うなじの噛み跡

kurage

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二、異邦人

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 部屋へ案内されたルーカスは、息をのむように周囲を見回した。壁にかけられた装飾品、光沢のある家具、ふかふかの絨毯。どれも、見たことのないものばかりだった。使用人が手短に浴室の使い方を説明し、礼をして下がると、扉の閉まる音がやけに大きく響いた。浴室に入ると、温かい湯気が肌を包み、知らない香りの油が淡く漂う。ルーカスは肩をすくめ、身体を洗い、渡された柔らかい布で水を拭い取った。清潔な衣服に袖を通すと、布の感触が肌に優しく沿う。
 部屋へ戻ると、静けさがどこまでも深く沈んでいた。外の光だけが床の模様を淡く照らし、家具の影を長く落としている。ルーカスはゆっくりソファに腰を下ろし、まだ少し震える指で飲み物を持ち上げた。鼻をくすぐる香りは異国のもので、喉を通る感覚にもまだ馴染まない。
 日が傾き始めたころ、控えめなノックの音がして扉が開いた。ティテマが姿を現す。部屋に入る一瞬、彼は足を止め、ルーカスの姿を確認したあと、目じりを下げた。ゆっくりと近づき、距離を保ってソファの隣に腰を下ろす。
 ティテマは目元を片手で覆い、深く息を吐く。もう片方の手は膝の上で握られ、ほどかれ、また握られる。ルーカスを見る目だけはまっすぐで、逸れそうで逸れない線を描いていた。
 長い沈黙のあと、ティテマはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「私はこの国の第一王子、ティマイアス・アルヴァリス。アデルには、について調べるために滞在していた」
 指先を組み、その手をじっと見つめる。説明するたびに、組んだ手が解かれ、また結ばれた。
「この国ではその性をαと呼んでいる。生まれつき特異な能力を持ち、社会の根幹を支えてきた者たちだ」
 震える手を抑えるように、力を込める。
「そしてΩ。α性を産みうる性だ。身体のつくりがわずかに異なり、特定の条件でだけ、α性の子が生まれる」
 窓の外の灯りが、部屋の壁に淡く揺れる。
「だが、この国では二百年前を境にΩ性が激減し……それに伴って、α性も生まれなくなった」
 ルーカスは静かに息を吐く。ティテマは瞬きを忘れたように、その横顔を見つめる。ルーカスの体が少し動くと、ゆっくり視線をそらし、膝の上の手を組み直した。
「最後に確認されたα性は、君の国の初代国王、アデル・ヴィクトールだ」
 ルーカスの表情が揺れる。その名前は、1年ほど前にアデル国内で話題になった“オルガ・アデル・ヴィクトール”を思い出させた。そっと首へ手を伸ばし、うなじの痂を指でなぞる。その仕草に、ティテマは口を閉じた。
 ルーカスは立ち上がり、窓辺へ歩み寄る。夜だというのに明るい街の光が石畳を照らし、遠くまで連なっていた。街を見下ろしてきれいだと言ったルーカスが弱く笑った瞬間、ティテマの肩がわずかに沈んだ。その安堵を押し殺すように、息を止めた。
 しばらく二人は口を開かなかった。その静寂は、重くも柔らかい。
 息を深く吐いたティテマは、ルーカスの背に静かに声をかける。
「ルーカスはここでどう過ごしたい」
 問いかけながら、手を組んだり解いたりを繰り返す。ルーカスは言葉を返せず、ティテマはその沈黙に答えを求めることもなかった。
「……明日、街を案内するよ。今日は休んで」
 立ち上がり、扉へ向かう。扉の前でふと足が止まり、肩が揺れる。迷うように首をわずかに傾けたが、振り返ることなく、静かに出ていった。閉じた扉を見つめ、少し歩いたルーカスはソファへ体を倒す。ティテマの残した言葉が、まだ部屋の中に薄く沈んでいるようだった。

 ノックをしてから扉を静かに押し開けたティテマは、部屋の入口に立ったまま視線を奥へ向けた。
 壁際のベッドには人影がなく、昨夜ルーカスが座っていたソファに、丸まるようにして眠る姿があった。薄い呼吸が胸元で繰り返されている。
 ティテマは足音を忍ばせて近づき、寝顔を確かめた。額にかかる髪は少し乱れ、腕は体の前で小さくたたまれている。ティテマは小さく息を吐き、ベッドから毛布を取り上げた。毛布を広げる手つきは慎重で、ソファの隅に腰をかがめると、指先で空気を押し分けるように毛布を下ろしていく。ちょうど肩にかかり始めたとき、ルーカスが小さく唸り声を漏らした。ティテマは動きを止め、呼吸も潜める。眉がわずかに寄り、ルーカスのまつ毛が揺れたが、やがて再び穏やかな寝息を立てる。その安堵を胸の奥に押し込み、ティテマは毛布を整えると、そっと立ち上がった。視線が自然とルーカスの指先へ落ちる。手を伸ばしかけたが、まぶたをゆっくり閉じ、ルーカスに背を向けて歩き出した。
 部屋を出ると、外で待っていた衛兵たちに短く告げる。
「ルーカスが目を覚ましたら知らせてくれ」
 口調は柔らかいのに、誰も逆らえない静かな圧があった。衛兵たちは深く頷き、ティテマは足早に戻っていく。普段より歩幅がわずかに乱れていることに、本人だけが気づいていなかった。

 ルーカスが目を覚ましたのは、一時間ほど後だった。
 体にかかる毛布を手で触れる。昨夜にはなかったものだ。誰が、いつ。周りを見渡すが、部屋には誰もいない。毛布を整え、少し寝ぼけたまま扉を開くと、衛兵が二人、姿勢よく立っていた。ルーカスは慣れないササトゥール語で挨拶する。
「おは、よう」
 ぎこちない響きだったが、衛兵たちは丁寧な敬礼を返した。そのうちの一人がどこかへ向かって歩き出す。残った衛兵にルーカスが問いかける。
「待ってる」
「はい。ティマイアス皇子がお越しになります」
 言葉が終わると同時に、廊下の奥から一定のテンポで足音が響き始めた。リズムが近づくごとに、衛兵の背筋がさらに伸びる。姿を現したティテマは、朝の光を受けて整った横顔を一層際立たせていた。皇子としての威厳が、自然とその歩き方に宿っている。
「おはよう、ルーカス」
「おはよう」
 ティテマはわずかに表情を崩したが、すぐにいつもの表情に戻る。
「部屋の中に入ろう」
 二人は部屋に入り、ティテマの指示に従ってソファに並んで腰掛ける。ルーカスはわずかに距離を取るようにソファの端へ座った。それを確認したティテマは、ほんの少しだけ身体を近づける。
 ティテマは膝に手を置き、指と指を交差させた。交差させたまま、ゆっくりほどき、また組み直す。
「二人でいるときは、アデルの言葉で話そう。改まらなくていい」
 低く静かな声。命令にも聞こえるし、願いにも聞こえる。
 ルーカスはティテマの横顔を見た。まつ毛が伏せられ、しかしかすかに震えている。その視線は膝元で揺れ、組んだ指先にはいつのまにか力が入っていた。返事を聞いた瞬間、ティテマの指の力が少し抜けた。目を上げ、ルーカスの目元とその奥を一瞬だけ確かめる。そして視線をふっと逸らし、呼吸を整えた。
 「……もうすぐ街が賑やかになる時間だ」
 そう言うと立ち上がり、部屋の奥にある別の扉を開く。中には整然と並べられた衣服がいくつもあり、ティテマは迷いのない動きで二着を取り出した。色合いが似ており、並ぶと兄弟のように見える服だった。ティテマはそのうち一着をルーカスへ差し出す。
 二人は簡素ながら上質な生地で織られた服に着替えた。肩に落ちる感触は滑らかで、アデルでは触れたことのないものだ。
 ティテマはルーカスを化粧台の前へ座らせ、整髪料を手に取った。鏡越しのティテマは真剣だった。指先が髪をすくたび、ルーカスの表情が少しずつ変わっていく。額が現れ、眉が整えられ、最後にティテマはクリームを薬指につけ、ルーカスの唇にそっと塗った。その仕草は静かで丁寧だったが、どこかぎこちなさも混ざっていた。
 ティテマは満足げに息をつき、鏡越しにルーカスと目が合った。しかしその瞬間、わずかに視線をそらす。
「ありがとう、ティテマ。髪を上げると印象が変わった」
「いや。……その、似合っているよ」
 ティテマは視線を落とし、先ほど彼の唇に触れた薬指を自分の唇に当てた。

 街へ出ると、通りは東街とは違い、整然とした流れで人々が行き交っていた。足取りは軽く、歩く方向ごとに自然な分流ができている。言語の響きはアデルより滑らかで、語尾の伸び方に独特のリズムがあった。馬車の音はせず、車輪の回転音と、どこかで鳴る軽い電子音が混ざっている。
 ティテマは帽子を深く被り、ルーカスの横に並んで歩く。ルーカスが店の前で足を止めると、ティテマは横目で捕らえ、すぐに軽い説明を添えた。建物の用途や扱う品、ササトゥールでの一般的な価値観。言葉は控えめだが、必要なことは的確に伝えた。
「そろそろ昼食にしよう。何か食べたいものはある」
 ルーカスは見慣れない料理ばかりで答えられなかった。ティテマは先ほど通った店の料理を簡単に説明していく。スパイスの香りが強いもの、香草を使ったもの、魚を蒸した料理など。ルーカスの足がわずかに止まったのは、鶏肉のスープの話を聞いたときだった。
 店内では小さな弦楽器の音が奥で響き、客たちは柔らかな声で会話を楽しんでいる。ルーカスは店の内装を見回した。壁の彫刻や、古い時代の紋章が刻まれた椅子の背もたれ。歴史の深さが滲んでいた。
 運ばれてきたスープを一口含むと、ルーカスは目を大きく開いた。
「すごく、美味しい」
 ティテマは口元を押さえて微笑んだ。しかしその後、ルーカスの手が止まった。何かを思い出したように小さく息を吐く。ティテマは声をかけようとしたが、呼吸だけが揺れ、言葉にはならなかった。
 会話のないまま昼食は終わり、二人は城へ戻った。部屋へ入ると、ルーカスは途中で足を止め、ティテマの背を見た。
「俺は、……どう生きていけばいい」
 静かな声だった。ティテマが振り返ると、ルーカスは視線を落とす。言葉が震え、うずくまり、両手で顔を覆った。
 ティテマは距離を詰め、ルーカスの目線と同じ高さまで体を下ろす。
「ルーカスのことを教えてほしい。好きな食べ物は何、嫌いなものは」
 優しい問いだったが、どこか熱がこもっている。ルーカスは顔から手を外し、言葉を探した。
「鶏肉のスープが好き。嫌いなものは、わからない」
 ティテマは声を押さえて笑った。店でのルーカスの顔を思い出したのだ。
「じゃあ、どんな時に喜びを感じる」
 ルーカスはしばらく考え、静かに答える。
「誰かが、笑顔になってくれた時に安心する」
 ティテマはぎこちないが、精一杯の笑顔を作った。口角はやや不自然で、眉が一緒に動いてしまう。しかしそれを見たルーカスが小さく笑うと、ティテマの肩が落ちた。張り詰めていた空気が抜けていく。
「……一緒に探そう。少しずつ、これからについて」
 その声には皇子としての響きはない。ただ、一人のために向けられた、静かな約束だった。

 黒板には流れるような筆致でササトゥール語が書かれ、机の上には発音記号の載った教材が整然と並んでいた。中年の女性教師が穏やかな声で一文を読み上げると、ルーカスはその響きを追うように唇を動かし、丁寧に発音する。
 ティテマと街へ赴いた翌日から、ルーカスには専属の教師がつけられていた。言語から礼儀作法、国史まで学ぶ時間が与えられ、彼はみるみる吸収していった。その真面目な姿勢と覚えの早さから、教師との関係も良好だった。まだこの国に来て間もないというのに、すでに多くの言葉を聞き分け、敬語での会話も難なくこなせるようになっていた。
 その日の授業も終盤に差し掛かるころ、教室の静けさを破るように扉からノック音が響いた。教師が顔を上げると、ゆっくりと扉が開き、ティテマの姿が現れる。教師はすぐに立ち上がり、深く礼をした。ルーカスもそれに倣い、席を離れて頭を下げる。
「テレシア、ルーカスはどうかな」
 柔らかい声だが、空気がわずかに引き締まる。テレシアは穏やかな笑みを浮かべ、丁寧に答えた。
「とても習得が早いです。立ち振舞いも既に身についているものが多く、おそらく以前に教育を受けていたのではと思われます」
 ティテマの視線がルーカスへ向けられる。彼はゆるく首をかしげる。
「……幼少期の記憶は鮮明ではありませんので、確信はございません」
 ティテマは小さく頷き、テレシアに今日の授業はここで終えてよいと告げた。テレシアは教材をまとめ、丁寧に挨拶して部屋を出ていく。
 扉が閉まると、静けさが戻った。ティテマはルーカスに椅子へ座るよう促し、自分は黒板の前へ歩み寄る。ルーカスは指し示された単語を正確に読み上げ、今日学んだ内容の中で気になったことを語り始める。声は生き生きとしており、まるで身体の奥から言葉が湧き出てくるかのようだった。ティテマは表情を緩め、静かに相槌を打つ。
「ティテマは今日、何してたの」
 ルーカスの質問に、ティテマはわずかに姿勢を正し、ゆっくりと表情を作る。眉の角度、口角の上げ方まで計算された皇子としての笑顔。
「……こんな顔をして公務をしていたよ」
 ルーカスはその顔を見て目を細める。
「皇子様だ」
 ティテマも同じように笑おうとするが、どこかぎこちない。自覚しているのか、喉の奥で小さく咳払いをした。

 ティテマは公務の合間や前後に、必ずルーカスを訪れていた。タイミングが合えば食事も共にする。今まで公務以外に興味を示さなかったティテマの変化に、従者たちは日ごとに気づき、ルーカスに好意的な声が増えていった。
 午後、いつものように授業の合間に談笑していた三人のもとに、控えていた従者が扉越しにノックし、告げた。
「アミール様がお越しになりました」
 その名を聞いた瞬間、ティテマの口元からゆっくりと笑みが消えた。短く返事をすると、ルーカスの方へ向き直り、掌を上に向けて差し出した。
「ルーカス、ここに手を乗せて」
 理由も分からず、ルーカスは手を重ねた。ティテマの指がゆっくりと閉じられ、彼の手を包み込む。
 それを見たテレシアは、唇の端に手を添え、何かを見てはいけないものを見たかのように視線をそらした。足運びを乱さぬよう気をつけながら、小さくターンして黒板へ向き直る。
 温度が伝わり合うのを感じ、ティテマは瞼を閉じ、深く息を吸い込んだ。吐き出す息はわずかに震え、瞼を開けると握った手をそっと離した。動きは丁寧なのに、どこか名残惜しさが滲む。
「じゃあね、ルーカス。……また」
 声はいつも通りだが、背を向けて扉へ歩く足取りは静かに沈み込むようだった。
 扉が閉まると部屋は再び静寂に包まれる。テレシアは扉を見つめ、何か言いたげに唇を開きかけたが、考え直して閉じた。ルーカスが視線で問いかけると、テレシアは小さくため息をつき、囁くように告げた。
「ティマイアス皇子の婚約者です……」
 さらに言おうとしたが首を横に振り、教材を机に置く。ページをめくる指にはわずかに力が入り、動きはいつもより慎重だった。ルーカスは目の前の文字を追いながらも、扉の向こうを思い浮かべている。

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