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第五章:過去の向き合い方
父の真相
目が覚めると、社長室のソファで横になっていた。
身体を起こして周囲を見回す。向かい側のソファに鷹臣さんが座っていて、腕を組んで、じっと僕を見つめている。窓の外は暗くなっていて、オフィスの照明だけが部屋を照らしていた。
「父さんは?」
僕が聞くと、鷹臣さんが答えた。
「救急車で近くの病院にいった」
鷹臣さんの表情は穏やかで、怒っている様子はなかった。
「ついていかなかったんですか?」
「部下がついていった」
短い返事だった。僕は唇を噛んで、視線を落とす。
「泣いてる父さんを抱きしめるような仲なら、そっちについていけばいいのに」
嫌味が口から出てしまう。自分でも嫉妬だとわかっている。醜い感情を抱えきれずに、鷹臣さんに八つ当たりしているだけだと頭では理解できるのに、気持ちが落ち着かなかった。鷹臣さんが父さんを抱きしめていた姿が、目に焼きついて離れない。
鷹臣さんが小さくため息をついた。
立ち上がって僕の隣に移動すると、座り直す。距離が近くなって、鷹臣さんの体温が伝わってきた。鷹臣さんから香る父さんの匂いに、僕は耐えきれずに顔を背ける。
以前、僕の身体から篤志の匂いがしてイラつくと言っていた鷹臣さんの気持ちが初めてわかった。
他の誰かの匂いがするのが、こんなに嫌なものだとは思わなかった。鷹臣さんの身体に父さんの匂いが染み付いていて、胸が苦しくなる。
「監禁されてたそうだ」
鷹臣さんが静かに告げた。
「――は?」
驚いて顔を上げると、鷹臣さんが真剣な眼差しで僕を見つめていた。
「柊の父親の話だ」
鷹臣さんが説明を始める。僕は黙って、鷹臣さんの話に耳を傾けた。
「姿を消した日は、本当は俺の事務所に来て、返済の相談をして新しい職を見つけるつもりだった」
父さんが姿を消した日の朝を思い出す。いつもと変わらない朝だった。父さんは優しく微笑んで、「いってきます」と言って家を出た。
「お前に残した『あとよろしく』は、働く場所によってはもう会えなくなるかもしれないという気持ちだったらしい」
鷹臣さんの言葉に、僕の胸が締めつけられた。父さんは僕たちを捨てるつもりじゃなかった。会えなくなるかもしれないと思って、あの置き手紙を残したのだ。
「学費と借金と同時に賄えるような仕事があれば、そういう仕事を斡旋してもらうつもりだったと話していた」
鷹臣さんが続ける。
「身体を売ってでも、子どもたちには迷惑をかけたくないと話してたよ」
父さんの気持ちを想像して、涙が滲んできた。父さんは僕たちのために、身体を売る覚悟までしていたのだ。
「でも、恋人がそれを許さなかった」
鷹臣さんの声が低くなった。
「一緒に逃げようって言ってきて、断ると拉致され、監禁」
信じられない話だった。父さんの恋人が、父さんを拉致監禁したなんて。
「俺らに見つかりそうになるたびに、場所を移動して逃げ回ってた」
鷹臣さんが淡々と説明を続ける。
「監禁されていた間に、ヒートがきてそのまま妊娠。陣痛のふりして、慌てた恋人が外に出た隙に逃げ出してきたらしい」
父さんがどれほど怖かっただろう。どれほど苦しかっただろう。逃げ出すために陣痛のふりをして、必死に逃げてきたのだ。
「身体中にあざもあったし、手首にも痕が残っていた。嘘はついてないと思う」
鷹臣さんの話が耳には入ってくるのに、全く理解が追いつかなかった。まるで撥水加工された傘のように、言葉は当たるのに染み込んでいかない。表面上を滑り落ちていく感覚に、僕は混乱した。
監禁され、ここへ逃げてきた。身体中はあざだらけで、妊娠中で、今はその妊娠が危険な状態で病院に向かった。整理しようとするが、頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。
「父さんは……僕たちを裏切りたくて裏切ったわけじゃない?」
震える声で問いかけると、鷹臣さんが頷いた。
「そうだ」
きっぱりとした答えだった。僕の目から涙が溢れて、頬を伝って落ちる。
「じゃあ、僕は父さんに酷いことを――言った?」
自分が何を言ったのか、思い出そうとする。父さんを睨みつけて、軽蔑した目で見て、拒絶した。謝る父さんに、冷たい言葉を浴びせた。
「……いや、それは」
鷹臣さんが言葉を濁して、僕の手を握りしめた。温かい手のひらが、僕の冷たい手を包み込む。
「父さんが今危険なのは、僕のせい?」
涙で滲んだ視界の中で、鷹臣さんを見つめた。
「それは違う」
鷹臣さんが強く否定してくれる。
「そんなのわからなっ――」
言葉が途切れた。鷹臣さんがぎゅうっと抱きしめてくれて、温かい腕の中に包み込まれる。鷹臣さんの心臓の音が聞こえて、少しだけ落ち着いた。
鷹臣さんの胸ポケットに入っている携帯が鳴った。
僕から離れると、窓際へと移動して電話に出る。僕は涙を拭って、鷹臣さんの背中を見つめた。
「ああ、わかった」
短い会話で、鷹臣さんが電話を切った。僕に振り返ると、真剣な表情で告げる。
「帝王切開で産むことになったらしい。家族の同意が必要らしいから、病院に行こう」
帝王切開という言葉に、僕の心臓が跳ね上がった。
「僕がサインする?」
驚いて聞き返すと、鷹臣さんが頷いた。
「サインができる家族はお前しかいないだろ。歩は未成年だ」
歩はまだ小学生だ。僕がサインするしかなかった。
「――そっか。わかった」
僕が立ち上がると、鷹臣さんが車のキーを手にした。社長室を出て、エレベーターに乗る。沈黙の中、下降していく感覚が身体に伝わってきた。
◇◇◇
長い一日だった。
僕は家のリビングのソファに深く座り込んで天井を見上げた。白い天井が視界いっぱいに広がっていて、照明の光が眩しい。
僕たちに新しい家族が増えた。
妹が産まれた。
可愛かった。産まれてすぐに抱っこさせてもらったら、ふにゃふにゃしていて小さくて壊れそうだった。小さな手が僕の指を握って、温かい体温が伝わってくる。初めて見る妹の顔に、涙が溢れた。
父さんも、妹も無事だった。
鉄平さんに連れられてきた歩も妹と新生児室のガラス越しに対面した。歩が嬉しそうに笑っていて、ガラスに手を当てて妹を見つめていた。
手術後、麻酔から目覚めた父さんと少し話をしてから帰ってきた。僕が勝手に誤解したことを謝罪した。父さんは泣きながら「ごめんね」と繰り返して、僕の手を握りしめていた。
鷹臣さんは病院まで僕を送って、誰かと電話をした後に「社に戻る」と一言だけ告げて車で戻っていってしまった。
微妙なままだ。
今日は家に帰ってくるのだろうか。頬を叩いたことを、まだ怒っているのだろうか。不安が胸に広がって、落ち着かなかった。
深夜三時、玄関の鍵が回る音がして僕は目が覚めた。
クッションを抱きしめたまま、ソファで寝ていたらしい。身体を起こすと玄関へと小走りで向かう。心臓が激しく跳ねて、期待と不安が入り混じった。
サーチライトで玄関が明るく灯されると、白いワイシャツに血が飛び散っている鷹臣さんが入って来た。
「お……おかえりなさい」
声が震えた。鷹臣さんの姿を見て、安堵と驚きが同時に押し寄せてくる。
「起きてたのか」
鷹臣さんが僕を見て、小さく笑った。
「――血が」
僕が指摘すると、鷹臣さんが自分のシャツを見下ろした。襟や胸に飛んでいる赤黒い染みが、照明に照らされて浮かび上がっている。
「ああ、これ。ちょっとな」
大したことないと言わんばかりに苦笑する鷹臣さんに、僕は不安になった。
「手も」
僕は鷹臣さんの手を掴んだ。甲についている痣を見て、指摘する。青紫色に変色していて、腫れている。
「これは、まあ……ぶつけた」
曖昧に答える鷹臣さんに、僕は眉を寄せた。
「ぶつけた?」
「人の頬骨に軽く?」
鷹臣さんが言い訳するように続ける。
「軽く?」
僕が聞き返すと、鷹臣さんが観念したように告白した。
「――殴った」
低い声だった。僕の心臓が跳ね上がる。
「誰を?」
恐る恐る聞くと、鷹臣さんが真剣な顔で答えた。
「柊の父親の恋人。鉄平が連れてきたから、こっちで丁重に保護した」
保護という言葉に、僕は首を傾げた。
「保護なの?」
「支払いが終わるまでは、きっちりとこちらの監視下で働いてもらう」
鷹臣さんがきっぱりと告げる。父さんを監禁していた恋人を、鷹臣さんが捕まえたのだ。
「父さんはどうなるの?」
僕が聞くと、鷹臣さんが靴を脱いで家にあがった。ネクタイを緩めながら、廊下を歩く。僕は後ろを追いかけていった。
「借金はもともと恋人のものだから。退院すればもとの生活に戻れる」
鷹臣さんが振り返らずに答える。僕は鷹臣さんの背中を見つめながら、恐る恐る聞いた。
「僕たちは、ここを追い出される?」
声が震えた。父さんが戻ってきたら、僕たちはここにいる理由がなくなる。鷹臣さんは僕たちを追い出すだろうか。
「――いや、好きなだけいればいい」
鷹臣さんが立ち止まって答えた。優しい声に、僕の胸が温かくなる。
「鷹臣さんは? 僕たちがいたら迷惑?」
不安で胸がいっぱいになって、質問が止まらなかった。リビングに入ると、鷹臣さんが足を止めて振り返った。
「柊、何を不安がっている?」
真剣な眼差しで、僕を見つめてくる。僕は唇を噛んで、視線を落とした。
「……鷹臣さん、頬を叩いてごめんなさい」
謝ると、鷹臣さんが首を傾げた。
「あ? ああ、昼間の話か」
忘れていたような口調に、僕は驚いた。
「叩くつもりはなかったんですけど、感情が抑えきれなくて」
言い訳のように続けると、鷹臣さんが小さく笑った。
「気にしてない。なんだったら忘れてたくらいだ」
鷹臣さんが僕に近づいてくる。距離が縮まって、心臓が激しく跳ねた。
「それで、頬を叩いたから俺が怒って出て行けって言われると思ったのか?」
問いかけられて、僕は首を横に振った。
「違う……けど」
言葉が詰まる。鷹臣さんが僕の顔を覗き込んできて、息が詰まった。
「生活費を浮かすためにここに引っ越しただけだったし、父さんが帰って来たなら、帰れって言われるかと」
本音を吐き出すと、鷹臣さんが眉を寄せた。
「言うと思うか?」
低く問いかけられて、僕は視線を逸らした。鷹臣さんが僕を抱きしめる。強く腕の中に包み込まれて、温かい体温が伝わってきた。
「柊がいない生活は耐えられない」
鷹臣さんが囁いた。耳元で聞こえる低い声に、僕の心臓が大きく跳ねる。
顔を上げると、鷹臣さんが唇を重ねてきた。甘く濃厚なキスに、僕は目を閉じる。舌が絡み合って、唾液が混じり合った。息が苦しくなって、膝の力が抜けていく。
唇を離すと、目を合わせた。
鷹臣さんの瞳が優しく細められていて、愛おしそうに僕を見つめている。
「歩もまた転校するのは可哀想だろ」
鷹臣さんが優しく告げる。
「引っ越しを考えるなら、歩が中学生になるときに考えてくれ」
鷹臣さんの言葉に、僕の目から涙が溢れた。嬉しくて、安堵して、胸がいっぱいになる。
「――ありがとうございます」
涙を流しながら告げると、鷹臣さんが眉を寄せた。
「泣くな。お前の涙は見たくないって言っただろ」
優しく叱られて、僕は笑った。鷹臣さんが目尻から零れる涙を吸い取ってくれる。優しい唇の感触に、僕の胸が温かくなった。
鷹臣さんの腕の中で、僕は目を閉じた。長い一日が終わって、ようやく安心できた。父さんと妹は無事で、僕たちはここに残れる。鷹臣さんが僕を愛してくれている。
幸せだと思った。
こんなに幸せを感じられる日が来るなんて、一年前の僕には想像もできなかった。父さんの借金に苦しんでいた頃が、遠い昔のように感じられる。
鷹臣さんが僕の髪を撫でてくれた。
優しい手つきに、僕は身体を委ねた。鷹臣さんの心臓の音が聞こえて、温もりが伝わってくる。
「愛してる」
鷹臣さんが囁いた。僕の心臓が大きく跳ねて、顔が熱くなる。
「僕も……愛してる」
小さく囁き返すと、鷹臣さんが嬉しそうに笑った。額にキスを落として、優しく抱きしめてくれる。
鷹臣さんの腕の中で、僕は幸せを噛みしめた。
身体を起こして周囲を見回す。向かい側のソファに鷹臣さんが座っていて、腕を組んで、じっと僕を見つめている。窓の外は暗くなっていて、オフィスの照明だけが部屋を照らしていた。
「父さんは?」
僕が聞くと、鷹臣さんが答えた。
「救急車で近くの病院にいった」
鷹臣さんの表情は穏やかで、怒っている様子はなかった。
「ついていかなかったんですか?」
「部下がついていった」
短い返事だった。僕は唇を噛んで、視線を落とす。
「泣いてる父さんを抱きしめるような仲なら、そっちについていけばいいのに」
嫌味が口から出てしまう。自分でも嫉妬だとわかっている。醜い感情を抱えきれずに、鷹臣さんに八つ当たりしているだけだと頭では理解できるのに、気持ちが落ち着かなかった。鷹臣さんが父さんを抱きしめていた姿が、目に焼きついて離れない。
鷹臣さんが小さくため息をついた。
立ち上がって僕の隣に移動すると、座り直す。距離が近くなって、鷹臣さんの体温が伝わってきた。鷹臣さんから香る父さんの匂いに、僕は耐えきれずに顔を背ける。
以前、僕の身体から篤志の匂いがしてイラつくと言っていた鷹臣さんの気持ちが初めてわかった。
他の誰かの匂いがするのが、こんなに嫌なものだとは思わなかった。鷹臣さんの身体に父さんの匂いが染み付いていて、胸が苦しくなる。
「監禁されてたそうだ」
鷹臣さんが静かに告げた。
「――は?」
驚いて顔を上げると、鷹臣さんが真剣な眼差しで僕を見つめていた。
「柊の父親の話だ」
鷹臣さんが説明を始める。僕は黙って、鷹臣さんの話に耳を傾けた。
「姿を消した日は、本当は俺の事務所に来て、返済の相談をして新しい職を見つけるつもりだった」
父さんが姿を消した日の朝を思い出す。いつもと変わらない朝だった。父さんは優しく微笑んで、「いってきます」と言って家を出た。
「お前に残した『あとよろしく』は、働く場所によってはもう会えなくなるかもしれないという気持ちだったらしい」
鷹臣さんの言葉に、僕の胸が締めつけられた。父さんは僕たちを捨てるつもりじゃなかった。会えなくなるかもしれないと思って、あの置き手紙を残したのだ。
「学費と借金と同時に賄えるような仕事があれば、そういう仕事を斡旋してもらうつもりだったと話していた」
鷹臣さんが続ける。
「身体を売ってでも、子どもたちには迷惑をかけたくないと話してたよ」
父さんの気持ちを想像して、涙が滲んできた。父さんは僕たちのために、身体を売る覚悟までしていたのだ。
「でも、恋人がそれを許さなかった」
鷹臣さんの声が低くなった。
「一緒に逃げようって言ってきて、断ると拉致され、監禁」
信じられない話だった。父さんの恋人が、父さんを拉致監禁したなんて。
「俺らに見つかりそうになるたびに、場所を移動して逃げ回ってた」
鷹臣さんが淡々と説明を続ける。
「監禁されていた間に、ヒートがきてそのまま妊娠。陣痛のふりして、慌てた恋人が外に出た隙に逃げ出してきたらしい」
父さんがどれほど怖かっただろう。どれほど苦しかっただろう。逃げ出すために陣痛のふりをして、必死に逃げてきたのだ。
「身体中にあざもあったし、手首にも痕が残っていた。嘘はついてないと思う」
鷹臣さんの話が耳には入ってくるのに、全く理解が追いつかなかった。まるで撥水加工された傘のように、言葉は当たるのに染み込んでいかない。表面上を滑り落ちていく感覚に、僕は混乱した。
監禁され、ここへ逃げてきた。身体中はあざだらけで、妊娠中で、今はその妊娠が危険な状態で病院に向かった。整理しようとするが、頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。
「父さんは……僕たちを裏切りたくて裏切ったわけじゃない?」
震える声で問いかけると、鷹臣さんが頷いた。
「そうだ」
きっぱりとした答えだった。僕の目から涙が溢れて、頬を伝って落ちる。
「じゃあ、僕は父さんに酷いことを――言った?」
自分が何を言ったのか、思い出そうとする。父さんを睨みつけて、軽蔑した目で見て、拒絶した。謝る父さんに、冷たい言葉を浴びせた。
「……いや、それは」
鷹臣さんが言葉を濁して、僕の手を握りしめた。温かい手のひらが、僕の冷たい手を包み込む。
「父さんが今危険なのは、僕のせい?」
涙で滲んだ視界の中で、鷹臣さんを見つめた。
「それは違う」
鷹臣さんが強く否定してくれる。
「そんなのわからなっ――」
言葉が途切れた。鷹臣さんがぎゅうっと抱きしめてくれて、温かい腕の中に包み込まれる。鷹臣さんの心臓の音が聞こえて、少しだけ落ち着いた。
鷹臣さんの胸ポケットに入っている携帯が鳴った。
僕から離れると、窓際へと移動して電話に出る。僕は涙を拭って、鷹臣さんの背中を見つめた。
「ああ、わかった」
短い会話で、鷹臣さんが電話を切った。僕に振り返ると、真剣な表情で告げる。
「帝王切開で産むことになったらしい。家族の同意が必要らしいから、病院に行こう」
帝王切開という言葉に、僕の心臓が跳ね上がった。
「僕がサインする?」
驚いて聞き返すと、鷹臣さんが頷いた。
「サインができる家族はお前しかいないだろ。歩は未成年だ」
歩はまだ小学生だ。僕がサインするしかなかった。
「――そっか。わかった」
僕が立ち上がると、鷹臣さんが車のキーを手にした。社長室を出て、エレベーターに乗る。沈黙の中、下降していく感覚が身体に伝わってきた。
◇◇◇
長い一日だった。
僕は家のリビングのソファに深く座り込んで天井を見上げた。白い天井が視界いっぱいに広がっていて、照明の光が眩しい。
僕たちに新しい家族が増えた。
妹が産まれた。
可愛かった。産まれてすぐに抱っこさせてもらったら、ふにゃふにゃしていて小さくて壊れそうだった。小さな手が僕の指を握って、温かい体温が伝わってくる。初めて見る妹の顔に、涙が溢れた。
父さんも、妹も無事だった。
鉄平さんに連れられてきた歩も妹と新生児室のガラス越しに対面した。歩が嬉しそうに笑っていて、ガラスに手を当てて妹を見つめていた。
手術後、麻酔から目覚めた父さんと少し話をしてから帰ってきた。僕が勝手に誤解したことを謝罪した。父さんは泣きながら「ごめんね」と繰り返して、僕の手を握りしめていた。
鷹臣さんは病院まで僕を送って、誰かと電話をした後に「社に戻る」と一言だけ告げて車で戻っていってしまった。
微妙なままだ。
今日は家に帰ってくるのだろうか。頬を叩いたことを、まだ怒っているのだろうか。不安が胸に広がって、落ち着かなかった。
深夜三時、玄関の鍵が回る音がして僕は目が覚めた。
クッションを抱きしめたまま、ソファで寝ていたらしい。身体を起こすと玄関へと小走りで向かう。心臓が激しく跳ねて、期待と不安が入り混じった。
サーチライトで玄関が明るく灯されると、白いワイシャツに血が飛び散っている鷹臣さんが入って来た。
「お……おかえりなさい」
声が震えた。鷹臣さんの姿を見て、安堵と驚きが同時に押し寄せてくる。
「起きてたのか」
鷹臣さんが僕を見て、小さく笑った。
「――血が」
僕が指摘すると、鷹臣さんが自分のシャツを見下ろした。襟や胸に飛んでいる赤黒い染みが、照明に照らされて浮かび上がっている。
「ああ、これ。ちょっとな」
大したことないと言わんばかりに苦笑する鷹臣さんに、僕は不安になった。
「手も」
僕は鷹臣さんの手を掴んだ。甲についている痣を見て、指摘する。青紫色に変色していて、腫れている。
「これは、まあ……ぶつけた」
曖昧に答える鷹臣さんに、僕は眉を寄せた。
「ぶつけた?」
「人の頬骨に軽く?」
鷹臣さんが言い訳するように続ける。
「軽く?」
僕が聞き返すと、鷹臣さんが観念したように告白した。
「――殴った」
低い声だった。僕の心臓が跳ね上がる。
「誰を?」
恐る恐る聞くと、鷹臣さんが真剣な顔で答えた。
「柊の父親の恋人。鉄平が連れてきたから、こっちで丁重に保護した」
保護という言葉に、僕は首を傾げた。
「保護なの?」
「支払いが終わるまでは、きっちりとこちらの監視下で働いてもらう」
鷹臣さんがきっぱりと告げる。父さんを監禁していた恋人を、鷹臣さんが捕まえたのだ。
「父さんはどうなるの?」
僕が聞くと、鷹臣さんが靴を脱いで家にあがった。ネクタイを緩めながら、廊下を歩く。僕は後ろを追いかけていった。
「借金はもともと恋人のものだから。退院すればもとの生活に戻れる」
鷹臣さんが振り返らずに答える。僕は鷹臣さんの背中を見つめながら、恐る恐る聞いた。
「僕たちは、ここを追い出される?」
声が震えた。父さんが戻ってきたら、僕たちはここにいる理由がなくなる。鷹臣さんは僕たちを追い出すだろうか。
「――いや、好きなだけいればいい」
鷹臣さんが立ち止まって答えた。優しい声に、僕の胸が温かくなる。
「鷹臣さんは? 僕たちがいたら迷惑?」
不安で胸がいっぱいになって、質問が止まらなかった。リビングに入ると、鷹臣さんが足を止めて振り返った。
「柊、何を不安がっている?」
真剣な眼差しで、僕を見つめてくる。僕は唇を噛んで、視線を落とした。
「……鷹臣さん、頬を叩いてごめんなさい」
謝ると、鷹臣さんが首を傾げた。
「あ? ああ、昼間の話か」
忘れていたような口調に、僕は驚いた。
「叩くつもりはなかったんですけど、感情が抑えきれなくて」
言い訳のように続けると、鷹臣さんが小さく笑った。
「気にしてない。なんだったら忘れてたくらいだ」
鷹臣さんが僕に近づいてくる。距離が縮まって、心臓が激しく跳ねた。
「それで、頬を叩いたから俺が怒って出て行けって言われると思ったのか?」
問いかけられて、僕は首を横に振った。
「違う……けど」
言葉が詰まる。鷹臣さんが僕の顔を覗き込んできて、息が詰まった。
「生活費を浮かすためにここに引っ越しただけだったし、父さんが帰って来たなら、帰れって言われるかと」
本音を吐き出すと、鷹臣さんが眉を寄せた。
「言うと思うか?」
低く問いかけられて、僕は視線を逸らした。鷹臣さんが僕を抱きしめる。強く腕の中に包み込まれて、温かい体温が伝わってきた。
「柊がいない生活は耐えられない」
鷹臣さんが囁いた。耳元で聞こえる低い声に、僕の心臓が大きく跳ねる。
顔を上げると、鷹臣さんが唇を重ねてきた。甘く濃厚なキスに、僕は目を閉じる。舌が絡み合って、唾液が混じり合った。息が苦しくなって、膝の力が抜けていく。
唇を離すと、目を合わせた。
鷹臣さんの瞳が優しく細められていて、愛おしそうに僕を見つめている。
「歩もまた転校するのは可哀想だろ」
鷹臣さんが優しく告げる。
「引っ越しを考えるなら、歩が中学生になるときに考えてくれ」
鷹臣さんの言葉に、僕の目から涙が溢れた。嬉しくて、安堵して、胸がいっぱいになる。
「――ありがとうございます」
涙を流しながら告げると、鷹臣さんが眉を寄せた。
「泣くな。お前の涙は見たくないって言っただろ」
優しく叱られて、僕は笑った。鷹臣さんが目尻から零れる涙を吸い取ってくれる。優しい唇の感触に、僕の胸が温かくなった。
鷹臣さんの腕の中で、僕は目を閉じた。長い一日が終わって、ようやく安心できた。父さんと妹は無事で、僕たちはここに残れる。鷹臣さんが僕を愛してくれている。
幸せだと思った。
こんなに幸せを感じられる日が来るなんて、一年前の僕には想像もできなかった。父さんの借金に苦しんでいた頃が、遠い昔のように感じられる。
鷹臣さんが僕の髪を撫でてくれた。
優しい手つきに、僕は身体を委ねた。鷹臣さんの心臓の音が聞こえて、温もりが伝わってくる。
「愛してる」
鷹臣さんが囁いた。僕の心臓が大きく跳ねて、顔が熱くなる。
「僕も……愛してる」
小さく囁き返すと、鷹臣さんが嬉しそうに笑った。額にキスを落として、優しく抱きしめてくれる。
鷹臣さんの腕の中で、僕は幸せを噛みしめた。
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