顔を返せていただろうか、いやきっと終始無表情だったに違いない……こんな経験はもう二度とないだろう。
今日という日を糧に、俺はこれからの人生を生きていくのだ。

そう思ってぼんやりと歩いていたが、ふと前から歩いてくる人影から視線を感じた。神経を尖らせると、後ろからも同じようなものを感じる。
なんだ……?
誰かに後をつけられる覚えはない。だが、前と後ろにいる二人は、明らかに俺を狙っている。
人通りが多いので、こんなところで殺傷されることはないだろうが、一体なんだ。

とうとう前から歩いてくる人物と鉢合わせた。暗がりの中、店々から漏れる灯りで、俺は後ろからの気配を感じながら目の前に立つ人物を見た。
全身黒づくめで口元を隠し、髪も瞳も黒い男だ。俺よりも一回りくらい歳上のように見える。おそらく同業者だ……ということは誰かの使いか。
後ろにちらりと目をやると、その人物も彼と同じような服装をしていた。仲間だろう。

「ジャン殿とお見受けする」

殿……いやに丁寧だな。

「何の用だ」

俺が尋ねると男は答えた。

「あるお方があなたに会いたいと願っている。何も言わずに我らについてきてもらいたい」

あるお方?
俺は目を細めた。どうする。面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだ……だが、目の前の二人は音のない歩き方からおそらくやり手だ。無傷で逃げ切ることは難しいだろう。
少し迷ったが俺は「わかった」と言い、大人しく二人の使者に従うことにした。

どの貴族だろう、あの侯爵家に仕えていたときのことか、いやもしかしたら間諜を募集していた伯爵家か……などとぐるぐる考えていたが、連れて行かれた場所に納得した。
この国で最も広い敷地を誇り、最も古い歴史を持つ館、王宮殿である。

城壁の中の敷地内はあちこちに松明が置かれてあり、ずいぶん明るく感じた。
うへえ、見回りの兵士がざくざく足音を立てて歩いてやがる。あいつらは苦手なんだよな。
前にこの辺りに来たとき、奴らに追われたことがあった。そういえばあれもギロー伯爵の命令だったっけ、確か王妃のドレスの色を探るとか面倒な内容だった……。

宮殿内に入ると、あちこちに置かれた燭台で外よりももっと明るかった。舞踏会のときはあらゆる場所のシャンデリアに火が灯されていたが、あれがなくともこんなに明るいのか。
黒づくめの男二人は俺を挟むようにして歩き、誰にも会わないようなところを通り、ようやく一つの部屋にたどり着いた。部屋というよりは広間のようで、誰もいないのか暗かった。奥の方には、赤い布で覆われ金の縁取りのついた椅子があり、それを挟むようにして二つだけ燭台が置いてある。
あの椅子はどうみても玉座。ということは、ここは謁見の間か。
俺は例の男たちにその椅子の目の前まで連れてこられたが、椅子は空っぽで、部屋には誰もいない。

「連れてまいりました」

ずっと黙りこくっていた後ろの男が突然口を開いた。なんだ、こちらの方が前にいる男よりずっと歳上じゃないか。やはり目元だけではわからないものだ。
男は誰もいない空間に向かって喋ったようにみえたが、「ご苦労」とすぐ隣の部屋から声がした。そしてカツカツと靴音を響かせながら、その声の主は俺の目の前までやってきた。
間近で見るのは初めてだ。ここまで顔が整っているのなら貴族の女たちが騒ぎ立てるのも無理はない。噂に聞いた通りの美丈夫だ。きれいな亜麻色の髪、青い宝石のような目、鼻筋はすっきりと通っている。着ている服はやたら豪華で、ごてごてと重そうな飾りが付いているなと思った。

「お前がジャンだな」

彼は口の片方を上げてにやりと笑った。俺から言わせれば、何かを企んでいそうな悪そうな笑みだ。
首をはねられるのも困るので、俺は礼節通り、片膝をついて頭を下げた。

「何かご用でしょうか、殿下」

「ほう、私が誰だかわかるのか?」

「存じております。アクセル・リンドレット・オジェ・レスダン様……この国の王太子様でございます」

「正解だ」

王太子は高らかに笑った。
すごいな、笑い方まで品があるように聞こえる。俺はちらりと見上げた。
現国王には王子が六人もいるが、彼以上に王太子にふさわしい男はいないだろう。彼ーーこの目の前にいる男ーーは外交術に優れた手腕を持っているため、父王は内政を行うが外交的な方面は息子に任せているとの話だ。
王太子は宝石のような目をこちらに向けて、ちらと見上げた俺と目を合わせた。慌てて視線を下げる。

「だが、私はお前のことはジャンという間諜であること以外知らぬ。ある令嬢からお前の話を聞いてな、会ってみようと思っていたのだ」

「……そうですか」

「貴族をやめるとは、全く義母以上に変わった娘だ……彼女とはいつ婚姻を結ぶ? 祝福してやるぞ」

王太子の言葉に俺は言葉に詰まったが、頭を下げたまま言った。

「いえ……その、俺は……彼女とは結婚しません」

「なに?」

王太子は驚いた声を上げると、片膝をついている俺のすぐ目の前まで歩み寄ってきた。

「変わった男だな。なぜだ、彼女がお前に失礼な態度をとったのか?」

「い、いえ……」

「彼女の顔は気に入ったが、性格が気に入らなかったのか? 美しいのに身分が低い上に、わがままな性格だから気に入らないのか? 平民になるから興味が失せたか」

「そんなことは……っ!」

俺は思わず顔を上げた。王太子が白い歯を見せて笑っている顔を目の前にし、うわと思った。俺が顔を上げるように、わざと嫌なことを並べ立てたな。
俺が再び頭を下げようとすると、王太子は「良い、顔は上げていろ。礼儀はいいから普通に立つがいい。口の布は取れ。そちらの方が無礼だ」と言った。

俺が布の覆いを取ると王太子は俺の顔をまじまじと見つめた。澄んだ青い瞳が嫌味のように美しい。

「睨むでない……全く、なかなか良い目をしているじゃないか。それで? なぜ彼女と結婚しない? 真実を申せ」

王太子がまっすぐに俺の目を見て尋ねた。
彼の目には相手に偽りを言えないようにする力でもあるかのように眼力を感じた。これが外交術の一つなのだろうか。俺は重い口を開けた。

「俺は……これまでも、これからも、ずっと間諜として生きていく所存です。それしか生きる術を知らないから……この仕事は人から恨まれるし、いつ死ぬかもわからない。仕事のターゲット次第では伴侶でさえ命を狙われる危険もある」

「ほう……だから、彼女とは結婚しないと言うのか」

「もとよりこの先、生涯妻を持つつもりはありません。彼女には……貴族でも平民でもどちらでもいい、平和に暮らしてほしい。それでお断りさせていただきました」

俺はいつのまにか王太子の目を見ていられず、床の赤い絨毯を見つめていた。
王太子はふむと考えるように手を顎に当てた。

「令嬢を思うゆえ……か。ジャンはなかなか情に厚いのだな」

王太子はこちらを感心したような表情で見つめていたが、わずかに目を細めて言った。

「ジャン、嫌なことを尋ねるかもしれないが、お前の……お前の左手首には、蛇の印があるのか」

そう言われて俺は身体に衝撃が走った。どうしてそれを?!

「やはりそうか」

王太子は俺の反応を見て言った。

「最北国ワラーニャには、密偵や暗殺者を育成する組織があると聞いている……そこでは皆幼い頃から徹底して教育され、国のために生涯をささげる覚悟を植えつけられる、とな。さっきのお前の言葉を聞いてもしやと思った」

さすがは王太子である。最北の国なんて、ここから何万里も離れている。ここの周辺諸国とはほとんどかかわりがないはずなのだ……それを見越して俺はここまで来たのだから。

「この国に来て何年になる?」

「……じきに三年になります」

王太子は「なんだ、まだ日が浅いではないか」と笑みを浮かべた。

「ジャン、別にお前の隠密としての高い志をくじくつもりはないが、わが国の間諜は皆それぞれの方針を持っている。お前のように高潔な者もいることにはいるだろうが、少なくとも私が雇っている者の中には妻帯者もいる……なんならお前をここまで連れてきた後ろの二人は親子だ」

親子だって!? 俺は驚いて思わず後ろを振り返った。黒づくめの二人はどちらも無言であったが、年嵩の方が小さく頷いた。親子で隠密……初めて見た……そんなことあり得るのか。
王太子は続けた。

「もちろん仕事の内容や個人の基準によって異なるかもしれん。私は暗殺は好かんが、命を狙われたことは何度かあるからな。絶対安全と保証できないのがこの仕事だが……かといって例の北国のように個人という人格を殺すつもりもない。それに、お前がもし私に雇われてくれるのなら、お前には貴族の女たちの様子を見てもらおうと思っている」

「貴族の女たち……?」

「そうだ。あの子爵家の令嬢の話では、お前は彼女らの情報網に強いそうではないか」

俺はここ数ヶ月のことを頭に思い浮かべた。まあ、確かにギロー伯爵令嬢の命令であちこちの家の令嬢の情報を探る機会があったからな。おかげで彼女周辺の者たちの趣味や習慣まで把握している。
王太子は続けた。

「彼女たちは一見無害で、ただ夢みがちなだけに見えるが、無邪気に人に毒を盛ることもある。実は以前、私もお茶会で薬を盛られたことがあった。私の気を引くためにな」

王太子に薬!? 謀反を企てる者ではなく、寵を受けたいがために王太子に薬を盛るというのか。恐ろしいな。

「それは……存じ上げませんでした」

「もう七、八年前の話だ。まあ幼い頃から耐性をつけていたからよかったものの、防げるものは防いでおきたい。それに……私は近いうちにイザークの王女と婚姻を結びたいと考えている」

イザーク……隣国のことだ。
王太子は急に真面目な顔になった。

「だが、まだこれは極秘だ。婚約については確実に決まってから正式に発表する。王太子妃の座を狙う令嬢たちに知られれば何が起こるかわからないからな」

彼の判断は賢明だ。彼女たちのことだ、王太子の婚約のことを知れば隣国の王女に取られてなるものかと必死で王太子に言い寄るだろう。言い寄るだけでは済まない、きっとあの手この手で婚約を破棄させようと仕掛けてくるに違いない。俺は何となくその様子を思い浮かべて遠い目になった。

「そこでジャン、お前の出番だ。王女が無事に我が国に嫁ぎに来るまでの間、貴族の女たちの暴走をできるだけ回避させてほしい」

それが目的か。俺は嫌な役回りにげんなりした表情を浮かべようとしてやめた。王太子は真剣な顔で俺を見ていた。レリアが昼間『王太子は彼女に本気だったわ』と言っていたのを思い出す。彼は万全な状態で愛する人を国に迎え入れたいのだろう。

「それは依頼と捉えてよろしいですか」

「もちろんだ。お前のようにある程度の知識があれば予想もつくであろう。報酬もお前が満足する額を出す。その働き次第でお前を輿入れした王女の専属にするか考えたい。もちろん王女の意向にも従うつもりだが……どうかな」

悪くない話だ。隅々まで目を光らせなければならないが、何事もなければその分報酬ははずんでくれる……そうだな、いくらにしよう。相手はこの国の王太子、国家が転覆しない限り相当な額を望めるぞ。
俺はしめしめと思いながら無表情で頷いた。

「お引き受けすることにいたします」

王太子は「よし」と言って満足そうに頷いた。

「頼んだぞ。これで安心してディートリンデと結婚できる。早速明日イザークに文を送ることにしよう」

ディートリンデというのか、その王女は。もし彼女に仕えるならば、多少なりとも隣国のことを学んでおかなければならないな。それに王女のことも調べておかなくては。彼女がこの国の女たちの挑発に乗らないような聡明な人物だといいな。
俺がそんなことを考えていると、王太子がいつのまにか表情を崩して腕を組んでいる。

「それで……結局どうするのだ」

俺はぽかんとした。

「ですから、お引き受けすると今……」

「その話ではない、モルドレッド子爵家の娘レリアのことだ」

ああ、レリアのことか……。忘れようとしていたのに、突然脳裏に涙を流した彼女の顔が浮かび上がり、俺は何も言えなくなった。
王太子は言った。

「もちろん今回の仕事に関してはレリアの紹介があって依頼させてもらった。だが、お前の結婚の話は別だぞ。無理矢理私が婚姻を結ばせることは彼女は望まないだろう。いいのか、このまま彼女と疎遠になって」

俺は王太子の青い眼光に耐え切れず、下を向いた。

「……それを覚悟で、今日彼女と最後の一日を共に過ごしました」

「最後の一日か。彼女が自分との将来を考えているなど思いもしなかった、ということだな……お前はほんとうに密偵なのか? 貴族令嬢の気持ちが読めなくてどうする」

返す言葉もなかった。
だが、彼女は俺の中で別枠だった。他の令嬢のように単純じゃないからとか、彼女が突拍子もないことを考えるからとかそういうんじゃない。彼女の望みが……俺の望みでもあったからだ。

王太子は無言の俺にやれやれと息を漏らし、「私の目から見たものを話そうか」と言った。

「モルドレッド子爵の娘レリアは、よく言えば賢く、悪く言えば狡猾だというのが私の印象だ。それは最初に会ったときも今でも変わらん。末端貴族だからと礼儀をわきまえ、貴族としての心構えもよく身についているようだが、彼女自身は子爵家の中で身分が低いから最初から家を継ぐ気はないと社交界で公言していた。そうすることで、学問を学ぶ妹ルイーズのもとに集まる好奇の目を逸らそうしていたのだな。とにかく妹二人が優先事項の一番で、他の人間には興味がないようだった、この私にさえ媚を売ろうとしなかった」

俺は心中で苦笑いを浮かべた。確かに顔で自分を売っている王太子に興味がないとあらば驚くだろうな。仕方ない、彼女は外見で評価されることを心底嫌がっているのだから。
王太子は「ところがつい先日のことだ」と続けた。

「今まで何度招かれてもなかなか重い腰を上げなかった彼女が、突然宮殿を訪ねてきた。そして私に会うと開口一番に"殿下には隣国に意中の方がいますね"と言ったのだ。全くあのときは久しぶりに冷や汗をかいたよ。私と側近しか知らないはずのことを、なぜ彼女が知っているのだと焦った。何か政治的な、あるいは金銭的な要求をしてくるのではと思った。しかし彼女がしてきたのは要求ではなく、ジャン、お前の売り込みだった」

王太子はそのときのことを思い出したのか小さく笑みを浮かべた。

「話を聞く限りお前は密偵としても人間としても優秀らしいな。子爵令嬢は、私にはもうすでに間諜はいるだろうから、もうすぐ迎え入れる王太子妃にどうですかと言ってきた。私は彼女の意図が読めなかったから、"ただの子爵家の娘がその優秀な密偵とどう繋がりがある? 彼はお前の何だ"と尋ねた。するとどうだ、レリア嬢は急に口ごもり目を泳がせたかと思うと赤い顔で"私の想い人です"と言った。驚いて腰を抜かすかと思ったわ。あんな子爵令嬢は初めて見た、いつもなら儀礼的な笑みしか浮かべない彼女が、あんな風に感情を露わにしたのだ……そして彼女は私に言った、まだ打ち明けてはいないが、いつか自分は平民になって彼と添い遂げたいと考えているとな」

王太子がそこまで言うと、言葉を切らした。急にどこからか騒がしい声が聞こえたのだ。
耳をすませると、女性がわめく声がする。そしてそれを止める男性も声を上げているようだ。
それらはやがて謁見の間のすぐ前までやってきた。

「お待ちください! お気をお静めに」

「どうか落ち着いて……」

「これが落ち着いていられますか!」

二人の侍従らしき男たちを振り解くようにして、一人の女が断りもなく謁見の間にずかずかと入ってきた。豪華なドレスに身を包み、恐ろしい形相をしている。あれ、どこかで見た顔だ。
後ろにいたはずの黒づくめの男たちはいつのまにか姿を消しており、その代わりに親衛隊の者たちが騒ぎを聞いて王太子の周りに駆けつけてきた。
広間は突然賑やかになった。

「あー」

王太子が声を上げる。

「皆すまない、大事ないので心配するな。親衛隊も夜にすまないな……どうか皆下がってくれ、お前たちも子爵夫人をお通ししろ、無礼だぞ」

侍従たちは「え、でも……」と心配そうな表情を浮かべたが、王太子が「良いのだ」と言うと下がっていった。
謁見の間には俺と王太子、そしてわめいていた女が残された。
俺は女を見た。歳は読めないな、若くはないが年老いてもいない。王太子は子爵夫人と言ったか? どこの家だろう。

「殿下!」

彼女は顔を歪めて金切り声を上げた。

「殿下のせいなのでしょう! この間突然あの子が王宮に行くと言い出してからどうしたのかしらと思っていましたが、一体どういうことですの? あの子は家に帰ってから泣きっぱなし、夕食も食べずにずっと部屋から出てきませんのよ。理由を聞いても"なんでもありません"だなんて! あんなレリアは初めてですわ。見てられません、何があったと言うのですか!」

レリアだって……ああっ、思い出した! この女、モルドレッド子爵夫人――レリアの義理の母じゃないか!

「まあまあ落ち着かれよ、夫人」

王太子は耳を塞ぎたいような仕草をしながら言った。

「少なくとも私のせいではないということは主張させていただきた……」

「んまあ、しらじらしい! あの子の話からは、相手は平民ですが王太子殿下が庇護を承諾してくれると聞いておりましたのよ。あなたの監督不届きではありませんか! 若い娘だと思ってあの子を傷つけるなんて、なんて悪趣味な!」

「あー子爵夫人、頼むから話を聞いてくれないか」

「言い訳はご無用です。いくらその気がなかったからと言って、女性をあんな風に泣かせるなんて、許せませんわ。今すぐにその人物に謝っていただきとうございます」

「あなたのお怒りはもっともだが、その、彼は私が説得しようとしているのだ。しかし、意外と頑固なところがあって」

「なんですって? 謝ることもできないというの、それでも人間なの?」

王太子は子爵夫人の視線を自分に引きつけるために、俺が彼女の視界に入らない場所の方にカツカツと歩いた。耳元でひらひらさせている手は、逃げろと合図してくれているのだろう。彼は俺を庇ってくれているのだ。
そのことに少なからず感動したが、俺は逃げるつもりはなかった。
彼女の視界に入るところまで歩み寄ると、両膝と両手を床につけ、頭を下げた。
急に目の前で土下座をした俺に、子爵夫人も王太子も当然気づいて話すのをやめた。
俺は言った。

「殿下に申し立てるのはおやめください。責めは俺にあります……彼女を傷つけたのは、俺です」

「な、なんですって……?」

子爵夫人の息をのんだ声が聞こえる。俺は床を見つめたまま言った。

「俺の名前はジャン、しがない間諜です。今日より王太子に仕えることになりましたが、それ以前は別の貴族に雇われておりました。お嬢さんもそれはご存知でした……聡明な方なので、俺が言う前から察していた」

俺はレリアと部屋で会った夜のことを思い出していた。突然カーテンの影から彼女が飛び出してきたときは心臓が飛び出るかと思った。

「彼女のような人と空間を共にできただけで俺は幸福でした。初めて大事にしたい人だと思いました。同時にお会いするたびに、近づきすぎてはいけないと思っていました。これまで彼女とは部屋で少し会話をするだけでしたが、最後に今日を一緒に過ごして、それで終わりにするつもりでした。でも……それが彼女を傷つけるなんて思わなかった」

女性が泣くところは仕事柄数えきれないほど見てきた。自分が動いたせいで誰かが涙を流すなど、気にもとめないことだった。だが今日彼女の涙を見たときは、大罪を犯してしまったような、自分を殴り飛ばしたい衝動に駆られた。自分のやり方が間違っていたのだと初めてそのとき気づいたのだ。抱きしめて、悪かった許してくれと言えたらどんなによかったか。

「それであなた、レリアを妻に迎えるつもりはないというの」

ふいに降ってきた子爵夫人の声に、俺はぐっと声を詰まらせた。

「それは、その……」

俺の煮え切らない返事に、子爵夫人は低い声を出した。

「もしや……すでに妻帯しているの?」

「まさか!」

俺は思わず顔を上げて否定の声を上げ、はっとしてすぐにまた下を向いた。王太子が「夫人、ジャンはな」と代わりに言った。

「ジャンは生涯妻を迎えないつもりなのだ。自分が人から恨まれるような間諜という仕事をやっているからと、レリア嬢の身を案じている。それに若くして未亡人にするわけにはいかんとな」

王太子の言葉を聞いて、子爵夫人は少し思案していたようだが「ジャンと言ったわね、顔を上げて」と言った。俺はすぐ前に立つ女性を見上げた。最初に見たときのような怒りの形相は消えており、真面目な顔をしている。

「あなたは自分の間諜という仕事に自信がないの?」

「え……?」

「あなたの仕事の内容を把握しているわけではないけど、間諜は雇い主以外には誰にも正体を悟られずお勤めするものでしょう。しくじらなければ良いじゃないの。あなたが優秀であるならあなたが死ぬこともないし、家族にだって害はないはずよ。レリアを抜きにして、今まで調査対象の人間に誤って正体を知られてしまったことがあって?」

それは……ない。それどころか同業者と出くわしたのも今日が初めてである。でもそれは、誰にも会わないように気をつけていたこともあるが、これまで政治にかかわるようなきなくさい仕事を選んでいなかったことも関係しているし、この国には隠密の数が例の北国と比べて断然少ないのだ。
子爵夫人が「それに」と続けた。

「レリアの話だと、雇い主に仕えているとしてもあなたは悪事には加担しないそうね。それならその仕事に堂々と胸を張りなさい、何も間違ったことはしていないのだから」

堂々と胸を張る……この、隠密の仕事に?
初めて言われた言葉に俺が驚いていると、子爵夫人は笑みを浮かべた。

「だってそうでしょう、後ろ暗いことなんか何もないわ」

子爵夫人の笑みは、偽りを言っているのではなく、ほんとうにそう思っているのだというように見える。

「レリアはあなたを心から愛しています。あなたの仕事に対する誠意は見上げたものですが……あの子との将来を少しでも考えてはいただけないかしら。これはあの子の義母としてのお願いよ」

子爵夫人は真剣な顔で言った。

レリアとの将来。何度も考えようとして、その度にだめだと打ち消していた。ほんとうに、俺が考えていいものなんだろうか。
子爵夫人の隣から王太子が「なあ、ジャン」と言った。

「実は先ほどから考えていたことなのだが、お前の心配事を解消できるかもしれんぞ」

「俺の心配事?」

「レリア嬢の身の安全だ。お前はそれが保証されれば考え直すかもしれないのであろう? 私に良い考えがある」

王太子は得意げに、そして自信ありげに微笑んでいた。



しおりを挟む

処理中です...