朝顔に水浅葱

夏凪彗

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前篇

第一部

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 窓から射し込む光の眩しさで目が醒める。染みが付いて黄ばんだ天井を眺め乍ら、男は心の痛むのを感じていた。
 はて、何故だろうか。
 男は布団の中で身動ぎ、心当たりを探す。
 夢を見ていた様な気がする、と男は独り言ちた。枕に顔を押し付けている所為で声がくぐもった。

 ごろりと仰向けになると、直射日光が目に痛い。男は顔を顰め、果たしてどんな夢だっただろうかと思い返す。
 が、まるで思い出す事が出来ない。夢と謂うものは、存外呆気無く忘れてしまう。記憶の消え去る前に何か思い出せないだろうかと、男は唸り声を上げ思考を巡らせる。それは底無しの水中で水底を手探りする様なものであったが、つと微かな記憶が指先に触れた。
 あ、と男の声が漏れる。



 夢の中には、着物を着た女が居た。



 一度片鱗を掴んだ記憶は、見る見る内にはっきりとした輪郭を現した。

 近所の小間物屋の前、更けた夜の中で月明かりに照らされた女は、小紋と呼ばれる洒落た水浅葱の着物を身に纏っていた。柔らかそうな髪は丁寧に結われ、西洋文化の影響で流行りのリボンが其処に括り付けられていた。
 未だ幼かった妹があの髪型――『まがれいと』と呼んでいただろうか――を結って欲しい、と母親に駄々を捏ねていた事を不意に思い出す。
 手先の不器用だった母の結ったものよりも、あの女の頭髪は見栄えが好かった。

 自分で結いたのだろうか、と男は呟く。

 其れから少しばかり経った後、彼女は夢の中の人物に過ぎないのだと謂う事に気が付いた。男は完全に失念していた。

 たかが夢である筈なのに、これ程あの女に惹かれて仕舞うのは何故なのだろうか。
 それに、女の顔は霞みがかった様に思い起こす事が出来ないのである。

 男は首を振りつつ布団を跳ね除けた。
 もう初夏であるとは雖も、寝床を出た直後は肌寒い。寝巻きを掻き抱く様にし乍ら身体を起こし、部屋を出る。
 急な階段を慎重に降り切った男は、えっ、と悲鳴の様な声を上げた。


 玄関の戸が開いていた。
 どうぞお入り下さいとでも言う様に、大きく開け放されていたのだ。


 最近、此処の辺りでは物盗りが頻発している。
 男は自分の家にも危害が及ばぬ様、戸締りには人並以上に留意していた。昨夕、帰宅してしっかりと鍵を閉めた事を憶えている。

 何故、と男は小さく口にした。
 既に手遅れだとは理解しつつ、素早く横戸を閉じる。居間の箪笥や金庫を確認するが、盗られた形跡は何も無い。
 物盗りが這入った訳では無い様だ。
 だとすれば男の落度であると謂う事になるが、如何にも納得がいかない。

 うぅん、と唸り声を上げながら台所へ向かい、鍋に水を張って昆布と共に火に掛ける。湯を沸かす間に庭で昨夕収穫した葱を刻み、その規則的な音を聞き乍ら考える。かたかたと鍋の蓋が震え出したので火を消し止め、昆布を取り除いた。
 味噌を溶いて汁椀に注ぎ、葱を散らした所で男の手が止まる。


 「夢では無かった……?」


 一度声に出すと、ふとした思い付きは確信へと変わって行った。

 男は味噌汁と魚の干物を食卓に並べ、黙々と食い始めた。
 鯵の開きを解し乍ら、熟思する。
 あの着物を着た女との邂逅は夢では無く、現実だったのでは――男はこう仮説を立てた。

 昔、眠りに就いた筈の妹が深夜に起き出し、家を出て行こうとした事があった。
 その時は両親が起きていて妹を寝かし付けたのだが、翌朝になって妹は「何も憶えていない」と言ったのだ。
 以来、その様な出来事は無かったが、それ故に当時の妹の行動はより奇怪なものに映った。

 月日が過ぎ、あの時の妹は『夢遊病』と謂う睡眠時随伴症を起こしていたのだと知った。
 眠りの浅い睡眠段階に於いて、無意識に歩行等の行動を起こすらしい。


 もしも昨夜、自分の身にも昔の妹の様に睡眠障害が起きていたとすれば――。


 男は、自分の鼓動が早くなって行くのを感じていた。

 呑気に飯を食っている場合では無いとでも言わんばかりに味噌汁を流し込んで嚥下する。忽ち空になった皿を流し場でざっと洗った。
 台所を出て、葛篭の中から紬の着物を取り出して身に纏う。
 玄関に向かい、逸る心を持て余す様にいそいそと男は外に出た。

 さて、家を出た所であの女に逢える訳でも無い事に、今更ながらに男は気が付く。

 何処に住んでいるのか、名は何と言うのか。女について何一つ知らない男に、彼女と逢う術は無いに等しかった。

 もどかしいとでも言う様に、眉根を寄せる。
 門扉に手を掛けて一歩踏み出して膠着している、何とも滑稽な己の恰好に苦笑し、くるりと身を半回転させた。

 茅葺屋根の、木造日本家屋。
 立派な二階建てのそれが、男の棲処だ。玄関から伸びる石畳の道、その両脇に丁寧に整えられた庭が在る。


 ――お母様、見て! 花冠作ったの!


 幼い妹の、嬉しそうに弾んだ声を思い出す。
 病弱で、外出も儘ならなかった妹の数少ない趣味だったのが、母親との庭弄りだった。
 碌に外へ出なかった所為で、血管さえ透けてしまいそうな白い肌が可憐な花と良く似合っていた。


 ――花束、良く出来ているでしょう? お兄様の為に作ったのよ!


 あれは確か、鈴蘭の花束だった。
 たった二、三本の花が束ねられただけのそれが酷く嬉しくて、「お前にぴったりの花だなあ」と妹の頭を撫でた記憶が有る。


 妹との思い出であるその花を、そっと彼女の棺に入れた記憶も。


 人一倍身体の弱かった妹は、病床に臥せってその儘亡くなった。彼女が九つ、男は十二の時だ。

 妹が居なくなり、男の家には何時しか昏い翳が落ちる様になった。母親の頬はすっかり痩け、元々寡黙だった父親は更に無口になってしまった。

 男が十九を迎えた年、父親が死んだ。北満州へ派兵され、其処で戦死したらしい。
 悲しみに暮れた母親は、後を追う様にして翌年に亡くなった。

 男の祖先は領主だったとかで、両親が死んだ事に由り、それなりの遺産と土地の権利が男の手に渡った。
 斯くして、独りで住むには余りにも大きなこの家で、男はひっそりと暮らしている。


 雑草を摘み乍ら、ふと思う。


 妹は、家族から愛されていた。

 勿論それは病弱であった事も影響しているだろう。自由に出歩けない彼女を慮って、多少の我儘は通してやっていた節は有る。
 だがそれを差し引いても、妹は酷く甘やかされていた。
 高価な西洋の服を何着も買い与え、夕飯は決まって妹の食べたい物が食卓に並んだ。

 ――例えそれが男の嫌いな物であったとしても、だ。

 男は妹を好いていた。
 彼女が生まれて、初めて抱き上げた時の嬉しさだって憶えている。
 好奇心旺盛で明るく、真ん丸い笑みを見せる妹にいつも心を和まされていた。俺の妹はこんなに可愛らしいんだ、と全世界に自慢してやりたいと思っていた。

 けれどその一方で、妹が生まれてからの両親は、全く男を構いつけなくなった。
 身体の弱い妹は直ぐに体調を崩し、男の話が途中でも両親は彼女の元へとすっ飛んで行く。
 彼女の身体が心配なのだと理解はしていたけれど、「お前の事は二の次だ」と言われている様だと、幼い乍らに男は心を痛めていた。
 お前さえ居なければ、こんなに寂しい思いはしなかった――そう、何度か妹を憎んだ事が有る。そうしたって仕方が無いと、判っていたけれど。

 生垣の近くに植わった、朝顔の近くに寄って水を遣る。蕾がぷっくりと膨らんでいて、もう時期咲く頃なのだと告げていた。どんな色に咲くだろうか。鬱屈した気持ちを搔き消す様に、しゃきりと健康そうに育った葉をそうっと撫でた。

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