盤上に咲くイオス

菫城 珪

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3 予期せぬ客人

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 3  予期せぬ客人

 温泉はやはり良い。
 肩まで浸かってじんわりと体が温められるのを感じて思わず吐息を零せば、隣でもお湯が揺らめく。こういう事に幸福を感じるのは日本人だけなのだろうか?
 海外では入浴の習慣がない国もあるというし、この国でもそこまで入浴に熱心ではないように思う。屋敷に風呂はあるが、体を洗う最低限の設備だけが多かった。入浴の習慣を広めるのも良いかもしれない。…また隣でばしゃりと湯が跳ねる。おい、もうちょっと大人しく入れないのか。
 ……なんて反らせていた思考を止めて俺は意図してずっと視線を背けていた隣を、意を決して見遣った。
「……で、何でお前が当然のようにいるんだ?」
 じったりと隣を見遣れば、そこには一人の男が俺と同じように湯に浸かっていた。
 殆ど黒に近しい蒼い髪に赤みがかった夕焼けのような濃いオレンジ色の瞳、精悍な顔立ちをした美丈夫だ。良く鍛えられた体躯をしたこの男と並ぶとセイアッドの体がより貧相に見えるのがなんだか腹立たしい。
「リアが領地に引っ込むと聞いて休暇取って遠征先から夜通し駆け抜けて来た。やはりここの温泉は良いな」
 そう言って隣で笑っているのは「私」の幼い頃からの腐れ縁にしてこの国の騎士団団長であるオルテガ・フィン・ガーランドだ。
 余談だが、この世界の設定で貴族階級の人間にはいわゆるファーストネームが二つある。俺の場合はセイアッドとリアが名前でレヴォネが名字になるわけだ。
 一番目の名前は一つ名と呼ばれる普段使いにする名前で、二番目の名前は真名と呼ばれるものだ。真名は家族や婚約者、親しい者にだけ呼ぶ事が許されるものであり、当人の許可なくその名を呼ぶのは失礼にあたる。
 領地が近く親同士が親しかった事から物心付く前から交流があり、学園でも同学年で共に過ごしてきたオルテガは今でも当然のようにセイアッドをそちらの名前で呼んでくる。セイアッドの方は宰相に就き、自らに対して良くない噂が囁かれ始めた頃からそれまで親しかった者達を一つ名で呼ぶ様にして距離を取るようにしていた。
 万が一、自らに何かあった時に大切な友人達を巻き込まないように、と。そんなセイアッドの気遣いを反故するようにオルテガはずっとセイアッドを真名で呼び、今回だってわざわざレヴォネ領まで駆け付けてきた。「俺」も早い段階でコイツが来る事は予想していた。まさか俺が着くよりも早く到着して先に待ち構えていたのは流石に予想外だったが……。
 領地内に入ってからも普段よりもゆっくりの旅程でのんびり夕方に領地に到着し、辿り着いた屋敷でいざ馬車を降りようとしたら出迎えてくれた使用人達に混じってこの男がいたのだ。驚き困惑する俺を他所に当たり前のように馬車から降りるのをエスコートされ、やれ着替えだの夕食だのと散々世話を焼かれて今に至る。
 休みを取れと自分の事は棚に上げて散々小言を言った覚えはあるが、なぜ今このタイミングなのか。そもそも騎士団長が遠征中に職務をほっぽり出して来て良いのだろうか? しかも、遠征先は俺の領地とは王都を挟んで真逆の遥か南方だったと思うのだが……。領地にいた使用人に聞けば、王都から出発した私より数日早く到着して出迎えの準備をしていたらしい。
「それにしたって私より先に着くのはおかしいだろう。遠征はどうした」
「あとは撤収だけだったから問題はない」
 しれっと答えるオルテガの返答に他にも様々な疑問が浮かびながらも諦めて俺は小さく溜息をつく。コイツの頑固さは良く知っている。今訊いてもはぐらかされるだろう。
 オルテガはこの物語りの中でヒロインにとって攻略者とも障害ともなりうる人物だ。他にもゲームの中には全部で7人の攻略者がいて、それぞれのルートにプラスしてハーレムルートも3種類に分岐する。
 まずは攻略者全員からの好感度をマックスにした全ハーレムルート。これはゲームを何周も遊んでくれた人に向けたご褒美ルートみたいなもので引き継がれたステータスが良ければ簡単に入れるルートだ。
 二つ目が年上ハーレムルートで、攻略者のうち3人はヒロインであるステラより年齢が上に設定されている。対象者は騎士団長オルテガと王弟リンゼヒース、魔術師団長サディアス。本当はもう一人追加される筈だったが、容量と展開の都合でその案は却下されている。
 最後が同年代ハーレムルートで対象者は同級生の王太子ライドハルト、財務大臣の息子ダグラス、豪商の息子ロビン、それから前騎士団長の息子マーティンの4人。
 オルテガはマーティンが関わるルートでは攻略対象ではなく障害としてヒロインと対象者の前に立ちはだかる。それは年上の3人全員に共通しており、ライドハルトルートではリンゼヒースが、ダグラスルートではサディアスがそれぞれ障害となるのだ。そして、年下ハーレムルートはこの三人全員がプレイヤーの前に立ちはだかる、ゲーム内で最難関ルートだ。
 ちなみにロビンルートは全攻略の中で難易度は最も簡単、障害も皆無なのでほとんどのプレイヤーの1周目はまず彼とのエンディングを迎えたのではないだろうか。
 この世界のヒロインも大人しくそのルートを選んでくれれば良かったのにな? 断罪の場を見る限り、彼女が進んでいるのは同年代ハーレムルートだろう。
 そこまで考えた所で横から腕が伸びて来て湯に入らないようにとまとめ上げていた長い黒髪をぐしゃぐしゃと乱された。
「……何をする」
 不機嫌を露わに手を払ってやるが、オルテガは楽しそうに唇の端を吊り上げるだけだ。質実剛健、冷静沈着を地でいくこの男はほとんど表情が動かない無骨な人間だと世間では思われているようだが、「私」が知るオルテガはもっと表情豊かな男で、これが自然だった。
 オルテガや他の年上攻略者と「私」は同年代で更には幼馴染の関係だ。特にオルテガは「私」に対して幼い頃からあれこれと世話を焼きたがった。尤もキャラクターの設定でそう定められているからだろうが。
 そんな下地があったからか、オルテガのキャラを考えたデザイナーは「私」との関係をゲーム本編よりも深いものにしたかったらしい。しかし、乙女ゲームユーザーの大半はそう言った趣向を好まないだろうとその案は却下され、ゲーム雑誌のインタビューか何かに一言ばかり載ったくらいだ。
 それでも、思い返せばオルテガはいつでもセイアッドの味方だった。今だってセイアッドを慰め支える為に駆け付けてくれたのだろう。
 その事実に、胸が熱くなる。
「痩せたな。隈も酷い」
 そっと目の下をオルテガの指が撫でる、その感触がくすぐったくも嬉しい。向けられる視線も与えられる声も何もかも優しくてやさしくて。
「……疲れた」
 そんな優しい指先に誘発されるように思わず零れたのは心の底からの心情だった。
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