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第十七話「元彼と元カノと今彼」
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「心臓がヒュッてなって、胸が抉られて――お化け屋敷にいるより心臓がおかしくなりそうだった」
バーカウンター内で人から隠れるように座り込んで、顔を覆う。冷たい床の感触が手のひらに伝わってきて、身体が震えていた。膝を抱えて丸くなり、できるだけ小さくなろうとする。隣で玲司が立ってグラスを磨いている音が聞こえて、規則的な音が僕の耳に響く。キュッキュッという音が心地よくて、少しだけ気持ちが落ち着いた。
玲司の革靴を見ながら、深いため息をついた。黒く光る革靴が目の前にあって、動こうとしても身体が言うことを聞かなかった。足が震えて、立ち上がれる気がしない。
「どうするの?」
玲司が低い声で問いかけてきて、僕は顔を上げた。
「どうもこうも――どうしたらいい?」
震える声で答えると、玲司が小さく息を吐く音が聞こえた。
「俺に聞かれても。今は環さんが対応しているからいいけど。彼氏の連れは楽しそうにくそ高いシャンパンを飲んでるよ」
玲司の言葉に、僕は唇を噛んだ。
あの後、黒瀬さんは玲司の対応に文句を言いながらも、帰っていった。
兄さんと一緒にいた女性は何かを察知したのか、それとも単純に興味があったのか分からないが――店に入ってみたいと兄さんの腕を引っ張った。「ねえ、こういうお店って初めて。ちょっと見てみたい」と言って、兄さんの腕に身体を擦り寄せていた。綺麗な女性で、兄さんの隣に立つ姿がよく似合っているように見えた。
兄さんもそれに同意して、今こうして店内にいる。
最初は僕を指名してきたが、僕が「無理、無理、無理」と連呼していたら、環さんが代わりに接客に入ってくれた。環さんの優しい声が聞こえて、女性の笑い声が店内に響いている。
「玲司、あの二人の支払いは僕の給料から天引きしてほしい」
顔を覆ったまま、小さく呟いた。
「まあ、一応環さんにはそう伝えておく」
玲司が答えて、グラスを磨く音が止まった。
「お願いします」
「あっ。彼氏さんが席を立って、こっちに来る」
玲司の言葉に、僕は身体を強張らせた。
「玲司、いちいち実況しなくていいから」
必死に訴えると、玲司が小さく笑う気配がした。
「千景、そこにいる?」
頭上で兄さんの声がして、僕は息を止めた。低く、優しい声で僕の名前を呼んでいる。
(怒っていないのだろうか?)
店の外で会ったときは、ひどく怖い顔をしていたように思う。
玲司がちらっと僕のほうを見るから、首を左右に激しく振って「いないと言って」と必死にアピールした。目で訴えて、手も振って、全身で訴える。
「いますよ」
玲司があっさりと裏切って、僕は玲司を睨みつけた。玲司が小さく肩をすくめて、笑っている。
「千景、出ておいで」
兄さんの声に、僕は立ち上がると「はい」と返事をした。立つと、ガクガクと足が震えていた。カウンター越しに兄さんと目が合い、心臓が跳ねた。
兄さんの視線が僕の全身を見て、ワンショルダーのドレス姿を確認していた。
「いろいろ聞きたいことはあるけど、今はバイト中だろうから、聞かない。その代わり、バイトが終わったら家に来て」
兄さんの言葉に、僕は頷いた。
「――はい」
素直に返事をしてから、「あっ」と小声をあげて、テーブル席に座る女性に視線を送った。環さんの隣で、楽しそうにシャンパンを飲んでいる女性が見える。
「あの人は……」
僕が尋ねると、兄さんの視線が動いて女性に向いた。すぐに僕に向き直ると、「部下だよ。さっき別れるところだったんだけど」と答えてくれた。
昨日も兄さんは、同じ香水の人を部下だと言っていた。たぶんきっと、同じ女性だと思う。二日連続で部下と会うものだろうかと、つい考えたくない方へと疑う気持ちが芽生えてしまう。
兄さんはズボンのポケットから財布を出すと、玲司に「チェックお願いします」とクレジットカードを差し出した。
「あ、ここは僕が……」
慌てて兄さんのクレジットカードを押し返しながら言いかけると、兄さんが優しく笑った。
「いいよ」
兄さんが支払いを済ませて、僕は店の外までお見送りに向かった。
「千景」
低い声で名前を呼ばれて、僕は息を止めた。
「バイトが終わったら、その格好のまま家に来て」
兄さんの言葉に、僕は目を見開いた。
「この……格好のまま?」
「ああ。ウィッグも、メイクも、そのドレスも」
「わかった」
小さく答えると、兄さんは僕の頭に手を置いた。優しく撫でられて、胸が熱くなる。
「待ってるから」
兄さんが去っていく後ろ姿を見送りながら、胸の高鳴りが止まらなかった。
(兄さん、格好いいなあ)
店内に戻ると女性はまだ環さんと楽しそうに話をしていた。
僕はバーカウンターにいる玲司に「ちょっと話してくる」と告げて、女性の席に向かった。兄さんと一緒にいた女性がどんなの人なのか。すごく気になった。
「あの……お連れの男性、帰られたみたいなんですけど」
僕が声をかけると、女性がちらっと僕を見た。鋭い視線が僕を捉えて、値踏みするように全身を見ていく。メイクや髪型、ドレスの着こなしまで、細かく採点されているような感じがして緊張する。
「あなた、彼を知ってるの?」
女性が睨んできて、僕は息を呑んだ。女性の声が低くて、威圧感がある。
「綾さん、さっきの男性と同じ会社なんですって」
環さんが補足するように教えてくれた。環さんの優しい声に、緊張が少しほぐれる。
「元彼です」
綾さんがツンとした表情で告げて、シャンパンを飲んだ。グラスを置く音が響いて、僕の肩が跳ねた。
(兄さんと付き合ってた人――)
部下じゃないじゃん……と、心の中で兄さんが昨日言っていた言葉に対してツッコミを入れる。
(元カノと会って、ワイシャツには香水の移り香)
店を出てから香水をかけてたって言ってたけど、それって本当なのだろうかとまた疑う心が出てくる。
「ああ、そうなんですね。前に仕事帰りに寄ったバーでお話を少ししたくらいです。確かそのとき、恋人と別れたばかりとおっしゃっていたので――」
僕が答えると、綾が頷いた。
「ああ、きっと、それ……私だと思います」
綾さんに隣に座ってと促されて、僕は隣に腰を落とした。柔らかいソファの心地よさに、緊張で凝り固まっていた身体が少しほぐれた気がした。
「伊織――って、さっきの人ね。出世頭なんですよ。そこそこ格好いいでしょう? 連れて歩くのには最高なんですよ。でも男としては欠陥品で、最悪――」
綾さんの言葉に、僕は胸が痛んだ。欠陥品という言葉が耳に突き刺さって、拳を握りしめる。爪が手のひらに食い込んで、痛みが走った。
もしこの場がプライベートだったら、彼女に対して頬を叩いていたかもしれない。苛立つ心をぐっと抑えて、相槌を打った。
「そう、なんですね」
できるだけ平静を装って答えると、綾さんが続けた。
「別れてすぐ、雰囲気が変わって。ああ、私と別れたくなくて、男磨きしてるんだって思ったの。いつ復縁してくれって言われるのか待ってたけど、全くこないから、こっちから仕事の相談っていうきっかけを作ってあげたの。なのに、食事だけで帰るから――意気地なしよね。こっちからチャンスあげてるのに」
綾さんの声が不満に満ちていた。はあ、とため息をつくと、綾さんがシャンパンを飲む。グラスが空になって、環さんがすぐにお酒を注いでいた。シャンパンが泡立つ音が聞こえて、綾さんが満足そうに笑った。
(食事だけで帰る――じゃあ、本当になにもなかったんだ)
「今夜もデートに誘ってあげて、わざわざホテル街まで行ったのに。断ったのよ。あそこまで行ったら、普通入るでしょう? ホテル! 信じられない」
綾さんが声を荒げて、僕は返答に困った。どう言葉を返していいか分からずに、環さんに視線を送ってしまう。
(兄さん、断ったんだ……)
『俺はまだ女性が抱けないよ。抱けるのは千景だけ――』
兄さんに言われた言葉を思い出した。兄さんには女性を抱くチャンスはあったのに、どうして断ってしまったのだろう。
僕としては、兄さんが女性を抱かなかったのは嬉しいけど、それで兄さんは良かったのだろうか。
「それは大変だったのね」
環さんが残念そうな表情を浮かべて、悲しそうな声を出す。
「きっと彼は真面目な方なのね」
続けて環さんが優しく言うと、綾さんが足を組んで悪態をついた。
「くそ真面目すぎ」
綾さんの声には不満と苛立ちを含まれていた。
「あなたはいいわよね。彼氏にすごい愛されてるみたいじゃない」
綾さんが僕を睨んできて、僕は身体を強張らせた。綾さんの視線がワンショルダーのドレスの隙間に向けられて、肌が露わになった部分を見ている。
「欠陥品を一年も愛してあげたっていうのに」
綾さんが吐き捨てるように言ってから、自嘲の笑みを浮かべる。僕はぎこちない笑みを返すと、ぐっと拳を握りしめる。
(愛してあげたって、なんで上から目線で言えるのだろう)
兄さんを欠陥品なんて言ってほしくない。兄さんはこの人と一年付き合って、その間中、ずっと苦しんでいたのに。病院にも通って、改善方法をきっと一生懸命模索していたはずなのに。努力も認めずに、ただ欠陥品って言葉で片付けるなんて――許せない。
怒りが込み上げてきて、息が荒くなる。環さんが僕の様子に気づいて、優しく微笑んだ。
「あら、ちかちゃん。玲司が呼んでるわ。行ってあげて」
環さんが助け船を出してくれて、僕は「失礼します」と挨拶をして席を立った。
イライラした心を抱えたまま、バーカウンターに戻ると、玲司が微笑んでいた。
「彼氏がバカな女に騙されなくてよかったな」
玲司の言葉に、僕は頷いた。
「兄さんの初めてが僕で良かったって、心の底から思った」
小さい声で呟くと、玲司が「そうだな」と頭を撫でてくれた。大きな手が優しく髪を撫でて、少し気持ちが落ち着く。
「ま、一悶着ありそうだけどな。今夜」
玲司が楽しそうに言って、僕は顔を上げた。
「――それ、言わないで」
僕が玲司を見上げると、ニヤリと口元を緩めて笑っている。玲司の笑顔が少し意地悪で、僕は頬を膨らませた。
「フラれたら、俺が付き合ってやるよ」
玲司が囁くように言って、僕は首を横に振った。
「フラれたら、一人でやけ酒するから。玲司には頼らない」
「元彼を頼れって」
「元彼だから頼らないの」
「復縁を望んでるんだけど?」
玲司が真顔で言って、僕は即答した。
「無理」
目を合わせると、僕たちは笑い合った。玲司の優しい笑顔が嬉しくて、胸が温かくなる。
玲司の気持ちは嬉しい。
玲司は僕が兄さんを好きだと知っていて、それを受け入れてくれた。その罪悪感に耐えきれなくなって、別れた。今でも玲司を傷つけてしまったと後悔している。
だからこそ、もう玲司の想いは受け取らないと決めていた。
「ちゃんと話し合わないと」
飲食店でバイトと誤魔化していたのは自分だから。逃げずに正直に話をしよう。怒られても、怒鳴られても……兄さんに正直な気持ちを伝えたい
バーカウンター内で人から隠れるように座り込んで、顔を覆う。冷たい床の感触が手のひらに伝わってきて、身体が震えていた。膝を抱えて丸くなり、できるだけ小さくなろうとする。隣で玲司が立ってグラスを磨いている音が聞こえて、規則的な音が僕の耳に響く。キュッキュッという音が心地よくて、少しだけ気持ちが落ち着いた。
玲司の革靴を見ながら、深いため息をついた。黒く光る革靴が目の前にあって、動こうとしても身体が言うことを聞かなかった。足が震えて、立ち上がれる気がしない。
「どうするの?」
玲司が低い声で問いかけてきて、僕は顔を上げた。
「どうもこうも――どうしたらいい?」
震える声で答えると、玲司が小さく息を吐く音が聞こえた。
「俺に聞かれても。今は環さんが対応しているからいいけど。彼氏の連れは楽しそうにくそ高いシャンパンを飲んでるよ」
玲司の言葉に、僕は唇を噛んだ。
あの後、黒瀬さんは玲司の対応に文句を言いながらも、帰っていった。
兄さんと一緒にいた女性は何かを察知したのか、それとも単純に興味があったのか分からないが――店に入ってみたいと兄さんの腕を引っ張った。「ねえ、こういうお店って初めて。ちょっと見てみたい」と言って、兄さんの腕に身体を擦り寄せていた。綺麗な女性で、兄さんの隣に立つ姿がよく似合っているように見えた。
兄さんもそれに同意して、今こうして店内にいる。
最初は僕を指名してきたが、僕が「無理、無理、無理」と連呼していたら、環さんが代わりに接客に入ってくれた。環さんの優しい声が聞こえて、女性の笑い声が店内に響いている。
「玲司、あの二人の支払いは僕の給料から天引きしてほしい」
顔を覆ったまま、小さく呟いた。
「まあ、一応環さんにはそう伝えておく」
玲司が答えて、グラスを磨く音が止まった。
「お願いします」
「あっ。彼氏さんが席を立って、こっちに来る」
玲司の言葉に、僕は身体を強張らせた。
「玲司、いちいち実況しなくていいから」
必死に訴えると、玲司が小さく笑う気配がした。
「千景、そこにいる?」
頭上で兄さんの声がして、僕は息を止めた。低く、優しい声で僕の名前を呼んでいる。
(怒っていないのだろうか?)
店の外で会ったときは、ひどく怖い顔をしていたように思う。
玲司がちらっと僕のほうを見るから、首を左右に激しく振って「いないと言って」と必死にアピールした。目で訴えて、手も振って、全身で訴える。
「いますよ」
玲司があっさりと裏切って、僕は玲司を睨みつけた。玲司が小さく肩をすくめて、笑っている。
「千景、出ておいで」
兄さんの声に、僕は立ち上がると「はい」と返事をした。立つと、ガクガクと足が震えていた。カウンター越しに兄さんと目が合い、心臓が跳ねた。
兄さんの視線が僕の全身を見て、ワンショルダーのドレス姿を確認していた。
「いろいろ聞きたいことはあるけど、今はバイト中だろうから、聞かない。その代わり、バイトが終わったら家に来て」
兄さんの言葉に、僕は頷いた。
「――はい」
素直に返事をしてから、「あっ」と小声をあげて、テーブル席に座る女性に視線を送った。環さんの隣で、楽しそうにシャンパンを飲んでいる女性が見える。
「あの人は……」
僕が尋ねると、兄さんの視線が動いて女性に向いた。すぐに僕に向き直ると、「部下だよ。さっき別れるところだったんだけど」と答えてくれた。
昨日も兄さんは、同じ香水の人を部下だと言っていた。たぶんきっと、同じ女性だと思う。二日連続で部下と会うものだろうかと、つい考えたくない方へと疑う気持ちが芽生えてしまう。
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「あ、ここは僕が……」
慌てて兄さんのクレジットカードを押し返しながら言いかけると、兄さんが優しく笑った。
「いいよ」
兄さんが支払いを済ませて、僕は店の外までお見送りに向かった。
「千景」
低い声で名前を呼ばれて、僕は息を止めた。
「バイトが終わったら、その格好のまま家に来て」
兄さんの言葉に、僕は目を見開いた。
「この……格好のまま?」
「ああ。ウィッグも、メイクも、そのドレスも」
「わかった」
小さく答えると、兄さんは僕の頭に手を置いた。優しく撫でられて、胸が熱くなる。
「待ってるから」
兄さんが去っていく後ろ姿を見送りながら、胸の高鳴りが止まらなかった。
(兄さん、格好いいなあ)
店内に戻ると女性はまだ環さんと楽しそうに話をしていた。
僕はバーカウンターにいる玲司に「ちょっと話してくる」と告げて、女性の席に向かった。兄さんと一緒にいた女性がどんなの人なのか。すごく気になった。
「あの……お連れの男性、帰られたみたいなんですけど」
僕が声をかけると、女性がちらっと僕を見た。鋭い視線が僕を捉えて、値踏みするように全身を見ていく。メイクや髪型、ドレスの着こなしまで、細かく採点されているような感じがして緊張する。
「あなた、彼を知ってるの?」
女性が睨んできて、僕は息を呑んだ。女性の声が低くて、威圧感がある。
「綾さん、さっきの男性と同じ会社なんですって」
環さんが補足するように教えてくれた。環さんの優しい声に、緊張が少しほぐれる。
「元彼です」
綾さんがツンとした表情で告げて、シャンパンを飲んだ。グラスを置く音が響いて、僕の肩が跳ねた。
(兄さんと付き合ってた人――)
部下じゃないじゃん……と、心の中で兄さんが昨日言っていた言葉に対してツッコミを入れる。
(元カノと会って、ワイシャツには香水の移り香)
店を出てから香水をかけてたって言ってたけど、それって本当なのだろうかとまた疑う心が出てくる。
「ああ、そうなんですね。前に仕事帰りに寄ったバーでお話を少ししたくらいです。確かそのとき、恋人と別れたばかりとおっしゃっていたので――」
僕が答えると、綾が頷いた。
「ああ、きっと、それ……私だと思います」
綾さんに隣に座ってと促されて、僕は隣に腰を落とした。柔らかいソファの心地よさに、緊張で凝り固まっていた身体が少しほぐれた気がした。
「伊織――って、さっきの人ね。出世頭なんですよ。そこそこ格好いいでしょう? 連れて歩くのには最高なんですよ。でも男としては欠陥品で、最悪――」
綾さんの言葉に、僕は胸が痛んだ。欠陥品という言葉が耳に突き刺さって、拳を握りしめる。爪が手のひらに食い込んで、痛みが走った。
もしこの場がプライベートだったら、彼女に対して頬を叩いていたかもしれない。苛立つ心をぐっと抑えて、相槌を打った。
「そう、なんですね」
できるだけ平静を装って答えると、綾さんが続けた。
「別れてすぐ、雰囲気が変わって。ああ、私と別れたくなくて、男磨きしてるんだって思ったの。いつ復縁してくれって言われるのか待ってたけど、全くこないから、こっちから仕事の相談っていうきっかけを作ってあげたの。なのに、食事だけで帰るから――意気地なしよね。こっちからチャンスあげてるのに」
綾さんの声が不満に満ちていた。はあ、とため息をつくと、綾さんがシャンパンを飲む。グラスが空になって、環さんがすぐにお酒を注いでいた。シャンパンが泡立つ音が聞こえて、綾さんが満足そうに笑った。
(食事だけで帰る――じゃあ、本当になにもなかったんだ)
「今夜もデートに誘ってあげて、わざわざホテル街まで行ったのに。断ったのよ。あそこまで行ったら、普通入るでしょう? ホテル! 信じられない」
綾さんが声を荒げて、僕は返答に困った。どう言葉を返していいか分からずに、環さんに視線を送ってしまう。
(兄さん、断ったんだ……)
『俺はまだ女性が抱けないよ。抱けるのは千景だけ――』
兄さんに言われた言葉を思い出した。兄さんには女性を抱くチャンスはあったのに、どうして断ってしまったのだろう。
僕としては、兄さんが女性を抱かなかったのは嬉しいけど、それで兄さんは良かったのだろうか。
「それは大変だったのね」
環さんが残念そうな表情を浮かべて、悲しそうな声を出す。
「きっと彼は真面目な方なのね」
続けて環さんが優しく言うと、綾さんが足を組んで悪態をついた。
「くそ真面目すぎ」
綾さんの声には不満と苛立ちを含まれていた。
「あなたはいいわよね。彼氏にすごい愛されてるみたいじゃない」
綾さんが僕を睨んできて、僕は身体を強張らせた。綾さんの視線がワンショルダーのドレスの隙間に向けられて、肌が露わになった部分を見ている。
「欠陥品を一年も愛してあげたっていうのに」
綾さんが吐き捨てるように言ってから、自嘲の笑みを浮かべる。僕はぎこちない笑みを返すと、ぐっと拳を握りしめる。
(愛してあげたって、なんで上から目線で言えるのだろう)
兄さんを欠陥品なんて言ってほしくない。兄さんはこの人と一年付き合って、その間中、ずっと苦しんでいたのに。病院にも通って、改善方法をきっと一生懸命模索していたはずなのに。努力も認めずに、ただ欠陥品って言葉で片付けるなんて――許せない。
怒りが込み上げてきて、息が荒くなる。環さんが僕の様子に気づいて、優しく微笑んだ。
「あら、ちかちゃん。玲司が呼んでるわ。行ってあげて」
環さんが助け船を出してくれて、僕は「失礼します」と挨拶をして席を立った。
イライラした心を抱えたまま、バーカウンターに戻ると、玲司が微笑んでいた。
「彼氏がバカな女に騙されなくてよかったな」
玲司の言葉に、僕は頷いた。
「兄さんの初めてが僕で良かったって、心の底から思った」
小さい声で呟くと、玲司が「そうだな」と頭を撫でてくれた。大きな手が優しく髪を撫でて、少し気持ちが落ち着く。
「ま、一悶着ありそうだけどな。今夜」
玲司が楽しそうに言って、僕は顔を上げた。
「――それ、言わないで」
僕が玲司を見上げると、ニヤリと口元を緩めて笑っている。玲司の笑顔が少し意地悪で、僕は頬を膨らませた。
「フラれたら、俺が付き合ってやるよ」
玲司が囁くように言って、僕は首を横に振った。
「フラれたら、一人でやけ酒するから。玲司には頼らない」
「元彼を頼れって」
「元彼だから頼らないの」
「復縁を望んでるんだけど?」
玲司が真顔で言って、僕は即答した。
「無理」
目を合わせると、僕たちは笑い合った。玲司の優しい笑顔が嬉しくて、胸が温かくなる。
玲司の気持ちは嬉しい。
玲司は僕が兄さんを好きだと知っていて、それを受け入れてくれた。その罪悪感に耐えきれなくなって、別れた。今でも玲司を傷つけてしまったと後悔している。
だからこそ、もう玲司の想いは受け取らないと決めていた。
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