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はじまりの終わり
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4. はじまりの終わり
ヒロトが駅前の喫茶店でアルバイトを始めて2週間ほどが過ぎた。
その日は水族館のショップで棚卸し作業があり、タカヤも手伝いに駆り出されて帰りが遅くなった。いつもなら帰宅後に夕食を作ってヒロトの帰りを待つのだが、今日は水族館を出た時点で外はすっかり暗くなっている。アルバイト先の喫茶店まで迎えに行けば、ちょうどヒロトと一緒に帰れそうな時間だった。
これから夕食を作ると遅くなるし、たまには2人で外食してもいいかもしれないとタカヤは考えた。炊いたご飯を冷凍してあるから、スーパーで惣菜を買うという手もある。今の時間帯ならちょうど値引きシールが貼られ始めているはずだ。
何も言わずに迎えに行ったら、きっとヒロトは驚くだろう。その顔を想像すると少し楽しくなった。
いつもの帰り道から逸れて、喫茶店がある駅前の方角へ自転車を走らせる。
駅前と言っても商業ビルが建ち並んでいるわけではない。そもそも駅というのも線路の片側にしかホームのない簡素な無人駅で、電車の本数も1時間に1~2本あるかないかだ。だが海沿いを走るこの鉄道はこの町で暮らす人々、中でも特に車を持たない学生やお年寄りの貴重な足であり、眺望を売りにした観光列車も走っているので、利用客は少なくはない。だからヒロトの働く喫茶店もそれなりに繁盛していた。
タカヤが駅前の道路へ出ると、ちょうど後ろから電車が来るところだった。ここでは道路と並行してレールが走っている。白地に黄緑色のラインが引かれた2両編成の電車が、ライトを光らせながらやってきてタカヤを追い越し、少し先にあるホームで止まった。
ぞろぞろと下車してくる人たちを横目に、タカヤは駅を通り過ぎてさらに先へと向かう。
遠くに喫茶店のネオンが見えてきた。その近くにヒロトらしき長身のシルエットが立っている。ちょうどシフトを終えて帰るところだろう。手を振ろうと腕を上げたタカヤは、小さな違和感に気づいた。
ヒロトの隣に、誰かの影が寄り添っている。
小柄で髪が長い人物――それが女性だと悟った瞬間、タカヤは振り上げた腕を力なく下ろした。急激に冷えていく血液。熱を補おうと急上昇する心拍数。横隔膜がうまく動いてくれない。息が苦しい。
反射的に方向を変え、今来た道を全速力で引き返していた。
見てはいけないものを見た、いや、見たくなかったものを見てしまった。体はまっすぐ前に進んでいるはずなのに、心は自由落下していくような感覚。
気づくと視界が滲んでいた。
さっきタカヤを追い越していった電車と今度はすれ違う。涙に反射したライトがやけに眩しい。
よくよく考えれば、別に焦って引き返す必要なんてなかった。ヒロトの隣にいたのが誰なのかは分からないし、本当に女性だったのか確かめたわけでもない。実際に女性だったとしても、ヒロトとは何の関係もないのかもしれない。
それでも、こんなにも動揺してしまうのは。涙が出てしまうのは。
ヒロトのことが好きだからだ。
タカヤは残酷な形で恋心を自覚した。
ヒロトと特別な関係になれると思っていたわけではない。彼には追うべき夢があり、いずれはこの町を去ることは分かっていた。自分は彼にとって長い旅の中で出会った大勢の一人にすぎないことも、わきまえていたはずだった。
それでもヒロトが自分以外の誰か、それも女性と2人でいるところを見ただけで、こんなに心が乱れてしまうなんて。
人通りが多く明るい駅前の道路を離れて、ぽつぽつと民家が並ぶだけの暗い細道に入る。タカヤはみっともなく泣いていた。暗闇に包まれると少しだけ安心する。ここなら誰にも見られず、誰のことも見なくて済む。少し先から聞こえる波の音が優しい。このまま夜の空気に溶けてなくなりたいと思いながらペダルを漕いだ。
どうにか自宅に帰り着くと、着替えもそこそこに寝室に飛び込み、敷いたままの布団に頭まで潜り込む。鏡を見なくても、目が腫れているのが分かった。こんな顔をヒロトに見られたら言い訳に困る。明日の朝まで顔を合わせないように隠れていたかった。
それからしばらく経ち、玄関の鍵穴がガチャリと鳴って、ヒロトが帰宅したのが分かった。まっすぐ帰ってきたにしては時間がかかりすぎている。さっき隣にいた誰かと一緒に、どこかへ寄り道してきたのだろうか。ということは、やはり、2人きりで過ごすような親密な関係なのだろうか。そんな想像がさらにタカヤを苦しめる。
「ただいまー。あれ、タカヤ?」
リビングに誰もいないことに気づいたヒロトが、寝室のドアをそっと開けた。
「タカヤ、具合悪いの?」
「忙しかったから、疲れただけ」
一応、ウソはついていない。忙しかったのも疲れたのも本当だ。
「夕飯、カップラーメンでいい?台所の棚にあるから好きなの食べて」
「タカヤの分は?」
「食欲ないから、大丈夫」
「メシも食わないなんて、本当は体調悪いんだろ。声もなんか、鼻声だし」
「いや、平気平気。もう寝るから、気にしないで」
顔も出さずに答えるタカヤ。ヒロトは何となく納得がいかないような顔で、こんもりと膨らんだ布団を眺めていたが、追究は諦めたようだった。
「俺、しばらく起きてるから。何かあったら言えよ」
「…ありがと」
リビングと寝室を隔てる引き戸が、優しく閉められる。真っ暗になった寝室で、タカヤは布団から顔を出して天井を見つめる。幸い、ヒロトは自分が迎えに行ったことに気づいていないようだった。明日の朝からいつもどおりに過ごせば何の問題もない、はずだ。
台所から、電気ポットでお湯を沸かす音が聞こえる。ヒロトと食卓を囲むチャンスをひとつ無駄にしてしまった、とタカヤは思った。そのことを考えるとまた涙が出てきそうになるけれど、絶対にここで泣くわけにはいかない。目をぎゅっと閉じて耐えているうちに、眠気の波がタカヤをさらっていった。
ヒロトが駅前の喫茶店でアルバイトを始めて2週間ほどが過ぎた。
その日は水族館のショップで棚卸し作業があり、タカヤも手伝いに駆り出されて帰りが遅くなった。いつもなら帰宅後に夕食を作ってヒロトの帰りを待つのだが、今日は水族館を出た時点で外はすっかり暗くなっている。アルバイト先の喫茶店まで迎えに行けば、ちょうどヒロトと一緒に帰れそうな時間だった。
これから夕食を作ると遅くなるし、たまには2人で外食してもいいかもしれないとタカヤは考えた。炊いたご飯を冷凍してあるから、スーパーで惣菜を買うという手もある。今の時間帯ならちょうど値引きシールが貼られ始めているはずだ。
何も言わずに迎えに行ったら、きっとヒロトは驚くだろう。その顔を想像すると少し楽しくなった。
いつもの帰り道から逸れて、喫茶店がある駅前の方角へ自転車を走らせる。
駅前と言っても商業ビルが建ち並んでいるわけではない。そもそも駅というのも線路の片側にしかホームのない簡素な無人駅で、電車の本数も1時間に1~2本あるかないかだ。だが海沿いを走るこの鉄道はこの町で暮らす人々、中でも特に車を持たない学生やお年寄りの貴重な足であり、眺望を売りにした観光列車も走っているので、利用客は少なくはない。だからヒロトの働く喫茶店もそれなりに繁盛していた。
タカヤが駅前の道路へ出ると、ちょうど後ろから電車が来るところだった。ここでは道路と並行してレールが走っている。白地に黄緑色のラインが引かれた2両編成の電車が、ライトを光らせながらやってきてタカヤを追い越し、少し先にあるホームで止まった。
ぞろぞろと下車してくる人たちを横目に、タカヤは駅を通り過ぎてさらに先へと向かう。
遠くに喫茶店のネオンが見えてきた。その近くにヒロトらしき長身のシルエットが立っている。ちょうどシフトを終えて帰るところだろう。手を振ろうと腕を上げたタカヤは、小さな違和感に気づいた。
ヒロトの隣に、誰かの影が寄り添っている。
小柄で髪が長い人物――それが女性だと悟った瞬間、タカヤは振り上げた腕を力なく下ろした。急激に冷えていく血液。熱を補おうと急上昇する心拍数。横隔膜がうまく動いてくれない。息が苦しい。
反射的に方向を変え、今来た道を全速力で引き返していた。
見てはいけないものを見た、いや、見たくなかったものを見てしまった。体はまっすぐ前に進んでいるはずなのに、心は自由落下していくような感覚。
気づくと視界が滲んでいた。
さっきタカヤを追い越していった電車と今度はすれ違う。涙に反射したライトがやけに眩しい。
よくよく考えれば、別に焦って引き返す必要なんてなかった。ヒロトの隣にいたのが誰なのかは分からないし、本当に女性だったのか確かめたわけでもない。実際に女性だったとしても、ヒロトとは何の関係もないのかもしれない。
それでも、こんなにも動揺してしまうのは。涙が出てしまうのは。
ヒロトのことが好きだからだ。
タカヤは残酷な形で恋心を自覚した。
ヒロトと特別な関係になれると思っていたわけではない。彼には追うべき夢があり、いずれはこの町を去ることは分かっていた。自分は彼にとって長い旅の中で出会った大勢の一人にすぎないことも、わきまえていたはずだった。
それでもヒロトが自分以外の誰か、それも女性と2人でいるところを見ただけで、こんなに心が乱れてしまうなんて。
人通りが多く明るい駅前の道路を離れて、ぽつぽつと民家が並ぶだけの暗い細道に入る。タカヤはみっともなく泣いていた。暗闇に包まれると少しだけ安心する。ここなら誰にも見られず、誰のことも見なくて済む。少し先から聞こえる波の音が優しい。このまま夜の空気に溶けてなくなりたいと思いながらペダルを漕いだ。
どうにか自宅に帰り着くと、着替えもそこそこに寝室に飛び込み、敷いたままの布団に頭まで潜り込む。鏡を見なくても、目が腫れているのが分かった。こんな顔をヒロトに見られたら言い訳に困る。明日の朝まで顔を合わせないように隠れていたかった。
それからしばらく経ち、玄関の鍵穴がガチャリと鳴って、ヒロトが帰宅したのが分かった。まっすぐ帰ってきたにしては時間がかかりすぎている。さっき隣にいた誰かと一緒に、どこかへ寄り道してきたのだろうか。ということは、やはり、2人きりで過ごすような親密な関係なのだろうか。そんな想像がさらにタカヤを苦しめる。
「ただいまー。あれ、タカヤ?」
リビングに誰もいないことに気づいたヒロトが、寝室のドアをそっと開けた。
「タカヤ、具合悪いの?」
「忙しかったから、疲れただけ」
一応、ウソはついていない。忙しかったのも疲れたのも本当だ。
「夕飯、カップラーメンでいい?台所の棚にあるから好きなの食べて」
「タカヤの分は?」
「食欲ないから、大丈夫」
「メシも食わないなんて、本当は体調悪いんだろ。声もなんか、鼻声だし」
「いや、平気平気。もう寝るから、気にしないで」
顔も出さずに答えるタカヤ。ヒロトは何となく納得がいかないような顔で、こんもりと膨らんだ布団を眺めていたが、追究は諦めたようだった。
「俺、しばらく起きてるから。何かあったら言えよ」
「…ありがと」
リビングと寝室を隔てる引き戸が、優しく閉められる。真っ暗になった寝室で、タカヤは布団から顔を出して天井を見つめる。幸い、ヒロトは自分が迎えに行ったことに気づいていないようだった。明日の朝からいつもどおりに過ごせば何の問題もない、はずだ。
台所から、電気ポットでお湯を沸かす音が聞こえる。ヒロトと食卓を囲むチャンスをひとつ無駄にしてしまった、とタカヤは思った。そのことを考えるとまた涙が出てきそうになるけれど、絶対にここで泣くわけにはいかない。目をぎゅっと閉じて耐えているうちに、眠気の波がタカヤをさらっていった。
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