白鷺の子は、死者の声を聴く

菜の花

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第8.5話 ――Side.鷹宮直哉・絶望という名の現実

直哉は、幸福な夢を見ていた。

隣で、彼方が楽しげに笑っている。
その笑顔が、あまりにも自然で、あまりにも近くて、
それがもう失われたものだという事実を、夢の中の私は理解できずにいた。

動物園で、無邪気にはしゃぐ彼方。
水族館で、ゆったりと泳ぐ魚の群れを、静かに見つめる彼方。
海を前に、子どものように目を輝かせる彼方。
気持ちが通じ合った夜、声を殺して泣いた彼方。
触れ合った瞬間、恥じらうように顔を伏せた彼方。

――すべて、確かに存在していた現実。
二人で積み重ねてきた、かけがえのない時間。

夢だと気づけないほど鮮明な光景に、
閉じられた瞳の奥から、冷たい雫がいく筋も溢れ落ちていく。

目覚めた瞬間、
幸福は、残酷な現実へと姿を変える。

目を覚ますたび、
胸の奥底に、絶望が一つ、また一つと降り積もっていく。

当たり前のように向けられた微笑み。
当たり前のようにあった、ぬくもり。
――当たり前のように、この先も続いていくのだと、疑いもしなかった。

失ったものは、あまりにも大きくて。
胸を締めつける痛みは、
時間とともに薄れるどころか、
日を追うごとに、私の心を蝕んでいく。

「……彼方……」

声に出した瞬間、
押さえつけていた感情が一気に溢れ出た。

会いたい。
どうしようもなく、会いたいんだ。
彼方。

眠ることが、怖かった。
眠ってしまえば、また幸福な夢を見る。
そして目覚めて、再び失う。

――彼方のいない現実を、何度も、何度も。

直哉の脳裏には、今もなお消えることなく、
彼方の最期の光景が、深く刻み込まれている。

あの、凄惨な事故現場。

視界を覆い尽くす、激しい雨。
彼方の身体から、止まることなく溢れ出す真っ赤な血。
その瞳から、ゆっくりと、確実に失われていく光。

自分の口から、
これまで一度も出したことのない叫びが溢れた。

血の気を失っていく身体に縋りつき、
必死で生を引き留めようとした。
――生きていてほしい、ただそれだけを願って。

「彼方、だめだ、だめだ、だめだ……だめだ!!!」

必死で叫び続けた。
周囲の声も、サイレンも、何も耳に入らなかった。
私の世界には、彼方しか存在していなかった。


――いっそ、私も彼方のもとへ行けたなら。

そうすれば、彼方に謝ることができる。

あの日、初めて彼方と本気で言い争った。
泣きながら別れを告げる彼方に、
私は、怒りをぶつけてしまった。

なぜ、私の気持ちを信じてくれないのか。
なぜ、私の言葉を聞いてくれないのか。

彼方はいつも、自身を低く見積もっていた。
生まれも、育ちも、
私との間に横たわるものを、必要以上に気にしていた。

どれだけ体を重ねても、それが薄まることはなく、
彼方はいつでも私のもとを去る準備ができているかのようだった。

――いつか、別れの日がくると信じている目だった。

なぜ、もっと彼方の心に寄り添えなかったのか。
なぜ、もっと彼方の不安を取り除いてあげられなかったのか。

後悔ばかりが、頭の中を埋め尽くす。

そのとき――
ベッドサイドに置かれていた写真立てが、
かすかな音を立てて倒れた。

乾いた衝突音が、
静まり返った室内に、不釣り合いに響く。

そこに写っているのは、
幸せそうに寄り添う、私と彼方。

写真に向かって手を伸ばす。
ほんの数センチ。
それだけの距離が、
ひどく、遠く感じられた。

指先が触れる、その直前――
視界が、ふっと歪んだ。

――次の瞬間、
意識が、音もなく途切れた。

心も、身体も、
とうに限界を越えていたのだと、
そのとき初めて理解した。

このまま目を閉じてしまえば、
もう二度と、目覚めなくてもいい。

抗う気力すら、
残ってはいなかった。

その刹那――

『――直哉さん!』

闇へと沈んでいく意識の中で、
私は確かに、彼方の声を聞いた気がした。

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