朝顔に水浅葱

夏凪彗

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前篇

第二部

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 明くる日、昼飯の献立を考えようとした所で、男は食材がもう殆ど残っていない事を思い出した。
 買いに行かなければ、と独り言ちる。
 紺の中折れ帽を被り、玄関の脇に置かれた籠を手にして、からからと横開きの戸を開けて外へ出た。昨日辺りから咲き始めた朝顔の、鮮やかな青色が視界に飛び込んで来る。男はそれを見て、微かに口角を上げた。

 鼠色の空を見上げる。天候は芳しくないが、八百屋は此処からそう遠くは無い。男はぼんやりとし乍ら、目的地へ歩いて行く。
 無意識に水浅葱を探している事に気が付いて、小さく苦笑した。
 近頃、ずっとあの女の事を考えてしまっている。夢では無かったのでは、と謂う考えは男の希望的観測でしか無い。あの女が本当に実在する保証等、何処にも在りはしないと謂うのに。

 結局あの女を見つける事は無い儘、八百屋に辿り着いた。
 他の客と同じ様にして並べられた野菜を覗き込む。夏が近づいて来ているからだろう、夏野菜が安い。茄子は煮浸しや味噌汁の具、胡瓜は浅漬けにしようと男は考え、店主にそれ等を買う旨を伝える。
 序でに人参と牛蒡も籠に入れて貰い精算をすると、店主はおまけだと言って桃を一つ男に渡した。此処の店主と男の母親は古い仲で在ったとかで、男の幼い頃には良く面倒を見ていたのだと聞いた――男はまるで憶えていなかったが――。
 母が亡くなった今でも、店主はこうして男を贔屓にして居り、男としては有難い事この上無かった。

 毎度ー、と朗らかな店主の声に礼をして歩き出した男であったが、少しばかりしてからぽつりと冷たい雫を頬に感じて立ち止まった。
 初めは僅かだったそれは、次第に数を増して男の着物をあれよあれよと言う間に濡らしてゆく。
 降り出したか、と男は呟いたが、その声は誰かの耳に届く前に雨音に搔き消されてしまった。
 自宅への道程は長くないとは雖も、流石にこの雨の中では――男はきょろきょろと辺りを見回す。少し先に雨宿りに丁度好さそうな庇のある建物を見つけ、其処へ駆け込んだ。

 男は上がった息を整え、着物に付いた水滴を払い落とす。
 と、視界の隅に人影を捉えた。何気無く其方を見遣ると、五歩程離れた所に着物姿の女が立っている。愁いを帯びた横顔は空を見詰め、雨の上がるのを待っている様だった。悪天候で鈍色にくすんだような景色の中、水浅葱の着物が映えている。


 水浅葱の、着物。


 気が付いた途端、男の鼓動は急激に早まった。
 どくんどくんと身体の内側から響く心音は痛い程大きく、肺が詰まったように息苦しい。

 あの夜更け、月明かりの中で出逢った女かもしれない。

 丁寧に結い上げられたまがれいとを見て、其処に括り付けられた可憐なリボンを見て、男は確信を強める。
 声を掛けようとして息を吸い込むが、言葉が出て来ない。嗚呼、雨よ、如何か止まないでくれ。男は祈る。

 不意に女が、男の方に視線を移した。
 固まる男に、女は小さくあっと声を上げて此方に近寄って来る。
 双方の距離は、手を伸ばさずとも触れられる程に縮まった。 

 暫くの間、二人は黙った儘で居た。


 「――――お逢い、しましたよね。何時かの夜」


 如何程の時間が経っただろう。
 漸く男が口を開いて問い掛けると、女は口元を綻ばせて頷いた。ぷるんと潤った唇に、男の目が吸い寄せられる。


 「ええ。月を見に外へ出たのです。あの夜は珍しく晴れていましたし、満月でしたので……。誰も居ないとばかり思っていましたから、吃驚しました」


 そう言った女は柔らかく微笑んで、それから男に訊ねた。あの夜、貴方は何故外に居たのですか、と。
 男は眉尻を下げ乍ら、恥ずかしいとでも言う様に帽子を被り直す。


 「少々寝呆けていた様です。俗に言う『夢遊病』ではないかと。昔、寝ていた筈の妹も同じ様な行動をした事が有りまして」


 「大人が夢遊病を起こすのは、過度な精神負担が原因だと聞いた事が有りますが……」


 言外に大丈夫かと問われている事に、男は気が付く。
 そっと窺う様な視線。澄んだ瞳は仄かに茶味がかっていて、其の目を囲う睫毛は長く繊細に伸びている。肌理の細かい肌は、雪化粧をした富士の様に透き通った白色だ。丁寧に整えられた眉は凛とした意志の強さを垣間見せ、控え目な目鼻立ちが着物と相俟って、淑やかな印象を与えた。

 何と奇麗な人なのだろうか、と男は思わず溜息を漏らす。
 早まっていた男の鼓動は勢いを増し、この儘はち切れてしまうのではと憂慮した。

 ――と、女が小さく身じろいだ。
 男を見上げる眼差しは熱く潤んで、ぽっと音が聞こえて来そうな程に頬を赤くしている。


 「……そんなに見詰められると、その、……恥ずかしいです」


 着物の袖で口元を隠す女。
 水浅葱が余計に顔の赤味を際立たせて、男は一層強く心臓が脈打つのを感じた。


 「し……失礼。余りに奇麗だったもので、」


 男は目を逸らし乍ら弁明を試みるが、本音を口走ってしまい慌てて口に手を遣った。
 気を悪くしていないだろうか、と女を盗み見れば、恥じた様に手を弄んでいる。短く切り揃えられた爪は、桜貝のように透けた桜色をしていた。白く細い指は見るからに滑らかだ。

 再び、沈黙が続く。
 雨音が弱まっているのが分かった。見上げると、薄くなった雲が僅かに光を孕んでいる。

 雨が止んでしまえば、もう二度と会う事は無いのだろうか。男はふと思う。
 胸に手を当てると、強く早い心音が聞こえた。
 隣に立つ女の方を見れば、あの夜の翌朝の様に、きゅうっと心臓が甘く軋む。

これはきっと恋情なのだと自覚した刹那、男は口を開いていた。


 「あの、雨が止んだら……私の家に来ませんか。貴女ともっと話がしたい」


 女は驚いた様に何度か目を瞬かせ、其れからふわりと微笑んで「はい」と受け入れた。

 雨上がりの匂いがしていた。
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