空の境界線

吉田潤

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序章

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アリ=バシールは非常に上機嫌だった。サジタリウスのデモンストレーションが成功をおさめて、投資家たちから資金を勝ち取ったとあって、彼は午後のまだ明るいうちに、陸地で祝賀を開くことに決めていた。
 
船長が岸沖にある小島に、波の穏やかな入り江を見つけ出し、見事なエメラルドグリーンの水の上にヨットを入れて錨をおろした。最初にレディたちと投資家たちが小型ボートに乗り、岸をめざした。アリは、ボートが引き返してきたら自分とカイルとジェフもすぐあとにつづくと言っていた。
 
ボートが岸へむかうと、アリは自分のキャビンに入り込み、褐色の液体をおさめた分厚い釣鐘型のガラス・ボトルを三本持ってきた。

「まもなく発つ友人たちへの贈り物でね」
 
とアリは言った。
 
「ヘネシー・リシャールのコニャックだ、200年ものだぞ」
 
その重いボトルを、ジェフとカイルに、大事に扱うようにと強く警告しながら、一本ずつ手渡す。
 
「この時のために、わざわざ取り寄せたんだ」
 
一本で二千ドルもするボトルは、彼の計画のために、投資家や軍人をいい気分にさせておくために空けられる。彼らを下ろしたボートが高速で引き返してきた。三人がボートに乗り込み、波を越えて岸に近づいていくと、そこは緑一色で目が覚めるほど美しかった。
 
波打ち際でスタッフが手際よく簡易キッチンを組み立てているのが見えた。客人たちがチーズを添えたフレッシュサラダを心待ちにしているあいだに、ジェフがボートをまわしてなめらかに細い埠頭へ寄せて、ボートを係留した。
 
そしてそれぞれがボトルを持って陸を歩く。先に到着したグループは、古めかしい小さなテーブルをかこんでいる。
 
「諸君。本日お集まり頂いたのは他でもない、ビジネスのためだ」

アリ=バシールは再び大げさに演説を始めた。
 
「だが、私は武器商で終わるつもりはない。この世界を変えていくつもりだ。諸君らは私の良き客人であり、良き友だ。共に、良き世界を創っていこう」
 
そういって、グラスを捧げた。
 
「良き友に!」
 
投資家たちも、グラスを高くかざす。それとほぼ同時に、洒落たランチ・コースの前菜が並べられた。ここで、投資家であるかないかが、はっきりと分かれた。投資家たちはグラスを一口含むと、サラダの珍しさをまず褒め称え、軍人や元軍人はサラダを見て露骨に嫌な顔をする。

その中で、あからさまに不満を言った男がいた。
 
「まったく、あなたとは嫌味な人ですね」
 
カイルはアリ=バシールに向かって文句を言った。そして、美麗に盛り付けられた椰子の新芽のサラダを脇へ寄せた。
 
「まったく、君は恩知らずなアメリカ人だ」
 
と、ジェフも習ってサラダを脇に追いやる。それを見たフランス人とイギリス人の男もサラダをよけた。

この椰子の新芽は、特殊部隊員や中東に駐留する軍人ならではの食材だった。食糧の携行なしで行われる砂漠のサバイバル・トレーニングでは、食用に出来る材料は椰子の木を切り倒して手に入れるものが中心となる。そして、そのような経験をしたものは誰であれ、死ぬまで二度と椰子の新芽だけは口に入れたくないと思うようになる。
 
テーブルに着いている他の面々には、三人の軍人たちがなんの話をしているのかさっぱり分からないとあって、訝しげな表情を取っていた。

そういう中で「ところで」とアリがビジネス関係の話題に変える。すると、先ほどまで押し黙ってた彼らはまるでぜんまいを巻かれたように舌鋒になり、大手企業や新規ベンチャー企業を罵り始めた。
 
アリ=バシールと共に行動をしてはじめて、ひとつ面白いことがわかってきた。彼ら、つまりこのヴェンチャー・キャピタリストの会話には、それに属さない話題は要らないのだ。彼らの世界には、差別がない。金融とヴェンチャー・キャピタルに所属するものには、例えアラブ人であっても敬意を示し、それに所属しない者は全て等しく価値がない。だから話題は必然とヴェンチャー・ビジネスの話で持ちきりになり、同類が話題になるといくらでも喋りまくる。
 
一方レディたちは、週刊雑誌が取りざたするセレブ達の結婚や浮気という、彼女たちにとっては深刻な人間関係に話題を切り替え、そのゴシップ話にケイトも加わっていった。
 
それを見届けると、アリは数人の招かれた軍人を引き剥がして、波際へ連れ出した。連れ出されたうちの一人が、口を開いた。
 
「あのパフォーマンス、少しやり過ぎじゃないかな。あの小太りな彼、目がぼうっとした感じになってましたよ」
 
「どうかな。まあ、本来こう言ったことに無縁だから仕方ないんじゃないか」
 
とジェフが言った。

「投資してくれる前に、心臓マヒでも起こしてくれなければいいんだが」
 
「その投資については、銀行が既に確認を取ってくれている。それに、もし死ぬことになっても、われわれは彼を海に葬って、嘆く未亡人を陸まで慰めつづけるだけだ」
 
とアリは言った。そしてクリタの方に向き直って、真剣な表情を浮かべた。
 
「で、きみの回答は?」
 
「いつも通りさ。ありがたいことですが、受け入れられません」
 
「クリタ。いつまでも若くはないんだぞ。永遠にその仕事をやり続けるつもりか?」
 
「俺は古風な人間でね、陛下とその国に仕えている今に満足しているし、気に入ってる。それに、俺は優秀なパイロットなんでね」
 
「ちょっと言わせてもらうよ、きみ」
 
クリタの言葉に、ジェフが横から口を挟んだ。

「君にしても、取り換えが利かないわけじゃない。君が除隊しても、別の誰かが後釜に据わるだけで、そうやって後世に伝わっていくんだ。私にしても、海軍を辞めてからSEALsはやっていけるのかと考えたものだが、何だかんだでうまくやっている」
 
それにアリが賛同する。
 
「制服にこだわることはきみの為にならない。遅かれ早かれ、君がその気になるのは決まっているんだ」
 
「でも、いまはその時じゃない。いつか来るのは解っています。でも、いまはまだ」
 
「あまり先のばしにしないことだ。良いことではないぞ。好機というものは、過ぎ去ってしまう前につかまなければならない」
 
「決まったら、真っ先に知らせますよ」
 
クリタは笑って答えたが、クリタを見るアリはまるで罪びとを見る牧師のような目をしていた。

「君はいずれその気になるんだ、わが友よ。われわれとしては、その時期を早めたいというだけのことだ。それとも、きみの技術に目を付けているPSCがいるのか?」
 
PSCというのは、民間警備会社(プライベート・セキュリティ・カンパニー)、つまり傭兵会社を意味する。
 
「まさか。ひとを殺すのが許されるのは、制服を着ているからこそです。もし傭兵たちが戦闘任務を請負うことになったら、どんな世界になるのかわかったもんじゃないでしょう」
 
それに、アリとジェフが笑った。
 
「それは世間知らずも良いところだぞ。彼らは戦闘任務を担っている、もう何年も前からだ。PSCでは装甲車両やヘリコプター、中にはジェット戦闘機も持っている血生臭い私兵集団だ。そして、アメリカ合衆国は軍の民営化を目論んでいるから、彼らは公的な組織になりつつある。彼らのみで戦争をはじめるのは、もう時間の問題だ」

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