支配者の刻印〜愛を知らない獣が、借金オメガを溺愛する〜

ひなた翠

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第六章:本当の絆

歩の恋人

 仕事を終えてマンションの玄関を開けると、味噌と醤油の混じった温かな匂いが廊下の奥から漂ってきた。靴を脱ぎながら深く息を吸い込むと、疲労で強張っていた肩の力がほんの少しだけ緩んでいくのがわかった。

 リビングに足を踏み入れると、鷹臣がキッチンに立っていた。フライパンを傾けて皿に盛りつける手つきは手慣れたもので、油はねを気にして腕まくりをしたシャツの袖口から覗く逞しい前腕が、妙に家庭的な光景と釣り合わない。付き合い始めた頃は卵焼きすらまともに作れなかった人間と同一人物だとは信じ難い上達ぶりだった。帰宅が遅い日が続くうちに、疲れている僕の代わりにと少しずつ包丁の使い方を覚え、歩の好き嫌いまで把握して献立を組んでくれるようになった姿を見ると、感謝と申し訳なさが同時に胸を満たした。

「おかえり」
「ただいま。ありがとう、いい匂い」

 鷹臣が振り返らずに短く頷いた。換気扇の低い音と、味噌汁が静かに煮立つ音だけがキッチンに響いている。

 スーツのジャケットを脱いでハンガーに掛け、部屋着に着替えてリビングに戻ると、室内の静けさが妙に引っかかった。普段ならテレビの音量を控えめにして観ている歩の気配や、試験勉強の鉛筆を走らせるかすかな音が聞こえてくるはずなのに、どちらもなかった。廊下に出て歩の部屋を覗くと、照明は消えたままで、ベッドの上も綺麗に整えられている。携帯を開いてメッセージの着信を確認したが、歩からの連絡は一件も届いていなかった。

「歩は? 家にいないみたいだけど、連絡あった?」
 配膳を終えた鷹臣の背中に声をかけた。

「同じマンションに同級生がいるから。試験前でそいつの家で勉強してくる、お泊まりで――って昼過ぎに言ってた」
「え? 誰?」

 思わず声が裏返った。同じマンションに同級生がいるなんて、全く知らない情報だった。歩が出かける前に一言くらい兄に相談があってもいいはずなのに。

 胸の奥がチクリと痛んだ。仕事が忙しくて帰宅時間が遅い日ばかり続けば、必然的に歩と鷹臣の間で交わされる会話は増えていくのだろう。頭では当然だと理解していても、兄である自分を飛び越えて鷹臣のほうに先に伝えられた悔しさは、どうにも抑えが利かなかった。

「気になるか?」
 鷹臣がこちらを振り向いた。口元にニヤリと浮かぶ意地の悪い笑みが、嫌でも目に入る。

「気になるに決まってる」
「恋人だ。中学のときから付き合ってるらしい」

 恋人。その一語が鼓膜を叩いた瞬間、頭の中が真っ白になった。鷹臣は僕の動揺などまるで気にかけず、冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出しながら淡々と言葉を続けた。

「高校生になってすぐに、下の階の単身者用の部屋を借りて引っ越してきた」
「は?」

 冷ややかな声が、自分の喉の奥から飛び出した。高校生の分際で、好きな相手のために同じマンションに引っ越してくるとは、いったいどういう了見なのか。まだ親の庇護下にいる年齢の人間が自分の判断だけで住まいを変えられるものなのか。それとも裕福な家庭の金を自由に使って、やりたい放題に振る舞っているアルファなのだろうか。苛立ちが腹の底からせり上がってくる。

「真面目なアルファだ」
「真面目なアルファが、まだ高校生なのに恋人のいる同じマンションに引っ越してくるはずないでしょう!」

 声のボリュームが上がっているのは自覚していた。苛立ちと焦りと得体の知れない不安が胸の中で絡み合い、抑えようとするほどに膨れ上がっていく。

「しかもアルファって――あの学校はアルファとオメガを完全に分離して教育するはずでしょう。アルファに襲われる心配がないからって、あの学校を選んだのは鷹臣さんじゃないですか!」

 歩が受験したいと言い出したとき、オメガが安全に通える環境ならいいよと僕も承諾した。鷹臣と歩と三人で何度も話し合いを重ねて、教育方針と安全性の両方に納得して決めた学校だった。歩の将来を最優先にして選んだはずなのに、その前提が丸ごと覆されている。

「ヤリモクに決まってる。試験勉強を口実にして、歩を――」
「正直に話す」

 鷹臣の声色が、不意に低く変わった。軽口を叩いていたさっきまでの空気が消え、真剣な響きが台所の空間を満たした。

「歩がヒート中なんだ」
「はあ? 余計に一緒にいちゃまずいですよね」

 血の気が引いた。ヒート中のオメガがアルファの部屋に泊まるなど、危険以外の何物でもない。すぐにでも歩を迎えに行かなければと身体が前のめりになった。

「二人はとっくにそういう関係だ。挨拶にも来てる。二人揃って土下座して、交際を認めてほしいと頭を下げてきた」

 鷹臣が腕を組み、カウンターに背を預けた。感情を排した落ち着いた口調で、僕が知らなかった事実を次々と並べていく。

歩のどんな体調の変化にもすぐに対応できるようにと、マンションの下の階に引っ越してきた経緯。親の金には一切頼らせていないという条件を課したうえで、プログラミングとゲームアプリの開発で得た収入だけで生活を賄っている現状。親に頼るくらいなら別れろと言い渡してある覚悟。

 鷹臣の口から語られる情報のひとつひとつが、僕の全く知らない歩の世界だった。弟がいつの間にか、兄の手の届かない場所で自分の人生を築き始めていたのだと突きつけられた気分だ。

「他に質問は? ヒート中の歩を連れ帰るか?」
「――僕には、挨拶がなかったけど」

 怒鳴りたかったはずの声は、怒りではなく寂しさに喉を締めつけられて掠れた。情けないくらい小さな声しか出てこなかった。

「お兄ちゃんに言ったら絶対に反対されるから、黙っていてほしいって歩に頼まれてた」
「おかしくない? 僕よりも先に鷹臣さんに話すって」
「一応、保護者的な立ち位置だからな」

「僕だって保護者だよ」
「柊の場合は、感情論で反対するだろ。歩にはとっくに見抜かれてる」

 反論しようとして、口を開いたまま言葉が喉に詰まった。図星を突かれた痛みが、みぞおちの奥で鈍く疼いている。鷹臣は僕の沈黙を見透かすように一拍置いてから、静かに歩の言葉を伝えてきた。

「『大事にされるのは嬉しいけれど、年齢が若いからってだけで交際を反対されたくない。ずっと守られてきたし、これからもお兄ちゃんは僕を守り続けると思う。でもこの恋愛だけには反対されたくない』って話してた」

 弟の声が聞こえてくるようだった。真っ直ぐな瞳で、一生懸命に言葉を選びながら伝えようとしている歩の姿が、まぶたの裏に鮮明に浮かんだ。あの子はいつだって、兄を心配させまいと明るく振る舞ってきた。

 困っていることがあっても、笑顔の裏に隠して一人で抱え込む癖がある。恋人のことを黙っていたのも、きっと同じ理由だろう。

「だからって――」
「柊の気持ちを理解したうえで、かなり厳しい条件を高校生に突きつけた。全部クリアしてきたから、俺は反対できなかった」

 鷹臣の声には感嘆にも似た響きが滲んでいた。あの鷹臣が認めるほどの相手なのかと思うと、苛立ちの中に針の先ほどの安堵が混じる。

「まあ、歩が泣いて帰宅した日には海に沈められる覚悟をしておけとは言ってある」
「勝手にそこまで……」

 声が震えた。知らないところで、弟の人生にかかわる大きな決断が交わされていた。兄である自分を蚊帳の外にして、鷹臣と歩と見知らぬアルファの間で。

「それでも歩と一緒にいたいと頭を下げた。父親の朔夜も承認してる。認めてやれ」

 認めろと言われて、はいそうですかと頷けるほど僕の感情は単純にはできていなかった。頭の中では鷹臣の言い分が正しいと理解していた。歩はもう子供ではない。自分で考えて、自分で選んで、自分の足で歩き出している。わかっているのに、胸の奥を掻き毟るような痛みが引いてくれなかった。

「今の柊は、口うるさい母親と変わらないぞ」
 静かに放たれた一言が、胸の真ん中に深く突き刺さった。

「――っ、もういい!」

 声を荒らげて背を向けた。目尻に滲む涙を悟られたくなくて、足早に寝室へ向かう僕の背中に、鷹臣の平坦な声が追いかけてきた。

「夕飯は?」
「いらない!」

 寝室の扉を閉めると、暗闇の中にひとりきりになった。ベッドの端に腰を下ろして両手で顔を覆うと、指の隙間から涙がこぼれ落ちた。怒っているのか、悲しいのか、寂しいのか、自分でもわからなかった。

 歩が恋をしている。大切な弟が誰かを好きになって、誰かに大切にされている。兄として素直に喜んでやるべきだと、頭ではわかっていた。わかっているのに、一番に教えてもらえなかった寂しさと、知らぬ間に弟が遠い場所へ行ってしまったような心細さが胸に刺さって抜けなかった。
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