うなじの噛み跡

kurage

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三、両義的変化

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 ティテマの成婚式から数日が経った。王宮の騒がしさはようやく落ち着き始め、日常へと戻りつつあった。
 その王宮の一室で眠るルーカスの額には、細い汗の筋が絶え間なく流れていた。寝返りを打つたびに寝具が皺を刻み、握りしめた指先には途切れぬ緊張が宿る。左手の赤いブレスレットを顔へ引き寄せ、唇に触れそうな位置で止まると、眉間には深い苦悶の影が落ちた。
 身体の奥で脈打つ熱は一定ではない。せり上がっては消え、不規則に燃え立つ。そのたび呼吸は浅くなり、喉が鳴るたびに胸の内側が跳ねるように波打ち、肩が細かく震えた。熱を逃がそうとするように腰や脚がシーツを擦り、位置を変える。火照った肌が布に触れるたび、小さく押し殺した声が漏れた。
 夕刻になってもルーカスは姿を見せない。部屋の前では使用人たちが足を止め、互いに低い声で状況を囁き合っていた。用意された食事は手つかずのまま冷えきり、もう蒸気も残っていない。
 その事情を聞いたティテマは、公務の書類を机に置き、急ぎルーカスの部屋へ向かった。廊下を踏みしめる足音は焦りを帯び、扉の前でわずかに速度を緩められる。ノックに返事はなく、ティテマは静かに扉を開けた。ルーカスは枕に顔を半ば埋め、鼻と口元を覆っていた。わずかに開いた瞼の奥で揺れる瞳は、目に映るすべてを拒絶するように潤んでいる。
 ティテマが一歩近づいた瞬間、ルーカスの顔色から血の気が引いた。シーツを掴む指に力がこもり、喉奥では途切れた呼気が押し返される。震える口元から、声にならない拒絶の音が漏れた。
 ティテマはその場で足を止め、数秒の静止ののち、部屋の隅のソファへと身を落ち着けた。距離を取ってもなお、ルーカスの乱れた呼吸に合わせるように、その視線は揺れる。衣擦れの小さな音にさえ、体が前のめりに動きかけ、すぐに元へ戻る。
「――オルガっ」
 ルーカスの声に、ティテマははっと立ち上がった。だが握り締めた拳に力を込めたまま、一歩も動けずにいた。

 翌日。執務室に現れないティテマを案じた補佐官たちが、扉を叩いた。中から姿を現した彼の髪は乱れ、衣の襟元には折れ跡が残っていた。
 いつも整然とした印象からは程遠い姿に、補佐官は思わず口を開いたものの、言葉を失ったまま固まった。
 ティテマは理由を語らず、静かに下がるよう促した。補佐官たちは困惑の色を隠し切れぬまま、その場を離れていった。
 そのころルーカスは、途切れ途切れにオルガの名を呼んでいた。伸ばした手は何かを求めるように空を探り、何も掴めずにシーツへすがる。布がくしゃりと沈み、規則のない熱の波が彼の全身を蝕む。
 ティテマはその名が呼ばれるたび、眉根を寄せる。組んだ指を強く握りしめ、祈るように胸元へ落とした。
 やがて、公務を欠いた事実が国王の耳にも届く。国王は自らティテマの部屋を訪れた。
 ソファに横たわるティテマは、明けかけの薄光の中で、薄く開いた眼を天井に向けていた。扉の隙間から国王の姿を認識すると、上体をゆっくり起こし、短く言葉を漏らす。
「……彼の体調が戻るまで、ここに居させてください」
 国王は返事をせず、ただティテマを見つめた。
 目の下に浮かぶ隈が、彼の消耗と胸中を雄弁に物語っている。言いかけた言葉を飲み込み、国王は視線を落とした。
 ルーカスの唸り声を耳にすると、国王を見つめるティテマの形相は、狼のように鋭くなった。国王はルーカスへ近寄ることなく、部屋の様子をひと通り見回し、無言のまま扉を閉めて廊下へ戻った。
 ルーカスの声は次第に静まり、乱れた寝息が部屋に落ち着きを取り戻していく。ティテマは再びソファに身を戻し、瞼を閉じると、ただルーカスの呼吸に耳を澄まし続けた。

 廊下にはアミールの姿があった。
 高く響く足音がティテマの耳に届いた瞬間、彼の表情は険しくなる。部屋の前に立つアミールの拳は強く握られ、指先で震える新しい指輪が光を弾いて揺れた。
 ティテマは彼女が扉を開ける前に立ち上がり、部屋の外へ出る。
 華奢なアミールは受けの良い外見で、ティテマとの婚約が確定する以前は多くの男性に言い寄られていた。その可愛げのある顔から想像できぬ荒い声が、絞り出される。
「……いい加減にしてください」
 扉の前に立つティテマは、ひどく冷たい眼差しで彼女を見つめた。
 アミールの指輪と対になるはずのティテマの指輪は、彼の指には填められていない。アミールの肩がひとつ震え、衣の裾がわずかに揺れる。揺れる瞳はティテマから離れず、唇を強く噛みしめていた。
「あなたは、――この国の皇子なのですよ」
 その声が廊下に鋭く反響した。
 ティテマはまぶたを閉じ、喉の奥で短く息を整える音を漏らす。そして静かに瞼を開け、アミールを正面から見据える。
「公務には口を出すな。君は、この王宮で静かに暮らしていればいい」
 その言葉に、アミールの頬を一筋の涙が伝い、顎の下を滑り落ちる。
 ティテマは視線を外さず、身じろぎひとつしない。
 アミールは唇を噛みしめ、振り上げた手が乾いた音を立ててティテマの頬を打った。ティテマの頭はわずかに横へ傾いただけで、反撃も声もない。打ったアミールの指先が震え、すぐに手を引くと、瞳だけが不安定に泳いだ。動かないティテマの視線に耐えられず、アミールの膝が震え、踵が床を滑る。ヒールが傾き、そのまま後ろへ倒れ込んだ。
 ティテマはただ視線を落とすだけで、何も言わない。
 倒れたままのアミールは壁に手をつき、ゆっくりと体を起こした。手のひらに残る熱を感じ取ると、ティテマの赤くなった頬を見つめて息を呑む。肩を震わせ、彼女は言葉を残さず背を向け、そのまま廊下の奥へと姿を消した。
 
 柔らかい日差しがルーカスの頬を照らし、光を受けた髪は宝石のようにきらめいた。真っ白なまつげが揺れ、閉じられていた瞼がゆっくりと開く。長く呼吸をひとつ漏らし、上体を起こした彼は、まだ眠気を宿したまま部屋を見渡した。
 部屋の端から、規則的な寝息が聞こえる。ルーカスはベッドを降り、ゆっくりとその方へ歩み寄った。
 ソファには、ティテマが眠っていた。寝返りの気配すらなく、疲れをそのまま表すように深い眠りに落ちている。
 ルーカスはそっと身を屈め、彼の頬に触れた。
「……」
 温もりに反応するようにティテマの瞼が開き、焦点が合うとルーカスの顔を正面から捉えた。
 ルーカスはその視線に気づくと反射的に身を引こうとするが、つながれた手が逃げ道を塞ぐ。これまでの自分の乱れた姿を思い出し、彼の頬はみるみる赤く染まった。
「……は、離して」
 弱々しい声で訴えるルーカスを、ティテマは逆にぐっと引き寄せ、その胸元へ抱きしめた。
「体調は、もう悪くない」
 耳元に落ちる問いかけの声はかすかに嗄れており、胸を通して伝わる鼓動はいつもより早い。ルーカスは抵抗するように手を添え押し返すが、ティテマの腕は緩まない。
 不安をにじませるその声に、ティテマは短く返事をし、彼の存在を確かめるかのようにもう一度抱きしめて彼の首に青い宝石が吊り下げられたネックレスを付けると、ゆっくり腕をほどいた。
 
 ルーカスが寝込んでいた間に積み上がった公務は、容赦なくティテマのもとへ降り積もった。彼の数日間は慌ただしく過ぎ、机に置かれた書類の山が減る気配はない。一方のルーカスは、以前と変わらず授業に出席し、静かに日常へと戻っていった。
 以前と変わらぬ日々の中、ふとした折にルーカスがブレスレットを手に取り、そっと顔の近くへ持ち上げて見つめていることが増えていた。その表情はどこか柔らかく、指先は宝物に触れるように慎重だ。
 それに気づいた近くの従者が、興味を抑えきれぬ様子で足を止め、遠慮がちに声をかけた。
「ルーカス様、それは……何なのでしょうか」
 ルーカスは少しだけ視線を落として答える。
「……プロミスブレスレットって言うんだ」
 その言葉を聞いた瞬間、声をかけた者の目がぱっと輝いた。湧き上げた言葉を抑えきれず、声が弾む。
「――も、もしかしてティマイっ」
 続きは言わせまいと、隣にいた者が慌てて手を伸ばし、その口元を塞いだ。
 ルーカスは小さく笑みを浮かべる。
「違うよ。あのお方ではない」
 ブレスレットに向けた彼の瞳は、ひどく優しく、どこか遠い。
 従者達は喉を鳴らし、視線を揺らしながら深く頭を下げると、足早にその場を離れていった。

 ティテマが公務を放棄してルーカスの部屋に籠っていたという噂は、王宮に瞬く間に広がった。普段から二人の親しい様子を見慣れていた者は気にも留めなかったが、面白がる者、逆に不快を覚える者が出てくるのも自然なことだった。
 しかしティテマ本人は、噂を訂正することもせず、ただ淡々と日常に戻っていた。
「ティマイアス皇子。国王陛下より御召しでございます」
 使者の言葉に従い、ティテマは執務室を離れる。案内された先は王の私室に続く部屋で、近衛兵が下がらされ、侍従長の指示のもと侍従二人が手際よくティテマに変装を施した。侍従長が開いた扉の先、地下通路を抜けて城を出ると、彼は静かな民家の一室へ姿を現した。
 
 街には普段通りの人々の顔があった。しかしその中に、見知らぬ二人と、彼らを囲むように控える屈強な者たちの姿が紛れている。
 広場のベンチでは、一人の青年が老人の隣に腰を下ろした。
「……数日ぶりですね」
「あぁ、そうだね」
 二人は互いに視線を合わせない。老人は街の賑わいを眺め、穏やかに目尻を下げた。
「いい景色だ」
「……」
 昼前ののどかな喧騒が、二人の沈黙をやわらかく満たす。青年が口を開かないと悟っているかのように、老人は目を閉じたまま語り出した。
「君は、あまり感情を表に出さない子だったね。それが君の弱点であり、強さでもあったと思っている」
 その声は穏やかだが、どこか遠い。
「……私は君の母親を愛していた。当時の民は皆、私を愛妻家だといった。それを私は良いことと思ってしまっていた。だが、彼女は私の弱みとなった」
 青年の喉が、乾いたようにひりつく。
「私たちは弱みを持ってはいけない。大切なものは、人に知られてはならんのだよ。……私たちが選択を誤れば、この平穏は壊れてしまう」
 言葉は喉の奥でつかえ、外へ出てこない。手のひらには不自然なほど汗が滲み、視線は落ち着かず揺れている。
「彼には離宮に移ってもらうよ。君の気持ちを否定する気はない。……ただ、大切なら、守りたいのなら常に偽りなさい」
 老人は立ち上がると、一度も振り返らず人ごみの中へ消えた。残された青年は、しばらくその背を追ったあと、眩しそうに空を見上げた。

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