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勝負
しおりを挟む俺は眼前の山脈のような巨竜を見上げた。モコモコと膨張していた体躯は、もう収まっていた。シンとした静寂が空から降りしきる。嵐の前の静けさは、俺の心に緊張感を植え付けた。
先代の竜王は完全に息子に憑依している。もうエディフィスドラゴン(武器の竜)の面影などカケラも残っていない。
全身は醜い灰色。その皮下には、人間の静脈のような青い血管がいくつも川を作っている。
翼はボロボロで穴まみれ。あんなので空を飛べるのだろうか?
顔は醜く、ブサイクだ。黄色い歯が上下の顎から乱雑に生えている。
瞳は白く濁っている。まるで死んだ魚の眼を移植してきたみたいだ。不気味な眼孔から溢れるのは冷たい殺意のみだ。
網膜に移る巨竜の姿は、俺の体を震え上がらせた。瞳から全身に向けて、“逃げろ!”と電気信号が飛ばされる。
さっきまであれほど心強かったドラゴンナイトの姿は、弱々しく思えてしまった。
俺の右手の握りこぶしは、電気でも流されたかのごとくガタガタ震えている。
足は血の気が引いて、感覚がない。恐怖で完全に怖気付いている。
翼は縮こまり、びびった犬の尻尾みたいに折りたたまれている。
額からは脂汗が次々と走っていく。首筋を舐める汗粒は、俺の体から温度を奪い取る。
生物の持つ根源的な感情の一つ、“恐怖”だけが俺を支配する。現竜王と対峙した時とは全く別の恐怖だ。
あの時は、強者からの恐怖。例えば、人間が熊やサメから感じるものだ。
今は、気の狂った敵からの恐怖だ。例えば、殺人鬼やジャンキーから感じるものだ。
この二つは似ているようで違う。
前者はまだマシ。自分とそいつらの間に柵やオリがあれば近づける。戦う必要がないのなら感じないで済む恐怖だ。
だけど後者は最悪だ。
例え、オリの中にいても殺人鬼とは目を合わせたくない。イかれたやつとは関わりたくない。相手が強くても、そうでなくても、目を合わせたくないのだ。
何をされるか、何がそいつの機嫌を損ねるのかわかったもんじゃない。絶対に近寄りたくないほどの恐怖が俺の身を包んで離さない。
俺は巨大なつばの塊を狭い喉に落とした。つばはまるで質量を持った塊のようになる。喉を幾度か跳ねながら、うねりながら、落ちていく。
全身の震えは最高潮に達した。胸骨も肋骨も軋みながら鳴いている。血は完全に動きを停止して、血管の内部で立ち止まっている。心臓は凍りつき、鳴動をやめた。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
戦いたくない。原始的な感情だけが脳裏を飛び交う。生物の本能が“逃げたい”と告げる。立ちすくみ、よどみ、縮こまる。
心の底から逃げたい。全部放り投げて、飛び去りたい。早く解放されたい。
そして、俺は先代竜王の瞳をまっすぐに見つめ返した。黄色い瞳と黒い瞳が視線を交わす。俺は震える口を開いて、
「勝負だ」
そして、戦闘が始まった。
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