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一、迷子
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しおりを挟む王宮の庭園に涼やかな風が吹き、花壇の花が小さく揺れた。昼下がりの陽射しは強く、城の奥からは走り回る気配がかすかに響く。
塀の下部の小さな穴に身を伏せ、オルガは慎重に頭を出した。穴の縁を掴んで身を少し前に傾ける。
「……もう少し」
大通りに広がる人影が視界に入り、瞳孔がわずかに開いた。
カバンには、換金用の宝石と軽食が一週間分入っており、その重みがオルガの肩に食い込むほどだ。衛兵の気配を避けながら、オルガは城を抜け出した。外門を離れると、人々の声と、遠くで笑う兵の声が混じりあっていた。
換金所で宝石をすべて売り払い、得た紙幣は相場の半額。外に出た瞬間、待ち伏せて居たかのようにひとりの男が近づいて来た。
「一人でお使いか」
オルガは男を観察し、その身なりや言葉遣いから衛兵でも王宮の従者でもないと判断して口を開く。
「はい。大した額ではないので、私が遣わされました」
男は口元を吊り上げ、親しげに肩へ腕を回した。
「そりゃあえらい。で、他に用は」
オルガは男の距離感、足の向き、目線の流れを読み取りながら、案内を頼む口実を探す。男は話が軽く、通りの食べ物や人々について笑いながら語り、オルガの表情がほんの少し緩んだ。
男の後に続くと、いつの間にか通りの喧騒が薄れていく。人影が途絶える路地裏に足を踏み入れた瞬間だった。
男の気配が、変わった。
隠していたナイフがオルガの首元に押し当てられる。刃先がかすめ、細い血筋が皮膚を伝い落ちた。服に赤黒い染みが広がっていくのを見て、状況がようやく頭に入ってきたようだ。
オルガはゆっくりとカバンの底に手を入れ、換金した紙幣の半分を取り出した。
「――中を見せろ」
男はカバンを乱暴に引き寄せ、中身をかき回す。カバンの底から残りの紙幣を取り出し、鼻で笑った。
「小賢しいガキだな。まあいい、死にたくなかったら大通りに戻りな、お貴族様」
先ほどの笑みは跡形もなく、冷たい目だけがオルガを映していた。
一歩退いたオルガの視線が揺れる。
次の瞬間、踵を返して走り出した。薄暗い路地を抜けようとした足を、横道から伸びた薄汚れた手が掴んだ。反射的にカバンを投げつけると、手はすぐに離れた。
大通りへ転がるように戻ったオルガの顔は、数時間前とは異なっていた。呼吸は荒く、足取りはふらつき、近くの店の壁に背を預けて崩れ込む。切り傷からの血が固まりつつあり、震える指先を自分でも気づかぬまま握り締めていた。
この国の第4王子、オルガ・アデル・ヴェクトールは、九歳にして剣術は三つ上の兄より優れ、知識は五つ上の兄を超えていた。側室の子でありながら王位継承順位は嫡出の第3王子を抜き、民の間でも有能さが囁かれている。
さらに異質だったのはアデルという名だ。王国そのものの名であり、初代王の名でもある。数十年前まで名乗れば極刑とされた名であり、現在でも誰も名乗らぬままだった。
六歳でその名を授かった少年は、離宮を離れ王宮へ移された。年齢に似合わぬ有能さは嫉妬を呼び、憧れよりも妬みが積み重なる。十歳にも満たぬ少年を、追い詰めるには十分だった。
パン屋の壁際に、ひとり蹲る影があった。人が出入りのたびに鳴る扉のベルと、漂うバターの香りが外へ漏れ出る。
空腹で収縮するオルガの胃が低く鳴った。ドアが開くたび、息を止め、膝を抱え込む腕に力がこもる。陽が翳り、賑わっていた大通りの人影が消えていく頃、オルガは唇を噛み、膝に落ちた涙が布に濃く染みていった。
「なぁ、迷子か」
頭上から届いた声に、顔を上げる。青年がしゃがみ、紙袋からパンを取り出して差し出していた。
「ほら、食べな」
「た、対価を払えないので……」
か細い声に、青年はパンを口元に押しつけた。オルガの口内に硬いパンが入り込む。咀嚼もぎこちなく、オルガは必死で飲み込もうとしてむせた。
「慌てなくていい。ほら、飲んで」
差し出された水でパンを流し込む。涙がまた溢れ、青年の指がその涙を拭った。
陽が沈み、青年の顔が影に溶けていくころ、通りにはもうほとんど人がいない。それでも、どこかから複数の視線が流れてくるような空気だけが残っていた。
オルガは深く頭を下げて立ち上がる。服の砂ぼこりを払い、行く当てもないままだが、これ以上迷惑をかけまいと背を向けた。
「首の傷、手当てしよう」
手首を掴まれた瞬間、裏路地の記憶がひらめく。振り払おうとするが、青年の手は離れない。
「当てがないんだったら、俺と帰ろう」
青年は背を向け、手を後ろへ差し出した。オルガはためらいもなく、飛び込むようにその背に体重を預けた。
建物の灯りが二人の影を揺らし、雲の切れ間から月が道を照らす。
青年はオルガを背負い、鼻歌をこぼしながら歩き出す。
オルガの様子は青年とは異なり、呼吸が荒い。体の奥で何かが跳ね、破裂しそうに駆け巡る。次の瞬間、理性より先にオルガの体が動いた。
目の前のうなじに、オルガの歯が食い込む。
「――っ」
痛みに反応した青年が肘で押し返し、オルガの体が地面へはじかれた。オルガの肩が震え、呼吸は乱れ、抑えきれない衝動が皮膚の下で暴れる。青年は一歩、後退する。それでもすぐに腕を伸ばし、オルガを抱え直した。
「……大丈夫か」
返事の代わりに、オルガは青年の胸へ身を預けた。青年は首の痛みを忘れ、腕に力を込めて走り出した。
静かな住宅街に、激しいノックと家主の名を呼ぶ声が響く。
青年は片腕でオルガを抱き、もう片腕で必死にドアを叩く。掌は赤く腫れ、息が荒い。
「――ルードさん。早く、この子が」
叫びに応え、ドアがきしみながら開いた。
「うるさいぞ、ルーカス。そんなに叩かなくても聞こえとる」
家主の顔を見た瞬間、ルーカスの膝から力が抜けた。ルードが無言でオルガを抱き取り、家の奥へと運び込む。外に残されたルーカスは、夜風に倒れ込むように腰を下ろした。雲間からのぞく丸い月が、静かに彼を包み込んだ。
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