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新しい生活
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コンコン、というノックの音で、過去の思い出の中にいた少女はハッと我に返る。
「私だ。中に入ってもいいだろうか?」
ドアの向こう側から、デュクスの声が聞こえてくる。
「どうぞ」
承諾すると、ガチャリ、と扉が開く。
「――どうして明かりを点けない? あれの使い方がわからなかったか?」
あれ、と言いながら、デュクスはパチンっと指を鳴らした。
すると天井に取り付けられていた照明具がパッと明かりを灯し、部屋が昼間のように明るくなる。
「闇の魔女が光の中にいたらおかしいでしょう」
言いながら、少女もデュクス同様指を鳴らし、照明具の明かりを切った。
使い方がわからないわけではない、というのを証明したつもりだった。
それをどう思ったのか、一瞬デュクスが眉根を寄せたが、すぐにそれは消え、はぁ、と溜息を吐かれる。
「――この部屋は気に入ったか?」
「そうね」
ソファの上で蹲ったまま、顔は彼の方には向けなかった。
「……気に入らなかったか?」
「別にそうは言ってないでしょう」
「気に入らないならそう言ってくれ。すぐに違う部屋を用意する」
「その必要はないわ。あの坊やにも、そう伝えているの」
「――坊や?」
坊や、が誰を指すのかデュクスにわかるはずがない。
この屋敷に子供はいないはずだが、と続けた彼に、少女はあの老執事を指す言葉を探した。
「この屋敷を管理しているというあの坊やよ」
「ロドリゲスのことを言っているのか?」
「えぇ、そういう名だったわね」
「ここで生活するなら、一人ひとりの名は覚えてもらわないといけない。そうでなければ誰なのかわからない」
「闇の魔女である私に、あなたは自分の使用人の名を呼ばせるというの?」
闇の魔女には名前を名乗ってはいけない。
それはこの世界の常識のはずだ。
「うっかり私が名前を呼んでしまったらどうなるか、知らないわけではないでしょう」
闇の魔女に名前を呼ばれたら、闇の中に引きずり込まれて魂は死の世界へと落とされる。
世界を滅ぼせる闇の魔女は、名を呼ぶことで人を滅ぼす。
だから闇の魔女に出会っても、決して名乗ってはいけない。
それはすなわち、死を意味していた。
「だから名は呼ばない、と?」
「そうよ」
実際、少女が誰かの名前を口にすることですぐに死んでしまう、という話ではない。
意図的にその生を終わらせることはできるが、それは魔力の使用の有無でどうにでもなることだ。
しかし事実とは違うとはいえ、人は臆病な生き物だ。
闇の魔女が名を呼ぶとき。それはその人間が死ぬ時だと人々は信じている。
そしてそれは、あながち間違いでもなかった。
「では私のことも、名前で呼んではくれないのか?」
聞こえてきた声は、悲しみを含んでいた。
名を呼ばれないことを喜ばれることはあっても、悲しまれる理由はない。
「そうね……、そんなに名前を呼んでもらいたいなら、あなたが死ぬ瞬間、私から名を呼ぶという祝福を贈りましょうか」
「気の長い話だ」
次に聞こえた声は、呆れと苦悩が入り混じったような、複雑な色を纏っていた。
「それで、先ほどから何故こちらを見ないんだ。私が迎えに行かなかったことを怒っているのか?」
デュクスからずっと顔を反らし続けているのを、拗ねている、と解釈したのか、彼は見当違いなことを尋ねてくる。
思わず小さく笑ってしまった。
彼が何の関わりのないただの青年だったなら、こんな態度を取る必要なんかなかった。
彼の顔を見る度、かつて抱き心の奥底でずっと温めてきた恋心が大きく膨れ上がってしまう。
あの青年とは違うのに、彼が自分ではない女性を見ていると、胸が苦しくなる。
そんなのは、闇の魔女としてあるまじきことだ。
だから、見ないと決めた。
彼の顔はもう見ない。見るとしても、視線が交わることがないように、遠くから見守るだけに留めようと。
長い時間を生き続けたから、時が経てば諦めがつくことも知っている。
あの青年の代わりにデュクス自身を好きにならないためには、なるべく顔を合わせない方が良い。
そして気持ちの整理ができれば、自然とデュクスの顔を見ることもできるだろう。それもきっと、今まで過ごした数多の時間の如く、瞬きをするのと同じくらいあっさりと。
「私のことなんか気にすることはないわ。ここで大人しく過ごしていればいいのでしょう」
だから早く出て行け、という意味を込めて、抱えた足に顔を埋めた。
「――機嫌を直してほしい。夕食の支度もできているから、一緒に食べよう」
「私、あなたたちみたいに食事を摂る必要がないの」
だからいらない、と言おうとしたとき、足を抱えていた腕を引き剥がされた。
その拍子に顔を上げると、デュクスが細い少女の腕を掴み、見下ろしてきている。
吊り上がった青い双眸には、目を大きく見開いた少女の姿が映っていた。
「必要がなくても、食べることはできるんだろう。あなたには、これからここで人としての嗜みを学んでもらう」
「なんのためにそんなこと……」
「あなたには、普通の人間のように生活してもらう。家の者たちにもそう伝えている。異論は聞きたくない」
そう言い終えると、デュクスは少女の手を引っ張り、ソファから立ち上がらせた。そして掴んでいた腕を離したかと思えば、少女の手の平を握り、顔を近づけてくる。
「ちょっ! なにを……!」
驚いて手を引っ込めようとしたが、彼の手がそれを許さなかった。更に強い力で握りしめられた手から、彼の温もりが伝わってくる。
「食堂までエスコートする。これからも、私があなたに手を出したら、こうすると覚えていてほしい」
息がかかりそうな距離から見下ろされ、どくんっ、と胸が高鳴る。
うっかり見上げてしまった双眸に、捕らわれそうになる。
魅了の魔力でも使っているのか。
そう思えてしまうくらい、その瞳に吸い込まれそうになる。
ふと、記憶の中の青年とデュクスが重なる。
瓜二つのその顔のどこを取っても、違う場所が見当たらない。
心臓が早鐘を打つように脈打っていて、胸が苦しくなった。
「ッ……! 私に気やすく触らないで」
思いっきり手を引き抜こうとしたが、びくともしなかった。年齢的には年下ではあるが、体格は彼の方が大きいし、力も強い。
「その手を離さないなら、斬り落とすわよ」
掴まれていない方の手に魔力を溜め、鋭い刃へと変化させる。
それを手に持って振り上げても、彼は力を緩めなかった。
「好きにすればいい」
揺るぎのないその力強い声に、深海のように静かな双眸に、少女は振り上げた手を降ろすことができなくなってしまった。
ふるふると、刃を持つ手が震えてしまう。
それでも下唇を噛みしめ、デュクスを睨みつけて虚勢を張る。
「……まるで小さな黒猫が威嚇しているみたいだ」
言葉と共に、デュクスが優しく笑う。
寄せられていた顔が、更に近づいてくる。
ふわっ、と甘い香りが鼻孔を擽った。彼のコロンの香りだろうか。
手を掴んだ方とは逆の手で頬を撫でられ、唇に柔らかいモノが押し付けられた。
「え……?」
フッ、と握りしめていた闇色の刃が霧散する。
一触即発の状況だったはずなのに、なんでキスされているのだろう。
驚愕で固まっていた痩躯は、彼の大きな身体で抱きしめられた。
「――可愛い」
ぽそりと耳元で囁かれた甘い吐息交じりの声に、ゾクリッ、と肌が粟立つ。
「っ……!」
長い指で長い髪をかき分けられ、首筋に彼の唇が落ちる。
「やっ……!」
わずかに抵抗すると、すぐに彼は離れていった。
だが、掴んだ手は離さないままだ。
「やはりあなたには、『闇の魔女』などという名は似合わないな」
「あなた、一体どういうつもりで……!」
「やっと私を見てくれた」
フッ、と吊り上がり気味の目元が緩む。
「…………」
どうして、そんな顔を向けてくるのだろう。
彼には恋人が――恐らく婚約者がいるのに。
彼女を見るのとは違う、別の何かが入り混じった、甘くも妖艶な微笑みに胸がキュンッとときめく。
(あぁ……だめだ……)
デュクスに、あの青年の少し困ったような笑顔が重なった。
(私が好きなのは彼ではなく、あの人なのに……)
惹かれてしまう。
心が、身体が、デュクスをあの青年の代わりにしようとしている。
その裏切りにも似た自分の変化に、少女はひとり、泣き出したいような衝動に駆られた。
「なんなのよ! あなたは!!」
ザワッ、と少女の身体から黒い靄が立ち上り、それが痩躯だけを包み込む。
「おい……ッ!」
デュクスの制止の声を聞かず、少女はどろり、と闇に溶けるようにしてその場から逃げ出していた。
「お嬢様。いらっしゃいますか?」
扉の向こう側からロドリゲスの声が聞こえたのはあれから二日が経った昼間のことだった。
自分の闇の中に引き籠っていた少女は、その声に呼び寄せられるようにして、霧のように部屋の中に姿を現した。
気遣わし気にそう尋ねてくるのは、少女が昨日丸一日、どこにも姿を現さなかったからだろう。
この屋敷にはデュクスしか魔力持ちがいない。彼であれば魔力を辿って少女がこの屋敷にまだいることを察知できるだろうが、他の者にそれはできない。
少女とて無駄に他の人間の不安を煽りたくはなかったので、自分がこの場に居る旨は、部屋の前を使用人が通り過ぎる度に物音を立てることで知らせていた。
誰もいない部屋で物が動けば驚かせてしまうかもしれないが、それくらいしか方法が思いつかなかったのだ。
今も、ロドリゲスが部屋の前を通りかかったので、適当に枕を魔力で壁に投げつけておいた。
すると意外なことに、話しかけられたのだ。
「気分は……別に良くも悪くもないわ」
彼の問いに答えると、「さようでございますか」と優しい声が返ってくる。
「旦那様が何か失礼をしたそうで。申し訳ありません。昔から少々強引なところがありまして……わたくし共の教育不足でございます」
ちゃんと叱っておきました、とロドリゲスは笑う。
「どうでしょう? 気分転換に、外へ出てみませんか? わたくしがご案内いたしますので」
「…………」
「お嬢様でしたら、今、この屋敷に旦那様がいないことはご存じでしょう?」
老紳士の言う通り、今、というより昨日からデュクスはこの屋敷に帰ってきていない。
仕事が忙しくてあまりここには立ち寄らない、ともロドリゲスは最初に言っていたから、昨日は少女のためにわざわざ戻ってきたのだろう。
「どうでしょうか? この青二才にお嬢様とご一緒する名誉はいただけませんでしょうか?」
少女はしばし考えこみ、そしてドアノブへ手を伸ばした。
「――良いわ、行く……」
言いながらドアを開けると、満面の笑みのロドリゲスに迎えられた。
「私だ。中に入ってもいいだろうか?」
ドアの向こう側から、デュクスの声が聞こえてくる。
「どうぞ」
承諾すると、ガチャリ、と扉が開く。
「――どうして明かりを点けない? あれの使い方がわからなかったか?」
あれ、と言いながら、デュクスはパチンっと指を鳴らした。
すると天井に取り付けられていた照明具がパッと明かりを灯し、部屋が昼間のように明るくなる。
「闇の魔女が光の中にいたらおかしいでしょう」
言いながら、少女もデュクス同様指を鳴らし、照明具の明かりを切った。
使い方がわからないわけではない、というのを証明したつもりだった。
それをどう思ったのか、一瞬デュクスが眉根を寄せたが、すぐにそれは消え、はぁ、と溜息を吐かれる。
「――この部屋は気に入ったか?」
「そうね」
ソファの上で蹲ったまま、顔は彼の方には向けなかった。
「……気に入らなかったか?」
「別にそうは言ってないでしょう」
「気に入らないならそう言ってくれ。すぐに違う部屋を用意する」
「その必要はないわ。あの坊やにも、そう伝えているの」
「――坊や?」
坊や、が誰を指すのかデュクスにわかるはずがない。
この屋敷に子供はいないはずだが、と続けた彼に、少女はあの老執事を指す言葉を探した。
「この屋敷を管理しているというあの坊やよ」
「ロドリゲスのことを言っているのか?」
「えぇ、そういう名だったわね」
「ここで生活するなら、一人ひとりの名は覚えてもらわないといけない。そうでなければ誰なのかわからない」
「闇の魔女である私に、あなたは自分の使用人の名を呼ばせるというの?」
闇の魔女には名前を名乗ってはいけない。
それはこの世界の常識のはずだ。
「うっかり私が名前を呼んでしまったらどうなるか、知らないわけではないでしょう」
闇の魔女に名前を呼ばれたら、闇の中に引きずり込まれて魂は死の世界へと落とされる。
世界を滅ぼせる闇の魔女は、名を呼ぶことで人を滅ぼす。
だから闇の魔女に出会っても、決して名乗ってはいけない。
それはすなわち、死を意味していた。
「だから名は呼ばない、と?」
「そうよ」
実際、少女が誰かの名前を口にすることですぐに死んでしまう、という話ではない。
意図的にその生を終わらせることはできるが、それは魔力の使用の有無でどうにでもなることだ。
しかし事実とは違うとはいえ、人は臆病な生き物だ。
闇の魔女が名を呼ぶとき。それはその人間が死ぬ時だと人々は信じている。
そしてそれは、あながち間違いでもなかった。
「では私のことも、名前で呼んではくれないのか?」
聞こえてきた声は、悲しみを含んでいた。
名を呼ばれないことを喜ばれることはあっても、悲しまれる理由はない。
「そうね……、そんなに名前を呼んでもらいたいなら、あなたが死ぬ瞬間、私から名を呼ぶという祝福を贈りましょうか」
「気の長い話だ」
次に聞こえた声は、呆れと苦悩が入り混じったような、複雑な色を纏っていた。
「それで、先ほどから何故こちらを見ないんだ。私が迎えに行かなかったことを怒っているのか?」
デュクスからずっと顔を反らし続けているのを、拗ねている、と解釈したのか、彼は見当違いなことを尋ねてくる。
思わず小さく笑ってしまった。
彼が何の関わりのないただの青年だったなら、こんな態度を取る必要なんかなかった。
彼の顔を見る度、かつて抱き心の奥底でずっと温めてきた恋心が大きく膨れ上がってしまう。
あの青年とは違うのに、彼が自分ではない女性を見ていると、胸が苦しくなる。
そんなのは、闇の魔女としてあるまじきことだ。
だから、見ないと決めた。
彼の顔はもう見ない。見るとしても、視線が交わることがないように、遠くから見守るだけに留めようと。
長い時間を生き続けたから、時が経てば諦めがつくことも知っている。
あの青年の代わりにデュクス自身を好きにならないためには、なるべく顔を合わせない方が良い。
そして気持ちの整理ができれば、自然とデュクスの顔を見ることもできるだろう。それもきっと、今まで過ごした数多の時間の如く、瞬きをするのと同じくらいあっさりと。
「私のことなんか気にすることはないわ。ここで大人しく過ごしていればいいのでしょう」
だから早く出て行け、という意味を込めて、抱えた足に顔を埋めた。
「――機嫌を直してほしい。夕食の支度もできているから、一緒に食べよう」
「私、あなたたちみたいに食事を摂る必要がないの」
だからいらない、と言おうとしたとき、足を抱えていた腕を引き剥がされた。
その拍子に顔を上げると、デュクスが細い少女の腕を掴み、見下ろしてきている。
吊り上がった青い双眸には、目を大きく見開いた少女の姿が映っていた。
「必要がなくても、食べることはできるんだろう。あなたには、これからここで人としての嗜みを学んでもらう」
「なんのためにそんなこと……」
「あなたには、普通の人間のように生活してもらう。家の者たちにもそう伝えている。異論は聞きたくない」
そう言い終えると、デュクスは少女の手を引っ張り、ソファから立ち上がらせた。そして掴んでいた腕を離したかと思えば、少女の手の平を握り、顔を近づけてくる。
「ちょっ! なにを……!」
驚いて手を引っ込めようとしたが、彼の手がそれを許さなかった。更に強い力で握りしめられた手から、彼の温もりが伝わってくる。
「食堂までエスコートする。これからも、私があなたに手を出したら、こうすると覚えていてほしい」
息がかかりそうな距離から見下ろされ、どくんっ、と胸が高鳴る。
うっかり見上げてしまった双眸に、捕らわれそうになる。
魅了の魔力でも使っているのか。
そう思えてしまうくらい、その瞳に吸い込まれそうになる。
ふと、記憶の中の青年とデュクスが重なる。
瓜二つのその顔のどこを取っても、違う場所が見当たらない。
心臓が早鐘を打つように脈打っていて、胸が苦しくなった。
「ッ……! 私に気やすく触らないで」
思いっきり手を引き抜こうとしたが、びくともしなかった。年齢的には年下ではあるが、体格は彼の方が大きいし、力も強い。
「その手を離さないなら、斬り落とすわよ」
掴まれていない方の手に魔力を溜め、鋭い刃へと変化させる。
それを手に持って振り上げても、彼は力を緩めなかった。
「好きにすればいい」
揺るぎのないその力強い声に、深海のように静かな双眸に、少女は振り上げた手を降ろすことができなくなってしまった。
ふるふると、刃を持つ手が震えてしまう。
それでも下唇を噛みしめ、デュクスを睨みつけて虚勢を張る。
「……まるで小さな黒猫が威嚇しているみたいだ」
言葉と共に、デュクスが優しく笑う。
寄せられていた顔が、更に近づいてくる。
ふわっ、と甘い香りが鼻孔を擽った。彼のコロンの香りだろうか。
手を掴んだ方とは逆の手で頬を撫でられ、唇に柔らかいモノが押し付けられた。
「え……?」
フッ、と握りしめていた闇色の刃が霧散する。
一触即発の状況だったはずなのに、なんでキスされているのだろう。
驚愕で固まっていた痩躯は、彼の大きな身体で抱きしめられた。
「――可愛い」
ぽそりと耳元で囁かれた甘い吐息交じりの声に、ゾクリッ、と肌が粟立つ。
「っ……!」
長い指で長い髪をかき分けられ、首筋に彼の唇が落ちる。
「やっ……!」
わずかに抵抗すると、すぐに彼は離れていった。
だが、掴んだ手は離さないままだ。
「やはりあなたには、『闇の魔女』などという名は似合わないな」
「あなた、一体どういうつもりで……!」
「やっと私を見てくれた」
フッ、と吊り上がり気味の目元が緩む。
「…………」
どうして、そんな顔を向けてくるのだろう。
彼には恋人が――恐らく婚約者がいるのに。
彼女を見るのとは違う、別の何かが入り混じった、甘くも妖艶な微笑みに胸がキュンッとときめく。
(あぁ……だめだ……)
デュクスに、あの青年の少し困ったような笑顔が重なった。
(私が好きなのは彼ではなく、あの人なのに……)
惹かれてしまう。
心が、身体が、デュクスをあの青年の代わりにしようとしている。
その裏切りにも似た自分の変化に、少女はひとり、泣き出したいような衝動に駆られた。
「なんなのよ! あなたは!!」
ザワッ、と少女の身体から黒い靄が立ち上り、それが痩躯だけを包み込む。
「おい……ッ!」
デュクスの制止の声を聞かず、少女はどろり、と闇に溶けるようにしてその場から逃げ出していた。
「お嬢様。いらっしゃいますか?」
扉の向こう側からロドリゲスの声が聞こえたのはあれから二日が経った昼間のことだった。
自分の闇の中に引き籠っていた少女は、その声に呼び寄せられるようにして、霧のように部屋の中に姿を現した。
気遣わし気にそう尋ねてくるのは、少女が昨日丸一日、どこにも姿を現さなかったからだろう。
この屋敷にはデュクスしか魔力持ちがいない。彼であれば魔力を辿って少女がこの屋敷にまだいることを察知できるだろうが、他の者にそれはできない。
少女とて無駄に他の人間の不安を煽りたくはなかったので、自分がこの場に居る旨は、部屋の前を使用人が通り過ぎる度に物音を立てることで知らせていた。
誰もいない部屋で物が動けば驚かせてしまうかもしれないが、それくらいしか方法が思いつかなかったのだ。
今も、ロドリゲスが部屋の前を通りかかったので、適当に枕を魔力で壁に投げつけておいた。
すると意外なことに、話しかけられたのだ。
「気分は……別に良くも悪くもないわ」
彼の問いに答えると、「さようでございますか」と優しい声が返ってくる。
「旦那様が何か失礼をしたそうで。申し訳ありません。昔から少々強引なところがありまして……わたくし共の教育不足でございます」
ちゃんと叱っておきました、とロドリゲスは笑う。
「どうでしょう? 気分転換に、外へ出てみませんか? わたくしがご案内いたしますので」
「…………」
「お嬢様でしたら、今、この屋敷に旦那様がいないことはご存じでしょう?」
老紳士の言う通り、今、というより昨日からデュクスはこの屋敷に帰ってきていない。
仕事が忙しくてあまりここには立ち寄らない、ともロドリゲスは最初に言っていたから、昨日は少女のためにわざわざ戻ってきたのだろう。
「どうでしょうか? この青二才にお嬢様とご一緒する名誉はいただけませんでしょうか?」
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