紺碧のイグジスト

ナギ

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1.瓦解する世界の中で

運命だと、言うのならば

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 どれだけ走ったのか、もうわからない。
 薄暗い路地に身を潜め、ラナはガタガタと震えていた。
 息はぜぇぜぇと、乱れて整うことは全くない。
「ん……はっ……は、ぁっ、ぅ……」
 やっと少し、呼吸が落ちつく。
 こんなに走ったことはないというほど、走った。
 運よく、今は運よく逃げられている。けれどもまた追ってくる。
 どうしよう、どうすればいいとラナは考えるが頭が働かない。
 何も解決策などでてこないままだ。
 いろいろなことがあり過ぎて、その思考はどんどん鈍くなっていく。
 深く沈み始める意識を必死で保とうとしても、難しい。
 そしていつの間にか、その瞳は閉じられていた。
 すぅすぅと穏やかな吐息が零れ始める。路地裏の、ごみ箱の影にひっそりとその身を置いて。
 まだ続く混迷の、周りの叫び声も建物が崩れる音も聞こえているはずだがラナには届いていなかった。
 意識は深く深く、沈んでいったからだ。
 ラナが蹲り、眠り始めてからしばらくたち、この路地裏を通るものが現れる。
 深い黒の髪に深い緑の瞳。すっと通った鼻筋の整った顔の青年。
 よくよくみれば美青年なのだが、その薄汚れた格好でそれは翳る。
 いつも通る路地裏に、いつもはないものがあり、歩みを止めて青年はラナを見下ろした。
「寝てる、のか?」
 さらりと銀糸が一房。身じろぎとともに落ちる。
 ああ、綺麗だな、と青年は思った。薄汚れているとも思ったが、そんなことは問題なかったのだ。
「銀色の髪……ああ……あいつらが捜しているのはこの子か……」
 魔物の騒ぎ、その中で人探しをする男たち。
 探していたのは、銀色の髪の女だと言っていた。隠れるようにここにいる女。
 確か名前は、ラナと言っていた。彼女をみて、直観で追われているものだと青年は思う。
 青年はしゃがみこみ、一房ほどラナの髪に触れる。
 思ったよりも柔らかいそれに緩く笑みが零れる。
「気まぐれだからな」
 青年は一瞬、暗い笑みを浮かべて、ラナを抱え上げる。
 ああ、軽いなぁとその感覚に不思議なものを覚えながら。
 自分が住む場所はここからあと少し。
 追っているもの達は魔物騒ぎともうじきの日暮れで街からはいなくなるだろう。
 もしいたとしてもこの距離なら見つかることはない。
 それに見つかったら見つかったで、渡せばいいと思っていた。
 自分にとって、これは気まぐれ、本当に気まぐれだった。
 ラナを抱え上げ、青年は歩きだす。軽いな、と青年は笑い零した。
「名前は本当にラナであってるのかな。俺は……俺は、リアンリルトって、言うんだよ」
 楽しそうに笑いながら、青年は歩を進めた。
 目が覚めたらどんな顔をするだろう、とリアンリルトは思う。
 抱きかかえた者は眼のあたりが腫れている。泣いたことは一目瞭然のその顔。
 そしてよくよくみれば服の裾にとんだ赤の色。
 黒く色づく赤。怪我などはないことから、それは他人の血だとリアンリルトは思う。
 何があったのか、何故追われていたのか、少し興味がわいた。ただそれだけだった。
 人気のない道を歩き、古い建物へとリアンリルトは入ってゆく。
 そこの一室にリアンリルトの家はあった。
 家、といってもリアンリルトにとってそこは仮住まいだったのだが。
「ただいま、っていっても誰も……ああ……なんでいるんだ、チェシャ」
「暇だったからー。で、それは何? 喰うの?」
「人間なんてまずいだろ」
 リアンリルトが家の扉を開けると、古ぼけたテーブルとイスに似つかわしくない、少年がいた。
 細められた瞳は金色。無造作に流れる髪も金。
 表情はくつくつと笑いつつもどこか歪んでいた。
 チェシャと呼ばれた少年の服は一級品だとすぐにわかるもの。
 白に細かく銀糸で刺繍があり、一国の王が着るものと大差ないものだった。
「物好きのリアンリルトに会いにきてやったんだよ」
「それでさっきの騒ぎか……」
「いいだろ、叫び声とか、そういうの」 
「俺は別に。煩いと思うこともあるな」
「で、それは?」
「拾った、ちょっと面白そうだったから気まぐれに」
「へぇ!」
「だから静かにな」
 リアンリルトは自分がいつも使っている寝台にラナを置くと、チェシャの方を向いた。
 向いて、すぅっと瞳を細める。
「本当は何か用があるんだろ?」
「もうすぐ潰し合いがあるから、こいよ」
「気が向いたら、ね」
「まぁ、そんなもんでいいだろ。で、本当にその女は気まぐれ?」
「やけに食いつくな……ほしいならやるよ」
「いらねー。じゃ、俺行くから」
「ああ」
 カラカラと笑って、チェシャは椅子から立ち上がる。
 立ち上がって手を軽くあげてまたと笑うと、その姿は瞬きの間にもう無くなっていた。
「潰し合い、か……」
 リアンリルトは吐き捨てるように笑う。
 それはどんな、潰し合いなのかと。
「ん……」
 と、後からくぐもった声があがる。
 振り返れば、ラナがうっすらと瞳をあけようとしていた。
 開かれてゆく瞳。
 その紺碧に、リアンリルトは捕われる。
 起き上がり瞳をこするラナ。
 再び、その瞳があいて、リアンリルトの視線を混じり合う。
 その瞬間だった。 ラナもリアンリルトも、互いに落ちる――恋に、落ちていた。
 瞬き、意味もわからぬうちに、心は正直に、高鳴りを隠さない。
 こんな簡単にただ、出会っただけでこんな気持ちになるなんて、とどちらも思うほど突然に落とされた。
「あ、大丈夫?」
 しばらくの無言。その後に、先に声を出したのはリアンリルトだった。
 声が少し上ずり、自分でもなんだと思っていた。
 どきどきしている、無駄にどきどきしている。
 紺碧色の瞳と対峙した時から、どきどきしている。
 目の前のこの子がほしいと、どきどきしている。
 こんな感情は、久しく知らない。
「あの……あ……え……う……あ、ああ、やっ、やだっ、いっ」
 紺碧の瞳が揺れた。その唇からは言葉が出ない。
 ぎゅっと体を抱きしめて、ラナは脅えて、震えだす。
 リアンリルトは、近寄って、触れた。
 その瞬間にびくりと肩が揺れる。
「大丈夫だから、こっち見て」
 リアンリルトの言葉に、ラナは従った。
 正しくは抗えなかった。
 リアンリルトは少しだけ、魔物としての自分の力を使ったのだ。
「俺、君を追ってるとか、追いだしたりしないから……ね?」
「やっ……あ……」
 言葉にならない声を漏らしていたラナは、リアンリルトの言葉で、力で、少しずつ落ち着いてゆく。
 そして何があったかをすべて思い出してほろほろと、瞳から涙を流し始める。 
 それにリアンリルトはぎょっとする。
 泣くなんて思っていなかった。
 けれども、何も言わずにただそれを見守った。
 声を押し殺して泣く彼女をただただ、見守っていた。
 綺麗だと、思って動けなかったのだ。
「……俺はリアン」
「……っ、ラナ……ラナと、いいます……」
「そっか……大丈夫だから」
 頭を撫でられて、ラナはびくっと体を震わせる。
 だがすぐに、その手の優しさに身を委ねる。
 この手は、優しいと、大丈夫だと理解をした。
 ずっと張り詰めていたものがふつり、と切れる。
「わたっ……ひとっ……一人、で……おとう、さま、おかあさ、ま……死ん、で……」
「うん」
「牢から、出て……ミハイ、に……っ、逃げ……」
「うん、逃げて、路地裏で眠っていた君を俺がここに運んだ。誰にも見られていないから安心して? ほとぼりが冷めるまでここにいればいい」
「ふっ……っ……あり、ありがと……」
 泣きながら、声を詰まらせながらラナは何があったのかを言葉にした。
 リアンリルトはそれをつなげて、なんとなく理解する。
 牢にいた。父母は死んで、ミハイとかいうやつから逃げてきた。
 リアンリルトはミハイという名に覚えがあった。
 この国で牢を開けられるならばある程度の権力をもつ貴族にちがいない。
 そしてミハイという名を持つものは貴族には一人だ。
 リアンリルトはラナにわからないように薄ら笑う。
「ラナ、だっけ?」
「う……はい……」
「はは、ひどい顔。鼻は真赤で目も頬もぐしゃぐしゃ。大丈夫だよ、ここにいれば見つからないから」
 どこからその自信がでてくるんだろう、とラナは思った。
 ミハイが本気で探せば、きっと見つかる。
 どんな人間の家にだって押し入ってくることなど可能なはずだ。
 ミハイの地位。
 なんとなくそれを理解しているだろう、普通ならば抗えないその権力。
 それをこの目の前にいる青年がわかっていないのだろうかとも思ったが、大丈夫だからと微笑まれれば、本当に大丈夫なんだと思えてくる。
 安堵した、理由もなく、安堵していた。
「リアン……さん?」
「リアンでいいよ」
「リアン……あの……ありが、とう」
「うん」
「ありがとう」
 やがて落ち着いたラナは小さく、けれどもしっかりとリアンリルトに向かって言った。
「どういたしまして。そうだ、お腹空かない? 俺、料理は得意なんだよ」
「お腹……空いてます」
 照れたのか、小さくなってゆく言葉。
 リアンリルトは笑って、ラナを撫でていた手をおろした。
 その瞬間、ラナはとても寂しいものを感じた。もっと撫でられていたかったと、思ったのだった。
 リアンリルトを始めてみてからどくどくと自分の心臓が早鐘を打っていた。
 熱くなりそうになる顔、触れられると嬉しい。
 初めて会って、まだ名前しか知らないといってもいいのに、惹かれている。
「じゃあ、飯作るからちょっと待ってて」
「あ……はい」
 リアンリルトはラナから離れ、背を向ける。
「参ったな……」
 小さな呟きは本心からだった。
 気まぐれで助け、飽きたら捨ててしまえばいいと思っていた。
 けれども、目があった瞬間に知ってしまった。
 自分がラナに惚れてしまったことを。
 一番厄介な感情を抱いてしまったことを。
 ラナは知らないがリアンリルトは知っている。二人の生きる時間が違う事を。
 リアンリルトは、人間ではなく魔族だ。それも、魔王を守る将の一人。
 先ほどまでいたチェシャもそうだった。
 気まぐれで人の世界に、人の姿をして紛れ込んで数年。
 そろそろこの状況にも飽きたからやめようと思っていた矢先に出会ってしまった。
 これはいけないとわかっていても想いが止められないでいる。
 止められないまま流されそうで、でもそれをなんとなく許容している自分がいて、リアンリルトは笑った。
「今なら、運命って言葉、信じられるな」
 苦笑混じりの言葉は静かに消えていく。
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