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ep.13 伊吹くんと温泉付きホテルに宿泊します
1.
「わぁ、素敵なお部屋だね!」
「うん、はるちゃん予約ありがとう」
今夜宿泊するホテルは、熱海駅からタクシーに10分ほど乗った場所にある。
露天風呂の付いた大浴場があるが、温泉付きの個室もあり、2人が予約したのはそのタイプの部屋だった。
広い和室にはロータイプのベッドが置かれており、大きな窓からは海岸の景色が一望できる。
現在は夕日が海に沈み、辺りには夜の明かりが浮かび始めている。
このホテルと新幹線チケットの予約をしたのは榛名だった。
(なにせ、せっかく旅行会社に勤めているのだから、自社のサービスを使うべきよ)
たとえ1件の申込でも会社の利益になるわけだし、社割が使えるので自分たちにとってもお得だ。
『夫が御曹司なのに社割を使うなんてケチだ』なんて言ってくるような者は社内にはいない。
社員が申し込めば自ずと社割は適用されるのだし、このご時世である。使える割引は使わなくては。
そして伊吹である。彼はホテルロイヤルヴィリジアンの1室に住んでいた頃、社割やポイントを駆使していたことを隠す気もないようだった。
「俺が貧乏学生だったことは周囲の人間は皆知っていることだし、これからも隠す気はない」
――だから使える割引やポイントは、気にせずしっかり使っていこう。
それが彼のポリシーだった。
「わぁ、すごい檜風呂だ!」
「うん、想像以上に良い感じだね」
部屋に付いている個室の温泉は露天風呂ではなく、ゆったり広々とした木製の壁と天井に囲まれている。
これは伊吹が希望したことだった。
『露天風呂ではなく、絶対に周囲から見えない個室が良い』
彼は熱海のホテル・旅館のパンフレットを真剣に調べ始めた。
そこで伊吹のすごいのが、短い時間で調べて読み込み、彼にとっての最適解にたどり着いたところである。
「個室の温泉は食後の楽しみとして……まずは大浴場へ行ってこようっと!」
榛名がいそいそと浴衣に着替え始めると、
「いやいや、待て待て、待ってくれ、はるちゃん」
焦ったような伊吹から、サッと腕を掴まれて止められた。
「えっ、一体どうしたのよ、伊吹くん」
一体何事だと、きょとんとした顔で伊吹を見つめると、
「せっかく個室の温泉を選んだのに、なぜ大浴場に向かうんだ?」
彼は心底驚いたような顔を向けてきた。
「なぜって……それはそれ、これはこれでしょ? 温泉付きの個室は贅沢でありがたいけれど、せっかく露天風呂付きの大浴場があるのだから、そっちにも行かないともったいないじゃない」
榛名は自分の言っていることに別段おかしな部分はないと感じていた。
人によっては、他人がいる場所で衣類を脱ぎたくないし、他人と同じ湯船に入りたくない人がいることはわかるし、その思いは尊重する。
だけど榛名は女性同士ならその限りではないし、別段気にしてはいなかった。
(なるほど……伊吹くんはそういうのを気にするタイプなのかもしれないわね)
榛名はピンときた。ならば彼の思いを尊重しよう。
「それじゃあ、伊吹くんは部屋で待っていてよ。私は1人で大浴場に行ってくるから」
どうせ男湯と女湯で分かれているのだ。一緒に行く必要もないだろう。
そう思って気を利かせたつもりだったのだが……
「そうじゃないんだ、はるちゃん」
ここまで榛名は自分が頭の中で考えたことを口には出していない。だが、伊吹は榛名の考えを読みとったらしい。
(エスパーか?)
榛名はそう思った。
そして伊吹からは想像もしていなかった言葉が放たれた。
「風呂上がりに赤く火照った顔をして、浴衣でウロウロしていたら危ないじゃないか!」
「……えっ?」
どうやら、過保護にも風呂上がりの榛名の身を案じているらしい。
「いや……まあ、たしかに深夜に1人で大浴場に行ったりするのは控えようと思っているわ。だけど、今は大浴場もホテル内も人で賑わっている時間帯だし……」
宿泊客の中には、空いている時間帯や夜遅くに温泉に入ることを楽しみにしている人もいるだろう。
しかし榛名にはその予定はなく、夜遅くにホテルの部屋を出て歩き回ることもするつもりはなかった。
昔、家族で温泉旅行に行った際に、
『女の子だから、充分に注意してしすぎることはないわ』
姉妹だったこともあり、母やしっかり者の姉から言われたことを、大人になった今でも律儀に守っていた。
「そりゃあ、美少女JKが浴衣で歩いていたら目立つかもしれないけど、私は立派な大人なのだし、私のことを見てくる物好きなんて……」
――いやしないわよ。
そう言いかけたのだが……
「うん、はるちゃん予約ありがとう」
今夜宿泊するホテルは、熱海駅からタクシーに10分ほど乗った場所にある。
露天風呂の付いた大浴場があるが、温泉付きの個室もあり、2人が予約したのはそのタイプの部屋だった。
広い和室にはロータイプのベッドが置かれており、大きな窓からは海岸の景色が一望できる。
現在は夕日が海に沈み、辺りには夜の明かりが浮かび始めている。
このホテルと新幹線チケットの予約をしたのは榛名だった。
(なにせ、せっかく旅行会社に勤めているのだから、自社のサービスを使うべきよ)
たとえ1件の申込でも会社の利益になるわけだし、社割が使えるので自分たちにとってもお得だ。
『夫が御曹司なのに社割を使うなんてケチだ』なんて言ってくるような者は社内にはいない。
社員が申し込めば自ずと社割は適用されるのだし、このご時世である。使える割引は使わなくては。
そして伊吹である。彼はホテルロイヤルヴィリジアンの1室に住んでいた頃、社割やポイントを駆使していたことを隠す気もないようだった。
「俺が貧乏学生だったことは周囲の人間は皆知っていることだし、これからも隠す気はない」
――だから使える割引やポイントは、気にせずしっかり使っていこう。
それが彼のポリシーだった。
「わぁ、すごい檜風呂だ!」
「うん、想像以上に良い感じだね」
部屋に付いている個室の温泉は露天風呂ではなく、ゆったり広々とした木製の壁と天井に囲まれている。
これは伊吹が希望したことだった。
『露天風呂ではなく、絶対に周囲から見えない個室が良い』
彼は熱海のホテル・旅館のパンフレットを真剣に調べ始めた。
そこで伊吹のすごいのが、短い時間で調べて読み込み、彼にとっての最適解にたどり着いたところである。
「個室の温泉は食後の楽しみとして……まずは大浴場へ行ってこようっと!」
榛名がいそいそと浴衣に着替え始めると、
「いやいや、待て待て、待ってくれ、はるちゃん」
焦ったような伊吹から、サッと腕を掴まれて止められた。
「えっ、一体どうしたのよ、伊吹くん」
一体何事だと、きょとんとした顔で伊吹を見つめると、
「せっかく個室の温泉を選んだのに、なぜ大浴場に向かうんだ?」
彼は心底驚いたような顔を向けてきた。
「なぜって……それはそれ、これはこれでしょ? 温泉付きの個室は贅沢でありがたいけれど、せっかく露天風呂付きの大浴場があるのだから、そっちにも行かないともったいないじゃない」
榛名は自分の言っていることに別段おかしな部分はないと感じていた。
人によっては、他人がいる場所で衣類を脱ぎたくないし、他人と同じ湯船に入りたくない人がいることはわかるし、その思いは尊重する。
だけど榛名は女性同士ならその限りではないし、別段気にしてはいなかった。
(なるほど……伊吹くんはそういうのを気にするタイプなのかもしれないわね)
榛名はピンときた。ならば彼の思いを尊重しよう。
「それじゃあ、伊吹くんは部屋で待っていてよ。私は1人で大浴場に行ってくるから」
どうせ男湯と女湯で分かれているのだ。一緒に行く必要もないだろう。
そう思って気を利かせたつもりだったのだが……
「そうじゃないんだ、はるちゃん」
ここまで榛名は自分が頭の中で考えたことを口には出していない。だが、伊吹は榛名の考えを読みとったらしい。
(エスパーか?)
榛名はそう思った。
そして伊吹からは想像もしていなかった言葉が放たれた。
「風呂上がりに赤く火照った顔をして、浴衣でウロウロしていたら危ないじゃないか!」
「……えっ?」
どうやら、過保護にも風呂上がりの榛名の身を案じているらしい。
「いや……まあ、たしかに深夜に1人で大浴場に行ったりするのは控えようと思っているわ。だけど、今は大浴場もホテル内も人で賑わっている時間帯だし……」
宿泊客の中には、空いている時間帯や夜遅くに温泉に入ることを楽しみにしている人もいるだろう。
しかし榛名にはその予定はなく、夜遅くにホテルの部屋を出て歩き回ることもするつもりはなかった。
昔、家族で温泉旅行に行った際に、
『女の子だから、充分に注意してしすぎることはないわ』
姉妹だったこともあり、母やしっかり者の姉から言われたことを、大人になった今でも律儀に守っていた。
「そりゃあ、美少女JKが浴衣で歩いていたら目立つかもしれないけど、私は立派な大人なのだし、私のことを見てくる物好きなんて……」
――いやしないわよ。
そう言いかけたのだが……
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