狙撃の名手と気高い貴婦人

Rachel

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10. 出征前夜

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「我が帝国の東側に位置するラデッツ国とは四十年前の和平によって国境が定められていた。三日前の夜、帝国の国境警備隊が巡回しているところをラデッツ国側から騎馬隊らしき連中が襲いかかったらしい。奇襲時、向こうは二十人程度と少数だったが手練れを揃えていた。あっという間にゲルント駐屯地を占拠されちまった、しかも連中は進撃してくる恐れもあるって話だ」

 夕日の差す軍の本部の広間にて、ディーボルト中尉は召集された隊員たちを前に、事の次第を説明していた。真剣な顔で聞いている者、めんどくさそうな態度の者、心配そうな表情の者。ざっと三十人ほどの注目を集めながら、中尉は壁にかけた地図をトントンと叩きながら言った。

「すぐにここ帝都にも知らせが来た。だが相手はラデッツ国側の軍隊ってわけじゃないらしい。おそらくラデッツ国王に従わない遊牧民だ。連中は向こうの国王の意志に関係なく馬に乗ってこちら側に渡ってきた。我が帝国の皇帝陛下はラデッツ国とは事を荒立てたくない。できれば早急にゲルント駐屯地を取り戻して奇襲などなかったことにしたいとお望みだ。よって表立った戦にはできん」

 隊員たちが静かに話を聞いていた中、デニスがすっと手を挙げた。ディーボルト中尉が彼の方を見る。

「なんだ、ロルム軍曹」

「つまり、少数で占領しためちゃくちゃ強い遊牧民相手とこっそり戦って、こっそり国境をもとの状態に戻すのが今回の任務ってことですか? 無理では?」

「だからこそ優秀なお前たちが集められた。光栄に思え」

 ディーボルト中尉の言葉に、全員が眉をしかめつつも辺りを見回した。確かに隊員たちの憲章の色は六種類揃っている。第一部隊から第六部隊までの精鋭部隊というわけだ。
 ディーボルト中尉は続けた。

「出動は明日の朝。ひとまずゲルント駐屯地の手前にあるアッダ村に向かう。そこから様子を見て作戦を立てて取り返すーー何か質問は?」

 白い憲章ーー第二部隊の隊員が手を挙げた。

「作戦に参加するのはここにいる数十人だけですか。上官殿の方々は?」

 この問いにディーボルト中尉は言った。

「はっきりとは言えんが、シュルツ少将、ハネス中佐、ランクル少佐はすでにアッダ村にいると聞いている。リッツ大佐とヘルマン少尉が俺たちと一緒に明日発つ予定だ……あんまり上の方々が出向くとなると大事になる。皇帝陛下の意を汲んでのことだ。それもあって元帥殿は今回の指揮権をシュルツ少将に委ねてる。文句はないだろ?」

 隊員たちは少しざわついたが、納得したように頷いた。
 次に緑の憲章をつけた第五部隊の隊員が手を挙げた。

「表立った戦いじゃないってことは、今回の出動じゃ出世は期待できないってことですか?」

 的を得た質問に、隊員たち皆がディーボルト中尉の方を見た。
 中尉は肩をすくめた。

「その通り、位が上がることは期待できん。だが事を荒立てるなというのは皇帝陛下直々の頼み事だからな、その分報酬が並みじゃないと聞いてる。望めば帝国領土の一部ということもあり得る。もちろん活躍次第だがな」

 これには隊員たちから「おおー」と低い歓声が上がった。
 それからまたいくつか質問が上がったが、中尉は的確な答えを返していき、それも出つくされると、準備のために各隊に一旦解散となった。
 ディーボルト中尉は「いいか、明日の朝リープ橋のたもとだからな、遅れるなよー」と呼びかけた。彼らの背中を見送った後、広間の一番隅で柱の影に隠れるようにして立っている青年の方に足を向けた。

「おいトット准尉、なんだその面は」

「……別に。元々こんな顔ですよ」

 そう言われたイグナーツは明らかにぶすっとした表情をしていた。
 ディーボルト中尉は声をあげて笑った。

「しかたないか、恋人との面会日に急に開戦が決まったとなればそんな顔にもなる」

 イグナーツは俯いて「だから元々こんな顔だって言ってるでしょう、失礼な人だな」と呟いた。
 ディーボルト中尉は「はいはい、それはすまなかった」とにやにや笑いながらイグナーツの肩に手を置いた。

「せっかくリッツ大佐の屋敷に出向いたってのに、挨拶もそこそこに出てきたんだろ? 大いに同情はしてやる。まあ、同じ思いをしてる隊員は大勢いるんだ、早く帰りたかったら国境を取り戻すのに協力しろ……お前の馬は黒い毛のエルシーだ、厩舎の手前に用意しておいたからな」

「それは……どうもありがとうございます」

「街区見回りの任務表も調整しておいた。今月の支払いも窓口で受け取れるようになってる……あとは」

 ディーボルト中尉はにっと笑った。

「リッツ大佐がお呼びだ。さっきすれ違ったとき、お前に伝えるように言われた。大佐室に行ってこい」

「え……大佐室、ですか」

 イグナーツは怪訝そうな表情を浮かべた。

「そうだ。リッツ大佐は会議に出席してるが、日が暮れる頃には終わる。あんまり待たせると機嫌悪くなるからな。三階だぞ、ほらほら」

 ディーボルト中尉に追い立てられて、イグナーツは戸惑いながら広間を後にした。





 イグナーツは憂鬱な気持ちで小さなランプで照らされた暗い階段をのぼった。
 先ほど彼の屋敷で会ったときは出動命令の話の後には「すぐに本部へ向かえ」と言われただけで、ろくに話もしなかった。
 リッツ大佐から何を言われるのか、イグナーツはあれこれと考えた。特別な任務を与えられるのか。もしや出征が決まったからビアンカ嬢とのことは考え直せと言われるのだろうか。
 そもそもイグナーツは本部の大佐室に出向くのは初めてだった。自分の知っている限り、リッツ大佐は閉ざされた場所で内々に話すなんてことはしない。ところ構わずみんなの前で大声で話すのが彼なのだ。

 不安を募らせながらイグナーツが階段をのぼりきったとき、廊下の先にある大佐室の扉がガチャリと音を立てて開いた。

「おおトット准尉、ちょうどおでましだな」

 リッツ大佐がこちらを見てにっと笑った。あれ、この笑い方。イグナーツは一瞬だけ違和感を感じたが、すぐに「お待たせして申し訳ありません」と言いながら駆け寄った。

「いや、俺も今準備が終わったところだ」

 リッツ大佐がそう言ってバタンと扉をバタンと閉めた。手にはいくつか大きな鞄を持っている。イグナーツはおやと思った。

「あれ、出かけるんですか? 大佐のお部屋で話があるのでは?」

 リッツ大佐は「おいおい」と笑い声をあげた。

「俺とお前がこんなとこで何話すってんだ……さっさと戻るぞ」

「え? ど、どこへ?」

 イグナーツの問いに、リッツ大佐は部下の頭にぽんと手を置いた。

「俺の家に決まってるだろう」

 イグナーツはぽかんと上官を見上げた。リッツ大佐はにっと歯を出して笑っている。やはり何か違和感を感じる笑顔だとイグナーツは思った。
 しかし、リッツ大佐の方は青年が戸惑っていることにかまうことなく、彼を引きずりながら一階へ降りた。用意してあったらしい小さな馬車に、持っていた鞄をぽいぽいと放り投げる。そうしてイグナーツを御者席の隣に座らせると、自分は手綱を取って、馬を走らせた。
 イグナーツとリッツ大佐を乗せた馬車は、暗くなる頃に軍の本部を後にした。

 イグナーツはガタゴトと馬車に揺られながら恐る恐る隣の上官の方を見た。
 今、俺はどういう状況なんだ。あのリッツ大佐と一緒に馬車に乗っているのか? なんで?

「そう怯えるな、ねずみみてえじゃねえか」

 リッツ大佐は笑いながら言った。

「お前たち、まだ話の途中だっただろう。別れもそこそこに引き離しちまったんだから、ちゃんと話した方がいいと思ってな」

 上官の言葉にイグナーツは目を丸くさせた。俺とビアンカ嬢のことを慮ってくれたらしい。この人、そういう気遣いができるのか。
 イグナーツは俯きながら「ありがとうございます」と小さく礼を言った後、少し迷ってからもう一度大佐の方を見上げた。

「あのリッツ大佐、つかぬことをお聞きしますが……何かありましたか?」

 イグナーツの問いに、リッツ大佐ははっとした顔で一度隣に座る部下の顔を見た。
 すぐに前に向き直って手綱を握り直したが、少し眉尻を下げて「そうか、わかるか」と言った。
 イグナーツも上官と同じ方向を見ながら肩をすくめた。

「なんとなく。笑い方がいつもと違う気がしたので」

「お前のそういうとこ、ランクル少佐にそっくりだな。心理分析、だっけか」

「いや、あの人と一緒にされても困りますけど。俺はただ人の顔色を窺うのが得意なだけです」

 少佐は心理分析ができるというレベルじゃない、もはや人の心が読める。イグナーツの言葉にリッツ大佐は小さく笑ったが、今度の笑いはいつものような威勢がなかった。
 リッツ大佐は低い声で言った。

「ラデッツ国との国境が破られて、ゲルント駐屯地が占拠されたって聞いただろう。それと同時に訃報も来たんだ、エメリヒ・フェルザー中佐……俺の同期だ」

 イグナーツは思わず隣の上官の方を見た。大佐はまっすぐ前を見つめたままで表情を動かすことはなかった。

「いい奴だった。真面目で、俺のいい加減なところを叱ってくれる、誰もやりたがらんことを率先してやるような男だったーーゲルント駐屯地にいた隊員の話によれば、エメリヒが自分の身を犠牲にして、部下の連中を逃したらしい。そのおかげで被害は最小限で済んだって話だ」

 リッツ大佐の顔の正面はわからなかったが、横から見た彼の瞳が、馬車に乗っているからだろうか、少し揺れているように見えた。

「よく言われる言葉だが、戦場じゃいい奴ばっかり先に死んでいく。こればっかりはどうしようもないことなんだが……どうにもやるせなくてな」

 イグナーツは正面を向いて、しばらく沈黙していたが、「お悔やみ申し上げます」としか言えなかった。
 リッツ大佐はちらりと隣の部下を見て笑みを浮かべた。

「とにかくこれ以上の被害は出さんようにするのが、あいつへのせめてもの手向だ。今回の出動はお前にとって不本意だろうが、事態の収拾に協力してくれると助かる」

 ガタゴトという音に邪魔されながら聞こえるリッツ大佐の言葉は、イグナーツにはいつになく弱々しく聞こえた。
 イグナーツは正面を向いたまま「何言ってるんですか」とわざと呆れた声で言った。

「俺は軍人ですよ。やるべきことはやりますから。リッツ大佐は安心していつものごとくイノシシのように敵に突っ込んでください」

 リッツ大佐は「いつものイノシシのようにってお前」と隣の部下に視線を向けた。

「俺が毎回何も考えずに突っ込んでるみてえな言い方するじゃねえか」

「だって実際そうじゃないですか。レート戦のときのこと、俺は忘れてませんよ。あのときの後始末はほとんど俺とランクル少佐でやったんですからね」

「あ、だ、レ、レート戦のときゃ、仕方なかったんだよ……」

「ランクル少佐なんか、あれから“イノシシ抑え込み隊”を形成したんです。キーウィ戦のときには俺もその隊に選抜されました」

「な、キーウィ戦って……あっ、だからあの時お前、あの高台にいたのか! なんかちょうどいいとこにいるなとは思ったが」

「やっぱり気づいていなかったんですか、こちとら仕事が二倍に増えて無駄に体力使いましたよ。おかげで敵も味方も勢力を抑えるやり方を学べましたけどね」

 イグナーツの文句に、リッツ大佐は「わかったわかった、悪かった」と言ってから咳払いをした。それから小さく「へへっ」と笑った。

「俺は部下に恵まれてるってことか……ありがてえことだ、嫁にも何度もそう言われたよ」

 肩を揺らして笑うリッツ大佐の横顔は、もういつもの大佐だった。イグナーツはそのことに少しほっとした。
 それからしばらくガタゴトという馬車の音だけが響いていたが、突然リッツ大佐が沈黙を破った。

「お前、ビアンカを娶る気はあるのか」

 急に来た。イグナーツは直球の質問にどきりとしたが、上官から顔が見えないように逸らしながら「そ、そそそりゃ、そ、そその」と一生懸命言葉を紡いだ。

「の、のの、望んでく、くださっているので、俺でよければと……で、でもその」

 俯きながらイグナーツは言った。

「こ、今回の戦争の話が来て……あの人がやっぱり軍人の妻になるなんて嫌になったんじゃないかなって思って……も、もし俺が死んだら」

「本気でそう思ってんのか?」

 リッツ大佐はイグナーツにちらと一瞥をくれてからすぐに前を向いた。

「お前、あの娘のことなんにもわかっちゃいねえな」

 そう言われてイグナーツはぐっと口を結んだ。しょうがないじゃないか、そんなに何度も顔を合わせてるわけでもないのに。

「まあ、直接会って自分で確かめろ。多少羽目をはずしたって目をつぶってやる」

 イグナーツは目を丸くさせて隣の上官を見た。

「俺……てっきりリッツ大佐が難問というか、試練をふっかけてくるかと思ってました。腕立ての筋トレとか」

 リッツ大佐は「なに?」と片眉を上げた。

「腕立てをやりたいならいくらでもやってもらうぞ」

「えっ、いや! け、結構です、全然やりたくありません」

「そんなに嫌がるなよ」

 ぶんぶんと首を振るイグナーツに、リッツ大佐はひとしきり笑った。それから前を向いたまま「ビアンカはな」と続けた。

「あの娘は最初からお前の妻になりたいと言って俺に相談してきたんだ。元帥殿とか大将殿とかその辺りとは前から彼女も面識があったようだが、わざわざ話したこともない俺の元を訪ねてきたんだぞ。どうやって軍の内部を調べたのか知らんが、とにかく俺がお前に目をかけてることを突き止めてたってことだ。大した娘だ」

 リッツ大佐は馬車のスピードを少し落とした。どうやら屋敷が近づいてきたらしい。

「最初はあの侯爵の娘だから警戒したが、ビアンカが望んだのはほんとうにお前だけだった。家はない、借金はある、平民だからこれ以上の出世は期待できない軍人の妻になりたいなんざ酔狂がすぎるだろ。それがおもしろいから養女に迎えたってわけだ」

リッツ大佐はちらとイグナーツの方を見た。

「ビアンカはお前に本気だぜ。わざわざ俺を探し出して協力してくれって頼んできたんだ、邪魔するつもりは毛頭ない。まあ、お前にあの娘を妻にする度胸があればって話だけどな」

 イグナーツはじっと大佐を見つめた。冗談めかして言っているが、この人はほんとうに俺のことを考えてくれている。
 先ほどリッツ大佐は部下に恵まれたと言っていたが、自分こそ良い上官に恵まれたとイグナーツは思った。この人が義理の父親になるということが今日の昼間まであんなに信じられなかったのに。

「大佐」

 イグナーツは上着のポケットに手を伸ばしながら言った。

「その、ひとつ、お許し願いたいことがあります」






 イグナーツとリッツ大佐を乗せた馬車は屋敷の前で止まった。すぐに厩番らしい男が「おかえりなせえ」と言いながら駆け寄ってくる。
 大佐は彼に手綱を預けると鞄を持って、部下を引き連れて屋敷に入った。

 ロビーで待ち構えていたリッツ夫人は、夫をちらと見ただけで前をすっと通り過ぎると、まっすぐにイグナーツの元へ歩み寄った。そしてがしっと青年の腕を掴むと「こちらへ」と言って、「え? あ、あの」と言って戸惑いの声を上げるイグナーツをぐいぐいと引っ張りながら二階の階段を上がっていった。リッツ大佐が「トット准尉、明日遅れるなよ」と後ろから言った言葉に、「は、はいっ」と返すだけで精一杯だった。

 夫人は無言で廊下をずんずん歩いていった。イグナーツも転びそうになりながら必死でついていく。
 ある部屋の扉の前まで来ると、夫人は立ち止まってトントントンと叩いた。

「ビアンカ、いらしたわよ」

 夫人の言葉に、イグナーツはこの目の前の部屋がビアンカ嬢の部屋であることを知った。心の準備をする暇もなかったと焦っていると、中から「どうぞ」と彼女の声がした。
 リッツ夫人はガチャリと開けた。そしてすぐにイグナーツを中へ押し込んで「どうぞごゆっくり」と言うと、イグナーツが「え、ちょ」と引き留めようとするのも聞かずにバタンと音を立てて扉を閉めてしまった。

「イグナーツ様、二度もご足労いただき申し訳ございません」

 後ろからビアンカ嬢の声がして、イグナーツは慌てて振り返り、さっと帽子に手をやった。

「こ、こちらこそ何度も押しかけてしまって」

 ビアンカ嬢の部屋には、たくさんの本棚に洋服たんすがずらりと並んでいた。真ん中には客用の椅子が二つある。部屋は広く、奥には書き物机やベッド、衝立などがあるのが見えた。全体的に薄緑色で統一されていて、いかにも洗練された感じがした。
 ビアンカ嬢は昼間とは違うワンピースを着ていた。わざわざ着替えたのだろうか。イグナーツは自分がずっと同じ軍服を着ていることに少し恥ずかしくなって俯いた。

「どうぞこちらにお座りになってください」

「ど、どうも……」

 ビアンカ嬢の言葉に従ってイグナーツは彼女と向かい合って椅子に座った。
 相変わらず彼女の背筋はピンと伸びているので、イグナーツも自然と姿勢を正す。

「ユルゲン様の出動は明日と聞きました。イグナーツ様も同じですか?」

 ビアンカ嬢が尋ねたのに、イグナーツは「は、はい」と頷いた。

「精鋭部隊として明日の朝、国境付近のアッダ村に発つことになりました」

「そうですか」

 そう言ったビアンカ嬢は悲しみを隠すように薄い笑みを浮かべた。
 ビアンカ嬢がそれきり何も言わないので、二人の間に沈黙が流れる。
 イグナーツは膝の上の拳をぎゅっと握った。言わなければならない、言うんだ。

「ビアンカ嬢……お、お話があります」

 イグナーツは声が震えないように気をつけながら彼女の方をまっすぐ見て言った。

「あの、お、俺は今日の昼、自分が軍人だからだめだと一度あなたの申し出を断りました。あなたには俺の妻にならない方がいいと言いました。今回の出動で、ほんとうなら、俺のことは忘れてくれと言うのが正しいということはわかっています……ですが」

 イグナーツは両手を膝について頭をガバッと下げた。

「もし、もしもまだ俺に同情してくださるというのなら、ビアンカ嬢、どうかお、俺のおお、奥方様になってください」

 ビアンカ嬢が「えっ」と小さく驚きの声を漏らす声が聞こえる。イグナーツは頭を下げたまま続けた。

「じ、自分勝手なことを言っていることは百も承知です。今更何を言い出すかと笑ってくださってかまいません」

「イグナーツ様、そ、その、誰かに、何か言われましたの? 無理にそんな……」

「そんなんじゃありません」

 イグナーツは下を向いたまま首を振った。

「そんなんじゃないんです……これから出動と聞いた時、その、正直に申しますと、俺は、初めてい、嫌だと思いました。初めてです。今まで戦争というものは俺にとって大したものではなかったし、訓練の成果を出す場くらいにしか思っていませんでした。だけど、あなたに二度と会うことができなくなるかもしれない、そんな可能性もあると考えた時、目の前が真っ暗になりました。俺、は、あなたに言ってないから……俺は、どうしようもなく、あ、あなたがす、す、すす、き、なん、です」

 イグナーツは声が震えてしまうのにくそ、と心の中で舌打ちした。自分の心の内を話すのにはこんなに勇気がいるものなのかと思い知る。先ほどから顔が焼けるように熱い。
 膝の上の拳に力を入れて息を吸うとイグナーツは続けた。

「ひ、卑怯な男だと、どうぞ罵ってください。でも俺は出征する前に……あなたに正直な気持ちを言わずにはい、いられなかった。あなたを困らせてしまっていたら申し訳ありません。この通り、お詫びいたします。そ、その、気分を悪くされていたら、戦地へ行く前の軍人の戯言と思ってわ、忘れてください」

 目をぎゅっと瞑ったままイグナーツは捲し立てるようにして一気に言ったが、最後の方はもうすっかり自信がなくなってしまった。だめだなあ俺も。こんな言い方しかできないなんて。
 イグナーツの謝罪の後は沈黙が流れた。
 どうしよう、やっぱり直前にこんなことを言われて困ってるんじゃないだろうか。彼女のために別れ話を言うべきだったか。

 イグナーツが不安を募らせていると、向かいに座るビアンカ嬢の方から「ふっ」と息が漏れる声がした。思わず顔を上げると、彼女は口元に片手を当てて下を向いていた。
 昼間のときもそうだったが、これは彼女の何かしらの感情を抑えるときのしぐさらしい。しかしその表情からは怒っているのか、悲しんでいるのか全くわからなかった。
 口を覆ったビアンカ嬢はくぐもった声で「戯言になんかさせません」と呟くように言った。そしてイグナーツが言葉を返すよりも早く立ち上がると、あっという間に向かいに座るイグナーツの首に両腕を回し、彼にもたれかかるようにしてぎゅっと抱きしめた。花の香りがイグナーツの鼻をかすめる。

「わわっ! ちょちょ、ビ、ままま、まって……!」

「嫌ですわ、もう離しません」

 イグナーツの耳元でビアンカ嬢の声が降りかかってきたのにイグナーツは身体を硬直させた。
 まずいまずいまずい、これでは全力疾走しているような心臓の音がばっちり聞こえてしまう。
 まずは息を、息をしなければとイグナーツは混乱しながらも深呼吸をしようとしたとき、ふと彼女がくすんくすんと鼻をすすっていることに気づいた。あれ、泣いているのか?
 ビアンカ嬢は彼の首に腕を回したままの体勢で言った。

「どうしようもなくあなたが好きなのは、私の方ですわ……出動の前に言ってくださってよかった。私の一方的な想いではなく、あなたの無事を恋人として祈ることができるんですもの。これほど……これほど嬉しいことはありませんわ」

 ビアンカ嬢の言葉に、イグナーツは目を見張り、心臓をぎゅっとつかまれたような感覚になった。
 彼女の一方的な想いだなんて、とんでもない。ビアンカ嬢がこちらを認識していないときから自分は彼女に釘づけだったのだから。
 しかし哀しいかな、この状態ではイグナーツはまともに言葉を発することもできなかった。

「あ、あ、ああああのあの」

 くそ、口を開くと動揺が表に出る。イグナーツはぎゅっと目を瞑りながら一生懸命言った。

「おね、お願いです、はな、離れてください、これじゃ、お、俺はまともには、話せない……!」

 イグナーツの必死の頼みに、ビアンカ嬢はしばらく動かなかったが、やがて名残惜しそうにしながらも「失礼しました」とやっと身体を離した。しかし彼女は向かいの椅子には戻らず、イグナーツのすぐ隣に腰を下ろした。
 え、そこに座るのか。イグナーツは少しだけ身を引かせて「す、すいません」と言った。

「奥方様になってくれと頼んでいるのに離れろだなんておかしなことを言う、とお思いでしょう。で、でもあなたの前だとどうしても緊張してしまって……申し訳ありません」

「嫌われていないのであればかまいませんわ」とビアンカ嬢は言った。

「私の方こそ、いきなりすいませんでした。あんまり嬉しかったので……お戻りになる頃には、奥方になる準備も済ませておくようにいたします。1日も早いお帰りをお待ちしておりますわ」

 ああ、そうだ。これから彼女とはしばらく会えなくなる。
 イグナーツは上着の内ポケットを探った。

「そ、その、こ、これを……」

 彼がビアンカ嬢に差し出したのは、以前彼女に見せたことのある小銃用の長い弾だった。
 ビアンカ嬢は「この弾丸は」と目を丸くさせた。

「で、でも、これは、軍に所属している方だけしか持ってはいけないと」

「はい。だからさっきリッツ大佐から許可を取りました。中の火薬は抜いてあるので害はありません」

 ビアンカ嬢は弾丸を受け取ると、手の平に乗せてしげしげと眺めてからぎゅっと握った。

「ありがとうございます……でもどうして? 私が欲しいと言ったのを覚えていてくださったのですか」

 イグナーツは「そ、それもありますけど」と言って顔を逸らして言った。

「あ、あなたに持っていてもらいたかったから。俺はあなたからハンカチをもらったので、俺の持っている何かを渡せればと思っていたんです。でも、それ以外に渡せるものが何もなくて……」

 ビアンカ嬢は彼の赤い横顔を見ながら目を細めた。

「こんな時期の貴重な弾だというのに。ありがとうございます……私も戦地までお供できたらよかったのに」

 ビアンカ嬢がぽつりと呟いたのにイグナーツはぐるりと振り向いて「え? それはだめですからね」と怖い顔をして言った。

「約束しましたよね、ビアンカ嬢。前にも言いましたが訓練も受けていないのに戦地なんかに来てはいけませんからね、絶対に守ってくださいよ」

 しつこく言うイグナーツに、ビアンカ嬢はくすりと笑ってから「わかっています」と答えた。

「実はユルゲン様にも止められましたの。今回はとくに戦地の状況が把握できていないから来てはいけないと、ドロテア様にもおっしゃっていましたわ」

 リッツ大佐がこういうときにまともに判断できる人でほんとうによかった。
 イグナーツはほっと胸を撫で下ろしたが、ふとビアンカ嬢の手が震えているのが目に入った。あれ、どうしたんだろう。
 ビアンカ嬢はイグナーツの視線に気づくと、自分で自分の手を握って震えを抑えようとした。そして「私、実はとても臆病なんですの」と苦笑いを浮かべた。

「ごめんなさい。行ってはいけないと言われるような危険なところに、イグナーツ様が明日から行かれるのかと思うと、とても……とても怖いのです。もちろんイグナーツ様は腕の立つ方ですから、無事に戻られると信じています。ですが、どうしてもーーだめですわね、軍人の妻になりたいと言っておいて、ちっとも覚悟ができていないんですわ」

 そう言ったビアンカ嬢の目は潤み、今にも泣き崩れそうな顔だった。夜会でも見たことのない表情に、イグナーツは驚き、そしてこんな顔をさせているのは他でもない自分だという事実に狼狽した。覚悟なんて。
 恥ずかしいと思う気持ちよりも彼女を泣かせたくないと気持ちが勝り、イグナーツは思わず目の前にある彼女の手を両手でぎゅっと握った。

「すみません、ビアンカ嬢」

 イグナーツはこちらを見るビアンカ嬢と目を合わせて言った。

「俺は帰ってきますよ。覚悟なんてたやすくできるもんじゃありません。確かに俺はさっき、今回の出動であなたに会えなくなったらと言いましたが、帰ってくる理由ができたんですから、絶対に、それも全速力で帰ってきます。それに……それに、しょ、しょしょ、初夜だってまだなんです、死んでなんかいられませんよ」

 赤い顔で冗談めかして言うイグナーツに、ビアンカ嬢は目を丸くさせたが、「そうですわね」と小さな声で言った。

「帰ってきたらあなた様の奥方になれるのですね。楽しみにしていますわ」

 そう言った彼女の微笑みが愛らしくて、さらに潤んでいた目のせいか艶麗に見えて、イグナーツはますます顔を赤くさせた。彼女の手を握っている自分の手に汗がぶわっとわくのがわかる。どうしよう、でもこの際だ、言ってしまおうか。
 イグナーツは目をぎゅっと瞑って「あ、あの、ビアンカ嬢」と言った。

「しょ、初夜は帰ってきてからですが、そ、その、その、一度だけでいいので、あなたにそ、その、キ、キ、キ…………」

 イグナーツは結局その先が言えず、脱力してしまった。しかしビアンカ嬢はふふっと笑ってから「キスをしてくださいな、イグナーツ様」と言った。

「してくださったら、私も頑張れますもの。無事に帰ってくるおまじないにもなりますわ。いいでしょう?」

 ビアンカ嬢の言葉に、イグナーツはもうこくこくと頷くことしかできなかった。そうして彼女の手を握ったまま、恐る恐る顔を近づけていく。
 唇が重なった瞬間、幸福感と恥ずかしさで目を開けていられなくなり、ぎゅっと目を瞑った。するとすん、と花の香りがイグナーツの鼻をかすめた。その途端に腰から力が抜けそうになったので、慌ててすぐに身を離す。
 やっぱり危なかった。下手をしたら昇天してしまうところだった。もしかして香水に媚薬まがいのものを入れてたりするのか?
 イグナーツが失礼なことを考えながら目を開けると、ビアンカ嬢は頬を染めてこちらをみて微笑んでいた。こんな愛らしい人とキスをしてしまったのか俺は。
 ビアンカ嬢は言った。

「イグナーツ様っていつもいい匂いがしますのね。無礼を承知で申し上げますが、香水に何か惚れ薬みたいなものを仕込んでたりするのかしら」

 イグナーツは汗だくの片手で目元を覆うと、「そんなの……もう、そのままお返ししますよ」と熱いため息を吐きながら言った。







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