Abnormal -アブノーマル-

うめこ

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第三章 Luminescence -ルミネッセンス-

9

パトカーの後部座席は、思っていたよりも狭かった。
ビニールのシートの匂いと、かすかな消毒薬の匂いがまざっている。

隣で、神藤さんがシートベルトを引き出した。
肩を通して、腰のバックルにはめるまでの動きが、妙に滑らかだ。
コートの裾がふわりと揺れて、手首の骨ばったラインが一瞬だけ覗く。

それだけのことで、胸がどくん、と鳴った。


「緊張してる?」

 
カチリ、とバックルを留めてから、こちらに顔を向けてくる。
横顔が近い。
睫毛の影まで見えてしまう距離だった。


「い、いえ……その、ちょっとだけ」

「ちょっとだけで済んでるなら、優秀だよ」

 
穏やかに言って、すぐ前を向く。
運転席の警官が無線に返答し、パトカーは静かに発進した。
サイレンは鳴らしていないが、車体が周囲の流れから少し浮いているように感じる。


「はい、今日の案件」


神藤さんが、薄いファイルを一冊、僕の膝の上に置いた。
表紙には「渋谷区親子連続無差別殺害事件」と印字されている。


「ざっと目を通しておいて。現場に着くまでに、全体だけ掴んでくれればいい」

「はい」

 
ファイルを開くと、白い紙に黒い文字がびっしり並んでいた。

 
被疑者: 女性 三十二歳。
住所不定、職業不明。
犯行期間: ここ数ヶ月。
犯行現場: 都内数カ所の住宅。

次のページに、被害者一覧があった。

被害者A: 男性三十七歳、女性三十四歳、長男六歳。
被害者B: 男性四十一歳、女性三十八歳、長女五歳。
被害者C: 男性三十五歳、女性三十三歳、長男四歳、次女二歳。

小さな字で、「いずれも未就学児または小学生の子どもがいる世帯」と補足されている。

――家族ごと、殺している。

胸の奥が、ぞわりとした。
ページをめくる手に、自然と力が入る。

手口:
夜間、玄関または窓から家宅侵入。
魔術による切創・貫通創が多く確認される。
睡眠中の被害者を一度に複数殺害。
生存者なし。

「生存者なし」の四文字が、目に刺さった。

子どもだけでも逃げられなかったのか、と一瞬考えて、すぐにその想像を振り払う。

守られる側のはずの子どもごと、まとめて殺している。
わざわざ子どものいる家ばかりを選んで。

喉の奥が熱くなった。


「……ひどすぎる」


思わず、声に出ていた。
自分でも驚いて、すぐ口を閉じる。

隣から、小さく視線を感じた。
横を見ると、神藤さんがこちらをちらりと見ている。


「子どものいる家を狙って――家族ごと、ですよね。どう考えても……異常です」


言葉が荒くなったのが、自分でもわかった。

しばらく沈黙が落ちる。
パトカーは交差点で止まり、ウインカーの音だけが一定のリズムで響いていた。


「資料には、そう書いてある」


信号が変わる頃になって、神藤さんが静かに口を開いた。
声の調子は落ち着いていて、責める感じはない。


「被疑者が最初に殺したのは、自分の家族だ」

「……え?」


思わず顔を上げる。

神藤さんは前を向いたままだった。
信号の光がフロントガラス越しに反射して、表情の半分を白く照らしている。


「夫と、子ども。最初の現場は、被疑者の自宅だ。そこまでは、捜査で出ている」


淡々とした口調だった。
どこにも感情の起伏が見えない。
読み上げているだけ、というふうにも聞こえる。


「……自分の、家族……」


言葉が、喉の奥に引っかかった。
理解が追いつかないとか、そういうのとは違う。
頭がそれを事実として受け取る前に、拒否していた。


「それで終わらずに、他人の家まで回ってる。『親子が暮らしている家』って条件を、意図的に選んでいるのは間違いない」


胸の奥が、じわじわと熱くなった。


「……そんなの」

 
自分でも驚くくらい低い声が出た。


「自分の家族を殺して、それでもまだ足りなくて……ほかの家族まで巻き込んで。……意味が、わかりません」


最後の一言は、ほとんど吐き捨てるようになった。
怒っている、と自覚する前に、言葉が先に出ていた。


「わからなくていいよ」


神藤さんは短くそう言った。
ただ事実を置くみたいな声だった。


「事情がどうであっても、家族を含めて、何件も殺しているのは変わらない。裁く上で、それが消えるわけじゃない」


淡々とした言葉。
同情の気配は、どこにもなかった。
かといって、「最低だ」とか「許せない」とか、僕が使ったような言葉も一切出てこない。

前を向いた横顔は、静かだった。
そこにどんな感情があるのか、僕には読み取れない。
ただ、その静けさだけがやけに重くて、
車内の空気をじわじわと押し広げていくように感じた。
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