社長令息αの執着〜君を手放すくらいなら〜『年下幼馴染αの執着』シリーズ2

ひなた翠

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プロローグ

突然の離婚届

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 海斗の寝息を確認してから、僕はそっと寝室の扉を閉めた。

 廊下に出ると冷たい空気が肌に触れ、胸の奥がきゅっと締め付けられる。階段を一段ずつ降りながら、手すりを握る指先に力が入った。

 リビングへと続く廊下は静かで、自分の足音だけが響いている。玄関の方から鍵の開く音がして、拓海が帰ってきた気配がした。いつもより早い帰宅に、驚いた。

 玄関の扉が開く音がして、拓海の「ただいま」という声が聞こえてくる。いつもと変わらない声と笑顔に、胸が痛んだ。

「おかえりなさい」

 僕は声を絞り出すように返事をした。拓海の足音が近づいてきて、リビングの扉が開く。スーツ姿の拓海が入ってきて、僕と目が合った。拓海の黒い瞳が僅かに驚きの色を見せ、次に不安そうな色に変わっていく。

「悠斗、まだ起きてたのか」
「今日は拓海と話がしたくて」

 僕は封筒を手に取り、拓海の方へと差し出した。拓海が封筒を受け取り、中を確認する。封筒から離婚届を取り出した拓海の手が、僅かに震えた。

「……なんだ、これは」
 低い声だった。拓海の表情が強張り、僕を見る目が鋭くなる。僕は拓海から視線を逸らし、床を見つめた。

「離婚してください」
 僕は頭を下げた。床の木目が視界に入った。拓海の足が目の前に入り込んできて、止まった。

「悠斗、顔を上げて」

 拓海の声は静かで、怒りを押し殺したような響きがあった。僕は顔を上げることができず、ただ頭を下げ続けた。拓海の手が僕の肩を掴み、無理やり顔を上げさせられる。拓海の顔が目の前にあり、黒い瞳が僕を捉えて離さなかった。

「なんで」
「……」

 言葉が出てこなかった。喉が詰まり、息が苦しくなる。拓海に理由を告げれば、拓海は否定するに決まっている。
海斗以外の子を産めない身体だと告げても、拓海は海斗がいるから十分だと言うに違いない。拓海は優しすぎて、僕の重荷を背負い続けようとする。拓海にはもっと相応しい番がいるはずで、僕みたいに海斗以外の子を産めないオメガではなく、若くてたくさんの子供を産める健康なオメガと番になるべきだった。

 拓海の将来を考えれば、離婚しかなかった。

(こうするしかない……拓海には別の人生を)

 僕は唇を噛み締め、拓海の視線に耐えた。拓海の手が僕の肩から離れ、離婚届を握りしめる。紙が皺になる音がして、拓海が深く息を吸い込んだ。

「理由を教えてくれ」
「……言えない」
「言えないって、何だよ、それ」

 拓海の声が僅かに震えた。怒りではなく、傷ついた声だった。僕は目を伏せ、拓海の顔を見ることができなかった。

「俺が何かしたのか。悠斗を傷つけることを言ったのか。何か不満があるなら教えてくれよ」
「拓海は何も悪くない」
「じゃあなんで離婚なんだよ」

 拓海の声が大きくなり、僕は肩を震わせた。拓海が息を吐き、声のトーンを落とす。

「海斗もいるのに。海斗はどうするんだよ」
「海斗は……拓海が育ててほしい。僕にはきっと満足いく生活費を稼げないから」
「ふざけるな!」

 拓海が怒鳴った。僕は驚いて顔を上げ、拓海の顔を見る。拓海の目が赤く充血し、歯を食いしばっている。拓海がこんなに怒った顔を見るのは二度目だ。僕は言葉を失った。

「悠斗は海斗の母親だろ。母親が子供を置いていくなんて、そんなの許されるわけないだろ」
「だって……」
「だって、じゃない」

 拓海が離婚届を握りしめ、僕を見つめる。拓海の瞳には怒りと、悲しみと、困惑が混ざり合っていた。
「離婚はしない」

 拓海が断言した。僕は首を横に振り、拓海に訴える。

「でも……」
「でもじゃない。俺は離婚する気はない。悠斗が何を考えているのか知らないが、離婚なんて絶対にしない」

 拓海が離婚届をテーブルに叩きつけた。紙が音を立て、テーブルの上で滑る。拓海は僕から視線を逸らし、リビングの窓を見つめた。肩が上下し、荒い息をしている。

 僕は何も言えず、ただ立ち尽くした。拓海との距離が遠く感じられ、手を伸ばしても届かない気がする。

 拓海が僕を見ることなく、リビングを出ていく。足音が階段を上り、二階へと消えていった。

 一人残された僕は、テーブルの上の離婚届を見つめた。拓海が握りしめた痕が残り、紙が皺だらけになっている。
 膝から力が抜け、その場に座り込んだ。床は冷たく、身体の芯まで冷えていく。涙が溢れそうになり、僕は顔を手で覆った。

(拓海……ごめん)

 心の中で謝り、声にならない言葉を繰り返す。拓海には幸せになってほしい。僕なんかじゃない、もっと相応しい番と結ばれて、たくさんの子供に囲まれて笑っていてほしいんだ。

 拓海が社長の息子として、立派に会社を継いで、誰からも尊敬される存在になってほしかった。
 僕が傍にいたら、拓海の足を引っ張るだけだ。

 拓海はまだ二十七歳で、若くて健康なオメガと番になれば、何人でも子供を授かれるはずなんだ。大企業の社長の息子なんだから、跡継ぎをたくさん産める相手と結ばれるべき。

 リビングの時計が静かに時を刻み、夜が更けていく。二階からは何の音も聞こえてこず、拓海が部屋にこもっているのが分かった。僕はテーブルに手をつき、立ち上がる。足が震え、まっすぐ歩けなかった。

 リビングの照明を消し、階段を上る。一段一段が重く、身体に鉛が詰まっているように感じられた。二階の廊下に出ると、寝室の扉が開いていた。拓海は寝室ではなく、書斎に入ったようで、書斎の扉の下から光が漏れている。

 僕は寝室に入り、ベッドに横たわった。シーツは冷たく、拓海の温もりが恋しくなる。目を閉じると涙が溢れ、枕を濡らした。

(ごめんなさい……ごめんなさい)
 何度も心の中で謝り、僕は眠れない夜を過ごした。
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