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第三章
8 さすがは僕の娘
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「さま、……ご主人様ってば!」
頬に鋭い痛みが走る。叩かれた、と気づいたと同時に我に返り、ラフィアは大きく息を吸い込み噎せた。
咳を繰り返すラフィアの背中を撫で、ハイラリーフはいつも通り毒を吐く。
「もう戻って来ないのかと思ったわ。呼吸は止まるし顔はどんどん青くなるし。死体になっても埋めてなんかやらないんだからね。砂の上に放置されて、獣の餌食になってしまいなさい……ねえ、聞いてる?」
「アースィムがいたの」
「へ」
「アースィムが、生きている。言葉を交わしたわ」
突然顔を上げてハイラリーフの肩を掴んだラフィア。ハイラリーフは少し身を引いてから、驚愕の面持ちで呟いた。
「まさか、あんたがそこまでできるとは……。幻覚じゃないの?」
「本当なの。崖から落ちたはずなのに、怪我もなく元気そうだったわ。彼がいるのは、そう、きっと帝都」
微かに響いていた祈りの声。あれは、宮殿に仕える筆頭神官が、毎日正午に水神へと捧げる聖なる文句。後宮で暮らしていた頃、日々耳にしていたのだから、間違いようがない。
ラフィアは天を見上げる。太陽は最も高い位置に差し掛かり、肌を焦がすほどに照り付けている。正午である。
時刻も一致するとなればつまり、先ほどのアースィムの姿は今この瞬間の彼を映し出したものであると考えて間違いないだろう。
「帝都に行くわ。アースィムは誰かに監禁されている」
「正気? アースィムが消えてから一日しか経っていないのよ。い、いったい誰がどうやって帝都まで運んだっていうの?」
ハイラリーフの声が、微かに震えている。柄にもなく恐れを帯びた声音を怪訝に思い、ラフィアはハイラリーフの表情を観察した。
そして、確信を込めて言った。
「心当たりがあるのね」
ハイラリーフの頬が強張り、言葉を続けようかと躊躇する唇が痙攣している。
「ハイラリーフ」
「知らないっ」
「私に隠し事?」
苛立ちが這い上がり、全身から放出されたような錯覚を覚えた。無論、実体あるものは何も飛び出していないはずなのだが、ハイラリーフはびくりと肩を震わせて、首を横に振った。
「何よ、私を疑っているの? 嫌なら、ここでお別れしても良いわ。あんた一人で帝都まで辿りつけるの?」
「ずるいわね」
帝都に戻るだけならば、時間さえかければ容易だろう。降嫁したとはいえ、ラフィアは皇女なのだ。どこかの大きな隊商都市に向かい、帝都から派遣された役人に名乗れば良い。嫁ぎ先で迫害を受けたとでも言えば、然るべき調査の上、後宮へ護送されるはず。
だが、それでは白の氏族を悪者にしてしまうし、何より時間がかかり過ぎる。なぜアースィムが帝都に囚われているのかわからぬが、尋常ならざる事態であることは明白だ。早急に彼の元に駆けつけたい。そのためには、精霊ハイラリーフの助力が必要だろう。非力なラフィア一人では、過酷な砂漠を横断することは難しいのだ。
「良いわ」
ラフィアは感情を押し殺して頷いた。
「あなたは私の精霊だもの。一緒に行きましょう。帝都へ」
決意の声は乾いた風に攫われて、水神がおわす蒼天へと舞い上がる。
※
「ラフィア……」
部屋の中央に置かれた水盤を覗き込みながら、アースィムは声を絞り出した。
先ほどまで、愛おしい姿を映し出していた水面には、今は己の無様な顔しか映らない。
不甲斐なさに反吐が出る。アースィムは水盤に拳を叩き込んだ。水が波紋を描き、そこに浮かんでいた顔が歪んで消え去った。しかし揺れが落ち着けば、今にも泣きそうな男の顔が戻って来る。情けない。
アースィムは後退るようにその場を離れ、瑠璃色のタイルに覆われた壁に背中が接すると、額を抱えた。
ラフィアは泣いていた。そして、アースィムの安否を確認するため、肉体を抜け出し精神だけになる危険を冒して水と同化した。全ては、突然姿を消したアースィムのため。
常人には理解し難い現象をアースィムが正確に把握しているのは他でもない、彼をこの場に連れ込んだ者が、まるで戯曲の筋書きを語るかのように喜々としてアースィムに聞かせたからだ。
「あの子は元気そうだったね」
黄金色の木漏れ日が揺れる庭で、無邪気に小鳥と戯れている青年が上機嫌に言う。
「これは今後が楽しみだ」
「あなたにはあれが、元気そうに見えるのか」
「元気だよ。怪我もない、病気もない。心の中に怒りと悲しみを燻らせている。強い感情は精霊にとって、力の源になる」
青年が笑い、小鳥の首を掻いた。鮮やかな青色をした小鳥は首を回し、心地良さそうに目を細めている。場違いなほど長閑な様子に、アースィムは薄ら寒さを感じた。
「アースィム、あの子と君が出会ったことは水神の導きだ。おかげであの子は立派な精霊になれる」
青年が低く笑い、愛撫から一転、小鳥を上から鷲掴みにした。悲鳴じみた鳴き声と羽ばたきが響き、青い羽根が散る。
「もう放さない。あの子は僕の後継者になるのだ。そうしてあの子は、真の自由を手に入れる」
青年が手を緩めると、青い小鳥は一目散に天へと逃げて行く。それを視線で追ってから、青年は振り返った。
「想像以上に素晴らしい成長だよ、ラフィア。さすがは僕の娘」
ラフィアと同じ青玉のような瞳は、狂気じみた恍惚で染め尽くされていた。
頬に鋭い痛みが走る。叩かれた、と気づいたと同時に我に返り、ラフィアは大きく息を吸い込み噎せた。
咳を繰り返すラフィアの背中を撫で、ハイラリーフはいつも通り毒を吐く。
「もう戻って来ないのかと思ったわ。呼吸は止まるし顔はどんどん青くなるし。死体になっても埋めてなんかやらないんだからね。砂の上に放置されて、獣の餌食になってしまいなさい……ねえ、聞いてる?」
「アースィムがいたの」
「へ」
「アースィムが、生きている。言葉を交わしたわ」
突然顔を上げてハイラリーフの肩を掴んだラフィア。ハイラリーフは少し身を引いてから、驚愕の面持ちで呟いた。
「まさか、あんたがそこまでできるとは……。幻覚じゃないの?」
「本当なの。崖から落ちたはずなのに、怪我もなく元気そうだったわ。彼がいるのは、そう、きっと帝都」
微かに響いていた祈りの声。あれは、宮殿に仕える筆頭神官が、毎日正午に水神へと捧げる聖なる文句。後宮で暮らしていた頃、日々耳にしていたのだから、間違いようがない。
ラフィアは天を見上げる。太陽は最も高い位置に差し掛かり、肌を焦がすほどに照り付けている。正午である。
時刻も一致するとなればつまり、先ほどのアースィムの姿は今この瞬間の彼を映し出したものであると考えて間違いないだろう。
「帝都に行くわ。アースィムは誰かに監禁されている」
「正気? アースィムが消えてから一日しか経っていないのよ。い、いったい誰がどうやって帝都まで運んだっていうの?」
ハイラリーフの声が、微かに震えている。柄にもなく恐れを帯びた声音を怪訝に思い、ラフィアはハイラリーフの表情を観察した。
そして、確信を込めて言った。
「心当たりがあるのね」
ハイラリーフの頬が強張り、言葉を続けようかと躊躇する唇が痙攣している。
「ハイラリーフ」
「知らないっ」
「私に隠し事?」
苛立ちが這い上がり、全身から放出されたような錯覚を覚えた。無論、実体あるものは何も飛び出していないはずなのだが、ハイラリーフはびくりと肩を震わせて、首を横に振った。
「何よ、私を疑っているの? 嫌なら、ここでお別れしても良いわ。あんた一人で帝都まで辿りつけるの?」
「ずるいわね」
帝都に戻るだけならば、時間さえかければ容易だろう。降嫁したとはいえ、ラフィアは皇女なのだ。どこかの大きな隊商都市に向かい、帝都から派遣された役人に名乗れば良い。嫁ぎ先で迫害を受けたとでも言えば、然るべき調査の上、後宮へ護送されるはず。
だが、それでは白の氏族を悪者にしてしまうし、何より時間がかかり過ぎる。なぜアースィムが帝都に囚われているのかわからぬが、尋常ならざる事態であることは明白だ。早急に彼の元に駆けつけたい。そのためには、精霊ハイラリーフの助力が必要だろう。非力なラフィア一人では、過酷な砂漠を横断することは難しいのだ。
「良いわ」
ラフィアは感情を押し殺して頷いた。
「あなたは私の精霊だもの。一緒に行きましょう。帝都へ」
決意の声は乾いた風に攫われて、水神がおわす蒼天へと舞い上がる。
※
「ラフィア……」
部屋の中央に置かれた水盤を覗き込みながら、アースィムは声を絞り出した。
先ほどまで、愛おしい姿を映し出していた水面には、今は己の無様な顔しか映らない。
不甲斐なさに反吐が出る。アースィムは水盤に拳を叩き込んだ。水が波紋を描き、そこに浮かんでいた顔が歪んで消え去った。しかし揺れが落ち着けば、今にも泣きそうな男の顔が戻って来る。情けない。
アースィムは後退るようにその場を離れ、瑠璃色のタイルに覆われた壁に背中が接すると、額を抱えた。
ラフィアは泣いていた。そして、アースィムの安否を確認するため、肉体を抜け出し精神だけになる危険を冒して水と同化した。全ては、突然姿を消したアースィムのため。
常人には理解し難い現象をアースィムが正確に把握しているのは他でもない、彼をこの場に連れ込んだ者が、まるで戯曲の筋書きを語るかのように喜々としてアースィムに聞かせたからだ。
「あの子は元気そうだったね」
黄金色の木漏れ日が揺れる庭で、無邪気に小鳥と戯れている青年が上機嫌に言う。
「これは今後が楽しみだ」
「あなたにはあれが、元気そうに見えるのか」
「元気だよ。怪我もない、病気もない。心の中に怒りと悲しみを燻らせている。強い感情は精霊にとって、力の源になる」
青年が笑い、小鳥の首を掻いた。鮮やかな青色をした小鳥は首を回し、心地良さそうに目を細めている。場違いなほど長閑な様子に、アースィムは薄ら寒さを感じた。
「アースィム、あの子と君が出会ったことは水神の導きだ。おかげであの子は立派な精霊になれる」
青年が低く笑い、愛撫から一転、小鳥を上から鷲掴みにした。悲鳴じみた鳴き声と羽ばたきが響き、青い羽根が散る。
「もう放さない。あの子は僕の後継者になるのだ。そうしてあの子は、真の自由を手に入れる」
青年が手を緩めると、青い小鳥は一目散に天へと逃げて行く。それを視線で追ってから、青年は振り返った。
「想像以上に素晴らしい成長だよ、ラフィア。さすがは僕の娘」
ラフィアと同じ青玉のような瞳は、狂気じみた恍惚で染め尽くされていた。
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