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25 東京での日々
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1人で過ごす時間、平日は変わらない。
ただランチタイムにどの席にいても萩原さんの姿が見えない。
南田さんは相変わらずなのに、その隣に静かに存在していた萩原さんだけが消えていない。
私の視線は彷徨う。
誰もがその不在を当たり前に受け止めていると私の見ていた景色が間違っていたのかと思うくらいに。
週末も忙しいらしい。夜も遅くメールが時々来るけど素っ気なく短い。
疲れてるんだろうと思いながらも最初は恨めしく、でも最近は心配を通り越して不安になってきた。
3週も経った頃、午後にいつものように仕事をしていた。
今週で終わって帰ってくる予定だと聞いていたけど具体的なメールもない。
ぼんやりと考えそうになる時は仕事をするに限る。
集中集中。
「琴ってば。」
ふいに呼ばれて視線を横に向ける。
「ねえ、すっごい顔して仕事してるけど・・・」
「へ、そう。・・・早く終わらせたくて頑張ってる。」
「何?今日予定あるの?」
「ううん。別にないけど。」
「そう。それよりあのね、さっき休憩室通った時に聞こえたニュースあるの、聞きたいでしょ?」
もう話したくて仕方ないらしい。無邪気な顔がかわいくて聞いてやることにした。
「何?教えて。」
「もうすっごく驚くよ。うふふ。」
思わせぶりすぎてちょっと・・・・イライラする。
心に余裕のない最近の私。
そんな心を上手に隠して話の続きを促す。
「クールな営業部の萩原さんの初ゴシップ。」
ひそひそと声を落とす。
「・・・・・・。」
何?
表情を押さえて首をかしげるにとどめる。
「どうやら大阪に彼女がいたらしくて、いよいよ結婚にこぎつけたらしいって話。」
血のひく音があるなら、今自分の中に流れた音かもしれない。
叫びだしたい口を押えて顔色悪くなった顔と抜け落ちた表情を両手で隠して聞き直す。
「いきなり、本当?・・・そんな話?」
「うん、南田さんも否定してないみたい。例の噂はやっぱり噂だったみたいだけど。」
そんなはずはない、信じられない。そんな気配全くなかった。
大阪に行くあの日までそんなこと疑いもしなかった。
でも最近は・・・・・。
「もっと詳しく後で聞いてくる、続報こうご期待。」
私の内心のパニックは上手に隠せていたのだろうか?
声に出てなくてよかった。ショックで声も出ないけど。
ふらりとパソコンに向き直る。
さっきまですさまじいスピードでキーボードを動いていた指は震えてしまって・・・。
携帯を見ても新しい着信などないみたい。
震える指で最近のメッセージを表示させてみる。
心変わり・・・・・・。
素っ気ないメッセージが並ぶ画面。
それでも大切だから、ポケットに落とし資料をにらむ。
力を入れないと泣きそうで。指の震えが肩にきそう。
もう、無理。
ゆっくりと席を立ちトイレに行く。
ただ先客がいて、もれてくる声があった。
私にとっては残酷過ぎる話題。
そこでも同じ噂をする女性社員がいた。入ってはいけない。
ゆっくりと、でも着実にその話は会社に広まっているらしい。
そのままトイレには入れずに何かに押されるように歩いていく。
噂から背を向けるように廊下の端に行き非常階段に出る。
背後で重いドアが閉まった途端に、心の中で何かが音を立てて崩れる。
代わりに自分の口から音が出た。
声にならない嗚咽。
ずるずると背中を壁に預けたまま座り込む。
涙が落ちる下を向いてそのまま泣いた。
それでもなんとか嗚咽はとまる。
ただ喪失感は心を飛び出して全身を支配する。
あの手に触れられない、体のいろんな場所で感じた暖かさや優しさも、もう2度と私は触れることができない。
意地悪な笑顔も、大好きなクールな顔も、2度と私に向くことはない。
本当なの? 噂じゃなくて萩原さんの口から聞きたい?
でも、もし肯定されて、そんな決定的なこと聞いたら・・・・。
きっと私の心は死んでしまう。
誰も知らない関係だもの、このまま静かに私が忘れればいい・・・・・。
何もなかったあの頃に、戻るだけ。
それでも想像するだけで全身が拒否するように震える。
顔がひどいかもしれない。席に戻る前にトイレに行かなきゃ。
立ち上がりたくても背中が壁から離れない。
まだ体が震えているのがわかる。
どうせ仕事はできない。
下から人が上ってくる足音がした。
滅多に人は来ないと思ってたのに。
もっと上の階の人かもしれない。
その足音が私の前で止まりしゃがみこんできた。
ほっといて欲しいのに。
「あの、大丈夫? 相川さんだよね?」
同じ会社の人らしい。顔を上げる勇気がなく、うなずく。
「気分悪いの?大丈夫?誰か呼ぼうか?」
軽く震える体をゆっくり触られる。
首を振り何とか声を出す。
「大丈夫です、少しめまいがして。あの・・・少し休んだら行けると思いますので。」
せっかく声をかけてくれたのに失礼かとは思うが上手く取り繕う余裕もなく。
それでもその人は親切に声をかけてくる。
「今、あったかい飲み物を買ってくるから待ってて。」
非常ドアを開けて明るい廊下に消えていく影。
誰なのか、相変わらず分からない。
大きく呼吸する。震えも落ち着いてきた。
少し背中を浮かせる。何とか立ち上がれそう。
ゆっくり立ち上がると非常ドアが開き、手にカフェオレを持った男性が姿を現した。
「あ、少し大丈夫になった?」
「すみません。ありがとうございます。」
差し出されたカフェオレを受け取る。
口にして甘い暖かさを感じる。
改めてお礼をと思ってみても、顔はなんとなくわかるけど名前は覚えてない
こちらの考えを読んだのか名刺を差し出される。
「初めまして、よくある名前の鈴木です。喋ったことはないけど割と近くの課です。」
「すみません。お顔はわかるんですが、お名前までは・・・。」
紙コップを手にしたまま謝罪する。
「冗談だよ、僕は知ってたけど。あんまり接点もないしね。」
改めて名刺を見る。『鈴木 博光』さん。
鈴木さんの手にはブランケットがかけられているのに気がついた。
鈴木さんが私の視線を追って慌てる。
「震えてるようだったから、隣の人から借りてきたんだけど、大丈夫?」
先ほどから暖かい飲み物と親切な人の笑顔を見てるのに、心には冷たい風が吹いている。
それでも体の震えはどうにか抑えられている。
「はい、大丈夫になりました。飲み物で大分と指先から温かくなりました。」
「そう、良かった。」
「はい、ごちそうさまでした。あの、あとでお金を・・・・・。」
「え、そんなのいいよ、勿論。」
「じゃあ、大丈夫そうなら僕は先に戻った方がいいよね、また。」
そういうとブランケットを手にしたまま戻っていった。
もう一度大きく呼吸する。見るでもなく携帯は静かなまま。
カフェオレを飲みトイレに寄る。
誰もいなくて、聞きたくない話も聞こえない。
鏡で顔を見る。
化粧が落ちてる。もともと作りこんではいないが明らかに泣いた跡。
鈴木さん気づいたよね、さっき。
でも非常階段も暗かったから気づいてないかも。
化粧品は持って来てないのでそのまま席に戻る。
下を向いたまま着席して仕事の続きをする。
とても集中できない。
それでもさっきのさっきまで集中してたので残業もなく終われた。
なにかから逃げるように会社から出た。
ぼんやり電車に揺られる。通いなれた萩原さんの部屋の最寄り駅。
きつく目を閉じて通り過ぎる。
これから毎日毎日こうして目を閉じて通り過ぎなきゃならないんだろうか?
自分の駅で降りて部屋へ。
戻ってきた自分だけの場所にも萩原さんのかけらがある。
一気に窓を開けて空気を入れ替える。
お風呂にお湯を張りお気に入りのバスキューブを入れる。
ゆっくり泡が立ってお湯が濁る。
ぼんやり見てたらあとからあとから涙が出てきた。
どうして・・・・・、もうどうしようもない事なのに。
どこかで萩原さんが否定してくれるのを期待してる自分。
だって南田さんとのことだって、数年にわたって噂になってるけど全くの事実無根だし。
明日になったら香が『あの話全くのでたらめだって』って新しい話を仕入れてくるかもしれないじゃない。
お風呂で泣きタオルを目に当てたまましばらく過ごし、寝た。
萩原さんからの電話で起こされることもない。
目が覚める度に枕元の携帯を見ても着信の点滅がない。
そんな空っぽ過ぎる行動を何度か繰り返し、朝になった。
鏡に映ったのは正直ひどい顔だった。
食欲もない。
歯磨きだけして電車に乗る。最初っから目を閉じていた。
そうしていつの間にかやり過ごした気になって目を開ける。
つかまったポールに焦点が合うと、いつも一緒に乗った時の記憶が浮かんでくる。
映像よりも体が覚えてる暖かさや守られてる安心感。
目を閉じても体が勝手に思い出すなんて、それは厄介な記憶でしかなく私を苦しめる。
軽く周囲の人に挨拶をしてさっさと仕事を始める。
はたから見れば今日も早く帰りたいオーラ全開かもしれない。
とにかく何かをしていないと耐えられない。
「おはよう、琴。」
「おはよう、香。」
香がちょっと不思議そうな顔をする。
向けられたのは探るような視線。聞きたそうで聞けないような。
私は何も気付かないように振舞い視線を外す。
今は香のデリケートさに救われた。
昨日あんなニュースを持ってきて、私がこっそり号泣してたなんて思いもしないだろう。
知ってたら真っ先に気を遣って噂が私の耳に入らないようにしてくれるか、先に萩原さんに確認するように教えてくれただろう。
何とか午前中をやり過ごす。
お昼、ランチタイムにいつものように席を取って目の前のメニューを見る。
自分で頼んだものだけど全く食欲がない。
今日は4人でランチ。こっそり残そう。
夜に久しぶりに友達に会って食事の予定があるから控えてると言えばいい。
「ねえねえ、聞いた?あの噂。」
もしかしてとは思ったけどやっぱり、今ホットな話題はそれしかないだろう。
ここで席を立つわけにもいかない。
「うん、取引相手のお嬢さんだって聞いたけど?」
「そうなのかな?最初遠距離してたって聞いたけど。昨日報告に戻ってきたらしいじゃない。一応取引相手だから上司に報告を済ませたって話。」
昨日・・・・戻ってきてたの?
知らない。そんな・・・。少しも知らない。
ゆっくり息をして口の中のものを飲み込む。
「つまんないなあ~、またいい男が一人、誰かのものに・・・・。」
香がつぶやく。
「ラブラブな癖に何言ってんだか。」
人のセリフに乗っかり、一生懸命に表情を作って香に笑いかける。
無言すぎるのもおかしいから。
それでもさっきから耐えられないくらいの衝撃に体が震えそうだった。
これ以上は無理。
叫びそうな心を隠して立ち上がる。
「ごめん、ちょっと昨日から気分悪くて。ちょっと先に行く。」
「片付けとくからいいよ。」
香の心配顔に甘えて歩き出す。
トイレはダメ。また非常階段へ出る。
まったく同じように背中を壁に預けて小さく体を折りたたむ。
叫びはどうにか体の中へ。
押し込んだ叫びが悲しみとともに体中を駆け巡る。
昨日近くにいたの?・・・・・知らない。
一言も教えてもらえない存在の私。
萩原さんにとってはそんな存在になってしまったってこと?
今悲しみが絶望に変化して私を包んだ。
それは本人に確認するまでもなくどうしようもない決定的な事実だった。
ただランチタイムにどの席にいても萩原さんの姿が見えない。
南田さんは相変わらずなのに、その隣に静かに存在していた萩原さんだけが消えていない。
私の視線は彷徨う。
誰もがその不在を当たり前に受け止めていると私の見ていた景色が間違っていたのかと思うくらいに。
週末も忙しいらしい。夜も遅くメールが時々来るけど素っ気なく短い。
疲れてるんだろうと思いながらも最初は恨めしく、でも最近は心配を通り越して不安になってきた。
3週も経った頃、午後にいつものように仕事をしていた。
今週で終わって帰ってくる予定だと聞いていたけど具体的なメールもない。
ぼんやりと考えそうになる時は仕事をするに限る。
集中集中。
「琴ってば。」
ふいに呼ばれて視線を横に向ける。
「ねえ、すっごい顔して仕事してるけど・・・」
「へ、そう。・・・早く終わらせたくて頑張ってる。」
「何?今日予定あるの?」
「ううん。別にないけど。」
「そう。それよりあのね、さっき休憩室通った時に聞こえたニュースあるの、聞きたいでしょ?」
もう話したくて仕方ないらしい。無邪気な顔がかわいくて聞いてやることにした。
「何?教えて。」
「もうすっごく驚くよ。うふふ。」
思わせぶりすぎてちょっと・・・・イライラする。
心に余裕のない最近の私。
そんな心を上手に隠して話の続きを促す。
「クールな営業部の萩原さんの初ゴシップ。」
ひそひそと声を落とす。
「・・・・・・。」
何?
表情を押さえて首をかしげるにとどめる。
「どうやら大阪に彼女がいたらしくて、いよいよ結婚にこぎつけたらしいって話。」
血のひく音があるなら、今自分の中に流れた音かもしれない。
叫びだしたい口を押えて顔色悪くなった顔と抜け落ちた表情を両手で隠して聞き直す。
「いきなり、本当?・・・そんな話?」
「うん、南田さんも否定してないみたい。例の噂はやっぱり噂だったみたいだけど。」
そんなはずはない、信じられない。そんな気配全くなかった。
大阪に行くあの日までそんなこと疑いもしなかった。
でも最近は・・・・・。
「もっと詳しく後で聞いてくる、続報こうご期待。」
私の内心のパニックは上手に隠せていたのだろうか?
声に出てなくてよかった。ショックで声も出ないけど。
ふらりとパソコンに向き直る。
さっきまですさまじいスピードでキーボードを動いていた指は震えてしまって・・・。
携帯を見ても新しい着信などないみたい。
震える指で最近のメッセージを表示させてみる。
心変わり・・・・・・。
素っ気ないメッセージが並ぶ画面。
それでも大切だから、ポケットに落とし資料をにらむ。
力を入れないと泣きそうで。指の震えが肩にきそう。
もう、無理。
ゆっくりと席を立ちトイレに行く。
ただ先客がいて、もれてくる声があった。
私にとっては残酷過ぎる話題。
そこでも同じ噂をする女性社員がいた。入ってはいけない。
ゆっくりと、でも着実にその話は会社に広まっているらしい。
そのままトイレには入れずに何かに押されるように歩いていく。
噂から背を向けるように廊下の端に行き非常階段に出る。
背後で重いドアが閉まった途端に、心の中で何かが音を立てて崩れる。
代わりに自分の口から音が出た。
声にならない嗚咽。
ずるずると背中を壁に預けたまま座り込む。
涙が落ちる下を向いてそのまま泣いた。
それでもなんとか嗚咽はとまる。
ただ喪失感は心を飛び出して全身を支配する。
あの手に触れられない、体のいろんな場所で感じた暖かさや優しさも、もう2度と私は触れることができない。
意地悪な笑顔も、大好きなクールな顔も、2度と私に向くことはない。
本当なの? 噂じゃなくて萩原さんの口から聞きたい?
でも、もし肯定されて、そんな決定的なこと聞いたら・・・・。
きっと私の心は死んでしまう。
誰も知らない関係だもの、このまま静かに私が忘れればいい・・・・・。
何もなかったあの頃に、戻るだけ。
それでも想像するだけで全身が拒否するように震える。
顔がひどいかもしれない。席に戻る前にトイレに行かなきゃ。
立ち上がりたくても背中が壁から離れない。
まだ体が震えているのがわかる。
どうせ仕事はできない。
下から人が上ってくる足音がした。
滅多に人は来ないと思ってたのに。
もっと上の階の人かもしれない。
その足音が私の前で止まりしゃがみこんできた。
ほっといて欲しいのに。
「あの、大丈夫? 相川さんだよね?」
同じ会社の人らしい。顔を上げる勇気がなく、うなずく。
「気分悪いの?大丈夫?誰か呼ぼうか?」
軽く震える体をゆっくり触られる。
首を振り何とか声を出す。
「大丈夫です、少しめまいがして。あの・・・少し休んだら行けると思いますので。」
せっかく声をかけてくれたのに失礼かとは思うが上手く取り繕う余裕もなく。
それでもその人は親切に声をかけてくる。
「今、あったかい飲み物を買ってくるから待ってて。」
非常ドアを開けて明るい廊下に消えていく影。
誰なのか、相変わらず分からない。
大きく呼吸する。震えも落ち着いてきた。
少し背中を浮かせる。何とか立ち上がれそう。
ゆっくり立ち上がると非常ドアが開き、手にカフェオレを持った男性が姿を現した。
「あ、少し大丈夫になった?」
「すみません。ありがとうございます。」
差し出されたカフェオレを受け取る。
口にして甘い暖かさを感じる。
改めてお礼をと思ってみても、顔はなんとなくわかるけど名前は覚えてない
こちらの考えを読んだのか名刺を差し出される。
「初めまして、よくある名前の鈴木です。喋ったことはないけど割と近くの課です。」
「すみません。お顔はわかるんですが、お名前までは・・・。」
紙コップを手にしたまま謝罪する。
「冗談だよ、僕は知ってたけど。あんまり接点もないしね。」
改めて名刺を見る。『鈴木 博光』さん。
鈴木さんの手にはブランケットがかけられているのに気がついた。
鈴木さんが私の視線を追って慌てる。
「震えてるようだったから、隣の人から借りてきたんだけど、大丈夫?」
先ほどから暖かい飲み物と親切な人の笑顔を見てるのに、心には冷たい風が吹いている。
それでも体の震えはどうにか抑えられている。
「はい、大丈夫になりました。飲み物で大分と指先から温かくなりました。」
「そう、良かった。」
「はい、ごちそうさまでした。あの、あとでお金を・・・・・。」
「え、そんなのいいよ、勿論。」
「じゃあ、大丈夫そうなら僕は先に戻った方がいいよね、また。」
そういうとブランケットを手にしたまま戻っていった。
もう一度大きく呼吸する。見るでもなく携帯は静かなまま。
カフェオレを飲みトイレに寄る。
誰もいなくて、聞きたくない話も聞こえない。
鏡で顔を見る。
化粧が落ちてる。もともと作りこんではいないが明らかに泣いた跡。
鈴木さん気づいたよね、さっき。
でも非常階段も暗かったから気づいてないかも。
化粧品は持って来てないのでそのまま席に戻る。
下を向いたまま着席して仕事の続きをする。
とても集中できない。
それでもさっきのさっきまで集中してたので残業もなく終われた。
なにかから逃げるように会社から出た。
ぼんやり電車に揺られる。通いなれた萩原さんの部屋の最寄り駅。
きつく目を閉じて通り過ぎる。
これから毎日毎日こうして目を閉じて通り過ぎなきゃならないんだろうか?
自分の駅で降りて部屋へ。
戻ってきた自分だけの場所にも萩原さんのかけらがある。
一気に窓を開けて空気を入れ替える。
お風呂にお湯を張りお気に入りのバスキューブを入れる。
ゆっくり泡が立ってお湯が濁る。
ぼんやり見てたらあとからあとから涙が出てきた。
どうして・・・・・、もうどうしようもない事なのに。
どこかで萩原さんが否定してくれるのを期待してる自分。
だって南田さんとのことだって、数年にわたって噂になってるけど全くの事実無根だし。
明日になったら香が『あの話全くのでたらめだって』って新しい話を仕入れてくるかもしれないじゃない。
お風呂で泣きタオルを目に当てたまましばらく過ごし、寝た。
萩原さんからの電話で起こされることもない。
目が覚める度に枕元の携帯を見ても着信の点滅がない。
そんな空っぽ過ぎる行動を何度か繰り返し、朝になった。
鏡に映ったのは正直ひどい顔だった。
食欲もない。
歯磨きだけして電車に乗る。最初っから目を閉じていた。
そうしていつの間にかやり過ごした気になって目を開ける。
つかまったポールに焦点が合うと、いつも一緒に乗った時の記憶が浮かんでくる。
映像よりも体が覚えてる暖かさや守られてる安心感。
目を閉じても体が勝手に思い出すなんて、それは厄介な記憶でしかなく私を苦しめる。
軽く周囲の人に挨拶をしてさっさと仕事を始める。
はたから見れば今日も早く帰りたいオーラ全開かもしれない。
とにかく何かをしていないと耐えられない。
「おはよう、琴。」
「おはよう、香。」
香がちょっと不思議そうな顔をする。
向けられたのは探るような視線。聞きたそうで聞けないような。
私は何も気付かないように振舞い視線を外す。
今は香のデリケートさに救われた。
昨日あんなニュースを持ってきて、私がこっそり号泣してたなんて思いもしないだろう。
知ってたら真っ先に気を遣って噂が私の耳に入らないようにしてくれるか、先に萩原さんに確認するように教えてくれただろう。
何とか午前中をやり過ごす。
お昼、ランチタイムにいつものように席を取って目の前のメニューを見る。
自分で頼んだものだけど全く食欲がない。
今日は4人でランチ。こっそり残そう。
夜に久しぶりに友達に会って食事の予定があるから控えてると言えばいい。
「ねえねえ、聞いた?あの噂。」
もしかしてとは思ったけどやっぱり、今ホットな話題はそれしかないだろう。
ここで席を立つわけにもいかない。
「うん、取引相手のお嬢さんだって聞いたけど?」
「そうなのかな?最初遠距離してたって聞いたけど。昨日報告に戻ってきたらしいじゃない。一応取引相手だから上司に報告を済ませたって話。」
昨日・・・・戻ってきてたの?
知らない。そんな・・・。少しも知らない。
ゆっくり息をして口の中のものを飲み込む。
「つまんないなあ~、またいい男が一人、誰かのものに・・・・。」
香がつぶやく。
「ラブラブな癖に何言ってんだか。」
人のセリフに乗っかり、一生懸命に表情を作って香に笑いかける。
無言すぎるのもおかしいから。
それでもさっきから耐えられないくらいの衝撃に体が震えそうだった。
これ以上は無理。
叫びそうな心を隠して立ち上がる。
「ごめん、ちょっと昨日から気分悪くて。ちょっと先に行く。」
「片付けとくからいいよ。」
香の心配顔に甘えて歩き出す。
トイレはダメ。また非常階段へ出る。
まったく同じように背中を壁に預けて小さく体を折りたたむ。
叫びはどうにか体の中へ。
押し込んだ叫びが悲しみとともに体中を駆け巡る。
昨日近くにいたの?・・・・・知らない。
一言も教えてもらえない存在の私。
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それは本人に確認するまでもなくどうしようもない決定的な事実だった。
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