うなじの噛み跡

kurage

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二、異邦人

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 まだ街には眠りの名残があり、通りを歩く人はまばらだった。噴水の前に着くと、ティテマはすぐに鞄を開け、記録用の紙を取り出してペンを走らせた。
 やがて日が昇り、人々が少しずつ通りに現れ始めると、城の鐘が街中に鳴り響いた。ティテマは立ち上がり、周囲を見渡してから、そっとルーカスの手を取り、王宮の方向へ歩き出す。しかし、外壁の前にはすでに長い列ができていた。
 入門には荷物検査や身分確認が必要で、時間がかかる。退屈しのぎに、ルーカスは先ほどティテマが記録していた内容について尋ねた。
「この国の始まりについてだよ。昔、この島にはいくつもの部族が暮らしていて、縄張り争いも激しかった。でもアデル王は、それぞれの部族を訪ねて交渉し、血を流さずに島を統一したんだ」
 ルーカスは、これまで誰にも聞いたことのない話に興味を引かれる。その様子に気付いたティテマは、柔らかく微笑みながら、さらにアデル王の話を続けた。
 
 列はゆっくりと進み、遠くにそびえる城門が少しずつ近づいてくる。白い石壁は陽光を受けて眩しく輝き、王都の象徴としての威厳を放っていた。
 純白の制服に身を包んだ衛兵たちは城門前に整列し、胸元の銀の紋章が光る。
「次、名前、住処、仕事を述べよ」
 抑揚のない短い声と鋭い視線がルーカスに向けられる。ルーカスは少し緊張した面持ちで答えた。
「名前はルーカス。東三一三に住んでいて、仕事は西二〇四のパン屋で働いています」
 衛兵たちは手早く筆を走らせたが途中で止まり、互いに顔を見合わせる。髪や肌の色。異質な容姿に警戒の色が浮かんだのだ。一人が小さな地図を広げ、もう一人が厚い台帳のページをめくる。周囲の通行者は流れるように検査を終える中、二人は端で衛兵の返答を待った。
「身元確認完了。次、同行者」
 ティテマが口を開こうとした瞬間、ルーカスが半歩前に出た。
「彼の名前はティテマ。外国から来た旅人なんだ。だから、名前以外の質問には答えられない」
 衛兵の一人が無言で記録を取り、もう一人が門番席の上官へ合図を送る。
「荷物検査後、問題がなければ衛兵管理の下、入門を許可する」
 声にはわずかな警戒心が残っていた。ルーカスは鞄を示し、ティテマは中身を机の上に置く。丁寧に整理された鞄の中には、紐でまとめられた紙束や筆記具が整然と並んでいた。衛兵たちは一つひとつを手に取り、重さを確かめ、光に透かして中身を確認する。
 「――これはなんだ」
 記録紙を見た衛兵の声が鋭く響く。ルーカスは噴水の文字から説明を始め、ティテマに聞いたアデル王の話を付け加えた。言葉の途中、衛兵たちの表情が変わる。
「……建国史だ」
 一人が低く呟き、別の衛兵がうなずく。そして、王宮の中へと走り出した。
 
 影が少しずつ長く伸び、門前の石畳に柔らかな陰影を落とし始めるころ、ざわめきが起き、列の前方の衛兵たちが慌ただしく姿勢を正した。まもなく、十数名の衛兵を従えて一人の青年が現れる。彼の身にまとう服は衛兵の無骨な制服とは異なり、繊細な刺繍と白銀の装飾が施された深青の外套。その胸元に輝く金の紋章は、王家の血を引く者、あるいはそれに並ぶ高位の人物であることを示していた。
 青年は穏やかな笑みを浮かべ、ルーカスとティテマの前に歩み寄る。そして、ササトゥール語で挨拶を告げた。
「こんにちは、私はアルバートと申します。本日はこちらに足を運んでいただき、心より光栄に思います」
 ティテマは隙のない笑顔を返し、右手を差し出す。
「こんにちはアルバート。私はティテマ」
 アルバートはその手を礼儀正しく握り返し、視線をルーカスに移す。少し緊張気味のルーカスの声に、アルバートは小さく笑みを返した。穏やかな挨拶に肩の力が抜けたルーカスも、自然と笑みを返す。
 アルバートに案内され門をくぐると、そこには別世界のような静寂が広がっていた。遠くには王宮の塔がそびえ、空を背景に純白の壁が光を放っている。

 装飾された窓ガラスを通して、柔らかな日の光が廊下を満たしていた。
 厚く敷かれた絨毯が足音を吸い取り、王宮特有の静寂が空間を包む。高い天井には淡い金の文様が走り、壁際には古い王族の肖像画が並んでいた。どの絵も穏やかな微笑を浮かべているのに、どこか冷たさを感じさせる。
 アルバートは幾つもの扉を通り過ぎ、重厚な扉の前で立ち止まった。軽く手を上げると、外に控えていた兵が恭しく扉を開く。中は陽の光が差し込む応接室で、広い室内には淡い青のソファと磨かれたテーブル、壁際には小さな噴水を模した飾りが置かれていた。衛兵たちは三人が入室すると同時に外へ下がり、直立不動のまま待機する。
 アルバートは優雅に手を差し伸べた。
「どうぞ、おかけください」
 促されて、ルーカスとティテマは並んでソファに腰を下ろす。アルバートは向かいの席に座り、上半身をやや乗り出して穏やかに二人を見つめた。
「アデル王国にお越しくださり、誠にありがとうございます」
「アデルはとてもいいところだね。街も人も、みんな穏やかで」
 言葉を重ねながら、噴水の静けさや市場の活気、街の香りをいくつも褒めた。アルバートは終始笑顔でうなずきながら聞く。
 やがてティテマは少し間を置き、表情を引き締める。
「君は、どうしてこの言語を話せるんだろう」
 探るような響きに、アルバートは笑みを崩さず、わずかに指先で顎をなぞった。
「尊敬するアデル王の母国語を話したかったからですよ。アデル王の言葉は、私たちにとっても特別ですから」
 その答えを聞いた瞬間、ティテマの顔が明るくなった。
「やはり、アデル・ヴィクトールは君たちの先祖なんだ」
 無邪気な子供のような喜びを示すと、アルバートは静かに笑った。短い沈黙ののち、目がわずかに鋭くなる。
「では、こちらからもひとつ。建国史についての記録を書かれたと伺いました。あの噴水の彫刻を写されたのですか」
 ティテマはゆっくりとうなずいた。
「……そうですか」
 沈黙の間、部屋の空気がほんの少しだけ重くなる。だが、アルバートは柔らかな笑みを浮かべ、言葉を続けた。
「もしよろしければ、北の女神像にも同じ彫刻が施されております。そちらをご覧になりますか」
「いいのかい」
 声が少し裏返るほどの興奮だった。アルバートはその反応を愉快そうに眺め、穏やかにうなずく。
 だが、次の瞬間にティテマの表情が曇る。
「でも、明日にはこの国から出国する予定なんだ」
 ルーカスが顔を上げ、ティテマを見つめる。ティテマはその視線を受け止め、そっと指先で唇をなぞる。ルーカスは意図を理解し、静かに目を伏せた。
「今日中に行くことは可能かな」
 アルバートは短く笑い、立ち上がる。扉の外に出ると、廊下に控えていた兵たちが姿勢を正した。アルバートが短く指示を与えると、数名が動き出し準備に取り掛かった。

 白馬の引く馬車が王宮の前に止まっている。アルバートの姿を目にした衛兵たちは一斉に姿勢を正し、胸に手を当てて敬礼する。空気が引き締まり、その声が王宮の石壁に反響した。
 ティテマはルーカスの前に立ち、まるで儀式のように手を差し伸べた。ルーカスは意味が分からず、彼を見上げる。ティテマは口元を押さえて小さく笑った。
「ルーカス、この上に手を重ねて」
  促されるままに、ルーカスはそっとティテマの手の上に自分の手を置いた。
「じゃあ、ゆっくり乗ろう」
 ティテマに導かれ、ルーカスは足掛けに体重を移して馬車の中へ入る。
「もう手を放しても大丈夫だよ」
  言われた通りに手を離すとティテマが続いて乗り込み、最後にアルバートが優雅に乗り込む。扉が閉まる音と共に、馬車は静かに走り出した。
 二人の前に座ったアルバートはティテマを見つめ、先ほどの噴水の話を持ち出した。
「あの噴水には、どんなことが刻まれていたのですか」
 ティテマは静かにアルバートの目を見返した。
「彼自身の過ちについて。……異民族との共生は成しえなかった。違う価値観の中で生きてきたんだ。変えようと思っても、簡単には変わらない。誰もが、自分だけが正しいと信じてしまうからね」
 ティテマの声は柔らかいが、どこか悲しみを帯びていた。
「いくつもの民族が滅び、残った四つの民族も互いを避け、干渉を禁じた。その境に建てられたのが、あの島の端まで伸びる壁なんだ」
「……北街には貴族が多く住んでいます。彼らの中には、同族を売って地位を得た者も少なくありません。アデル王の夢見た国とは、まるで別の国だ」
 アルバートの乾いた笑い声が馬車の中で響く。

 馬車が速度を落とし、軋む音とともに止まった。扉が開かれると、眩い白が目に飛び込んでくる。正面には、腕に赤子を抱く女性の石像が立っていた。日の光を受けて淡く輝き、まるで生きているかのように動き出しそうだった。
 三人が馬車から降り、ティテマは噴水のときと同じように紙束を取り出し、淡々と記録を取り始める。ルーカスは周囲を見渡し、東街とはまるで異なる街並みに目を見開いた。塵一つなく磨かれた街路、清潔な服を着た人々。雨も降っていないのに傘をさす淑女。頭の倍ほどの高さの帽子を被った紳士。走る子どもはいない。笑い声さえ、遠くの鳥の声にかき消されていた。
 アルバートが隣に立ち、ルーカスを横目で見た。
「ここに住みたいですか」
 ルーカスは少し考え、静かに首を横に振った。
「俺には、合っていない気がします」
「ここはとても退屈ですから」
 その笑みは明るいが、どこか一抹の哀しみを帯びていた。視線をティテマへ移すと、彼は黙々と記録を取っている。少し間を置き、アルバートはふいに尋ねた。
「彼は、あなたの恋人なのですか」
 唐突な問いに、ルーカスは声を裏返した。
「な、なんで」
「親密そうに見えたもので」
 ルーカスは苦笑する。
「恋人じゃありません。文化の違いですよ、たぶん」
「それはよかった」
 ルーカスが戸惑いながら尋ねると、アルバートは満面の笑みで答えた。
「あなたのように清らかで情に厚い人は、あと九年独り身でいてくれないと、私が困りますので」
 冗談とも本気ともつかない言葉に、ルーカスは何とも言えず笑ってごまかした。

 記録を終えたティテマは立ち上がった。ルーカスが駆け寄ると、ティテマは気づいて微笑み、再び馬車のそばで手を差し伸べた。ルーカスは先ほどのアルバートの言葉を思い出し、指先で軽く触れるだけにしてすぐに手を離した。
 ティテマは何も言わず、ルーカスのあとを追って馬車に乗り込み、外のアルバートに声をかける。
「すまない、すぐに王宮へ戻ってほしい」
 アルバートは一瞬だけ彼を見つめ、すぐにうなずいた。
 馬車はゆっくりと動き出し、白い街並みが遠ざかっていく。
 アルバートはティテマの膝上の紙束を見つめながら、静かに尋ねた。
「もしよろしければ、教えていただけますか」
 ティテマは記録に目を落としたまま、淡々と答えた。
「あの像はアデル王の妻、イオ王女がモデルだ。腕の中の赤子は、二人の間に生まれた子。彫刻には、彼女と子が過ごした穏やかな日々、そして王女の死後の、王の心が綴られていた」
 アルバートの表情が硬くなる。ティテマの声は変わらず静かだが、その沈黙の奥には、何か別の思いが潜んでいる。馬車はそのまま、王宮へ向けて音もなく走り続けた。
 
 王宮の前に戻る頃、三人を乗せた馬車はゆっくりと速度を落とした。石畳に反響する車輪の音は、次第に鋭さを和らげ、最後の振動を残して静かに止まる。従者が駆け寄り、静かに扉を開いた。
 最初に降りたアルバートの元に数名の衛兵が駆け寄ると、彼は短く指示を与え、衛兵たちは無言で散っていった。彼の顔には、先ほど馬車の中で見せた柔和さの影もない。
 続いてティテマが降り立つ。軽やかに着地し、自然な動作で後ろを振り返り、ルーカスへ手を差し出した。その仕草はいつも通り柔らかいが、どこか焦りが混じっているように感じられ、ルーカスの胸はざわつく。それを確かめる間もなく、そっと重ねられた手の温もりが意識を引き戻した。
「ティテマ様。明日には出国されるとのことですが……本日は、王宮の客人としてお泊まりになりませんか。もちろん、ルーカス君もご一緒に」
 ルーカスはティテマの横顔を見る。ティテマは振り返り、丁寧に答えた。
「申し訳ないが、明日の早朝に出国する予定なんだ。宿で休むことにするよ」
「そうですか。では、お二人のお帰りが安全であるよう祈っております」
 その言葉は礼儀正しいが、かすかに硬さを帯びていた。二人が背を向けて歩き出すと、アルバートはすぐに鋭い足取りで王宮へ向かう。衛兵たちはその気配に気づき、一斉に道を開ける。アルバートは振り返ることなく、王宮の奥へと消えていった。
 
 夕暮れ時の東街は、日中の喧騒が嘘のように静まり返っていた。細い路地に伸びる影は長く、どこか心細さを誘う。並んで歩くティテマはずっと黙ったままだった。横顔には考え込む影があり、いつもの柔らかい雰囲気とは違う緊張が漂う。
 途中、街の住人に声をかけられ、ルーカスは足を止めた。ティテマはその気配だけで立ち止まり、振り返って待っている。短い会話を終えると、ルーカスは小走りでティテマのもとへ戻った。
「ルーカスは、この街が好き」
 突然の質問に胸が詰まる。ルーカスは街並みをゆっくり見回した。灯りのともる家々、よく知る店、この地に残る日々の暮らしの痕跡。けれど胸の奥に沸く感情を言葉にできない。一瞬の沈黙の後、無理に笑みを作るが、ティテマの目はその奥を見抜いたように光る。
 ためらいなくルーカスの手を取り、足早に宿へ向かった。
 宿に入るや否や、ティテマは扉を閉め、音も立てず荷物をまとめ始める。その動きは焦燥と緊迫に満ち、傍らに立つルーカスの顔から動揺が見て取れた。
 ルーカスが声をかけても返事はない。やがて荷物を詰め終えると、ティテマはルーカスに近づき、その手をそっと取った。絡められた指は温かいはずなのに、どこか冷たく感じられる。引き寄せられた瞬間、ルーカスは驚き手を引こうとしたが、ティテマはそれを許さず、強く深く握り返した。顔を見ると、ティテマの表情はまるで無機質だった。
 ティテマはこの国の言葉でつぶやく。
「ごめんね、ルーカス」
 次の瞬間、ティテマはルーカスの身体を抱き上げた。躊躇は一切ない。振り上げられた足が窓ガラスを蹴り破り、夜気と割れた破片が室内を切り裂く。ルーカスは反射的にティテマの首へしがみつき、目を強く閉じた。砕け散った破片が地面に吸い込まれる瞬間、闇の中から黒衣の影が次々と現れた。顔まで布で覆った彼らは、音もなく窓へ集まる。
「囲まれている。私たちは岸へ向かう。援護を」
 ティテマの言葉に、黒衣たちは無言でうなずいた。彼らは割れた窓に取り付き、枠ごと外して夜の中へ道を開く。ティテマはルーカスを抱えたまま、その暗闇へ飛び出した。地面までの落下、風が耳元で裂ける。
「――っ」
 ティテマの腕がきつく締まり、着地の衝撃を膝で吸収する。ティテマはよろつくこともなく、体を痛めた様子もない。安心する暇もなく、周囲にはすでに何十人もの衛兵が取り囲んでいた。武具の金属音と足音が混じり合い、円はじりじりと狭まっていく。
 黒衣の者たちが滑り込み、影のように立ちはだかる。動きは無音で、衛兵たちの踏み込みを的確に弾き返す。ティテマは振り返らず、路地の暗闇へ駆け出した。
「ここは危険だ。別の道を」
 ルーカスの叫びに、ティテマは短く答えた。
「大丈夫だよ、ルーカス」
 ティテマの声は穏やかだが、どこか張り詰めていた。
 ルーカスの知る路地は不自然なほど静かだった。人身売買人の怒鳴り声や、売春宿の赤い灯、浮浪者の寝息すらも聞こえない。まるで街そのものが息を止めているようだ。深い闇に星の光だけが差すように降り注ぎ、ティテマの影を細く引き伸ばしていた。
 
 枝の折れる音が四方から響き、葉がざわつきながら肩や頬をかすめる。ティテマはルーカスを抱えた腕の角度を少しずつ変え、枝先が触れないように体を傾けた。ルーカスも息をひそめ、胸の前で小さく身をすぼめる。ティテマは細い木々の間を縫うように走り、やがて林を抜けた。その先には、視界いっぱいの海が、朝の気配を帯びて淡く光っていた。
 浜に降り立つと、ティテマは足の力を抜いて座り込む。そして、頭をルーカスを胸の上へ静かに預けた。
 荒い息が耳に触れるたび、温かい吐息がかすかに揺れる。ルーカスは腕を伸ばし、ティテマの後頭部を優しく撫でる。ティテマの肩がわずかに沈み、二人の呼吸は少しだけ落ち着いた。
 空は薄く明け、海面が大きな一枚の光になっていく。広すぎる海を見つめ、ルーカスは指先でティテマの服を強くつかんだ。
 ティテマは海に吸い寄せられるように視線を上げ、瞬きのたびに光を宿す。ルーカスはティテマの服を強く握り直した。ティテマは微笑み、視線をルーカスに戻した。その笑みは、緊張を解くかのように長く留まった。
「あの先には、私の住む国があるんだ」
 指差す先は、どこまでも海しかない。ルーカスはその指の先だけを追った。しばらくして、ルーカスが昨日と似た問いを口にする。
「ティテマは、その国が好き」
 ティテマは海から目を離さない。唇を閉じ、息を整えるように少し動いた。
「あぁ、……愛すべき私の国だ」
 その言葉のあと、視線が揺らぎ、海の反射を映した瞳から色が抜ける。強い光に当てられた石のように、目の奥が固く静まる。ルーカスはティテマの首元へ両腕を回した。胸に耳を寄せると、ティテマの呼吸がわずかに整うのを感じる。
 しばらくして腕を離し、ゆっくり立ち上がる。ルーカスが差し出した手に手を重ねて立ち上がった。そして、繋いだ手を離さないまま、ルーカスを引き連れて歩き出した。
 視線の先には、白い鉄の船体がロープで木に縛られて置かれている。ルーカスが不安げにその形を見つめると、ティテマはようやく手を離し、ロープを解き始めた。ロープが落ちる音と同時に、ティテマは身軽に船体へ上がる。振り返り、手を伸ばす。
「こっちに来て」
 迷いを許さぬ手。ルーカスが握ると、ティテマはわずかに息を吸い、力を確かめるように握り返した。二人は並んで船に上がり、ティテマが扉を押し開ける。風がルーカスの頬を撫で、木々がざわめく。振り返って林の暗がりを見つめ、深く息を吸い、扉の内へ足を踏み入れた。
 
 内部は柔らかな光に照らされ、海を映すガラス窓が壁一面に広がる。小さな灯りが規則正しく点滅し、椅子が二つ並んでいた。
 ティテマは椅子へルーカスを導き、座らせる。振り返ったルーカスに、ティテマはわずかに身を屈め、指先で操作盤の一部に触れた。
「これで海を渡るんだ」
 驚くルーカスに、ティテマは掠れるような笑みを作る。操作盤の一つを押すと、船体が低く震え始めた。ルーカスが身を縮めると、ティテマはそっと肩に手を置く。わずかに震える指先を抑えるように、力を込める。
「……ごめんね。不自由な生活にはさせないから」
 ティテマは腰を下ろし、操作を始める。エンジン音が船全体を震わせ、二人を乗せた白い船は、静かに海へ滑り出した。

 海の上を進む白い船は、毎日同じ波の音を運んできた。空と海の境目が曖昧になり、風の匂いだけが日々の移り変わりを知らせる。
 船が揺れるたび、ティテマは軽く眉を顰め、腹を押さえる。椅子に座っても、立ち上がっても、身体の力が抜けたようにふらつき、すぐに船室へ引き返した。
 四日目の朝、ティテマは扉のそばに座り込み、腕で額を覆った。頬が青ざめ、長い呼吸の合間に小さく息を呑む。ルーカスがそっと背に手を添えると、ティテマの肩がびくりと震える。ルーカスを一度だけ見た視線は、すぐに揺らぎ、逃げるように窓の方へ向けられた。まぶたは半分伏せられ、強い光を避けるようだ。
「……かっこ悪いよね」
「いや、安心した」
 ルーカスの声に、ティテマはわずかに目を見開く。その瞬間、息が止まったように静かになった。次の瞬間、長い睫が伏せられ、頬に影が落ちる。言葉を選ぶように唇が開きかけるが、すぐ閉じる。代わりに短く息を吐いた。
「……そう」
 短く返した声は、普段よりも低く、かすれていた。海を見つめる横顔は静かだが、時折視線がルーカスへと流れた。国に着く直前まで船酔いは完全には抜けず、ルーカスが差し出した水を受け取り、顔を背けて礼を言った。

 海の先で黒い影がわずかに揺れ、やがて海岸の輪郭が明るみに浮かぶ。岸辺には数多くの船が並ぶが、一カ所だけ大きく道が開けられていた。その一本道に沿って、赤い正装を着た兵士たちが整然と立ち、外側には住民たちが押し寄せ、ざわめきが波のように広がる。
 ティテマは乱れた髪を指先で直し、襟元を整えて深く息を吐いた。旅の疲れを切り落とすような静かな動作だった。
 船が岸に寄ると、兵士たちが橋を架けて駆け寄る。ティテマは早口で指示を飛ばし、兵たちは即座に動き出した。話を終えたティテマは、ルーカスに手を伸ばしかけたが空中で止め、そのまま横へ下ろす。
「揺れるから、……気を付けて降りて」
 視線も逸らして短い言葉だけを残し、ティテマは橋を先に渡った。
 
 陸地に降り立ったルーカスの目に映るすべてが、アデル王国とは異なっている。鮮やかな衣装を身に着けた住民、馬のいない車輪の乗り物、滑らかな石畳、そして自分と同じ肌の色の人々が交わす聞き慣れない言語。ルーカスは心臓の高鳴りを自覚し、思わず立ち止まる。
 ティテマはわずかに振り返り、足が止まったルーカスを確かめるように視線を落とす。呼びかける前に、肩がわずかに動き、次の瞬間には何事もなかったかのように前を向く。
 二人が乗り物に乗り込むと、窓の外では白い肌の群衆が歓声を上げて手を振る。ティテマの背筋は伸び、表情がわずかに引き締まった。乗り物はやがて重厚な門の前で止まり、城のような建物へ続く広い石段が現れた。

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