完璧な男の壊し方~ポロシャツと嘘とキスマーク~

ひなた翠

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第一章:防壁と熱帯夜

第一章:防壁と熱帯夜

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 午前五時三十分。アラームが鳴り出すちょうど三十秒前に、俺は正確に目を開けた。

 枕元のスマートフォンへと静かに手を伸ばす。振動が始まる直前にアラームを解除してから、ゆっくりと身体を起こした。カーテンの隙間からは、六月の薄い朝の光が差し込んでいる。その淡い光は、ワンルームの無機質な壁を白く、均一に染め上げていた。

 ベッドから足を下ろした瞬間、フローリングの冷たさが肌から伝わり、微睡んでいた意識が鮮明に研ぎ澄まされる。そのまま淀みのない足取りで洗面台へ向かい、顔を洗ってからランニングウェアに着替えた。

 朝の動線は、毎日寸分の狂いもなく繰り返される。靴下を履く順番も、シューズの紐を結び直す回数も、昨日と何ら変わりはない。変える必要のないルーティンを維持することは、何よりも効率的だった。そして、自ら決めた規律を完璧に守り通せる自分という存在を、俺は深く信用していた。

 マンションのエントランスを一歩踏み出すと、六月特有の重苦しい湿気が首筋に纏わりついた。

 最初の百メートルは身体に鈍い重さを感じたが、信号を二つ越える頃には呼吸も安定し、足裏がアスファルトを叩く一定のリズムだけが世界の全てとなった。走っている間は、余計な思考を一切遮断することができる。頭の中の騒がしい音量が次第に下がっていき、自分という人間が精密な機械のように正しく機能している実感だけが、手元に残った。

 五キロの路程をきっちり二十三分で走り終え、部屋に戻る。シャワーを浴びて髪を整え、隙なくアイロンのかかった白シャツに袖を通した。鏡の前でネクタイの結び目の角度を厳密に確認し、黒い革靴を一点の曇りもないよう磨き上げる。玄関を出るまでの全ての工程において、無駄な手順はひとつとして存在しなかった。

 俺の名前は宇佐見聡。二十五歳になる。

 中堅出版社の営業課に配属されて、今年で三年目を迎えていた。

 営業成績は同期の中で常にトップを維持しており、直近の四半期に至っては課全体でも二位という数字を叩き出していた。取引先の書店からの評判も、決して悪くはない。

 確かな数字さえ提示し続ければ、周囲は容易く納得する。より正確に言えば、圧倒的な成果を出し続ける人間に対して、他者はそれ以上に深く踏み込んでこようとはしない。俺にとって、この隙のない完璧な成績こそが、内側を守るための最も合理的で強固な「防壁」だった。

「宇佐見、昨日のフェア企画書だが、実によく練られていた。あの構成なら書店側も喜んで受けてくれるだろう」

 デスクで課長に声をかけられ、俺は「ありがとうございます」と丁寧に応じながら、頭を下げる角度を意識した。口角の上げ幅も慎重に調整する。深すぎれば卑屈な媚びに見え、浅すぎれば傲慢で冷淡な印象を与えてしまう。

 この「ちょうどいい笑顔」を、俺は中学の頃から十年以上の歳月をかけて磨き上げてきた。それは表情筋を動かすというよりは、顔の筋肉をあらかじめ決められた正しい位置へと、静かに配置する感覚に近かった。

 昼休み、営業課のデスクが並ぶ「島」で自作の弁当を広げていると、隣の席の女性社員が紙パックの野菜ジュースを手に、屈託のない様子で話しかけてきた。

「宇佐見さんって、彼女いるんですか?」

 唐突な問いかけだったが、この手の質問には既に慣れきっていた。職場で適度に話題を提供し、プライベートの輪郭だけをそれらしく見せておくことは、集団の中で悪目立ちせずに済むための、不可欠な技術のひとつに過ぎない。

「ええ、いますよ」

 柔らかな微笑を添えて答えると、同僚は「やっぱりー!」と楽しそうに声を弾ませ、隣の席の女性と顔を見合わせて密やかな囁きを交わしていた。

 彼女がいる。それは紛れもない事実だ。

 ただ、その事実には血の通った温度がなく、温度のない言葉を口にするたびに、胸の底で何かが薄く、乾いた音を立てて軋むのを感じた。

 その交際は、半年前に始まった。

 友人の紹介で知り合った一つ年下の女性で、穏やかな気質で話しやすく、容姿も整っていた。誰に紹介したとしても、決して恥ずかしくない相手だろう。

 交際開始から一ヶ月ほどで身体の関係を持ち、それ以降は月に数回、彼女のマンションに泊まるのが習慣となっていた。彼女のことが好きかと問われれば、決して嫌いではない。だがその感情は、苦手ではない食べ物を「おいしい」と思い込もうとする、あの空虚な感覚に酷く似ていた。

 女性の身体に触れること自体は、可能だった。

 指先に触れる柔らかい肌の質感、甘い香水の残り香、耳元を掠める熱を帯びた吐息。そのどれもが不快ではなく、生理的な拒絶反応が起こるわけでもない。

 最大の問題は、本来なら反応すべき局面において、俺の身体が驚くほど消極的であることだ。彼女が衣服を脱ぎ去り、ベッドの上で期待に満ちた視線を向けてくるとき、俺の意識は決まって全く別の場所へと逃避していた。

 今期の売上目標の達成率。明日までに仕上げるべきプレゼン資料の構成。先週読み終えたビジネス書の一節。対象は何でもよかった。

 意識を肉体から強引に切り離し、機械的に段取りをこなすことで、辛うじて一回だけは機能させることができる。だが、一回が限界。行為の後に「もう一度」と求められることが何よりも恐ろしく、俺は毎回、疲弊したふりをして硬く目を閉じた。

 彼女がその行為に満足していたのかは、結局分からずじまいだった。

 そして、分かろうと努めることさえもしなかった。その徹底した無関心さが、自分でも薄ら寒く感じられる。だが、そんな風に自分を冷徹に俯瞰できている時点で、俺はまだ「正常」の範疇に留まれているのだと、どこかで安堵してもいた。

 正常。普通。

 この二十五年間、俺がそれこそ命がけで守り続けてきたものの正体が、その平坦な二文字だった。

 その日の業務を終えた俺は、新宿三丁目の地下にあるバーで、彼女と待ち合わせをしていた。

 店内は照明が落とされ、カウンターの奥に並ぶ無数のボトルがオレンジ色の光を鈍く反射させている。グラスの中の氷が溶け、小さく崩れる音だけが、静寂の中に響いていた。

 彼女は既に席に着いており、カクテルグラスを両手で包み込むようにして、深く俯いていた。俺がその隣に腰を下ろすと、彼女は視線を合わせないまま「遅かったね」と低く呟いた。「打ち合わせが長引いてしまって」と、俺は淀みなく答えた。

 嘘ではなかったが、退社後に十五分ほど、ただ無心で会社の前に立ち尽くしていたことまでは付け加えなかった。
 最初の一杯を飲み干すまで、二人の間に会話らしい会話は交わされなかった。

 彼女はカクテルのグラスを指先で所在なげに弄り、何かを言いかけては躊躇うように唇を閉じる。そんな動作を幾度も繰り返していた。

 彼女の中に言い淀んでいる言葉があることは、容易に察せられた。だからこそ、俺は自分のハイボールを静かに口に含みながら、その時が来るのを黙って待った。

「宇佐見くん。最近、ずっと冷たいよね」

 彼女の声は低く、それは責め立てるためというよりは、動かしようのない事実を確認するような響きを帯びていた。

「何が」とは問い返せなかった。

「仕事が立て込んでいて、余裕がなかったんだ」
「忙しいのは分かってる。でも、そういうことじゃないの」
「どういうこと?」

 彼女が重いグラスをカウンターに置き、初めてこちらを真っ直ぐに見つめた。睫毛の長い、形の良い瞳をしていた。その瞳は僅かに潤んでおり、そこには怒りよりも、救いようのない悲しみが濃く滲んでいた。

「あなたと一緒にいても、いつも壁を一枚、挟んでいるような気がするの」

 彼女の声が、微かに震えた。

 ――壁を一枚。

 彼女の指摘は、残酷なまでに的確だった。

 壁の正体を、俺は誰よりも熟知している。けれど、それを言葉にして曝け出すことは、中学二年の冬を境に一度として行っていない。そして、今後も永遠に行うつもりはなかった。

「……ごめん」

 喉の奥を突いて出てきたのは、空虚な一言だけだった。それ以上の言葉は、深い澱の底へと沈んでいく。
 彼女の瞳から静かに光が失われていくのが分かった。肺に吸い込んだバーの空気は、やけに冷たく胸を刺した。

「もう、いいよ」

 彼女は静かに立ち上がり、カウンターに千円札を一枚置いた。

 一度も振り返ることなく店を去っていく背中を見送りながら、追いかけなければならないと焦燥を覚える自分と、追いかけるための正当な理由が見つからない自分が、同時に存在していた。

 結局、俺は椅子から一歩も動けないまま、グラスの中で溶けかけた氷が、小さな音を立てて崩れ落ちるのを聞いていた。

 バーの空気が、急激に重圧を増したように感じられた。

 カウンターの隅に一人取り残されたまま、半分ほど残ったハイボールのグラスを凝視する。グラスの表面を伝う水滴が、コースターの上に歪な形の染みを作っていた。

 彼女の座っていた椅子には、まだ微かに、あの甘い香水の残り香が漂っている。半年間に及ぶ交際が、たった今終わった。その実感は驚くほどに希薄だった。

 感じるべき喪失感を求めて、胸の内側を必死に手探りしてみる。だが、指先が触れるのは、どこまでも硬く冷淡な、壁の感触ばかりだった。

 俺は、振られた。

 目に見えない壁の存在を察知した彼女は聡明であり、そして、その壁の向こう側に潜む悍ましい真実を知ることなく逃げ切れた彼女は、おそらく最高に幸運だったと言える。

 バーテンダーが無言のまま、新しいおしぼりを差し出した。俺は「すみません、もう一杯」と、極めて丁寧に注文を告げた。

 声は平坦で、表情には一点の綻びもない。
 こういう時、十年以上の歳月を費やして作り上げた「鎧」は、実に正しく、完璧に機能してくれる。

 鎧の内側で、どれほど無様な音が軋んでいようとも。
 外側に見せている俺は、いつだって完璧で、正常な男のままだった。

 二杯目のハイボールに唇をつけた、その時だった。

 カウンターの向こう側、死角になっていた席から、誰かの笑い声が聞こえてきた。
 低く、地を這うようでいて、驚くほどよく通る――そんな男の声だった。
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