毒を孕んだ身代わりオメガ〜復讐の代償は皇帝の寵愛だった〜

ひなた翠

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第五章:毒を喰らわば、愛の深淵まで

皇帝の逆鱗

 大広間の高い天井から、午前の光が斜めに差し込んでいた。

 長い大理石の床の中央には、深紅の絨毯が一直線に伸びている。その奥、一段高い壇上に据えられた皇帝の玉座と、その隣に並ぶ番候補の椅子。家臣たちは左右に整然と並び、息を詰めて壇上を見守っていた。誰も、声を発する者はいない。靴音さえ立てないよう、皆が己の呼吸を抑えている。空気には、これから始まる断罪の重みが、見えない圧として満ちていた。

 壇上の中央に、ヴァレンは堂々と腰掛けている。

 漆黒の正装に金の縁取りを施した上着、片手には皇帝の象徴である長剣の柄。琥珀色の瞳には、いつもの威圧的な冷たさを通り越した、底冷えするような怒りが宿っていた。普段の冷徹な皇帝とは異なる、一人の男の地獄が、その瞳の奥で燃えている。

 リアンは、その隣に静かに腰を下ろした。

 襟元まで詰まった深い藍色の正装が、彼の素肌を完璧に隠している。白金の髪は、朝の支度で丁寧に整えられ、誰の目にも、皇帝の番候補として申し分のない姿だった。

 大広間の扉が開かれ、衛兵に両脇を支えられた宰相モルセルが引き立てられてきた。

 昨日までの権勢は完全に失われていた。豪奢だった衣服は無造作に剥ぎ取られ、汚れた粗末な麻布の囚人服に着替えさせられている。手首には鉄の枷。歩くたびに鎖が引き摺られ、大理石の床に乾いた音を立てた。家臣たちの視線が一斉にその姿に注がれ、ある者は嘲りの色を、ある者は哀れみの色を浮かべた。

 長く宰相として務めてきた男の成れの果てだ。人によっては見るのも辛い人間もいるだろう。

 モルセルが、壇上の前に膝を突かされた。

 肉付きのよい身体が、屈辱の姿勢で平伏する。だが、その目には、まだ生き延びるための狡猾な光が消えずに残っていた。昨晩のリアンからの告白を信じ、この場を乗り切れると信じているのだろう。

 リアンは、その目を、霞んだ視界の奥でじっと見つめていた。

「モルセル」
 ヴァレンが、低く名を呼んだ。

 大広間の空気が、その一声で完全に凍りついた。

「お前の審問を始める。正直に話せ。真実を知りたい」
「もちろんでございます」

 ヴァレンの言葉にモルセルが頭を低くして答えた。

(正直に話すつもりなんてないくせに)
 つい、胸の中で勝手に悪態をついてしまう。

「昨日の件について。あれはどういうことだろうか? なぜリアンを貶めるような行いをした?」
「あれはリアン様に大変失礼ない行いをしたと深く反省しております。一晩、頭を冷やし気づきました。ただの誤解でございます」

 顔をあげたモルセルが、リアンをまっすぐに見つめて微笑んできたのが、霞んだ世界でもわかった。

 ここを乗り切れば、あとは愛しい儂のためになんとかしてくれるのだろう――という心の声が聞こえてきそうだ。

「誤解だと? お前は断言しただろう! 離宮で不埒な行為をしていると。その目で見たと」

「ええ、見ました。ですが、あとあと思い返してみると――ただ故人を思いながら親しく会話をしている光景だったかもしれないと思い直しました。陛下を思うばかり、大袈裟に捉えてしまいました」

「香の弁明は?」
「あれは集中力を高めるものです」

「――ほう? 媚薬成分入りだと聞いているが」
「匂いの調整のために少しばかり入ってしまったかもしれませんが、微量です」
「そうか」

 罪を認めないモルセルの言い訳に、ヴァレンの声が一段と低くなる。不機嫌な態度を隠しもせずに、足を組み替えると小さくため息を吐いた。

「陛下、昨日のあれは……もしかして僕がオメガだったばかりに強く反応しすぎてしまったのかもしれません」

 隣で苛立つヴァレンの手を握りしめると、リアンが小さい声で話した。大きく、温かい手だった。指先から伝わる熱が、リアンの不安を包み込んでいく。

「リアンまで――」

「匂いは確かにしました。入っているのは確かです。でも……感じやすいのは確かなので――」

 頬を赤らめると、リアンは恥ずかしそうに顔を背けた。昨日の出来事をヴァレンも思い出したのか。釣られるように頬を染めると、わざとらしい咳払いをした。

「まあ、いい。お前の屋敷を、昨夜のうちに徹底的に検めさせた」

(昨晩の外せない所用って……モルセルの家に行ってたの?)

 ヴァレンの一つの手振りで、家臣の一人が前へ進み出てきた。両手で捧げ持っているのは、銀の盆。盆の上には、いくつもの小瓶と、布に包まれた香炉、そして紙片の束が並べられている。

「お前の書斎の奥、二重底の引き出しから出てきたものだ」
 ヴァレンが、淡々と告げた。

「植物性の毒が、複数種。そして、昨日と同じ媚薬成分の含まれた香も出てきている。調合の覚書まで残されていた」
 モルセルの肩が、目に見えて跳ねた。

「これは、どういうことだろうか?」
 ヴァレンの声が、一段低く落ちた。

「お前がこの数年間、誰に何を盛ったかの記録だ」

 大広間の家臣たちの間から、抑え切れない衝撃のどよめきが上がった。

「晩餐会で、リアンの杯に盛られた毒についても書かれてあった。もっと昔のセレンに飲ませていた記録も――ここにしっかりと残っていた」

(確実な証拠が……陛下のもとにある)

 モルセルが、目に見えて青ざめた。けれども、その狡猾な男は、まだ抗弁の道を探っているように見えた。

「陛下、それは、何かの間違いにございます!」

 モルセルの声が、震えながらも抗弁を試みた。

「あの毒は、儂の手の者の独断であって、儂自身の指示では――」
「給仕に金を握らせて盛らせた、とここに書いてあるが?」

 ヴァレンが、モルセルの言葉を遮った。

「陛下……それは本当ですか?」
 リアンが尋ねると、ヴァレンは小さく頷いてくれた。

「すべて、解決させるから。安心していろ」

 ヴァレンが、リアンにだけ聞こえる声で囁いた。その優しい声音に、胸の奥が深く軋んだ。
 壇下に膝を突いていたモルセルが、突然、激しい憤怒の表情で顔を上げた。

「――嵌めたのか」
 モルセルの口から、押し殺された憎悪が漏れた。

「貴様が……この淫乱オメガめが、儂を嵌めたのか!」
 リアンの肩が、思わずびくりと震えた。

 大広間の家臣たちの間に、再びどよめきが走る。リアンは、ハッとしてヴァレンの方を見上げた。
 ヴァレンの瞳が、低い殺気を帯びた。

「何を言っている」
 ヴァレンの声が、地を這うように響いた。

「陛下、騙されてはなりません! その淫乱オメガは――」

 その時、リアンの目の端に、何かが動く影が映った。

 霞んだ視界の中でも、本能的に、それが何かを察した。モルセルの背後、衛兵の列の陰から、漆黒の影が音もなく忍び寄っている。剣油の微かな気配――間違いなく、ルシアンだった。

 ルシアンの剣が、鞘から抜かれた。

 冷ややかな鋼の光が、午前の光を反射して走る。剣先が、平伏するモルセルの背中の中央へと、真っ直ぐに突き立てられようとしていた。彼の暗い瞳には、抱え続けた憎悪のすべてが凝縮されていた。今、この瞬間、自分の手で、愛した者の仇を討つ――ルシアンの全身が、その一閃に賭けているようだった。

「駄目だ、下がれっ! ルシアン!」
 リアンが、椅子から弾かれるように立ち上がった。

 悲鳴のような叫びが、大広間の高い天井に反響した。家臣たちの目が、一斉に壇下へと注がれる。誰もが息を呑んだ。リアンは深い藍色の裾を翻しながら、壇の階段を駆け降りた。

 ルシアンの剣先が、モルセルの背中の布地に、僅かに触れた瞬間だった。

 リアンの細い手が、騎士の手首をしっかりと押さえた。ルシアンの動きが、ぴたりと止まる。リアンは、もう一方の手で、剣の柄を強引に握り、ルシアンの手から奪い取った。剣が、乾いた音を立てて大理石の床に落ちた。広間の家臣たちが、一斉に息を呑んだ。

 モルセルが、背中越しに振り返った。

 剣の刃が掠った感触に、宰相の腰がガクリと抜けた。肉付きのよい身体が、その場に尻餅をついて崩れ落ちる。だらしなく開いた口から、引き攣った悲鳴のような呼吸が漏れていた。背中の布地に、僅かな赤い染みが滲み始めている。

 ルシアンは、唇を噛み締めながら、リアンの足元に膝を突いた。

「リアン様」
 ルシアンの声が、絞り出すように響いた。

「……どうか。復讐を、させてください」
 ルシアンの暗い瞳に、これまで見せたことのない感情が宿っていた。

「この男を……この手で、殺したい」
 大広間の空気が、再び凍りついた。

 ルシアンの声には、騎士としての職務を超えた、一人の男としての絞り出すような懇願が滲んでいた。
 リアンは、静かに首を振った。

「ルシアンが、罪を犯す必要はないよ」
 リアンの声は、寂しく、けれども揺るぎなかった。

「兄様が、喜ばない」
 リアンは、壇上のヴァレンへと視線を上げた。

「陛下、どうか。どうか、お願いです。この者の命を、我が手で――」

 ルシアンが、そのまま壇上のヴァレンに向かって懇願を続けた。リアンは、もう一度、首を振った。

「ルシアン」
 リアンが、騎士の肩にそっと手を置いた。

「それは兄様が一番望まないことだよ」
 ルシアンの肩が、僅かに震えた。

 兄セレンの遺志――その一言が、騎士の心の奥底を突いた。ルシアンは唇を強く噛み締め、ゆっくりと頭を垂れた。

「な、なんなんだ、あんたら――」
 モルセルが、尻餅をついたまま、引き攣った声で呟いた。

 肉付きのよい顔から血の気が引き、目だけがぎらぎらと泳いでいる。誰が味方なのか、誰を頼ればいいのか、宰相にはもう判断がつかなくなっていた。

「陛下……陛下、こいつらに騙されているんだ」
 モルセルが、必死の声で壇上に向かって叫んだ。

「特に、この淫乱オメガ。こいつは、昨夜――ひぃ」

 モルセルの口が止まったのは、ルシアンが床に落ちた剣を再び拾い上げ、宰相に飛びかかろうとしたからだった。リアンの細い手が、即座にルシアンの腕を掴んで止めた。

「いいんだ、ルシアン」
 リアンの声は、奇妙なほど穏やかだった。

「好きに言わせればいい」
「でも――」
「いいから」

 リアンは、ヴァレンの方を見なかった。

(そろそろ時間切れかな)

 いつもより霞む視界と小さな身体の震えを感じて、リアンは自分の手のひらを見つめた。

 モルセルが、ルシアンの剣に怯えながらも、必死の言い訳を始めた。

「陛下、お聞きください! 確かに、儂は娘を陛下の妻にしたいという感情から、昨日のような出過ぎた真似をいたしました。それは、申し訳なく思っております。しかし、陛下が今、お示しになった毒の品々――あれを、儂が混入させたなどということは、決してございません! あの淫乱オメガが、儂を陥れるために、そしてご自分が被害者面をして陛下の寵愛を独占するために、嘘の証拠を捏造したのです!」

 モルセルが、リアンを指差した。

「この、淫乱オメガが――」
「やめろ」

 ヴァレンの声が、大広間に低く響いた。

 壇上から立ち上がったヴァレンが、一段、また一段と階段を降りてくる。漆黒の上着が午前の光を浴びて、重く揺れた。

「何度も、リアンを『淫乱オメガ』と呼ぶな」

 ヴァレンの声には、これまで誰一人、向けられたことのない種類の殺意が宿っていた。
 モルセルは、それでも食い下がった。最後の希望、最後の藁にすがるように。

「しかし、本当にこいつは――昨夜だって、牢に来て……」
 モルセルの声が、その先で止まった。

「は?」
 ヴァレンの声が、一段、低く落ちた。
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