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第三章:舞踏会の夜
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屋敷に戻っても、どうしてか自分の部屋に入る気になれなかった。
ドレスを着たまま、私は中庭へ向かう。少し散歩して、気分を晴らそう。身体が疲れれば、もしかしたら部屋に戻りたいという気持ちが芽生えるかもしれない。
夜の庭は静かで、月明かりだけが庭を照らしている。木々の影が、地面に長く伸びていた。薔薇の香りが、かすかに漂ってくる。冷たい風が頬を撫で、ドレスの裾を揺らした。
ベンチに座ると、全身の力が抜けていった。膝に手を置き、顔を伏せる。胸の奥が、ずきずきと痛んだ。
『憎きライバルに勝ちました。姫、どうか俺と一生を添い遂げてください』
あの日の声が、脳裏に蘇ってきた。ダリウスの低い声。真剣な眼差し。手の甲に触れた、温かな唇の感触。
あの日から、ずっと——私は、ダリウスが好き。ごっこ遊びだとわかっていも、いつか本当に私を迎えに来てくれたらいいのにと心から願った。
「……ダリウス」
呟いた途端、涙が溢れた。堪えていたものが、一気に溢れ出してくる。声を出して泣きたかったが、使用人に聞かれるかもしれないと思うと声は出せなかた。
唇を噛み、必死で声を殺した。涙だけが、止まらずに流れ続ける。頬を伝い、顎を伝い、首筋へと流れていく。冷たい涙が、肌を濡らしていった。
ダリウスは、会場にいた女性の誰かに、いつかは結婚をするのだろう。想像するだけで、胸が締め付けられる。
(できるなら、私と結婚してほしい)
あの誓いは、幼い私を喜ばせるための、ごっこ遊びの一コマ。わかっているのに――。
なんだか身体が重く、だるくてベンチに横になった。
冷たい石の感触が、頬に伝わってくる。胸の苦しさを抱えたまま、私は目を閉じた。
月明かりが瞼越しに感じられる。風が木々を揺らし、葉擦れの音が聞こえてくる。薔薇の香りに包まれながら、私は深く息を吐いた。
「——アリア」
遠くから、名前を呼ばれているような気がした。誰かが、私を呼んでいる。低い声。聞き覚えのある声だ。
夢を見ているのだろうか。ダリウスの声に似ている。重い瞼を持ち上げると、視界いっぱいにダリウスの顔があった。
「——え?」
心臓が、激しく跳ねた。
ダリウスが、至近距離にいる。灰青色の瞳が、じっと私を見つめていた。
(……夢?)
月明かりを反射した瞳は、鋼色に光っている。整った顔立ちだが、僅かに眉が寄せられていた。心配しているようだ。
「起きたか」
ダリウスの低い声が、耳に届いた。夢ではないようだ。
私は慌てて身体を起こそうとしたが、身体が冷えていて思うように動けなかった。手足に力が入らない。
ふわりと、何かが肩にかけられた。温かい布地。ダリウスの外套だった。
彼の匂いが、私を包み込んだ。森を思わせる深い香り。木の匂いに、わずかな石鹸の香りが混じっている。身体の奥が、じんわりと熱くなった。心臓が、早鐘を打ち始める。
「どうしてここに?」
私が問うと、ダリウスは無表情のまま答えた。
「具合が悪くなって退出したと聞いた」
彼は——心配で来てくれたのだろうか。大勢の女性たちとの会話を中断して、舞踏会を抜け出してきた。そう思うと、嬉しくて胸が熱くなった。
「こんなところで寝ていたら、余計具合が悪くなるだろ」
ダリウスは何の躊躇もなく、私を横抱きにした。
「あっ——」
身体が宙に浮く。彼の腕が、私の背中と膝の裏に回されている。
硬い胸板に、顔が押し付けられた。心臓の音が聞こえる。規則正しく、力強い鼓動。私の乱れた心臓とは対照的に、落ち着いた音だった。
彼の体温が、冷えた身体に伝わってくる。
(温かい)
彼の腕の中は、どうしてこんなにも心地よいのだろう。
「寝室に連れていく」
ダリウスの声が、頭上から降ってきた。私は彼の胸に顔を埋めたまま、何も言えなかった。
恥ずかしさと、嬉しさと、申し訳なさが、胸の中で渦巻いている。彼の外套に顔を埋めると、彼の匂いが鼻腔を満たした。この匂いを、私は一生忘れたくない。
外套から伝わる彼の体温が、冷えた身体を温めてくれる。彼の匂いに包まれて、私は目を閉じた。このまま、時間が止まってくれたら——いいのに。
「自分で歩けます、から」
ようやく、声を絞り出した。ダリウスは歩みを止めずに、私を見下ろした。
「部屋にたどり着けずに、庭先で気を失うくらい具合が良くないのだろ?」
心配するような口調だった。顔は相変わらず無表情だが、声には僅かな温かさがあった。私を気遣ってくれている。
「朝から具合が良くなかったのか? あいつに無理やり出席するように言われたのか?」
ダリウスが問う。私は首を横に振った。
「いいえ、朝は具合が悪くありませんでした」
「じゃあ、会場で変なことをされたのか? 君はずっと他の男から話しかけられていたから」
ダリウスの声が、少し低くなった気がした。
私は驚いて、彼を見上げた。私が他の男性に話しかけられていたところを、彼は見ていたのだろうか。
異性からずっと話しかけられていたのは、ダリウスの方だった。私は、話しかけられた記憶などほとんどない。友人たちと話していただけだ。
もしかしたら話しかけられていたかもしれないが、ダリウスばかり見ていたからよく覚えていない。
「変なこともされていません」
私が答えると、ダリウスはそれ以上何も聞いてこなかった。屋敷の中を進み、階段を上る。使用人たちが驚いた顔をしていたが、ダリウスは気にせず歩き続けた。
廊下を進み、私の部屋の前で立ち止まる。扉を開け、部屋の中へと入っていく。月明かりが窓から差し込み、部屋をほのかに照らしていた。
ドレスを着たまま、私は中庭へ向かう。少し散歩して、気分を晴らそう。身体が疲れれば、もしかしたら部屋に戻りたいという気持ちが芽生えるかもしれない。
夜の庭は静かで、月明かりだけが庭を照らしている。木々の影が、地面に長く伸びていた。薔薇の香りが、かすかに漂ってくる。冷たい風が頬を撫で、ドレスの裾を揺らした。
ベンチに座ると、全身の力が抜けていった。膝に手を置き、顔を伏せる。胸の奥が、ずきずきと痛んだ。
『憎きライバルに勝ちました。姫、どうか俺と一生を添い遂げてください』
あの日の声が、脳裏に蘇ってきた。ダリウスの低い声。真剣な眼差し。手の甲に触れた、温かな唇の感触。
あの日から、ずっと——私は、ダリウスが好き。ごっこ遊びだとわかっていも、いつか本当に私を迎えに来てくれたらいいのにと心から願った。
「……ダリウス」
呟いた途端、涙が溢れた。堪えていたものが、一気に溢れ出してくる。声を出して泣きたかったが、使用人に聞かれるかもしれないと思うと声は出せなかた。
唇を噛み、必死で声を殺した。涙だけが、止まらずに流れ続ける。頬を伝い、顎を伝い、首筋へと流れていく。冷たい涙が、肌を濡らしていった。
ダリウスは、会場にいた女性の誰かに、いつかは結婚をするのだろう。想像するだけで、胸が締め付けられる。
(できるなら、私と結婚してほしい)
あの誓いは、幼い私を喜ばせるための、ごっこ遊びの一コマ。わかっているのに――。
なんだか身体が重く、だるくてベンチに横になった。
冷たい石の感触が、頬に伝わってくる。胸の苦しさを抱えたまま、私は目を閉じた。
月明かりが瞼越しに感じられる。風が木々を揺らし、葉擦れの音が聞こえてくる。薔薇の香りに包まれながら、私は深く息を吐いた。
「——アリア」
遠くから、名前を呼ばれているような気がした。誰かが、私を呼んでいる。低い声。聞き覚えのある声だ。
夢を見ているのだろうか。ダリウスの声に似ている。重い瞼を持ち上げると、視界いっぱいにダリウスの顔があった。
「——え?」
心臓が、激しく跳ねた。
ダリウスが、至近距離にいる。灰青色の瞳が、じっと私を見つめていた。
(……夢?)
月明かりを反射した瞳は、鋼色に光っている。整った顔立ちだが、僅かに眉が寄せられていた。心配しているようだ。
「起きたか」
ダリウスの低い声が、耳に届いた。夢ではないようだ。
私は慌てて身体を起こそうとしたが、身体が冷えていて思うように動けなかった。手足に力が入らない。
ふわりと、何かが肩にかけられた。温かい布地。ダリウスの外套だった。
彼の匂いが、私を包み込んだ。森を思わせる深い香り。木の匂いに、わずかな石鹸の香りが混じっている。身体の奥が、じんわりと熱くなった。心臓が、早鐘を打ち始める。
「どうしてここに?」
私が問うと、ダリウスは無表情のまま答えた。
「具合が悪くなって退出したと聞いた」
彼は——心配で来てくれたのだろうか。大勢の女性たちとの会話を中断して、舞踏会を抜け出してきた。そう思うと、嬉しくて胸が熱くなった。
「こんなところで寝ていたら、余計具合が悪くなるだろ」
ダリウスは何の躊躇もなく、私を横抱きにした。
「あっ——」
身体が宙に浮く。彼の腕が、私の背中と膝の裏に回されている。
硬い胸板に、顔が押し付けられた。心臓の音が聞こえる。規則正しく、力強い鼓動。私の乱れた心臓とは対照的に、落ち着いた音だった。
彼の体温が、冷えた身体に伝わってくる。
(温かい)
彼の腕の中は、どうしてこんなにも心地よいのだろう。
「寝室に連れていく」
ダリウスの声が、頭上から降ってきた。私は彼の胸に顔を埋めたまま、何も言えなかった。
恥ずかしさと、嬉しさと、申し訳なさが、胸の中で渦巻いている。彼の外套に顔を埋めると、彼の匂いが鼻腔を満たした。この匂いを、私は一生忘れたくない。
外套から伝わる彼の体温が、冷えた身体を温めてくれる。彼の匂いに包まれて、私は目を閉じた。このまま、時間が止まってくれたら——いいのに。
「自分で歩けます、から」
ようやく、声を絞り出した。ダリウスは歩みを止めずに、私を見下ろした。
「部屋にたどり着けずに、庭先で気を失うくらい具合が良くないのだろ?」
心配するような口調だった。顔は相変わらず無表情だが、声には僅かな温かさがあった。私を気遣ってくれている。
「朝から具合が良くなかったのか? あいつに無理やり出席するように言われたのか?」
ダリウスが問う。私は首を横に振った。
「いいえ、朝は具合が悪くありませんでした」
「じゃあ、会場で変なことをされたのか? 君はずっと他の男から話しかけられていたから」
ダリウスの声が、少し低くなった気がした。
私は驚いて、彼を見上げた。私が他の男性に話しかけられていたところを、彼は見ていたのだろうか。
異性からずっと話しかけられていたのは、ダリウスの方だった。私は、話しかけられた記憶などほとんどない。友人たちと話していただけだ。
もしかしたら話しかけられていたかもしれないが、ダリウスばかり見ていたからよく覚えていない。
「変なこともされていません」
私が答えると、ダリウスはそれ以上何も聞いてこなかった。屋敷の中を進み、階段を上る。使用人たちが驚いた顔をしていたが、ダリウスは気にせず歩き続けた。
廊下を進み、私の部屋の前で立ち止まる。扉を開け、部屋の中へと入っていく。月明かりが窓から差し込み、部屋をほのかに照らしていた。
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