砂竜使いアースィムの訳ありな妻

平本りこ

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第三章

9 後宮の二輪の花

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 後宮ハレムの一室にて。 

 砂漠よりも穏やかな陽光が青みを帯びた色ガラスを透過して、まるで水中にいるかのような光で室内が満たされている。

 精巧な草花が描かれた鏡板壁、錦織のタペストリーに、緻密な幾何学模様が織られた絨毯。部屋の最奥には綿の詰まった長椅子があり、赤地に金糸の刺繍が施されたクッションが、寒色系の室内に差し色を添えている。 

 金銀の燭台、宝玉の装飾品、螺鈿らでん鼈甲べっこうを象嵌した小卓。そして何よりも、部屋の中央でラフィアを迎える女性の煌びやかさには、目が眩む。

「ラフィア、会いたかった」 

 木の実のような黄緑色の長衣。その幅広の袖先から、かつて踊り子であった母のたおやかな手が伸ばされる。ラフィアは砂漠民の素朴な衣服を纏ったまま、母の胸に飛び込んだ。 

「お母様」 

 数か月振りの再会に、固く抱擁を交わし合う。母の肌からは、乳香と薔薇の香りがした。 

「ああ、良く顔を見せて。こんなに日焼けしてしまって。まあ、ここに小さな傷が。髪も絡まって……ラフィア、苦労したのね」 

 母は、心底哀れだといった調子でラフィアの全身を視線で確かめ、頬を撫でて髪を梳いた。

 ラフィアとしては、そこまでひどい出で立ちをしているつもりはないのだが、なるほど、絢爛な後宮しか知らぬ以前のラフィアが今の自分を目にすれば、宮殿に足を踏み入れる格好ではないと、眉を顰めたかもしれない。全身に薄っすらと砂が付いているし、汗も汚れもそのままで、おそらく臭いもするはずだ。 

 しかしこの程度、砂漠の遊牧民である砂竜族さりゅうぞくからすればいたって普通のことである。ラフィアは、自身の大切な場所を否定されたような心地がして、人知れず拳を握る。一方、胸中を悟らせまいと、頬には笑みを浮かべた。 

「苦労などしていないわ」 
「ラフィア」 

 母は夏の深緑のような瞳に涙を浮かべ、ラフィアの頬を両手で包む。 

「もう無理はしなくて良いのよ。きっと、砂漠では辛い思いをしたのでしょう。熱いし乾燥しているし、恐ろしい獣もいると聞くわ。きっと民も野蛮ね。これからはまた、私と一緒に後宮で暮らしましょう」 
「夫がいなくなってしまったことは辛かったわ。でも、砂竜族の皆はとても良くしてくれました」 

 何を告げても母は、皆を心配させまいとするラフィアの気遣いだと思うだろう。それでも、言っておかねばならぬと思ったのだ。しかし案の定、母は涙を堪えるばかり。 

「白の氏族長家のアースィムね。彼を、愛していた?」 
「もちろんです。今だってずっと」 

 母は少し眉を上げ、それから両手で己の涙を拭う。 

「そう。あなたは良い子ね」 
「どういう意味?」 

 ラフィアは眉根を寄せて、少し身体を離す。答えは返ってこない。 

「さあ、ラフィア」 

 母は、純粋なまでに真っすぐな憐憫を顔に浮かべて言った。 

「着替えて来なさい。もう、そのように薄汚れた格好をしている必要はないのです」 

 確かに、母の上質な衣裳を砂埃塗れにするのは忍びない。先ほどから、物言いたげな女官の視線が背中に突き刺さっているのだ。この後きっと、浴場に連行されるに違いない。 

 薄汚れた格好と言われれば、その通りだ。しかしこれは、アースィムがラフィアのために用意してくれた衣服である。 

 母の言葉に悪意はないものの、ラフィアは心に衝撃を覚え、陶器のように滑らかな母の顔を凝視した。それから一つ深呼吸をして、もう一歩後ろに引き、取り繕うために口角を上げた。

「ええ、そうします」 

 一礼し、厚みのある絨毯を歩き扉の方へと進む。女官が扉を叩けば、外に立っていた宦官によって開かれた。 

 これ以上母と話すことなどないと思ったが、陽光が金色に照らし出す回廊に片足を踏み出した所で思い直して立ち止まり、肩越しに振り返る。

「お母様」

 母は、少女のような仕草で首を傾けた。見慣れた可憐な仕草。ほんの数か月前までは、ラフィアもあのように、後宮の花の一輪として振舞っていた。当時はそのことに、何ら違和感を抱かなかった。

「お母様は、陛下を……お父様を愛していますか?」

 それとも、後宮での暮らしのために、ラフィアを産んだのか。 

 口を衝いて続きそうになった言葉を呑み込んで、ラフィアは待つ。驚きに瞠目した母は何度か瞬きを繰り返し、やがて、花が綻ぶように微笑んだ。 

「あなたのお父様のことは、愛しているわ」 

 それならばなぜ、娘が愛した男を、砂竜族を、卑下するような振舞いをするのだろうか。胸の奥底が熱されて、憤りが沸き立ち始める。そのことに気づいたラフィアは、いとも簡単に起伏するようになった己の感情に恐ろしさを覚えた。 

 かつてのラフィアは、置かれた環境下で日々の楽しさを模索することを好んでいた。何があっても自分の行動次第で、今この瞬間を煌めかせることができる。無論、後宮での日々は退屈だったが、少なくとも怒りを覚えることはほとんどなかったはずなのに。

 いったい、この心に何が巣喰ってしまったのだろう。 

 ラフィアは混乱を押し隠し、首を振る。それから、極上の笑みが刻まれた仮面を被って頷いた。 

「……そうですか」 

 踵を返し、回廊に出る。ラフィアはもう、振り返ることはしなかった。
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