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第三十一話「三年後の日常」
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黒地に赤い椿が散りばめられた着物の帯を締め直しながら、僕はカウンターの端に置かれた姿見で全身を確認した。華やかな帯揚げが胸元できちんと整っているのを確かめてから、袂を軽く払う。和服を着るようになって一年が経つけれど、帯の締め加減にはまだ神経を使う。きつすぎると呼吸が苦しくなり、緩すぎると着崩れてしまうから、毎回、微妙な加減を探りながら調整していた。
「ママ、今夜も綺麗ですねえ」
カウンター席に腰かけた常連客が、グラスを掲げながら声をかけてくる。僕は口元に微笑みを浮かべて「ありがとうございます」と軽く頭を下げると、客のグラスに手を伸ばして水割りを作り始めた。氷がグラスの中でからからと回る音が、フロアに流れるジャズのピアノと重なっていく。
Queen's Nightの店内は、三年前と大きくは変わっていなかった。カウンターの木目も、壁に飾られた常連からの色紙も、奥のテーブル席に灯る間接照明の色合いも、環さんがいた頃のままだ。変わったのは、環さんの定位置だった場所に今は僕が立っていることだろう。バーテンダーの玲司はいつも通りシェイカーを振っている。
一年前、環さんは長年の夢だった世界旅行へと旅立った。「あなたたちに任せるわ」と笑って店の鍵を玲司に預けた環さんの後ろ姿を見送ったのが、つい昨日のことのように思い出される。新オーナーとなった玲司が経営面を担い、僕はバイトから正社員になって、ママ代理として店を切り盛りしていた。
かつての源氏名「ちか」は、いつの間にか「ちかママ」に変わり、新人キャストたちからも常連客からも、自然とそう呼ばれるようになっている。
新人キャストの一人がフロアから戻ってきて、「ママ、三番テーブルのお客様がお会計です」と耳元で囁いた。僕が頷いてレジへ向かおうとしたとき、入り口のドアが勢いよく開く音が店内に響いた。
「こんばんはー!」
聞き覚えのある元気な声とともに飛び込んできたのは、短く刈り込んだ髪にがっしりとした肩幅、スポーツマン体型の男性だった。スーツの上着を小脇に抱えて、ネクタイを緩めた姿で息を弾ませている。
「一ツ橋さん! 玲司、恋人が来たよ」
カウンターに向かって声をかけると、グラスを磨いていた玲司が顔をあげた。切れ長の目が一瞬だけ柔らかく細められて、「ああ」と短く応える声に微かな喜びが滲んでいる。交際を始めて一年半が経つ二人の間には、出会った頃にはなかった穏やかな空気が流れていて、傍で見ている僕の胸まで温かくなった。
一ツ橋さんがカウンター席にどかりと腰を下ろすと、リュックを足元に置いて頬を膨らませた。僕がテーブル客のお会計を済ませて、一ツ橋さんの隣に座った。
「ちかママ聞いてよ! 喧嘩中なのに、今日、店に来いって命令するんですよ、この人!」
不満たっぷりに玲司を指さす一ツ橋さんの横顔には、怒りと拗ねた感情が半分ずつ浮かんでいる。
「喧嘩中なの?」
玲司に視線を向けると、切れ長の目を伏せたまま「……まあ」とぶっきらぼうに返事をして、手元のグラスを拭く動きだけは止めなかった。
「喧嘩の原因は?」
「松井田部長に対しての対応が、気に入らないって」
一ツ橋さんが憤然と答えた言葉に、僕は首を傾げた。
「水曜日はノー残業デーだから」
玲司がカウンターの向こう側で、ぼそりと呟いた。声量は小さいのに、苛立ちの温度だけがはっきりと伝わってくる。
たぶんきっと……玲司は仕事を早く終えて帰ってくるなら一緒に過ごしたいと言いたいのだろう。
「あ、うん」
曖昧に頷く僕をよそに、一ツ橋さんが身を乗り出して語り始めた。
「松井田部長と飲みにいく約束をしてたんです! そしたら鷹宮さんが怒って――だからなんか俺も怒って……喧嘩、みたいな。で、結局、松井田部長と飲む約束が流れて、こっち来ることに」
一ツ橋さんの言葉が加速していく。手振りが大きくなり、カウンターの上のコースターが風圧で滑った。
「そもそも鷹宮さん、松井田部長にライバル視しすぎなんですよ。元彼を奪われて、今も仲良くラブラブな二人を見ているのが辛いからって、俺に当たる必要ないと思う。あー、せっかく松井田部長とサシで飲めるチャンスだったのにぃ」
最後の言葉を吐き出すと、一ツ橋さんがカウンターに顔を伏せた。革靴のつま先が床をばたばたと踏み鳴らしていて、駄々をこねる子どものような仕草に周囲の常連客が微笑ましそうに視線を向けている。
「……んん?」
僕は首を傾げた。途中から、一ツ橋さんの話している内容が上手く飲み込めなくなっていた。
一ツ橋さんは、玲司の過去の恋愛を知っているのだろうか。だとするなら元カレが僕で、ラブラブな二人というのは僕と伊織ってことになる。
話ぶりから、一橋さんが嫉妬しているようには見えないが――。でも玲司との関係には不満があるのは確実だ。
(――どういうこと?)
「ちかママ、今日の着物、めっちゃ綺麗っすねえ」
顔を上げた一ツ橋さんが、話題を変えるようにへらりと笑った。先ほどまでの不満は一瞬で消えて、いつもの人懐っこい笑顔が戻っている。
(一ツ橋さんは、玲司の元彼が僕だと知ってるんだよね?)
その僕を褒めてにっこりと笑っている。
ますます意味がわからなくなる。
「たぶん、この後、部長が来ると思います」
「……う、ん」
頷きながら、僕は玲司に視線を送った。カウンターの向こうで玲司がむすっとした顔のまま、シェイカーを振っている。リズミカルに氷が跳ねる音とは裏腹に、シェイカーを握る指先に力がこもりすぎていて、こめかみの辺りに青筋がうっすらと浮いていた。
「な、腹立つだろ?」
玲司が低く呟いて同意を求めてくる目に、僕は苦笑を返すことしかできなかった。
腹が立つ以前に、一ツ橋さんの思考回路がわからない。
「あー」
カウンターに頬杖をついて不満げな声をあげていた一ツ橋さんのスマートフォンが、軽快な着信音を鳴らした。他の通知とは明らかに違う、特別に設定されたメロディだった。
一ツ橋さんの背筋がピッと伸びて、顔つきが一瞬で変わった。画面を確認するなり満面の笑みを浮かべて、「あっ! 松井田部長、お疲れ様です」と弾んだ声で電話に出る。他のお客に迷惑がかからないように片手で口元を押さえながら、軽い足取りで店の外へと出ていった。ドアが閉まる直前に漏れた「えっ、マジっすか!」という声が、夜の空気に吸い込まれていく。
一ツ橋さんの背中を見送っていると、カウンターの向こうから深い溜息が聞こえてきた。
「伊織さんの電話だけ、着信音を変えてるんだ、あいつ」
玲司の声は平坦だったけれど、シェイカーを置く手が微かに震えていた。切れ長の目の奥に、怒りとも悲しみともつかない複雑な感情が揺れているのが見える。
「心中お察しいたします」
僕が苦笑いを浮かべると、玲司はふんっと鼻を鳴らして、さっきまで一ツ橋さんが座っていた場所に出来立てのカクテルを置いた。淡い琥珀色の液体にミントの葉が添えられていて、グラスの表面に細かな水滴がついている。不機嫌を隠す気もないのに、注文もされていない一杯を手際よく仕上げている玲司の姿に、思わず口元が緩んだ。
「イラつきながらも、作るんだね」
「酒が入ると、伊織さんラブ度があがるからノンアルな!」
玲司が頬の筋肉をひくつかせながら吐き捨てるように言った。ノンアルコールのカクテルを選んでいる時点で、一ツ橋さんの体調や帰り道まで気にかけているのが透けて見えるのに、本人は全くそのことに気づいていない。
「千景は不安にならないのか? サシ飲みって言われて」
玲司がグラスを磨く手を止めて、真っ直ぐに僕を見た。
「あー、それなんだけど」
僕はスマートフォンを取り出して、メッセージ画面を開いた。一ツ橋さんから届いていたメッセージには、『仕事終わったら一緒に飲みましょう!』という文面とともに、飲み屋の地図のスクリーンショットが添付されている。画面を玲司に見せると、切れ長の目がさらに据わった。
「ああ?」
不機嫌度が一段階あがったのが、声の低さだけで伝わってくる。
「それより、玲司は僕が元カレって伝えたの?」
「いや、話す前にあいつが勘付いてて質問されたから話はしたけど。まだ勘違いされてるんだと、今さっき知った」
(勘違い……)
そもそも玲司は、一橋さんにちゃんと告白をしたのだろうかとそこから疑ってしまう。
「――ねえ、もしかしたらなんだけど、一ツ橋さんって玲司と付き合ってる感覚ないんじゃ……」
「はあ?」
玲司が大きく息を吐いて、頭をがしがしと掻きむしった。きちんと整えられていた黒髪が乱れて、額に毛束がかかる。
「だとしたら、ど天然すぎるだろ」
呆れた声のあとに続いた沈黙が、玲司の動揺を物語っていた。一年半も交際しているつもりでいたのに、相手にその自覚がない可能性を突きつけられて、さすがの玲司も言葉を失っているらしい。
店の外から、電話を終えた一ツ橋さんが戻ってきた。スマートフォンをポケットにしまいながら、晴れやかな顔でカウンターに近づいてくる。
「ちかママ、もうすぐ松井田部長が来るって。んじゃ、俺、帰りますね」
「は?」
玲司の声が裏返った。シェイカーを握ったまま固まっている玲司を横目に、一ツ橋さんはカウンターの上にそっと置かれたカクテルのグラスに気づいて、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
「あ、これ……じゃあ、これだけ飲んだら」
グラスを手に取ると、くいっと一息に飲み干した。喉が上下して、最後の一滴まで飲み切ると、空になったグラスをカウンターに戻す。リュックを背負い直して、ポケットから財布を取り出すと、飲み代をカウンターの端に置いた。
「おい」
玲司が慌てて声をかけた。カウンターから身を乗り出しかけた玲司の手が、一ツ橋さんの腕に届く前に止まる。
「約束通り、サシ飲みはしてないですよ。店に来たし。なので帰ります」
一ツ橋さんの声は、いつもの人懐っこさが嘘のように冷たかった。笑顔はなく、平坦な口調で言い切ると、振り返ることなく店のドアを押し開けて出ていった。夜風が一瞬だけ店内に入り込んで、カウンターの上のナプキンが微かに揺れる。
「あれは、相当怒ってそうだけど」
僕が玲司を見ると、玲司は唇を引き結んだまま天井を仰いで「あー、もう」と苛立ちを吐き出した。エプロンを腰から解くと、カウンターの中から出てくる。
「ちょっとだけ出てくる」
早足で入り口へと向かう玲司の背中が、ドアの向こうへ消えていった。一ツ橋さんが出てからまだ一分と経っていない。走れば追いつける距離だと踏んだのだろう、玲司にしては珍しく焦った足取りだった。
「二人とも不器用だなあ」
誰もいなくなったカウンターの向こうを眺めながら、僕は小さく微笑んだ。玲司には内緒にしているけれど、今夜の伊織とのサシ飲みの相談内容は、どうしたら玲司に振り向いてもらえるかという恋愛相談と、誕生日が近い玲司へのプレゼント選びだった。
玲司本人にその約束を潰されてしまったのだから、いつも明るくて優しい一ツ橋さんでも、さすがに怒って当然だろう。
「拗らせすぎだろ、あの二人」
背後から聞き慣れた低い声が降ってきて、僕の肩に大きな手が置かれた。振り返ると、ダークネイビーのスーツ姿の伊織が、呆れたような笑みを浮かべて立っている。
「あっ、伊織」
「出迎えなくて寂しかったんだけど?」
拗ねた口調で言う伊織に、僕は肩を竦めて「ごめん。ちょっと考え事してて」と苦笑した。着物の袖が伊織のスーツの腕に触れて、布地が擦れる微かな音がした。
「玲司さんと一ツ橋のことだろ。店の裏で、喧嘩してたぞ」
「また喧嘩……」
僕の呆れた声に、伊織がおかしそうに笑った。目元に皺が寄って、柔らかな表情が浮かぶ。三年前に比べると、伊織の笑い方は随分と穏やかになっていた。
「一ツ橋、転勤話を持ちかけられてかなり迷ってるみたいだからな。不安なんだろ」
「転勤?」
「ああ、地方支社の営業部係長に抜擢されてる。一ツ橋は成績がいいから、売上が落ちてる支社にお呼ばれしてるんだよな」
伊織がカウンターに腕をついて、僕の隣に並んだ。左手の薬指に嵌まったプラチナの指輪が、店内の照明を受けて鈍く光っている。僕の左手にも同じ指輪があって、ふとした瞬間に視界に入るたびに、胸の奥が温かくなった。
「仲直りできるといいけど」
「こればっかりは俺らにはどうにもできないからな」
伊織がわずかに眉を下げて、悲しげな表情を浮かべた。部下として長く面倒を見てきた一ツ橋さんの悩みを、上司としても個人としても気にかけているのだと、声の温度から伝わってくる。
ちゃんと話し合って、二人のすれ違いが解消されればいいなと、僕は祈るような気持ちで店の入り口へ視線を向けた。
「ママ、今夜も綺麗ですねえ」
カウンター席に腰かけた常連客が、グラスを掲げながら声をかけてくる。僕は口元に微笑みを浮かべて「ありがとうございます」と軽く頭を下げると、客のグラスに手を伸ばして水割りを作り始めた。氷がグラスの中でからからと回る音が、フロアに流れるジャズのピアノと重なっていく。
Queen's Nightの店内は、三年前と大きくは変わっていなかった。カウンターの木目も、壁に飾られた常連からの色紙も、奥のテーブル席に灯る間接照明の色合いも、環さんがいた頃のままだ。変わったのは、環さんの定位置だった場所に今は僕が立っていることだろう。バーテンダーの玲司はいつも通りシェイカーを振っている。
一年前、環さんは長年の夢だった世界旅行へと旅立った。「あなたたちに任せるわ」と笑って店の鍵を玲司に預けた環さんの後ろ姿を見送ったのが、つい昨日のことのように思い出される。新オーナーとなった玲司が経営面を担い、僕はバイトから正社員になって、ママ代理として店を切り盛りしていた。
かつての源氏名「ちか」は、いつの間にか「ちかママ」に変わり、新人キャストたちからも常連客からも、自然とそう呼ばれるようになっている。
新人キャストの一人がフロアから戻ってきて、「ママ、三番テーブルのお客様がお会計です」と耳元で囁いた。僕が頷いてレジへ向かおうとしたとき、入り口のドアが勢いよく開く音が店内に響いた。
「こんばんはー!」
聞き覚えのある元気な声とともに飛び込んできたのは、短く刈り込んだ髪にがっしりとした肩幅、スポーツマン体型の男性だった。スーツの上着を小脇に抱えて、ネクタイを緩めた姿で息を弾ませている。
「一ツ橋さん! 玲司、恋人が来たよ」
カウンターに向かって声をかけると、グラスを磨いていた玲司が顔をあげた。切れ長の目が一瞬だけ柔らかく細められて、「ああ」と短く応える声に微かな喜びが滲んでいる。交際を始めて一年半が経つ二人の間には、出会った頃にはなかった穏やかな空気が流れていて、傍で見ている僕の胸まで温かくなった。
一ツ橋さんがカウンター席にどかりと腰を下ろすと、リュックを足元に置いて頬を膨らませた。僕がテーブル客のお会計を済ませて、一ツ橋さんの隣に座った。
「ちかママ聞いてよ! 喧嘩中なのに、今日、店に来いって命令するんですよ、この人!」
不満たっぷりに玲司を指さす一ツ橋さんの横顔には、怒りと拗ねた感情が半分ずつ浮かんでいる。
「喧嘩中なの?」
玲司に視線を向けると、切れ長の目を伏せたまま「……まあ」とぶっきらぼうに返事をして、手元のグラスを拭く動きだけは止めなかった。
「喧嘩の原因は?」
「松井田部長に対しての対応が、気に入らないって」
一ツ橋さんが憤然と答えた言葉に、僕は首を傾げた。
「水曜日はノー残業デーだから」
玲司がカウンターの向こう側で、ぼそりと呟いた。声量は小さいのに、苛立ちの温度だけがはっきりと伝わってくる。
たぶんきっと……玲司は仕事を早く終えて帰ってくるなら一緒に過ごしたいと言いたいのだろう。
「あ、うん」
曖昧に頷く僕をよそに、一ツ橋さんが身を乗り出して語り始めた。
「松井田部長と飲みにいく約束をしてたんです! そしたら鷹宮さんが怒って――だからなんか俺も怒って……喧嘩、みたいな。で、結局、松井田部長と飲む約束が流れて、こっち来ることに」
一ツ橋さんの言葉が加速していく。手振りが大きくなり、カウンターの上のコースターが風圧で滑った。
「そもそも鷹宮さん、松井田部長にライバル視しすぎなんですよ。元彼を奪われて、今も仲良くラブラブな二人を見ているのが辛いからって、俺に当たる必要ないと思う。あー、せっかく松井田部長とサシで飲めるチャンスだったのにぃ」
最後の言葉を吐き出すと、一ツ橋さんがカウンターに顔を伏せた。革靴のつま先が床をばたばたと踏み鳴らしていて、駄々をこねる子どものような仕草に周囲の常連客が微笑ましそうに視線を向けている。
「……んん?」
僕は首を傾げた。途中から、一ツ橋さんの話している内容が上手く飲み込めなくなっていた。
一ツ橋さんは、玲司の過去の恋愛を知っているのだろうか。だとするなら元カレが僕で、ラブラブな二人というのは僕と伊織ってことになる。
話ぶりから、一橋さんが嫉妬しているようには見えないが――。でも玲司との関係には不満があるのは確実だ。
(――どういうこと?)
「ちかママ、今日の着物、めっちゃ綺麗っすねえ」
顔を上げた一ツ橋さんが、話題を変えるようにへらりと笑った。先ほどまでの不満は一瞬で消えて、いつもの人懐っこい笑顔が戻っている。
(一ツ橋さんは、玲司の元彼が僕だと知ってるんだよね?)
その僕を褒めてにっこりと笑っている。
ますます意味がわからなくなる。
「たぶん、この後、部長が来ると思います」
「……う、ん」
頷きながら、僕は玲司に視線を送った。カウンターの向こうで玲司がむすっとした顔のまま、シェイカーを振っている。リズミカルに氷が跳ねる音とは裏腹に、シェイカーを握る指先に力がこもりすぎていて、こめかみの辺りに青筋がうっすらと浮いていた。
「な、腹立つだろ?」
玲司が低く呟いて同意を求めてくる目に、僕は苦笑を返すことしかできなかった。
腹が立つ以前に、一ツ橋さんの思考回路がわからない。
「あー」
カウンターに頬杖をついて不満げな声をあげていた一ツ橋さんのスマートフォンが、軽快な着信音を鳴らした。他の通知とは明らかに違う、特別に設定されたメロディだった。
一ツ橋さんの背筋がピッと伸びて、顔つきが一瞬で変わった。画面を確認するなり満面の笑みを浮かべて、「あっ! 松井田部長、お疲れ様です」と弾んだ声で電話に出る。他のお客に迷惑がかからないように片手で口元を押さえながら、軽い足取りで店の外へと出ていった。ドアが閉まる直前に漏れた「えっ、マジっすか!」という声が、夜の空気に吸い込まれていく。
一ツ橋さんの背中を見送っていると、カウンターの向こうから深い溜息が聞こえてきた。
「伊織さんの電話だけ、着信音を変えてるんだ、あいつ」
玲司の声は平坦だったけれど、シェイカーを置く手が微かに震えていた。切れ長の目の奥に、怒りとも悲しみともつかない複雑な感情が揺れているのが見える。
「心中お察しいたします」
僕が苦笑いを浮かべると、玲司はふんっと鼻を鳴らして、さっきまで一ツ橋さんが座っていた場所に出来立てのカクテルを置いた。淡い琥珀色の液体にミントの葉が添えられていて、グラスの表面に細かな水滴がついている。不機嫌を隠す気もないのに、注文もされていない一杯を手際よく仕上げている玲司の姿に、思わず口元が緩んだ。
「イラつきながらも、作るんだね」
「酒が入ると、伊織さんラブ度があがるからノンアルな!」
玲司が頬の筋肉をひくつかせながら吐き捨てるように言った。ノンアルコールのカクテルを選んでいる時点で、一ツ橋さんの体調や帰り道まで気にかけているのが透けて見えるのに、本人は全くそのことに気づいていない。
「千景は不安にならないのか? サシ飲みって言われて」
玲司がグラスを磨く手を止めて、真っ直ぐに僕を見た。
「あー、それなんだけど」
僕はスマートフォンを取り出して、メッセージ画面を開いた。一ツ橋さんから届いていたメッセージには、『仕事終わったら一緒に飲みましょう!』という文面とともに、飲み屋の地図のスクリーンショットが添付されている。画面を玲司に見せると、切れ長の目がさらに据わった。
「ああ?」
不機嫌度が一段階あがったのが、声の低さだけで伝わってくる。
「それより、玲司は僕が元カレって伝えたの?」
「いや、話す前にあいつが勘付いてて質問されたから話はしたけど。まだ勘違いされてるんだと、今さっき知った」
(勘違い……)
そもそも玲司は、一橋さんにちゃんと告白をしたのだろうかとそこから疑ってしまう。
「――ねえ、もしかしたらなんだけど、一ツ橋さんって玲司と付き合ってる感覚ないんじゃ……」
「はあ?」
玲司が大きく息を吐いて、頭をがしがしと掻きむしった。きちんと整えられていた黒髪が乱れて、額に毛束がかかる。
「だとしたら、ど天然すぎるだろ」
呆れた声のあとに続いた沈黙が、玲司の動揺を物語っていた。一年半も交際しているつもりでいたのに、相手にその自覚がない可能性を突きつけられて、さすがの玲司も言葉を失っているらしい。
店の外から、電話を終えた一ツ橋さんが戻ってきた。スマートフォンをポケットにしまいながら、晴れやかな顔でカウンターに近づいてくる。
「ちかママ、もうすぐ松井田部長が来るって。んじゃ、俺、帰りますね」
「は?」
玲司の声が裏返った。シェイカーを握ったまま固まっている玲司を横目に、一ツ橋さんはカウンターの上にそっと置かれたカクテルのグラスに気づいて、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
「あ、これ……じゃあ、これだけ飲んだら」
グラスを手に取ると、くいっと一息に飲み干した。喉が上下して、最後の一滴まで飲み切ると、空になったグラスをカウンターに戻す。リュックを背負い直して、ポケットから財布を取り出すと、飲み代をカウンターの端に置いた。
「おい」
玲司が慌てて声をかけた。カウンターから身を乗り出しかけた玲司の手が、一ツ橋さんの腕に届く前に止まる。
「約束通り、サシ飲みはしてないですよ。店に来たし。なので帰ります」
一ツ橋さんの声は、いつもの人懐っこさが嘘のように冷たかった。笑顔はなく、平坦な口調で言い切ると、振り返ることなく店のドアを押し開けて出ていった。夜風が一瞬だけ店内に入り込んで、カウンターの上のナプキンが微かに揺れる。
「あれは、相当怒ってそうだけど」
僕が玲司を見ると、玲司は唇を引き結んだまま天井を仰いで「あー、もう」と苛立ちを吐き出した。エプロンを腰から解くと、カウンターの中から出てくる。
「ちょっとだけ出てくる」
早足で入り口へと向かう玲司の背中が、ドアの向こうへ消えていった。一ツ橋さんが出てからまだ一分と経っていない。走れば追いつける距離だと踏んだのだろう、玲司にしては珍しく焦った足取りだった。
「二人とも不器用だなあ」
誰もいなくなったカウンターの向こうを眺めながら、僕は小さく微笑んだ。玲司には内緒にしているけれど、今夜の伊織とのサシ飲みの相談内容は、どうしたら玲司に振り向いてもらえるかという恋愛相談と、誕生日が近い玲司へのプレゼント選びだった。
玲司本人にその約束を潰されてしまったのだから、いつも明るくて優しい一ツ橋さんでも、さすがに怒って当然だろう。
「拗らせすぎだろ、あの二人」
背後から聞き慣れた低い声が降ってきて、僕の肩に大きな手が置かれた。振り返ると、ダークネイビーのスーツ姿の伊織が、呆れたような笑みを浮かべて立っている。
「あっ、伊織」
「出迎えなくて寂しかったんだけど?」
拗ねた口調で言う伊織に、僕は肩を竦めて「ごめん。ちょっと考え事してて」と苦笑した。着物の袖が伊織のスーツの腕に触れて、布地が擦れる微かな音がした。
「玲司さんと一ツ橋のことだろ。店の裏で、喧嘩してたぞ」
「また喧嘩……」
僕の呆れた声に、伊織がおかしそうに笑った。目元に皺が寄って、柔らかな表情が浮かぶ。三年前に比べると、伊織の笑い方は随分と穏やかになっていた。
「一ツ橋、転勤話を持ちかけられてかなり迷ってるみたいだからな。不安なんだろ」
「転勤?」
「ああ、地方支社の営業部係長に抜擢されてる。一ツ橋は成績がいいから、売上が落ちてる支社にお呼ばれしてるんだよな」
伊織がカウンターに腕をついて、僕の隣に並んだ。左手の薬指に嵌まったプラチナの指輪が、店内の照明を受けて鈍く光っている。僕の左手にも同じ指輪があって、ふとした瞬間に視界に入るたびに、胸の奥が温かくなった。
「仲直りできるといいけど」
「こればっかりは俺らにはどうにもできないからな」
伊織がわずかに眉を下げて、悲しげな表情を浮かべた。部下として長く面倒を見てきた一ツ橋さんの悩みを、上司としても個人としても気にかけているのだと、声の温度から伝わってくる。
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