完璧な男の壊し方~ポロシャツと嘘とキスマーク~

ひなた翠

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第一章:防壁と熱帯夜

分類不能な熱量

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 カウンターの三席ほど向こうに座っている男が、バーテンダーと何事かを親しげに話していた。その声が、妙に耳に残る。

 低く、地を這うような深みがあるのに、どこか風通しの良い響き。反射的に視線を向けてしまい、そこにいた人物の風体に、俺は僅かに面食らうことになった。

 がっちりとした、岩のように逞しい体格だった。

 肩幅は広く、背筋は天に向かって真っ直ぐに伸びている。カウンターに無造作に置かれた腕は、日に焼けた肌の下に筋肉の厚みが克明に透けて見えた。顎には手入れの行き届いた髭を蓄え、首元の大きく開いた紺色のポロシャツからは、鎖骨の上に残る日焼け跡が覗いている。

 俺よりも確実に背が高い。その体格だけを見れば、ラグビーか何かの経験者だろうか。年齢は三十代半ばから後半といったところか。清潔感のある装いをしているが、全体の印象はどう足掻いても「屈強な男」の一言に集約されるものだった。

 その男が、バーテンダーに向かって艶然と微笑み、こう言った。

「ねえ、この子ったらあたしの顔を見て固まっちゃってるじゃない。そんなに珍しいかしら? 髭面のオネエがカクテルを嗜んじゃいけないなんて法律、この国にあったかしらね」

 声の質そのものは低いのに、語尾が跳ねるように柔らかい。その言葉遣いと、視覚情報の凄まじい落差に、脳の処理速度が一瞬だけ遅延を起こした。

 バーテンダーの若い男が「いえ、決してそのようなわけでは」と狼狽する傍らで、髭面の男はカクテルグラスを指先でくるりと優雅に回し、愉快そうに喉を鳴らした。

 オネエ。

 この外見で、オネエ。頭の中で二つの相反する情報を結合させようと試みるが、どうにも上手くいかない。

 俺は常日頃から、人間を観察し、適切なカテゴリーへと分類することに慣れている。営業という仕事は、その観察眼によって成り立っていると言っても過言ではない。相手がどのような人種かを正確に把握できれば、それに応じた適切な距離を保つことができる。距離さえ測れれば、俺の「防壁」は常に安全だ。

 だが、目の前の男は、俺が持つどの分類項目にも収まりきらなかった。

「あら」
 不意に、視線が絡んだ。

 俺が注視していたことに気づいたらしく、髭面の男がグラスを持ったまま首を傾げ、にっと口角を上げた。整った顔立ちというわけではないが、笑うと不思議なほど人懐こい愛嬌が滲む。

「お隣、空いているかしら?」
 返事を待つ間もなく、男はグラスを手に席を移動してきた。

 隣に座った瞬間、ポロシャツの襟元から、微かに柑橘系のコロンの香りが漂った。その匂いが鼻腔の奥にまで届いた刹那、俺の身体のどこかで、小さなスイッチが音を立てて入るような奇妙な感覚があった。

 ――意味が、分からない。

「一人? こんないいバーで寂しいわねえ」

 男はカウンターに逞しい肘をつきながら、俺のグラスと、隣の空席に残されたままの千円札を交互に眺めた。

「振られたのかしら?」

 あまりに直球すぎる問いに、俺は一瞬だけ言葉を失った。反射的に否定しようとして、嘘を吐き通す気力が既に枯渇していることに気づく。

 さっきまで恋人が座っていた椅子に、今は得体の知れない髭面のオネエが鎮座している。状況の飛躍が大きすぎて、いつもの防壁を組み立て直す手順が、どうしても思い出せなかった。

「……まあ」
 曖昧に頷くと、男は大袈裟に眉を跳ね上げ、「あらー」と声を長く伸ばした。

「可哀想に。でもあなた、振られたような顔をちっともしていないわね。ぜんっぜん、平気な顔をしているもの」

 平気な顔。そうだろう。それは十年以上の歳月をかけて、血の滲むような思いで作り上げてきた、完璧な仮面なのだから。

 だがこの男は、俺が平気な顔をしていることを指摘しながらも、その実、平気ではない核心を既に見抜いている――そんな不穏な口ぶりだった。

「熊谷よ。あなたは?」
 名を告げられ、ビジネスの場で培われた条件反射が起動した。

「……宇佐見です」
「うさみ。へえ、可愛い名前。ウサちゃんって呼んでもいいかしら?」
「やめてください」

 即座に拒絶すると、熊谷はけらけらと豪快に笑った。逞しい肩が揺れ、ポロシャツの襟元がさらに開く。そこから覗く首筋の太い血管が、オレンジ色の照明の下で逞しく脈打っているのが見えた。喉仏が大きい。声が低いのはそのせいだろうと冷静に分析しながら、なぜ自分があの男の喉仏を凝視しているのかが分からず、俺は逃げるようにグラスに口をつけた。

 ハイボールの炭酸は既に抜けていた。薄い琥珀色の液体が、ぬるく喉を通っていく。

「あたしはね、こう見えて編集者なのよ。本を作る仕事」
 尋ねてもいないのに、熊谷は勝手に自己紹介を始めた。

 同じ出版業界の人間か、と思った瞬間に、微かな親近感のようなものが浮かびかける。だが、俺はそれをすぐに押し殺した。

「へえ」

「あら、興味なさそうね。いいのよ、別に。あたしは一方的に喋るのが好きなんだから。あなたは、ただ聞いてくれているだけでいいの」

 そう言いながら、熊谷はバーテンダーに「この子にもう一杯。同じものを」と、独断で注文を重ねた。断ろうとした手が止まる。差し出された新しいグラスを、俺は無意識に受け取ってしまった。ここで突き返すのは不自然だという打算だ。

 熊谷は、本当によく喋る男だった。

 今日誰と会ったか、何を食べたか、担当している作家がいかに偏屈で手を焼くか。話題は次から次へと飛躍するが、不思議と散漫な印象は与えない。言葉の一つひとつに、心地よいリズムがあった。毒舌を交えているはずなのに、その語り口はどこか柔らかい。言葉の棘が、あのオネエ口調によって丁寧にアイロンをかけられたように、丸く整えられていた。

 これが計算された演技なのか、それとも天然の気質なのかを見極めようとするが、どうしても焦点が合わない。俺の人間分析が機能しない相手に出会ったのは、これで二人目だった。

 一人目は――十二年前にいた。

「ねえ、ウサちゃん」
「……宇佐見です」
「宇佐見くん。あなた、ずっと鎧を着ているでしょう」

 三杯目のハイボールに唇をつけた、その瞬間だった。

 アルコールがちょうど頭の奥に回り始めた絶妙な頃合いで、その言葉は、驚くほど深く俺の胸に突き刺さった。
 鎧。

 去っていった彼女には「壁」と言われた。だが、熊谷は「鎧」と言った。

 壁とは外側から眺めた際の障害物であり、鎧とは着ている本人だけが実感する拘束具だ。この男は、出会ってから僅か三十分ほどで、俺が内側から感じている方の言葉を、正確に選び取っていた。

「……何ですか、藪から棒に」

「藪から棒じゃないわよ。あたし、ずっと見ていたんだから。あなたの笑い方、全部同じ角度なんですもの。あたし、こう見えても編集者なのよ。嘘は、すぐに見抜いちゃうんだから」

 心臓が、不規則に強く跳ねた。その音が外に漏れていないかを確認するように、俺は無意識に胸の前で腕を固く組んでいた。

「……鎧を着ていることが、そんなに悪いことですか」

 挑発ではなく、それは純然たる問いだった。声が思ったよりも低く掠れ、自分の耳にさえ違和感を覚えさせる。
 熊谷はカクテルグラスを置き、俺の顔を正面から見据えた。照明の加減で、彼の瞳の色が明るく透けて見える。その眼差しは、この距離で直視するには、あまりに近すぎた。

「悪くはないわよ。ただ――重いでしょう?」

 答えられなかった。答えなかったことが、既に雄弁な回答になっていることを、熊谷はすべて察しているようだった。

「あたしはね、全部さらけ出しちゃう主義なの」

 熊谷は自分のグラスの縁を指先でなぞりながら、少しだけ声のトーンを落とした。

「隠すよりも、見せてしまった方が楽なのよ。こう見えてあたし、男が好きなの。昔からずっと。隠していた時期もあったけれど、ある人に言われたのよ。『反応するか、しないか。それだけだ』って」

 反応するか、しないか。
 その言葉が、胸の奥にある冷たい壁に当たり、硬い音を立てて反響した。

「身体は、正直よ。反応するものにはするし、しないものにはしない。それを無理やりどうにかしようとするから、苦しくなるの。あたしはそれを聞いてから、隠すのをやめたわ。こっちが堂々としていれば、嫌な奴は勝手にいなくなる。そして、残ってくれる人だけが、側に残るのよ」

 さらけ出す。堂々とする。嫌な奴は、勝手にいなくなる。

 もしも、十二年前の俺に、誰かがその言葉を掛けてくれていたなら。

 そう思いかけて、俺は思考を断ち切った。過去を仮定で語るほど、無意味なことはない。今さらこの鎧を脱ぎ捨てたところで、その下にはもう、空虚な空洞以外には何も残っていない。

「そんな難しい顔しないでよ。今夜は飲みましょう。振られた夜には、お酒よ」
 熊谷が俺の背中を、ばんと力強く叩いた。

 大きく、分厚い掌だった。その熱がシャツ越しに背中に沁み込んでくる。熱が消え去るまでに、想像していたよりもずっと長い時間がかかり、俺はその間、自分の背中の一点だけに全ての意識が集中するのを止められなかった。

 四杯目から、記憶は急速に曖昧さを増し始めた。いつもは三杯までと決めているのに、なぜだろう。今夜はマイルールを無視して熊谷と過ごしたいと思った。

 熊谷が何かを口にし、それに反応して俺が笑う。そんな自分自身に驚いている。

 それはいつもの、あの計算された角度の笑みではなかった。口元が勝手に綻び、腹の底から空気が漏れ出すような自然な笑い方を、俺は一体いつ以来忘れていたのだろうか。熊谷はそれを見て、嬉しそうに目を細めた。「あら、ちゃんと笑えるじゃない」という声が耳の奥に残り、それがアルコールの悪戯なのか、それとも別の何かの作用なのか、判別がつかなくなっていた。

 五杯目のグラスを空にした頃には、視界の端が柔らかく溶け始めた。

 熊谷の話を聞いているのか、いないのかも判然としない。ただ隣に座る男の体温と、声の振動と、時折向けられる視線の温度だけを、全身のセンサーで拾い上げている自分がいた。

 半年間、彼女と過ごしても一度として感じることのなかった熱が、この髭面のオネエの隣にいるだけで、身体の底から逃れようもなく立ち上ってくる。

 反応するか、しないか。
 俺の身体は――どうしようもなく、反応していた。

 スーツのズボンの下で、隠しようのない変化が起きていた。

 熊谷は男だ。俺よりも背が高く、肩幅が広く、髭を蓄えた、オネエ口調で喋る三十七歳の男。その全てが、俺が守り抜いてきた「普通」の対極にあるはずなのに、身体だけは残酷なまでに正直だった。

 女性とベッドに入るとき、あれほど必死に思考を切り離さなければ機能しなかった身体が。

 ただ隣に座っているだけで、これほどまでに猛り狂っている。

 恐怖だった。同時に、その恐怖を正確に認識できないほど、アルコールとこの男の存在が、俺の輪郭を奪い去っている。

「ウサちゃん、随分と飲んだわね。大丈夫?」

 熊谷が俺の顔を覗き込んだ。距離が、近すぎる。髭の剃り跡が鮮明に見えるほど近く、柑橘系のコロンの奥にある、この男自身の体温の匂いがした。石鹸に似た清潔な香りの下に潜む、甘い肉の匂い。その匂いを肺の奥深くまで吸い込んだ瞬間、脳の奥で何かが、鮮やかに弾けた。

「……出ましょう」

 それは、自分の声だった。それが自分の意思によるものだと認識するまでに、数秒を要した。

 熊谷が目を瞬かせ、それから、先程までの軽妙な調子とは一線を画す声で「いいの?」と問いかけた。低く、静謐で、確かめるような響き。バーテンダーに冗談を飛ばしていた時とは、完全に別人の声だった。

 答える代わりに、俺は立ち上がった。

 足元がふらつき、カウンターに手をついた拍子に、熊谷の腕に触れた。

 腕が、太かった。シャツの袖の上からでも伝わる、圧倒的な熱量。俺はその腕から手を離すことができないまま、財布から紙幣を引き出し、カウンターへと乱雑に置いた。

 店を一歩出ると、六月の夜気がアルコールで火照った肌にべっとりと張り付いた。
 繁華街のネオンが視界を騒がしくちらつかせ、遠くで車のクラクションが鳴り響いている。

 熊谷が隣を歩いていた。俺の数歩先を行くその背中は、想像していたよりもずっと、ずっと大きかった。肩甲骨の逞しい形がポロシャツの上から透け、引き締まった腰へと続くラインは、紛れもなく男の身体だった。

 そしてその事実が、俺の身体をさらに激しく昂ぶらせていた。

「ホテルなら、あっちにあるわよ」

 熊谷が、振り返らずに言った。

 声の温度が、先程とは明らかに変わっていた。オネエ言葉という形骸は保たれているものの、その奥底に別の濃密な色が滲み出し、俺の鼓膜を震わせる。

 俺は何も答えず、ただ熊谷の広い背中を追って歩を進めた。

 脳内の冷静な残滓が、「やめろ、明日の朝に後悔するぞ」と必死に叫んでいる。だが、俺の身体はもう、そちら側の正論には、一瞥もくれてはいなかった。

 ラブホテルの自動ドアが開いた時、無機質な蛍光灯の白い光が目に刺さった。

 パネルの前で熊谷が「どの部屋がいいかしら?」と尋ねてきたが、そんなことはどうでもよかった。適当なボタンを一つ押し、鍵を受け取る。

 エレベーターの中で二人きりになった瞬間、閉じた扉の鏡面に映し出された、自分の顔が見えた。

 完璧に整えていたはずの髪は乱れ、ネクタイは無様に緩み、目は据わっている。そこに映る自分は、俺の知らない、全くの赤の他人に見えた。

 隣に立つ熊谷の貌が、同じ鏡の中に並んでいた。

 熊谷は、俺をじっと見ていた。視線が複雑に絡み合い、決して離れない。俺よりも十二歳も年上の、この男の瞳に宿っているものが何なのか、酔った頭では読み解くことができなかった。

 ただ、その目が、不思議と怖くはなかった。

 ――怖くないという事実が、今の俺には一番、怖く感じた。

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