9 / 78
第一章 入れ替わった花嫁
章閑話—1 アズベルトの艱苦
しおりを挟む
「旦那様!! ……カナリア様が……」
執務室に駆け込んで来た執事の青年、クーラの呼び掛けに応える事も忘れて飛び出した。
彼が来たという事は、おそらくそういう事だ。
覚悟はしていた筈なのに、心臓が握り潰されそうな程痛くて苦しかった。
急いで駆け付けたカナリアの部屋では、周りの啜り泣く声をナタリーの名を呼ぶ声がかき消していた。
私の姿を見るなり無言で首を横に振った医者に、軽い目眩を覚え、目の前が真っ暗になった。
「そ……んな……」
フラフラとベッドへ近づき、場所を空けてくれたナタリーに代わり、横たわるカナリアの手を握る。痩せ細って筋が浮いてしまった手は驚く程冷たく、強く握れば折れてしまいそうで、握り締めてしまいたい衝動を必死に堪えて両手を添えた。
「リア……いくな! 頼む……カナリア!」
すっかり頬が落ちてしまったそこへ手を伸ばした。
固く瞼を閉じ、青白く生気を失ってしまった顔にその手が震える。
いつもするように親指で冷たい頬をなぞった。目に見えて呼吸が弱くなっていく。
「カナリア!! ……カナリア……」
何故、もっと早く彼女を側に置かなかったのか。
何故、彼女の気持ちに気付いていながら向き合おうとしなかったのか。
十以上歳が離れている事を理由にして、彼女の気持ちを蔑ろにしてきた罰が下ったのか。
『アズ兄様』と、後ろをちょろちょろしていた可愛らしい天使は、いつの間にかすれ違えば誰もが振り向く美姫に成長していた。
身体が弱く社交界デビューを諦めると悲しそうに目を伏せていたカナリアの為に、彼女の両親とうちの両親が彼女の十三歳の誕生日に我が家でパーティーを開いた時だ。年頃の友人を招いた席で、初めて着飾った彼女の姿に心を奪われたのは私だけでは無かったのだ。
その日初めて自分の本当の気持ちに気付き、同時にたくさんの男の目に触れさせた事を後悔した。
誰よりも彼女を知っていた筈だった。こうなってしまってからでは遅いとわかりきっていたのに。
後悔ばかりが押し寄せ、瞳には涙が滲んでいく。
「カナリア!!」
そんな時、固く閉ざされたカナリアの瞼がピクリと動いたように見えた。徐々に頬に赤みが戻り、冷え切っていた皮膚に温かみが戻って来たのだ。
「リア? ……カナリア!?」
握っていた手に反応があった。弱々しいものだったが、確かに握り返してくる感覚があった。
「旦那様!! リアが! リアが!!」
呼吸が徐々に戻ってきた。虫の息だったそれが、胸の上下が僅かだが確認出来るまでになった。
「顔色が……脈が戻ってきた……こんな……奇跡だ……!」
周りが慌ただしく動き出す中、握る手に力を込めその手を自分の頬につけると、何度も彼女の名を呼んだ。
「リア! ……カナリア! 頼む……目を開けてくれ……」
祈りと願いが届いたのか、カナリアが薄く瞼を開いた。焦点が合っていないのか、その眼差しがこちらと交わる事は無かったが、安堵から今度こそ熱いものが頬を伝っていった。
「カナリア!! ……良かった……」
瞳はすぐに閉じられてしまったが、呼吸が安定した事、顔色が格段に良くなった事から、やまは超えたと判断された。
そう思っていたのに……
目覚めた彼女は様子がおかしかった。
昨夜まで意識が無かったにも関わらず、部屋を訪れた時には鏡台の前でナタリーの側に膝をつき、呆けた顔でこちらを見ていた。態度がやけによそよそしく、普段使わない敬語を使ってくる。
そればかりか
「そもそも貴方誰ですか? ここどこ?」
信じられない一言に思考回路が停止した。彼女の、カナリアの口からそんなセリフが出ようなどと、一体誰に想像出来ただろうか。
生まれた時から一緒に、家族のように側で過ごしてきたのに。
会うたびに『アズ兄様』と胸に飛び込んで来たカナリアが、『アズベルト様』と恥じらいながら可愛らしい笑顔を向けてくれたカナリアが、『アズ』と慈愛に満ちた眼差しを向けながらこちらへ腕を伸ばして来た愛しい人が、今までに見たことのないような表情で私を拒絶したのだ。
目の前にいる筈のカナリアが、全く知らない人のような違和感に混乱した。
長い間意識が戻らない副作用で、一時的な記憶の混乱なのだと信じたかった。
しかし、そんな私たちに追い討ちを掛けるかのように、カナリアの口から信じられない言葉が紡がれる。
「信じてもらえないかもしれませんが、私は……カナリアさんではありません」
中身が別人だと話す彼女の言葉を信じる事など到底出来なかったが、彼女が自分の事を話す内容はまるで暗号のようで、半分も理解が及ばなかった。
そもそも、カナリアが私を惑わすような嘘を吐くとは思えない。病弱でいつどうなるかわからない身で、そんな嘘を吐く理由がまるで無いのだ。
身体中から血の気が引いた。何が起こっているのか、全く理解が出来なかった。
仮に目の前のカナリアがカナリアでないなら、彼女は何処へ行ってしまったのか。
それを問い正したかったが、カナリアと全く同じ顔のカナを怯えさせただけだった。
私が自分自身の手でカナリアを怯えさせた事にショックを受け、それから何も考えられなくなってしまった。
退出しようとした私をカナリアは『アズベルトさん』と呼んだ。今までに一度だってそんな他人行儀な呼び方をされた事は無い。それが無性に悲しくて虚しくて、このやり切れない思いを何処へぶつければいいのか分からなかった。
聞けばナタリーにもカナリアに対する違和感があったようだ。信じられないという思いと、そうかもしれないという思いが混じった、普段のナタリーと比べて冷静さを欠いた反応だった。
しかしとてもじゃないが信じられない。
信じたくないが正しいかもしれない。
目の前に愛しい彼女がいるのに別人だなんて……。
カナリアが一体何をしたというのか。
ずっと病に苦しんで、辛い治療に耐えて来たというのに。
どんな拷問だと叫んでしまいたかった。
いや、私は諦めない。
もしかしたらある日突然カナリアが記憶を取り戻すことがあるかもしれない。
それこそ何か理由が、方法があるかもしれない。
カナを帰してやる事が出来れば、カナリアが帰ってくるかもしれないではないか。
こんなお伽話のような出来事、誰も信じる筈がない。しばらくは事情を知るナタリーと二人だけの秘密事項にしておこう。
城にある資料室なら、こんなお伽話のような事象の例があるだろうか。
魔導師の力を借りれば、何か突破口が掴めるだろうか。
得体のしれない現象には少なからず魔導や魔術の力が及んでいる事が多いものだ。
有難い事に、王室付きの魔導師には友人がいる。
カナリアの治療でも随分世話になった男だ。
忙しい奴だが、彼なら力になってくれる筈だ。そう思ったら居ても立っても居られなくなり、すぐに彼宛に手紙を認めた。
どう説明したものか、何度も書き直し、緊急性を出す為にわざわざ封蝋印まで押した。どうか方法が見つかりますようにと、祈らずにはいられなかった。
カナリアの身に起こった事が衝撃的過ぎて、彼女の両親が来る事を直前まで失念していた。
当日の朝、クーラからその事を伝えられ、内心では焦っていたのだ。どうしたものかと考えたが、来るのはカナリアの両親だ。合わせない選択肢などあり得なかった。
ナタリーと医者と共に部屋を訪れると、昨日と同様ベッドから起き上がり、窓の手前でこちらを見つめるカナリアの姿があった。数日前まで意識が無かった等とは思えない程の回復ぶりに、医者は大いに喜んでいる。
診察の間、どう伝えようかと考えていたが、事情を知らない翁とのやりとりを無難にこなす彼女を見て、今日くらいならやり過ごせるのではないかと考えた。目が覚めたばかりという事を考慮すれば、色々と都合の良いタイミングだったかもしれない。
案の定彼女は「無理だ」と言ったが、やってもらわねばならない。帰還の方法を探すという取引を持ちかけ何とか説得に成功したようだ。
彼女の目的もそれであるなら利害関係は一致している。
お互いの目的を果たす為、協力していこうではないか。
が、ここで一つ誤算があった。
「結婚式ってどういう事?」
ナタリーの素晴らしいフォローもあって、どうにかこうにかこの場は切り抜けられそうだと思っていた矢先。
私達の間では周知の事実だった為に、特に説明などしていなかった婚約者という立場が、彼女には納得がいかない様子だった。
その説明や情報のすり合わせも含めて「夕食を一緒に」と言ったのだが、余計なことを口走ってしまったと考えたのか、彼女は小さく震え怯えている様子だった。
それだけ私の態度も悪かったのだろう。
そんな事を気に病んでまた体調を崩してしまったら大変だ。
気にせずゆっくり休んでいろという意味でそれを伝えたのだが、カナは挽回しなければと考えていたようだ。
私の手に自分のを重ねると、頬をうっすらと染め、目尻を下げるとふわりと微笑んだ。
「……っ!」
いつものカナリアの姿がそこにあった。
痩せて頬は落ちてしまっていたが、格段に血色の良くなった顔色に薄く乗せられた仄かな紅が、彼女の魅力を引き出している。
蕾が幾重にも折り重なった花びらをふんわりと咲き広げるような、儚くも可憐な笑顔に胸が締め付けられるようだった。
キスをしてしまったのは完全に無意識だ。
離れていく彼女の驚いた表情で、自分が何をしたのか知った。カナリアの顔を見れないまま、ナタリーに任せその場を後にした。
彼女が結婚を頑なに拒否したのは、すでに夫がいるからだと分かった。彼女にも帰る場所があり、愛しい人がいたのだ。
そんな人には酷な話しだろうという事は分かる。分かるが彼女がカナリアである以上、どうする事も出来なかった。
二つの領地を統合する事は、もうすでに決まっている。カナリアを妻にと望んだのは、他でもない私自身だ。今更白紙になど出来ないし、する気も毛頭ない。
だからこれは取引だ。
お互いにあるべき姿に戻す為、今は周りもお互いも偽るしかないのだ。今だけ。戻るまでの辛抱だ。
それなのに……
「……キスは、やめて……」
愛らしく頬を染め、恥ずかしそうにそっぽを向いてしまった彼女がカナリアにしか見えなくて、握り潰されてしまいそうにズキズキと痛む心に耐えながら、私はキツく拳を握る事しか出来なかった。
執務室に駆け込んで来た執事の青年、クーラの呼び掛けに応える事も忘れて飛び出した。
彼が来たという事は、おそらくそういう事だ。
覚悟はしていた筈なのに、心臓が握り潰されそうな程痛くて苦しかった。
急いで駆け付けたカナリアの部屋では、周りの啜り泣く声をナタリーの名を呼ぶ声がかき消していた。
私の姿を見るなり無言で首を横に振った医者に、軽い目眩を覚え、目の前が真っ暗になった。
「そ……んな……」
フラフラとベッドへ近づき、場所を空けてくれたナタリーに代わり、横たわるカナリアの手を握る。痩せ細って筋が浮いてしまった手は驚く程冷たく、強く握れば折れてしまいそうで、握り締めてしまいたい衝動を必死に堪えて両手を添えた。
「リア……いくな! 頼む……カナリア!」
すっかり頬が落ちてしまったそこへ手を伸ばした。
固く瞼を閉じ、青白く生気を失ってしまった顔にその手が震える。
いつもするように親指で冷たい頬をなぞった。目に見えて呼吸が弱くなっていく。
「カナリア!! ……カナリア……」
何故、もっと早く彼女を側に置かなかったのか。
何故、彼女の気持ちに気付いていながら向き合おうとしなかったのか。
十以上歳が離れている事を理由にして、彼女の気持ちを蔑ろにしてきた罰が下ったのか。
『アズ兄様』と、後ろをちょろちょろしていた可愛らしい天使は、いつの間にかすれ違えば誰もが振り向く美姫に成長していた。
身体が弱く社交界デビューを諦めると悲しそうに目を伏せていたカナリアの為に、彼女の両親とうちの両親が彼女の十三歳の誕生日に我が家でパーティーを開いた時だ。年頃の友人を招いた席で、初めて着飾った彼女の姿に心を奪われたのは私だけでは無かったのだ。
その日初めて自分の本当の気持ちに気付き、同時にたくさんの男の目に触れさせた事を後悔した。
誰よりも彼女を知っていた筈だった。こうなってしまってからでは遅いとわかりきっていたのに。
後悔ばかりが押し寄せ、瞳には涙が滲んでいく。
「カナリア!!」
そんな時、固く閉ざされたカナリアの瞼がピクリと動いたように見えた。徐々に頬に赤みが戻り、冷え切っていた皮膚に温かみが戻って来たのだ。
「リア? ……カナリア!?」
握っていた手に反応があった。弱々しいものだったが、確かに握り返してくる感覚があった。
「旦那様!! リアが! リアが!!」
呼吸が徐々に戻ってきた。虫の息だったそれが、胸の上下が僅かだが確認出来るまでになった。
「顔色が……脈が戻ってきた……こんな……奇跡だ……!」
周りが慌ただしく動き出す中、握る手に力を込めその手を自分の頬につけると、何度も彼女の名を呼んだ。
「リア! ……カナリア! 頼む……目を開けてくれ……」
祈りと願いが届いたのか、カナリアが薄く瞼を開いた。焦点が合っていないのか、その眼差しがこちらと交わる事は無かったが、安堵から今度こそ熱いものが頬を伝っていった。
「カナリア!! ……良かった……」
瞳はすぐに閉じられてしまったが、呼吸が安定した事、顔色が格段に良くなった事から、やまは超えたと判断された。
そう思っていたのに……
目覚めた彼女は様子がおかしかった。
昨夜まで意識が無かったにも関わらず、部屋を訪れた時には鏡台の前でナタリーの側に膝をつき、呆けた顔でこちらを見ていた。態度がやけによそよそしく、普段使わない敬語を使ってくる。
そればかりか
「そもそも貴方誰ですか? ここどこ?」
信じられない一言に思考回路が停止した。彼女の、カナリアの口からそんなセリフが出ようなどと、一体誰に想像出来ただろうか。
生まれた時から一緒に、家族のように側で過ごしてきたのに。
会うたびに『アズ兄様』と胸に飛び込んで来たカナリアが、『アズベルト様』と恥じらいながら可愛らしい笑顔を向けてくれたカナリアが、『アズ』と慈愛に満ちた眼差しを向けながらこちらへ腕を伸ばして来た愛しい人が、今までに見たことのないような表情で私を拒絶したのだ。
目の前にいる筈のカナリアが、全く知らない人のような違和感に混乱した。
長い間意識が戻らない副作用で、一時的な記憶の混乱なのだと信じたかった。
しかし、そんな私たちに追い討ちを掛けるかのように、カナリアの口から信じられない言葉が紡がれる。
「信じてもらえないかもしれませんが、私は……カナリアさんではありません」
中身が別人だと話す彼女の言葉を信じる事など到底出来なかったが、彼女が自分の事を話す内容はまるで暗号のようで、半分も理解が及ばなかった。
そもそも、カナリアが私を惑わすような嘘を吐くとは思えない。病弱でいつどうなるかわからない身で、そんな嘘を吐く理由がまるで無いのだ。
身体中から血の気が引いた。何が起こっているのか、全く理解が出来なかった。
仮に目の前のカナリアがカナリアでないなら、彼女は何処へ行ってしまったのか。
それを問い正したかったが、カナリアと全く同じ顔のカナを怯えさせただけだった。
私が自分自身の手でカナリアを怯えさせた事にショックを受け、それから何も考えられなくなってしまった。
退出しようとした私をカナリアは『アズベルトさん』と呼んだ。今までに一度だってそんな他人行儀な呼び方をされた事は無い。それが無性に悲しくて虚しくて、このやり切れない思いを何処へぶつければいいのか分からなかった。
聞けばナタリーにもカナリアに対する違和感があったようだ。信じられないという思いと、そうかもしれないという思いが混じった、普段のナタリーと比べて冷静さを欠いた反応だった。
しかしとてもじゃないが信じられない。
信じたくないが正しいかもしれない。
目の前に愛しい彼女がいるのに別人だなんて……。
カナリアが一体何をしたというのか。
ずっと病に苦しんで、辛い治療に耐えて来たというのに。
どんな拷問だと叫んでしまいたかった。
いや、私は諦めない。
もしかしたらある日突然カナリアが記憶を取り戻すことがあるかもしれない。
それこそ何か理由が、方法があるかもしれない。
カナを帰してやる事が出来れば、カナリアが帰ってくるかもしれないではないか。
こんなお伽話のような出来事、誰も信じる筈がない。しばらくは事情を知るナタリーと二人だけの秘密事項にしておこう。
城にある資料室なら、こんなお伽話のような事象の例があるだろうか。
魔導師の力を借りれば、何か突破口が掴めるだろうか。
得体のしれない現象には少なからず魔導や魔術の力が及んでいる事が多いものだ。
有難い事に、王室付きの魔導師には友人がいる。
カナリアの治療でも随分世話になった男だ。
忙しい奴だが、彼なら力になってくれる筈だ。そう思ったら居ても立っても居られなくなり、すぐに彼宛に手紙を認めた。
どう説明したものか、何度も書き直し、緊急性を出す為にわざわざ封蝋印まで押した。どうか方法が見つかりますようにと、祈らずにはいられなかった。
カナリアの身に起こった事が衝撃的過ぎて、彼女の両親が来る事を直前まで失念していた。
当日の朝、クーラからその事を伝えられ、内心では焦っていたのだ。どうしたものかと考えたが、来るのはカナリアの両親だ。合わせない選択肢などあり得なかった。
ナタリーと医者と共に部屋を訪れると、昨日と同様ベッドから起き上がり、窓の手前でこちらを見つめるカナリアの姿があった。数日前まで意識が無かった等とは思えない程の回復ぶりに、医者は大いに喜んでいる。
診察の間、どう伝えようかと考えていたが、事情を知らない翁とのやりとりを無難にこなす彼女を見て、今日くらいならやり過ごせるのではないかと考えた。目が覚めたばかりという事を考慮すれば、色々と都合の良いタイミングだったかもしれない。
案の定彼女は「無理だ」と言ったが、やってもらわねばならない。帰還の方法を探すという取引を持ちかけ何とか説得に成功したようだ。
彼女の目的もそれであるなら利害関係は一致している。
お互いの目的を果たす為、協力していこうではないか。
が、ここで一つ誤算があった。
「結婚式ってどういう事?」
ナタリーの素晴らしいフォローもあって、どうにかこうにかこの場は切り抜けられそうだと思っていた矢先。
私達の間では周知の事実だった為に、特に説明などしていなかった婚約者という立場が、彼女には納得がいかない様子だった。
その説明や情報のすり合わせも含めて「夕食を一緒に」と言ったのだが、余計なことを口走ってしまったと考えたのか、彼女は小さく震え怯えている様子だった。
それだけ私の態度も悪かったのだろう。
そんな事を気に病んでまた体調を崩してしまったら大変だ。
気にせずゆっくり休んでいろという意味でそれを伝えたのだが、カナは挽回しなければと考えていたようだ。
私の手に自分のを重ねると、頬をうっすらと染め、目尻を下げるとふわりと微笑んだ。
「……っ!」
いつものカナリアの姿がそこにあった。
痩せて頬は落ちてしまっていたが、格段に血色の良くなった顔色に薄く乗せられた仄かな紅が、彼女の魅力を引き出している。
蕾が幾重にも折り重なった花びらをふんわりと咲き広げるような、儚くも可憐な笑顔に胸が締め付けられるようだった。
キスをしてしまったのは完全に無意識だ。
離れていく彼女の驚いた表情で、自分が何をしたのか知った。カナリアの顔を見れないまま、ナタリーに任せその場を後にした。
彼女が結婚を頑なに拒否したのは、すでに夫がいるからだと分かった。彼女にも帰る場所があり、愛しい人がいたのだ。
そんな人には酷な話しだろうという事は分かる。分かるが彼女がカナリアである以上、どうする事も出来なかった。
二つの領地を統合する事は、もうすでに決まっている。カナリアを妻にと望んだのは、他でもない私自身だ。今更白紙になど出来ないし、する気も毛頭ない。
だからこれは取引だ。
お互いにあるべき姿に戻す為、今は周りもお互いも偽るしかないのだ。今だけ。戻るまでの辛抱だ。
それなのに……
「……キスは、やめて……」
愛らしく頬を染め、恥ずかしそうにそっぽを向いてしまった彼女がカナリアにしか見えなくて、握り潰されてしまいそうにズキズキと痛む心に耐えながら、私はキツく拳を握る事しか出来なかった。
48
あなたにおすすめの小説
見た目は子供、頭脳は大人。 公爵令嬢セリカ
しおしお
恋愛
四歳で婚約破棄された“天才幼女”――
今や、彼女を妻にしたいと王子が三人。
そして隣国の国王まで参戦!?
史上最大の婿取り争奪戦が始まる。
リュミエール王国の公爵令嬢セリカ・ディオールは、幼い頃に王家から婚約破棄された。
理由はただひとつ。
> 「幼すぎて才能がない」
――だが、それは歴史に残る大失策となる。
成長したセリカは、領地を空前の繁栄へ導いた“天才”として王国中から称賛される存在に。
灌漑改革、交易路の再建、魔物被害の根絶……
彼女の功績は、王族すら遠く及ばないほど。
その名声を聞きつけ、王家はざわついた。
「セリカに婿を取らせる」
父であるディオール公爵がそう発表した瞬間――
なんと、三人の王子が同時に立候補。
・冷静沈着な第一王子アコード
・誠実温和な第二王子セドリック
・策略家で負けず嫌いの第三王子シビック
王宮は“セリカ争奪戦”の様相を呈し、
王子たちは互いの足を引っ張り合う始末。
しかし、混乱は国内だけでは終わらなかった。
セリカの名声は国境を越え、
ついには隣国の――
国王まで本人と結婚したいと求婚してくる。
「天才で可愛くて領地ごと嫁げる?
そんな逸材、逃す手はない!」
国家の威信を賭けた婿争奪戦は、ついに“国VS国”の大騒動へ。
当の本人であるセリカはというと――
「わたし、お嫁に行くより……お昼寝のほうが好きなんですの」
王家が焦り、隣国がざわめき、世界が動く。
しかしセリカだけはマイペースにスイーツを作り、お昼寝し、領地を救い続ける。
これは――
婚約破棄された天才令嬢が、
王国どころか国家間の争奪戦を巻き起こしながら
自由奔放に世界を変えてしまう物語。
転生したので推し活をしていたら、推しに溺愛されました。
ラム猫
恋愛
異世界に転生した|天音《あまね》ことアメリーは、ある日、この世界が前世で熱狂的に遊んでいた乙女ゲームの世界であることに気が付く。
『煌めく騎士と甘い夜』の攻略対象の一人、騎士団長シオン・アルカス。アメリーは、彼の大ファンだった。彼女は喜びで飛び上がり、推し活と称してこっそりと彼に贈り物をするようになる。
しかしその行為は推しの目につき、彼に興味と執着を抱かれるようになったのだった。正体がばれてからは、あろうことか美しい彼の側でお世話係のような役割を担うことになる。
彼女は推しのためならばと奮闘するが、なぜか彼は彼女に甘い言葉を囁いてくるようになり……。
※この作品は、『小説家になろう』様『カクヨム』様にも投稿しています。
【完結】ど近眼悪役令嬢に転生しました。言っておきますが、眼鏡は顔の一部ですから!
As-me.com
恋愛
完結しました。
説明しよう。私ことアリアーティア・ローランスは超絶ど近眼の悪役令嬢である……。
気が付いたらファンタジー系ライトノベル≪君の瞳に恋したボク≫の悪役令嬢に転生していたアリアーティア。
原作悪役令嬢には、超絶ど近眼なのにそれを隠して奮闘していたがあらゆることが裏目に出てしまい最後はお約束のように酷い断罪をされる結末が待っていた。
えぇぇぇっ?!それって私の未来なの?!
腹黒最低王子の婚約者になるのも、訳ありヒロインをいじめた罪で死刑になるのも、絶体に嫌だ!
私の視力と明るい未来を守るため、瓶底眼鏡を離さないんだから!
眼鏡は顔の一部です!
※この話は短編≪ど近眼悪役令嬢に転生したので意地でも眼鏡を離さない!≫の連載版です。
基本のストーリーはそのままですが、後半が他サイトに掲載しているのとは少し違うバージョンになりますのでタイトルも変えてあります。
途中まで恋愛タグは迷子です。
『龍の生け贄婚』令嬢、夫に溺愛されながら、自分を捨てた家族にざまぁします
卯月八花
恋愛
公爵令嬢ルディーナは、親戚に家を乗っ取られ虐げられていた。
ある日、妹に魔物を統べる龍の皇帝グラルシオから結婚が申し込まれる。
泣いて嫌がる妹の身代わりとして、ルディーナはグラルシオに嫁ぐことになるが――。
「だからお前なのだ、ルディーナ。俺はお前が欲しかった」
グラルシオは実はルディーナの曾祖父が書いたミステリー小説の熱狂的なファンであり、直系の子孫でありながら虐げられる彼女を救い出すために、結婚という名目で呼び寄せたのだ。
敬愛する作家のひ孫に眼を輝かせるグラルシオ。
二人は、強欲な親戚に奪われたフォーコン公爵家を取り戻すため、奇妙な共犯関係を結んで反撃を開始する。
これは不遇な令嬢が最強の龍皇帝に溺愛され、捨てた家族に復讐を果たす大逆転サクセスストーリーです。
(ハッピーエンド確約/ざまぁ要素あり/他サイト様にも掲載中)
もし面白いと思っていただけましたら、お気に入り登録・いいねなどしていただけましたら、作者の大変なモチベーション向上になりますので、ぜひお願いします!
婚約破棄された氷の令嬢 ~偽りの聖女を暴き、炎の公爵エクウスに溺愛される~
ふわふわ
恋愛
侯爵令嬢アイシス・ヴァレンティンは、王太子レグナムの婚約者として厳しい妃教育に耐えてきた。しかし、王宮パーティーで突然婚約破棄を宣告される。理由は、レグナムの幼馴染で「聖女」と称されるエマが「アイシスにいじめられた」という濡れ衣。実際はすべてエマの策略だった。
絶望の底で、アイシスは前世の記憶を思い出す――この世界は乙女ゲームで、自分は「悪役令嬢」として破滅する運命だった。覚醒した氷魔法の力と前世知識を武器に、辺境のフロスト領へ追放されたアイシスは、自立の道を選ぶ。そこで出会ったのは、冷徹で「炎の公爵」と恐れられるエクウス・ドラゴン。彼はアイシスの魔法に興味を持ち、政略結婚を提案するが、実は一目惚れで彼女を溺愛し始める。
アイシスは氷魔法で領地を繁栄させ、騎士ルークスと魔導師セナの忠誠を得ながら、逆ハーレム的な甘い日常を過ごす。一方、王都ではエマの偽聖女の力が暴かれ、レグナムは後悔の涙を流す。最終決戦で、アイシスとエクウスの「氷炎魔法」が王国軍を撃破。偽りの聖女は転落し、王国は変わる。
**氷の令嬢は、炎の公爵に溺愛され、運命を逆転させる**。
婚約破棄の屈辱から始まる、爽快ザマアと胸キュン溺愛の物語。
【12月末日公開終了】これは裏切りですか?
たぬきち25番
恋愛
転生してすぐに婚約破棄をされたアリシアは、嫁ぎ先を失い、実家に戻ることになった。
だが、実家戻ると『婚約破棄をされた娘』と噂され、家族の迷惑になっているので出て行く必要がある。
そんな時、母から住み込みの仕事を紹介されたアリシアは……?
【完結】転生したら悪役継母でした
入魚ひえん@発売中◆巻き戻り冤罪令嬢◆
恋愛
聖女を優先する夫に避けられていたアルージュ。
その夜、夫が初めて寝室にやってきて命じたのは「聖女の隠し子を匿え」という理不尽なものだった。
しかも隠し子は、夫と同じ髪の色。
絶望するアルージュはよろめいて鏡にぶつかり、前世に読んだウェブ小説の悪妻に転生していることを思い出す。
記憶を取り戻すと、七年間も苦しんだ夫への愛は綺麗さっぱり消えた。
夫に奪われていたもの、不正の事実を着々と精算していく。
◆愛されない悪妻が前世を思い出して転身したら、可愛い継子や最強の旦那様ができて、転生前の知識でスイーツやグルメ、家電を再現していく、異世界転生ファンタジー!◆
*旧題:転生したら悪妻でした
好きすぎます!※殿下ではなく、殿下の騎獣が
和島逆
恋愛
「ずっと……お慕い申し上げておりました」
エヴェリーナは伯爵令嬢でありながら、飛空騎士団の騎獣世話係を目指す。たとえ思いが叶わずとも、大好きな相手の側にいるために。
けれど騎士団長であり王弟でもあるジェラルドは、自他ともに認める女嫌い。エヴェリーナの告白を冷たく切り捨てる。
「エヴェリーナ嬢。あいにくだが」
「心よりお慕いしております。大好きなのです。殿下の騎獣──……ライオネル様のことが!」
──エヴェリーナのお目当ては、ジェラルドではなく獅子の騎獣ライオネルだったのだ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる