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最終章
閑話——覚悟
しおりを挟む久しぶりに夢を見た。
『やぁ、ハワード。元気だった?』
そう言って人好きのする笑顔を向けてやって来るその人は、たった五歳しか離れていないのに、佇まいも落ち着きも優雅な仕草も、何もかもかもが自分とは大違いだった。忙しい合間に時間を作って顔を見せてくれる優しい彼を、第二皇子という肩書きがあるにも関わらず『兄貴』と気安く呼び、よく周りに注意されたものだ。
『それは砕けすぎだといつも言っているだろう』
『せめて兄上かロベルト様と呼ぶべきです』
その筆頭が今でも悪友であるあの二人だ。兄の事はきちんと敬称で呼べというくせに、オレに対しては気安く話すそいつらは、幼い頃から一緒にいる事が多かった。そのせいもあって二人も彼をよく知っている。
ロベルト・バル・ロ・フェリシモール。
この国の第一皇子であり、オレのたった一人の兄だった。
すぐ側で人の気配を感じ、ハワードはいつの間にか伏せていた執務机から顔を上げた。上体を起こした事で肩からするりと何かが滑り落ちていく。
「起こしてしまいましたか」
申し訳ありませんと謝り、床に落ちた薄い掛布を拾いながらこちらへ笑みを見せたのは、婚約者であるエトワーリル嬢その人だ。気づかないうちにうたた寝をしていたハワードに、風邪を引かないようにと用意したものだった。
「いや、ありがとう。いつの間にか落ちていたようだ」
目頭を抑えながら背もたれに体を預けるハワードを、エトワーリルが心配そうに見つめた。
「忙しい日々が続いておりますから、相当お疲れなのでしょう。お茶を入れますから、少し休憩なさいませ」
元々そもつもりで来たのだろう。執務机の側にはワゴンが用意され、茶器と布の掛けられたバスケットが置かれている。そのバスケットに期待の眼差しを向けたハワードに、彼女がクスリと頬を緩めると彼の目の前へそれを置いた。掛けられた布を捲ると、ふわりと甘い香りが立ち上り、想像したものが期待通りだったと口元が緩む。
「えみから抹茶と小豆を頂きましたので、それらを使って焼いてみました」
中にはふっくらと焼けて等間隔に切り分けられた若草色のパウンドケーキが入っていた。ところどころに黒っぽい豆のようなものが入っているが、これが小豆というものらしい。香ばしい香りが漂ってくる焼き菓子から顔を上げると、エトワーリルがポットに茶葉を入れているところだった。
「お茶は二人分で頼む」
「え?」
「せっかくだから休憩に付き合え」
驚きの表情から頬を染めると、エトワーリルは本当に嬉しそうに目尻を細めた。
「久しぶりに兄上の夢を見た」
ティーカップを傾けるハワードへ、向かいに座るエトワーリルが一瞬驚きの表情を向けた。が、直ぐに表情を緩めると自身のカップを両手で持ち睫毛を伏せた。
「……そうでしたか」
「オレが見た兄上はちゃんと笑顔だったよ」
五歳年上の兄で王位継承権第一位のロベルトは、優しく温厚な性格で、頭の回転が早く機転も効き、未来の国王に相応しい皇子だった。そんな彼の日常は分単位でスケジュールが組まれ、一体いつ休んでいるのかと幼いながらも心配になる程だった。
そんな忙しい兄が僅かでも空いた時間が出来るとハワードの元へ訪れ、リクエストした本を読んで聞かせてくれた。それを聞いて討論したり一緒に勉強する時間がハワードは大好きだったし、かけがえのないものだったのだ。
ロベルトが十八歳になり王位継承が確定すると、ただでさえ僅かだった兄との時間が、全くと言っていい程取れなくなってしまった。ロベルトと違って王立の学院へ通うことを許されていたハワードは、皇子としての座学や訓練をほとんど受けなくなった。それは、兄との時間を奪ったことへの反抗と、兄と比べられる事で植え付けられる劣等感からくるものだった。その事を悪くいう者も多かったが、その時にはすでに悪友が二人も出来ていたし、何より王族とは思えない程の自由を得ていたのだからと、ハワードは特に気に留めていなかった。
ハワードが十八歳になり学院を卒業する年、継承式を目前にしたロベルトが死んだ。
自殺だった。
誰よりも繊細だった彼は、国王の重責に耐えられなかったのだ。毎日毎日何十時間も勉強し、貴族達との交流に顔を出し、笑顔を貼り付けて議会や謁見を繰り返す。表では称賛や世辞が飛び交い、煌びやかな世界で上に立っているが、裏では腹の探り合い、足の引っ張り合いが横行している。そんな日々に辟易し、重責と重圧に押し潰され、心も体も蝕まれていったロベルトは、隠し持っていた毒をお茶に混ぜて飲んだのだ。ベッドで発見された彼はまるで眠っているかのように横たわっており、側には変色したお茶の残ったティーカップが転がっていた。青白く変色し正気の失せたロベルトの顔は、重圧から解放された安堵からか、ハワードには酷く穏やかに見えた。
サイドテーブルには直筆と思われる遺書が置かれていた。そこにはハワードへの謝罪と羨望が綴られていた。弟の自由さが、周囲を巻き込み人々を引き寄せる魅力が、自信に満ち溢れた強い眼差しが、自分にはないそれらがずっと羨ましくて妬ましかったと書かれていたのだ。
ハワードが兄に対して抱いていた劣等感が同じようにロベルトにもあったのだと、生まれて初めて知った時の衝撃と驚愕は、生涯忘れる事の出来ない棘となって今でも心の奥底に突き刺さったままだ。
「一番最後には婚約者への謝罪が綴られていた」
「……」
そう。ハワードの目の前に座る女性、エトワーリル嬢は元々ロベルトの婚約者だった。
婚約者だったのだがそれらしい事をしたのは、一番最初に顔合わせをした時と王位が確定した時に開かれた夜会の二度だけだった。ロベルトの方が忙しい事を理由に面会を拒んでいたのだ。今思えば、こうなる事を見越して過度な接触を絶っていたのだろう。
二人が婚約をしたのはエトワーリルが九歳、ロベルトが十五歳の時だった。
生まれた時から貴族令嬢として育てられた彼女は、婚約者として紹介されたロベルトが自分に少しの興味も持っていないことに、幼いながらも気がついていた。自分に向けられる笑顔が表面だけの作り物だとわかってしまったのだ。それでも彼との結婚が決まっている以上それに相応しい振る舞いをしなければならない。王族の婚約者として何処に出されても恥ずかしくないよう必死に努力した。
しかし、ロベルトはエトワーリルを隣に立たせる事はなかった。必死に頑張ってきた全てを否定されたようで、幼いエトワーリルの矜持はズタズタにされたのだ。それでも彼女は役目を果たそうと必死だった。ロベルトが相手にしてくれないのなら、弟のハワードに接触してなんとか彼に取り次いでもらおうと考えたのだ。それが結果的にハワードに付きまとうような形になってしまった。
ハワードはハワードで、自分の顔を見るなり兄のことしか口にしない彼女に、まるで比べられているかのように捉えてしまい煩わしく感じるようになった。ハワードまでがエリィに興味を示さなくなり、それなら友人のアルクにと彼まで巻き込んだ結果が今につながっている。
ロベルトが死んだ事で、第二皇子だったハワードに白羽の矢が当たるのは当然の事だ。今まで自由だった全てが一変した。それでも兄の事があり、かなり緩くはなっていたのだが、窮屈な生活がハワードには苦痛でしかなかった。加えて今までロベルトに熱を上げていた女達が目の色を変えて自分に来た。甘い仕草も、愛を囁く言葉も、薄っぺらい称賛も、全てハワードに向けられたものではなく、皇后という椅子に対して向けられたものだった。権力に栄華に富に名声。それらに目が眩んだ女という生き物に辟易し、嫌悪感を抱くようになった。
ところが、えみは違った。
異世界から女神に召喚されてやって来たという少女は、自分の事を知らなかったせいもあっただろうが、今まで見てきた女とは違っていた。自分を特別視することも、腫れ物扱いすることもなかったのが新鮮だった。アルクが大事にしている女性であるということも興味を引かれる理由の一つだった。あの自分の次くらいに女嫌いのアルクが、女神の落とし物だからという理由だけで惹かれた訳ではないと知っていたから尚更だ。皇子と知ってからも態度が一切変わらないところも面白いと思った。
見たことの無い道具を使い、見たことの無い料理を作り、それらが見たことの無い影響を及ぼす。それがまた美味い。そしてこの上なく面白い。興味を持たない理由が無かった。これが恋などという感情なのかは分からなかったが、初めて心から欲しいと、そう思った。
しかし、えみは幾度となくチラつかせた皇后の椅子などに何の興味も示さなかった。そんな派手で肩が凝る生活なんてむしろ迷惑だと言い切った。聞けばニホンでは庶民の暮らしをしており、しかも父親がなかったという。異世界からやって来た貴族でも何でもない彼女には、城での生活は窮屈だろう。かつての自分がそうだったように。
強制的に事を運ぶ事だってもちろん出来た。城の保護下に置く事になった黒の巫女を皇太子の権限を使って、それこそ得意の政略結婚に持ち込めばいいだけだ。しかし、無理やり縛り付けて兄の二の舞になってしまったら……。それにアルクは彼女に本気のようだ。ごちゃごちゃ理由をつけて尻込みしていたが、あれも諦めの悪い男だからきっと自分の気持ちを通すだろう。
そう考えるとやはり踏み込んではいけなかった。
予想外だったのは、えみとエトワーリルが友人関係になった事だった。
二人だけのお茶会で一体何があったのか、えみと楽しそうに言葉を交わすエトワーリル嬢は、常の仮面のような笑顔ではなく、年相応の少女のような笑顔でえみに悪態をついていたのだ。
驚愕だった。アルクもそうだったらしい。今まで一度もそんな隙など見せた事が無かったのにだ。えみと二人、年頃の少女のように可愛らしく笑い合う姿を見ているのは何故か飽きなかった。
戯れにエリィと呼んだ時の反応はよく覚えている。いつものすました愛想笑いでなく、顔を真っ赤にして信じられないものを見る目で真っ直ぐに見つめて来たのだ。それが酷く可愛らしいと思えてしまった。
そこからは早かった。
お互いに適齢期を過ぎていたことも大きかっただろうが、婚約の話を打診したところ直ぐに了承の旨の返事が来たのだ。
魔王討伐作戦の最中ということもあって順調に話が進んだ訳ではなかったが、それでもエトワーリルは待つと言い、遠征に行っている間にハワードの新たな好物となったパウンドケーキを自分で焼けるようになりたいからとアルクの屋敷に通っていた。
エトワーリルは、パウンドケーキを一口齧りカップを手にしたままじっと考え込んでしまったハワードを心配そうに見つめた。
「お口に合わなかったでしょうか」
「いや。いつも通り素晴らしい出来だ。美味しいよ」
そう言いながら微笑む彼はどことなく元気が無いように感じられる。やはり疲れているのだろう。エトワーリルは直ぐにでも休んで貰おうと早々に帰る事にした。
「やはりお疲れのようですね。私はお暇いたしますので、直ぐにでもお休みくださいませ」
「エリィ」
席を立ったエトワーリルを引き止めるように呼ぶと、自らが座るソファの隣をポンポンと叩いた。その意味を理解したエトワーリルは、一瞬の躊躇の後、ゆっくりとした動作で側へ来ると美しい姿勢で体を少しこちらへ向けるように座った。
「……エリィは、これで良かったのか」
一体何を聞いているのか。今更何も変えられないというのに。
自分は王になるしかないし、そんな自分と結婚するのだから嫁にくれば必然的に皇后となる。彼女なら何の問題もないだろう。生まれた瞬間から貴族令嬢として生きて来たエリィなら。
それでも、ロベルトでなくて良かったのか。
そんな今更なことが、言ったってどうしようもないことが、どうしようもなく気になってしまった。聞いたところで、例え本当はそうは思ってなくとも、返ってくる言葉など分かりきっているのに。
「……私は、自分のお役目をきっちり果たすだけです」
「……そう、だな」
政略結婚なんて当たり前の世界だ。そんなところに大臣の娘として生まれ教育を受けてきた彼女は、決められた相手と添い遂げる。誰の妻になろうとも、国母になれと言われればなるし、どこかの老侯爵の後妻になれと言われればなるだけだ。その与えられた場所で自分の役目を果たすだけ。それだけだ。
「ただ、それがハワード様の隣というのが、どうしようもなく嬉しいのでございます」
「……え?」
驚きを隠しもせずにエトワーリルを見つめた。彼女は頬をピンクに染め、少し俯き、恥ずかしそうに組んだ両手をもじもじと動かしている。
「私はずっと貴方をお慕い申しておりましたので……」
「……」
ハワードはきっと覚えてもいないだろう。
初めて会ったのは、ロベルトとの初顔合わせの時だ。初めて第一皇子と対面する日、用意された客間で一人待機していた。酷い緊張のせいで具合が悪くなっていたエトワーリルに、突如右側から声が掛かった。
「顔色が悪いな。大丈夫か?」
人の気配を感じなかったエトワーリルが驚いて見た先にいたのは、自分と歳の近い位の美しい男の子だった。青い顔をして目を開くばかりの彼女の側を通りすぎ、近くの窓へ手を伸ばすと、少年が大きな窓を開け放つ。舞い込んだ風が少年の髪をキラリと揺らす。庭園を抜けてきたであろう微風には仄かな緑の青と花の香りが乗っている。大きく息を吸いゆっくり吐き出すと、強張っていた肩の力が少し抜けた気がした。
「立てるか?」
そう言って差し出された手に、恐る恐る指を乗せる。思いの他強く握り返されたそれに、胸が高鳴ったのを今でもよく覚えている。
手を引かれて二人でバルコニーへ出た。庭を一望できるその場所で、少年は咲いている花や植物を指差しながら教えてくれた。
「そなたにはピンクの薔薇が似合いそうだな」
「……っ……」
こちらへ寄越されたオレンジ色の瞳が緩く弧を描き、さらりと揺れるブロンドが陽の光を弾いてキラキラと輝いている。その姿が太陽の様だと思った。心臓を撃ち抜かれ、足を縫い止められてしまったかのように身体が動かない。緊張のせいで気分が悪くなっていたことなどすっかり忘れてしまう程、その日出会った少年の姿は強く瞼の裏に焼きついてしまった。
彼の正体が分かったのはその直ぐ後の事で、その日生まれて初めて自分が貴族の娘に生まれた事を恨めしく思った。
驚いた顔でこちらを凝視したままのオレンジ色を見つめる。あの日と同じ色の瞳が、自分をこんな風に映してくれる日が来るなんて夢にも思わなかった。与えられた場所で自分の役目を果たすだけ。それがあの日自分の心を一瞬で奪っていった人の隣だなんて、こんな光栄な事があるだろうか。迷いなど、不安など、恐怖など、あろうはずも無い。
揺れる瞳を見つめながら、エトワーリルが手を伸ばす。ハワードの頬へそっと触れると、彼が小さく息を飲んだ。
「私がハワード様をお支え致します。貴方様はご自身の思うまま、真っ直ぐにお進みくださいませ」
オレはなんて浅はかだったんだろう。
この人をきちんと知ろうとしていれば、こんなふうに遠回りする事なんてなかったのに。
兄上が彼女に心を許していたなら、あんな結末にはならなかったかもしれないな。
彼女の手に自身のそれを重ねた。閉じていた瞳を開き、再び彼女を真っ直ぐに見つめる。大輪のような笑顔を咲かせる姿には、あの日まだ小さな身体を震わせて一人耐えていた彼女の瞳に見た不安は微塵も無かった。
頬に添えられた手を掴み、白くて細いその手のひらに口付けた。途端に真っ赤に色づいた頬へ手を伸ばす。
「おっ、お戯れは……ほどほど、で……」
語尾が尻すぼみになっていくさまに、先程までの凛とした姿との落差を思い、ハワードはくすくすと喉を鳴らした。
「覚えておこう」
口付けた手のひらを今度は自身の左胸へと押し当てた。規則正しくリズムを刻む鼓動が、エトワーリルの手のひらに伝わってくる。
「この命果てるまで国とそなたと共にある事をフェリシモールの名において誓う」
「……っ、はい」
「明日の予行練習という事にしておいてくれ」
「え?」
彼女の頬に触れていた手を、首の後ろへと滑らせ引き寄せた。よろける華奢な身体を自身の胸で受け止め、触れるだけのキスをした。
目が合うと薔薇よりも頬を赤く染めたエトワーリルが、両手で顔を覆い隠し俯いてしまった。その姿がとても愛らしくて、ハワードは声をあげて笑ってしまった。
「エリィ、練習が足りないようだが?」
「おおおおっ、お戯れはっっ……ほ、ほ、ほどほどに、と——」
「ハハッ! すまない、そなたがあまりにも愛らしくてな」
「!!?」
翌日、無事成婚式を終えたハワードとエトワーリルはこの国を導く君主となった。
仲睦まじく寄り添う姿は、理想の夫婦像として貴族の間だけでなく、平民たちの間でも囁かれる程だった。後のフェリシモール史を記録する歴史書に、歴代の王族の中で最も仲睦まじい夫婦だったと名を残すことになるのだが、今はまだそれを知るものはいない。
応援ありがとうございます!
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