空の境界線

吉田潤

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序章

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「カイル。そろそろ、射撃を行う時間だ」
 
ルテナン・クリタ・カズヤがそっとカイルの肩をゆすって目覚めさせ、カイルは身体をぎくりとさせた。
 
ジャパン・エアー・セルフ-ディフェンス・フォースの現役ルテナンであるクリタは、戦士がときに夢を見ることをよく理解しているようで、スナイパーが夢にうなされて身を痙攣されるさまに見かねて起こしたようだった。
 
カイルは、銅を磨きあげたように輝かせているペルシャ湾のまばゆい陽光を浴びて、目をまばたいた。船がやさしく揺れていたが、いまは死者を運ぶボートではない。もちろん、適地に潜入するゴムボートでもない。
 
この船は全長が12.6 m、全幅が4.8 mと、流線型の寸胴な形をしていて、五室の豪勢なキャビンがある、中東の富豪アリ=バシールのおもちゃのひとつである。

15名のクルーとフルタイムの船長が乗り組んでいる。磨きあげたチーク材から成るデッキの下方のどこかで、3000馬力を誇るエンジンが静かに回転していた。
 
カイルはデッキチェアから身を起こして座り、うなだれた頭をもたげてぎろりと眼だけを上げた。プールに身を任せる男や足を投げ出して肌を焼く女、女の肩に腕を回しながらドリンクを楽しむカップル。それぞれが思い思いに楽しんでいるが、ここにいる全員がただの客ではない。クリタもその一人だった。

「アリが呼んでる」

「オーケイ」
 
カイルはあくびをして応じた。

「ちょっと顔を洗って、口の中を湿らせてくれるものを飲んでくるよ、五分で済ませます」
 
喉がからからだった。クリタは微笑んで、エアコンのきいたメインキャビンへ引き返していく。そのキャビンでは、ヴェンチャー・キャピタルの投資家である二名のアメリカ人と一名のイギリス人がドリンクを楽しんでいるところだった。
 
クリタはその三名の若い娘グループを口説こうとしているようにも見えたが、どちらかと言うとお守りをしているようにも見えた。
 
主催者のアリ=バシールは中東での石油で大金を掴み、今日のようにいくつかの軍需産業のコンサルタントを招いては、ハイテク兵器を設計、生産、販売して、さらに巨万の富をなしていた。

ヴェンチャー・キャピタリストたちは、ペルシャ湾の島々を巡るこの週のクルージングのために、目を楽しませてくれるほど美しくて若い箔付け妻を伴っている。彼女たちは二日前にヨットがドバイを発ったあと、ほとんどの時間をトップスレスですごしてきた。いまも、彼女たちはプールのそばに敷いた大きなタオルの上に身をのばして、肌を焼いているところで、整形で大きくした胸がオイルで光っている。
 
彼はホットタブの縁に座って、暖かい湯のなかに両足を浸し、顎をしゃくって見せた。
 
「きみもあんなふうにしたらどうだ」
 
ケイト少佐に話しかけた。
 
「いやよ」と言い、身を守ろうとするように、黒のビキニのトップのずれを正した。
 
「ちょっとの間、トップを脱ぐとか。楽そうに見えるぞ」
 
濡れた長い黒髪が浅黒い肌の肩にかかっていたが、ケイトはアメリカ人を父に、ヨルダン人を母に持つヨルダン生まれのアメリカ人だった。両親はそれぞれの国の政府機関の職員だった。父親は国務省の外交官としてアンマンに勤務し、母親は広報の観光の専門で、カイロ、パリ、東京の大使館を転々とし、結婚時にワシントン・ヨルダン大使館に勤めている。
 
そんな彼女がアメリカ海軍きっての情報将校なのだと考えると、カイルとしては彼女の黒い目を見つめるしかなかった。
 
「あっちへ行って」
 
「君の胸だけは本物なんだ。俺としては、それを見せつけてやりたいだろう」
 
「その手には乗らないわ。乳房が見たいならあそこに行って、『デスパレートな妻たち』のを盗み見ることね」
 
ジェット噴射の周囲で泡立っている湯の中で、彼女はこきおろした。そして、「Fuck off」と付け足した。
 
「まあ、それもそうだな。こんな場所にニップは似合わない」
 
カイルは目線を少し動かした。クリタがグラスを片手に、若い娘の肩に腕を回していた。

「あら、ジャップのことなんて言える立場かしら。そういうあなたも薄汚いヤンキーじゃない」
 
「ヤンキーよりも、レッドソックスだ」
 
下らないジョークをケイトは無視した。カイルは湯で顔を洗って、やわらかいタオルで拭い、ケイトのかたわらにあるグラスのアイスティーを飲んだ。
上方のデッキでは、アリが将来の投資者たちを手すりのそばへ集めて、これから起こることを説明している。カイルはそちらに目を向けた。ショートパンツに色鮮やかなアロハシャツという姿の、軟弱な男達だった。
 
「いまから仕事にとりかからなくてはいけない。彼のお友達のために、何発か弾を撃つことになっててね」
 
「だったら、行って」
 
ケイトは命令口調で言った。そして手にしたウィスキーのロックを床に置き、サングラスの上からカイルを覗き込みながら、いくぶんトゲを含んだ声で笑う。

「それと、カイル。あの紳士淑女のみなさんは、アリ=バシール氏の親愛なる友人であり、大切な客人であり、投資家であることをどうか忘れないようにね。常に良い子にして、少なくともディナーが終わるまでは、誰も殺さないようにしてもらえるかしら?」
 
船は沖の開けた海上に出ていて、周囲には乱れのない水平線がまっすぐに続いていた。光学装置を通すと、その光景は海が図の上にあるように見える。
 
「やぁ、ジェフ」
 
カイルが船尾側の広い下層デッキへ歩いていくと、長身の痩せた男がドラム缶が三個並べられたところで作業をしているのが目に入った。カイルが来るとジェフが新品のでかいライフルが宝石のように納められている、クッション入りの保護ボックスを開いた。
 
「準備はいいか」
 
ジェフ・ケンドリクスはアメリカ海軍特殊部隊SEALs の元上等兵曹で、十年間にわたって指揮官を務めたのち、多国籍民間警備企業に雇われた男だった。このでかいアメリカ人は、当人を含めて、あらゆる人に腹をたてている。名誉除隊するはずでいたのに、それまであと半年という頃に、二十年間におよぶ海軍での軍歴が水の泡と化す事件があった。娼婦殺害事件である。

そのころ、若い娼婦が無惨に殴り殺された死体がミュンヘンの裏道で発見される事件があった。そこから200mもしないところで酔い潰れて眠り込んでいる彼を海軍巡邏隊が見つけ出した。目撃者は見つからず、娼婦殺しと彼を結びつける直接的な証拠はなにもなかったので警察は彼を釈放したが、SEALはジェフ・ケンドリクスという男を部隊からあっけなく放り出した。
 
軍法会議にこそかけられなかったが、海軍法務局の連中が彼の軍歴をくまなく調べあげ、訓練生時の喧嘩や酒酔い、将校に対する悪戯や暴言、暴行、フィリピンや横須賀での猥雑な街の出入りに至るまで、根掘り葉堀りするほどの徹底ぶりだった。娼婦殺しに関する嫌疑と合わせて過去の不都合な記録を掘り起こし、聴聞会において、軍務に関して倫理的に適合せずと、彼を行政的除隊に処した。海軍の腰抜けは、そんなやり方で彼を放りだしたのだった。
 
おかげで、階級、逸失利益、各種の恩典、退役軍人として身分といったあらゆる特権が奪い取られたうえ、営倉入りになったり連邦法によって有罪を宣告されなかっただけでも幸運だったと思えと言い渡されたのだ。
 
――海軍も、SEALsも、娼婦も、みんな含めてクソくらえだ。
 
アリ=バシールに雇われた今でもそんな気持ちが心の底にはあるらしく、カイルに対してどこか辛辣な態度であるのも、彼が現役の海兵隊所属の兵士であるからかもしれなかった。
 
「もちろん、よしだ」
 
「まずターゲットを視認しにくい青いドラム缶を海へ投げ込み、さらに困難になるように、赤、黄色のドラム缶を投げ込む」

彼が一個のドラム缶を叩くと、ゴーンとうつろな音が響き渡った。その中にはガソリンと、爆発性のガスが充満している。
 
「20ノットを維持して航行させ、きみの準備が出来次第で直進に持ち込むことになっている。三発とも伏射でいきたいというのであれば、そうしてくれて結構だ」
 
船尾側の手摺の一部が取り払われていたので、カイルは腹這いの射撃体制をとって、ゴム製マットに爪先を食い込ませた。
 
新世代のスナイパー・ライフルの銃床をしっかりと肩に押し付けた。この銃床は人間の肩にピッタリ合うように成形されている。さらに、戦場での携行が容易になるようにと武器の軽量化が図られ、銃床のためにスーパーエポキシ樹脂を、引き金の部品のためだけに特殊合金が用いられた。
 
そのため、完全に装弾した状態でも、従来のライフルの4分の1ぐらいしかない。戦闘のなかで終日、持ち運んで走り回らなくてはならない兵士にとって、これは死活的な要素となると言ってもいい。
 
また、ジャイロスタビライザー付き赤外線レーザーが正確にターゲットを捕捉し、銃床に装備された小型GPS送受信機がその正確な位置と距離を測定する。その情報はHUD(ヘッド・アップ・ディスプレイ)に表示され、スポッターによる補助がなくとも精密な射撃が可能となる。
 
「上にいる客人たちはすっかり出来上がって、火遊びが見たくてウズウズしているから、わたしに遠慮せずにさっさと取りかかってくれ」
 
アリ=バシールが興奮をあらわに目を輝かせて、ラダーを降りてきた。
 
カイルはスコープに目をあてがって、親指でボタンを押した。リチウム電池が作動し、HUDが起動する。その数字が、着実に移り変わっていく。
 
「プレッシャーを感じる必要はまったくないぞ、カイル。好きなだけ時間をかけて、うまくやってくれ」

右上の隅には赤外線レーザーによってメートル単位で距離が示され、左上には風力と風向が示されていた。気圧は右下。これらを全て統括した文字が左下に並んで、スコープのダイヤルを正確に調整できるようになっていた。
 
ふたたび、富豪の声が聞こえてくる。
 
「このテストはビデオに記録することになっている。ヘマまできっちり記録されるからしっかりやれ」
 
新世代のスナイパー・ライフルを設計するにあたってひとつの課題は、戦闘時を想定した現実の敵兵を撃つことが許されないということだった。ただの射撃ターゲットは思考をすることがないから、不穏な空気を感じて反応したり応射することはない。ところが、現実の人間というターゲットなら瞬時に身を転じたり、隠れたり、あるいは躓いたり、逃げたりする。それがために、完璧であったはずの射撃が失敗に終わることがあり得る。この実地テストは、そういった予期せぬ動きを模倣すべく立案されたものだった。

アリ=バシールがカウントを始めて、「やれ!」と囁きかけた。ジェフが青のドラム缶を舷側から押し出し、盛大な水しぶきをあげて海面に落ちた。20ノットというのはさほど高速ではない速度だが、それでもターゲットはよじれながら急速にヨットを離れて、航跡の中へ転がっていき、瞬く間に小さくなった。
 
三個のターゲットが全て海に投じられるまで、カイルは射撃を開始出来ない。
 
「プレッシャーを感じる必要はないぞ」
 
プレッシャーはなかった。こちらを見ているのは、片手にドリンクを持ち、デッキの手すりに並んでいる強欲なヴェンチャー・キャピタリストと、お呼ばれした各国軍人の成れの果てである。彼らは、アリ=バシールの夢の世界を実現する計画に何万ドルもの資金を投じる駒でしかない。カイルからすれば、撃ち損じれば仲間や自分の死を招く戦闘の最中ではないお遊戯は、金の問題でしかないのだ。
 
15秒経ったとき、黄色のドラム缶が舷側をこえてしぶきをあげた。

「5秒たったら、射撃を始めてよし」
 
とは言ったものの、アリはカウントを取ることをしなかった。
 
ドラム缶は既に水流に押され、身をよじるように視野から消え去っていた。
 
焦点リングを調整して、ゆっくりと待った。そしてスコープ越しにドラム缶を捉えたところで、レーダーボタンを押し、ターゲットにロックオンする。
 
距離が計測されて、距離320mから数字が増加してゆく。レーザーをロックするためにスコープにおさめてさえいれば、GPSが自動的にその他機能を微調整してしまう。
 
やがてスコープ内に表示される全ての情報が緑色から青色の表記に変化した。全ての準備が完了したことを知らせている。
 
「さあ、ご覧いただきましょう!スポッター要らずの新型スナイパー・ライフル、サジタリウスの素晴らしさを!」
 
後ろではアリが両腕を広げて、大仰に勿体ぶった宣伝文句を言った。
 
「やれ、カイル。射撃を開始!」
 
ガク引きに気を付けながらすぐに引金をまっすぐに絞り込むと、空気の切り裂く鋭い音を発して、オレンジ色の光線が黄色のドラム缶の真ん中に命中した。ドラム缶内部に充満していたガソリンと揮発性ガスに引火して、ドラム缶が炸裂して爆発した。距離は540m程しかなかったので、破片が雨あられのように振り撒かれ、ヨットのすぐそばまで飛んできた。きっとケイト小佐のお気に召さないことだろうとカイルは思った。
 
黄色いドラム缶から放たれたオレンジ色の火球と黒い煙が消え去る前に、カイルは既にその向こう側の赤いドラム缶を捉えていた。今度は青い表示を待たずに、レーザーでロックオンしただけで引き金を絞った。また雷のような轟音と海面の水柱が上がり、火球と煙が上がった。タップ撃ちのような感覚で2射し、投資家や軍人達はどよめき声をあげていた。
 
「やつら、いまにも踊り出しそうだぞ」
 
ジェフの声に盗み見ると、彼らは双眼鏡をあて、指をさし、何かを興奮した様子で踊ったように喋っている。だが、煙が晴れたとき、カイルはドラム缶をロストしてしまい、海面以外に何も見てとれず、3射目が出来なかった。
 
「ドラム缶が見えないな」

ジェフが言った。浮かれたように踊っていたアリも、興奮が冷めやまないうちに、グラスを片手に再び大仰な言葉を舌にのせた。
 
「どうです!残念ながら三発目をロストしましたが、約1kmの距離の不規則に動く相手を、スポッターなしで必中ですぞ!」
 
アリは声をわざとしく上げて、海を振り向いた。アリが上手く収集を図ったと思ったとき、航跡をゆっくりとスコープのレーザーでスキャンしていたカイルは、低い波間を上下している青い光の点が目にとまった。レーザーが距離を計測し、正確に968mと表示した。
 
揺れ動く点を追い、カイルが息を吐いて止めた。腹に力を込め、スコープの表示が青になったところで引き金を絞った。瞬時に引き裂かれた空気に乱れが生じ、火球が見えた。やがて、雷のような爆発音が届く。うまく取り繕っていたアリが驚きの顔で振り向いている。
 
「ああ、なんと素晴らしい!すべて命中だ」
 
ライフルを下げて、傍らのマットに置かれているスタンドに立てかけたとき、驚くほど汗にまみれているのに気がついた。これでデモンストレーションの役割を終えた。これから帰るまでの2、3日の間に、アリが投資家たちから金をせしめる段取りだった。
 
あとはゆっくりくつろいで過ごすことができるだろう。ドバイのバーでワインや料理を味わい、美女に囲まれてすごす、きっと素敵な日々になるだろう。
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