芋と魚介類はかく語りき

三衣 千月

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三、富倉祭大捕物

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 ある秋の日曜日。空は高く晴れ渡っていた。文化祭というものは得てして秋に行われるものだ。なぜそうなっているのか、詳しくは知らないし特に知った所で人生の役に立つこともあるまいと高をくくり、とある兄妹は歩いていた。兄の横には、秋空のように晴れ渡った笑顔の妹がいる。兄妹は大学の文化祭に行く途中だった。そこは兄のかつての学び舎でもあり、兄の幼馴染である九ノ宮律が助教授として働く場所でもあった。名を 富倉とみくら大学という。

「ダメだ。兄ちゃんは芋から半径30m以上離れると死ぬんだ。ああ、禁断症状で手が震えてきた……」
「じゃあ今度、芋をネックレスにしてぶらさげてあげる」
「あ、いいなそれ」

 芋と自分が気のおけない距離にいるその姿を妄想し、兄は少しばかり気力を回復した。

「ところで妹よ。どうして急に文化祭に行こうと言い出したんだ?」
「んー、進路の為に見ておきたい気持ちが半分。九ノ宮おねえちゃんに会いたいのが半分」

 妹の志望大学もまたその大学であり、模試では常に高判定を維持していた。

「別にわざわざ会いにいかんでも家に来るだろう」
「そうだけど。でも、こないだはお兄ちゃんだけ会ってた。私だって色々お話したいのにずるい」
「単に昼飯を食いに来ただけだがなあ。別段、変わった会話もしなかった」
「なに食べたの?」
「さて、なんだったか。思い出せん。何か持ってきてくれたとは思うんだが……」
「ひどいなあ。鰹でしょ? あら煮とお刺身、おいしかったもん」
「ううむ。それだけだったような、他にも何か食べたような……」
「なに、ボケたの? お兄ちゃん、まだ30にもなってないのに」

 首をかしげる兄に対して、妹は辛辣だった。
 しかし兄の名誉のためにも伝えておかなければならないが、彼は決してボケている訳ではない。律との昼食を思い出せないのには理由があった。
 思い出せないのではなく、憶えられないのである。

 九ノ宮律が普段銜えているのはなんの変哲もない市販の禁煙用パイプである。
 しかしこれは彼女がもつ、ある症状を抑えるためのものだ。彼女がパイプを銜えていない時、彼女と対峙した人間は嘘がつけなくなり、常に本音がこぼれる。ただし、律本人以外はその際のやりとりを記憶できない。
 特殊な能力を持つのは、芋兄妹だけではなかったのだ。

 いつからそうなったのか、律本人にも詳しくは分からないらしい。数年前だったと律は記憶しているが、どうにも曖昧である。その頃はちょうど兄妹が母を亡くした頃であり、あれこれ奔走する兄を気遣いながら律が過ごしていた時期でもある。その幼馴染の芋男でさえも、彼女の能力を知らないでいた。

「物忘れくらいある。時に、律を探すんだろう? 兄ちゃん、着いたら教授に挨拶に行ってくるからな」
「私も一緒に行く。おねえちゃん、研究室に籠ってるって言ってた」

 兄がかつて世話になっていたのは、食民俗研究に全てを費やす教授であり、今は律がその元で働いていることもよく知っていた。昔からよくどこかへ出かけてはあれこれと食っていた教授だ。その片鱗は今なおご健在らしい。この間まで落ち鮎を食いに行っていたらしいので、土産話でも聞きたいと兄は思っていた。ついでにそのまま研究室に居座って時間を潰すのが兄の目論見だった。
 文化祭などご大層なイベントが苦手な兄は、隙あらば安寧の地を求めてそこに居座る。その姿はまるで直射日光下での保存を嫌う芋のようであり、それゆえに兄の肌はなまっちょろい白さをしているのだった。

「部屋に引き籠るとはなんと不健康不健全な。妹よ。律を外に引っ張り出してやれ」
「ははあ。ふけんこーふけんぜん? その言葉、お兄ちゃんにも言えるよね」
「兄ちゃんは全てを棚に上げる人間だ」
「なにそれ。訳わかんない」

 やれやれと呆れながら妹は言う。
 しばらく歩くうちに大学の周りを囲むレンガ塀が見えてきて、その後に正門が見えてきた。門にとりつけられたアーチには、しなやかな文体で富倉祭と書かれている。

 このアーチもレンガ塀も昔から変わらんなあと兄が思っていると、大学構内各地に取り付けられているスピーカーから賑やかな音楽が流れ出し、同じように賑やかな声で何かしらのイベントの案内が始まった。

 ――ゲリラ借り物競争!ゲリラ借り物競争! 次のターゲットは『禁煙パイプを銜えた助教授!』 豪華賞品も出るよっ!

 条件にあてはまるであろう人間を一人、兄妹はよく知っていた。
 お互いに顔を見合わせて、よく分からないながらもとりあえず律の研究室に行ってみるかと足早に律のいる研究室へと向かうのだった。



   ○   ○   ○



 さかのぼること少し前。九ノ宮律は研究室に引き籠っていた。
 教授が文化祭を見に行かないのかと問うても、「なんでアタシが行かにゃならんのですか」と部屋から出る姿勢を見せなかった。

「僕は少ししたら見て回ってくるよ。うちの研究室の子達が面白い屋台をやっているらしくてね」
「あー、なんか盛り上がってましたね。世界の携行食だとかなんとか」
「そうそう。それ。うまそうだろう?」
「魚介類は保存と利益率の関係で扱ってないそうで。そんならアタシは興味ありません」
「かわいそうに。小池君なんぞ、張り切っていたのに」
「間違った方向への努力は認められないもんです」
「そりゃ真理だねえ」

 穏やかに教授は笑った。
 その時、例の賑やかなアナウンスが鳴り渡った。ターゲットは禁煙パイプを銜えた助教授。大学界隈広しといえども、そうそう何人も助教授がいる訳ではないし、おまけに禁煙パイプを銜えていると限定までされた日には、個人情報を特定しているようなものだ。

 律は驚きのあまり立ち上がった。その拍子に銜えていたパイプがコロリと転がる。
 朝からゲリラ借り物競争なるイベントをやっていることは知っていた。『赤いナース服を着た眼鏡の人』だの、『ハート型の鞄を持つとある歌手のファン歴5年以上の人』だの、良く分からない具体的なターゲットを指定してはイベント本部へと連行させる。そのイベント自体に異論はないが、ターゲットは事前に了承をとって決めておくべきではないのか。

「律君でも取り乱すことがあるんだねえ」
「なにを呑気に笑ってるんです」

 ジト目で教授を睨むが、彼はなにやら訳知り顔で愉快そうにしている。

「何か知ってますね?」
「いやあ、小池君がね。イベント本部にかけあって君をターゲットにしてくれと頼み込んだらしい。合法的に手をつなぐ千載一遇の機会なのだそうだ。面白そうだったから僕が許可した」

 転がったパイプを素早く銜え、こうしてはおれぬと律は研究室を飛び出した。文化祭の空気に浮かれる阿呆どもめ。特に小池。許しておけぬ。若さゆえの過ちは認めるが、罪は必ず償わせる。そう胸に誓って律は逃避行を開始するのだった。



   ○   ○   ○



 兄妹が研究室にたどり着いた時に見たものは、悠々と茶をすする教授の姿と、がっくりとうなだれる一人の学生の姿だった。

「助教授、素早すぎるっすよ……」
「まあ頑張り給え。小池君。諦めが悪いのが君の取り柄だろう」

 話を聞けば、律はアナウンスとほぼ同時に研究室から飛び出していったそうだ。

「いつもの助教授なら、調理場に籠って居留守を決め込むと思ったのに!」
「うん、確かにいつもの彼女ならそうだねえ」

 教授も言われてみればと不思議そうな顔をする。

「まるで、君が来ることを知っていたようだ」
「教授、変な事言ってないっすよね?」
「僕は何も言っていないよ、君」

 そこに兄妹が割って入る。兄はかつての恩師に折り目正しく礼をした。

「え、お兄ちゃん、そんなに真面目なことも出来るの?」
「妹よ、兄に対しての失礼が過ぎる」
「で、そちらの方も九ノ宮おね……助教授を捕まえにきたんですか?」

 つい、いつもの呼び名が出そうになるところを妹は強引にねじふせる。

「ああ、うん。そうなんだ。俺もこの研究室の人間でね。この大学で禁煙パイプを銜えた助教授なんて、うちの助教授しかいないからね」
「豪華賞品って何なんでしょうか」

 妹はあどけない仕草で学生に問う。その仕草は男性の庇護欲やらなにやらを掻き立てるにはじゅうぶんすぎる効果があったようだ。彼はなぜか自慢げに言った。

「豪華も豪華!聞いておどろいてくれよ。なんと日本一有名な某テーマパークのペアチケットさ!」

 それは小池学生がバイトを増やしてまで必死で用意した、血と汗と涙と欲望その他もろもろが形を成したものだったが、もちろんそれを口に出したりはしない。イベント部隊にちょっといい値段のカップ麺一年分を貢物として献上し、会議費と称する飲み会の代金を支払った挙句にようやく私的利用にまでこぎつけたのだ。この機を逃す訳にはいかない。

 しかし賞品を聞いて目の色を変えたのが妹である。

「捕まえた人がおねえちゃんとペアで行けるんですね!?」
「おねえ……ちゃん? え、あ、うん、まあ、そうかな」

 たじろぐ学生を尻目に妹は素早い動きで携帯を取り出し、どこかへと連絡したようだった。数秒とたたぬうちに研究室に誰かが駆け込んできて、妹の前に片膝をついた。

「馳せ参じいりまするは新聞部、小池にございます」
「小池君。話は聞いてたよね。大学構内の地図と、ターゲットの最終目撃情報を」

「奏上いたします。御方、六号館方面から八号館方面へと向かっていたとのことです」

 家臣か。そうでなくば忍びの者か。
 そう妹に対してツッコミを入れようとした兄だったが、それよりも早く言葉を発したのが先ほど教授と話をしていた学生だった。

「浩太ッ!?」
「あれ、兄貴」
「お前、いつから忍びの者に……。あ、ってことはこの子か? お前の女神さまとやらは」
「馴れ馴れしいよ兄貴。この方と呼んでよ」
「えっと、小池君の、お兄さん?」
「ははっ、畏れながらも左様にございます。件の賞品もこの愚兄の用意したるもの。お望みとあらば如何様にもお使いくださいませ」
「待て待て! あれはダメだ! あれだけはダメだ! 助教授とテーマパークに行くのは俺だ!」

 なにやら賑やかになってきたなあと蚊帳の外にいる兄は考えていた。そしておそらくあの少年が妹が言っていた新聞部の後輩とやらなのだろう。なるほど、りっぱに臣下になっているようだった。その責任の一端は惚れ薬を作った自分にもあるのだが、あえて今いう事でもあるまいと兄は何食わぬ顔で事の成り行きを見守っていた。

 喧々諤々の論争の末、早い者勝ちだと言う結論に達したようだった。
 かくして、カップ麺大好き小池兄と、妹を神と崇める小池弟の争いの幕が切って落とされたのである。妹も共に駆けだして行った。

 部屋に残された教授と兄はのんびりと会話を交わす。

「いやあ、若さの発露というものはいいねえ」
「教授の行動力もまた若さですよ。落ち鮎は美味かったですか」
「ああ、実にうまかった。季節の物を食べるのはいい。僕は生きていると強く思うね」
「お変わりないようで。土産にと思って持ってきたものがあるんですが食いませんか」

 教授が兄がひょいと掲げた袋を見る。

「タケノコイモです。ここいらでは珍しいでしょう」

 それは秋から冬にかけて出回る芋であり、その見た目の特徴から名前がつけられた芋である。肉厚であることも特徴の一つだ。

「京イモか! いいねえ、焼いて食おう。そっちの部屋に瀬戸内産の粗塩があるよ君」

 ちなみに、京イモとも呼ばれるが主な原産地は京都ではなく宮崎である。

「是非使わせていただきます。調理室、お借りしますね」
「君も昔から変わらんなあ。相変わらず芋ばかりかい?」
「芋を食わねば人は生きていけません」
「律君は魚を食わねば人ではないと言う。まったく昔から君ら二人は面白い」
「あれは半魚人だから仕方がないのです」

 教授は愉快そうに笑った。美味いものを食べ、よく笑うことがよく生きる秘訣だと常に教授は説いている。そしてそれを一番実践しているのも、まちがいなく教授その人であった。



   ○   ○   ○



 大学構内はにわかに活気づいていた。
 食民俗研究会の面々は人が増えたことを喜ぶ反面、勝手に持ち場を離れた小池兄に対してアンチクショウという思いを抱いてもいた。
 しかしそれにしてもさっきのアナウンス。あれはどう考えてもうちの九ノ宮助教授だろうと考え、それならば小池が暴走する気持ちも分からんでもないと思っていた。それはそれとして、持ち場を離れた罰は打ち上げの会費を負担させることにしようと本人不在のまま、満場一致で決がとられていた。

「助教授、まだ捕まってないんかな」
「どうせ研究室に籠ってるんじゃないのかな」
「でも小池君が行ったよ?」
「戻ってこない所を見ると捌かれたかもなあ」

 てんで好き勝手に話をする面々。
 だが彼らは知らない。大学構内で増加する人の群れのほとんどが高校生であることを。そして一人の少女がそれを扇動していることを。すべての騒動のあと、迷惑をかけた詫びにとその群衆が屋台の品物を根こそぎ買い取っていくことを。



   ○   ○   ○



 だがして九ノ宮律は捕まらなかった。
 小池兄は自らが通う大学だという地の利で以てさまざまな場所を探すが影も形もなく、小池弟をはじめとする妹軍団は数を活かしたローラー作戦を決行するものの目撃情報の一つも得られないでいた。妹が招集した軍団の数はおよそ100。各種運動部、文化部の混成軍団であり男女比のバランスがとれたその軍団でさえも見つからないとなると、これは関係者しか入れないようなエリアに逃げ込んだのではないだろうかと妹は考えた。

「小池君。情報をまとめて。敷地内で入れなかった場所と、そこに通じる経路を確認してほしいの」
「これにございます。婦人用の厠の個室も把握してございます」
「ありがとう。じゃあ、次の手も打ってあるのね?」
「はっ。各経路に見張りを立て、人相書きを配布しております。これを抜けるのは不可能かと」
「あとは持久戦ね。絶対に捕まえるんだから!」

 妹は招集した面々に【オペレーション・天岩戸】の発動を通達した。かくして富倉祭会場の人口密度と緊張感は増大し、それと反比例するかのように静寂が会場を包んでいく。



   ○   ○   ○



 日が傾いていく。
 ゲリラ借り物競争の実行委員たちはいよいよこれはおかしいぞと思い始めていた。
 小池が「すぐに連れてくるから」と言うので部外者をターゲットにしたものの、一向に本人は現れない。ターゲットも見つからない。イベントは停滞してしまっている。
 小池の用意した豪華景品ペアチケットを餌にイベントを盛り上げるつもりだったが、こうも間延びしてはやっていられない。

 実行委員の一人が食民俗研究会の屋台に行ってみたが、小池はいないし助教授の場所も分からんと言う。

 また別の実行委員が教授のいる研究室に訪ねてきた。

「困るのです。イベントを盛り上げるには適度な加減というものがある。そろそろ捕まっていただきたい」
「そうはいってもねえ君。僕も許可を出しただけで。どこにいるかは皆目見当もつかない」

 困り顔の教授を尻目に、実行委員は頭を掻きながら言う。

「やっぱり部外者を噛ませるんじゃなかった! だいたい、あの高校生の大所帯はなんなんだ! あちこち聞きまわっているとこっちに苦情がきている! 無関係だ!予測不能だ!不可抗力だ! ああもう!イベントが台無しだ!」

 実行委員は言いたいことを言い散らかしてぷりぷりと嘆きながら去って行った。ほくほくに焼き上げたタケノコイモに塩を振って食いながら教授は言った。

「律君は人気者だねえ。そして妹君もたいへん面白い」
「お恥ずかしい。どうもあれは突っ走るというか、感情をストレートに出すきらいがありまして」
「うんうん。昔の君に似ている。けれどまあ、ここいらでお開きにした方がいいかなあ」
「真面目にイベントを企画した人間に申し訳ない。そろそろ迎えにいってきます」
「うん。それがいいね。今日は美味い芋をありがとう」

 朗らかな顔で教授は言った。兄は、これほどゆっくりとした時間を過ごしたのはいつぶりだろうかと内心驚いていた。

「またいつでも持ってきますよ」
「次は海老芋がいいなあ。あれもうまいからね」
「冬が旬ですね。では、楽しみにしていてください、教授」
「君、君。もう少し、くだけてくれてもいいんじゃあないかい。ここには今、僕と君しかいないのだから」
「いいえ、ここは大学で、あなたは教授であり、恩師です。それなりの良識は持っているつもりですよ」
「そういうところも昔から変わらんなあ。まあ、気を付けていっておいで」
「はい。では失礼します」

 兄は来た時と同じように、深々と礼をして研究室を後にした。
 教授は穏やかな、けれど少し寂し気な笑みを崩さぬまま、しばらくドアを眺めているのだった。



   ○   ○   ○



 兄は大学構内を歩く。
 ここで学生として学びを得ていたのはもう何年前になるだろうか。

「10年……いや、もうちょっと経つか」

 日々を芋と共に過ごす生活を続けているせいか、具体的な年数を思い出すのが難しい。しかしそれらはまた思い出す必要性のないものでもある。

「しかし異様な光景だなおい」

 独り言が思わず漏れてしまうほど、構内のいたるところに並々ならぬ緊張感を纏った高校生たちが直立不動の姿勢でそれぞれの持ち場を守っている。これも妹のカリスマのなせる業か。
 兄は6号館の横を通り、8号館の中を抜けた。目指す途中で幾度も「この女性を見ませんでしたか」と律の人相書きを見せられた。

 まったく、周りの事を考えない妹め。周りを混乱させてどうする。帰ったら説教だな。兄はそう考えるとともに、妹の非凡なカリスマ性にあらためて空恐ろしいものを感じるのだった。

 大学というものは多くの場合いくつかの建物が敷地内に建設されている。そしてそれぞれの建物に1号館であったりA号館であったりと名前がつけられているものだ。棟などと呼ばれる場合もある。
 ここ、富倉大学では号館で名称は統一されており1号館から12号館まで存在する。そしてそれとは別に研究棟や事務棟、図書館、体育館などがある。

 兄は8号館から一番近い門を通り、一度大学の敷地から外へと出た。そしてぐるりと回り込むように敷地を囲むレンガ塀に沿って歩いていく。場所にして、5号館と6号館の間の外壁。ここに一つ扉がある。よく見なければ分からないような、周りと同系色の扉。ここを通れば、両館の隙間にある二畳ほどの空間へと繋がる。何よりも特殊なのは、他の場所からはそこへたどり着けないという点だろう。
 その空間は、かつて5号館と6号館を繋いでいた場所で、大学の耐震工事によるリフォームの際に取り残された空間であった。現在は別の渡り廊下で繋がってしまっているため、外から見えることもない。

「律、やはりここにいたか」
「お、来たか。飲むか? インスタントのコーヒーくらいしかないけどな」
「いただこう」

 ここは、かつて二人が偶然見つけた隠れ家のような場所であり、何か考え事があると、二人はよくここへ逃げ込んだものだった。

「私有地占拠みたいで気が引けるけどな。今でもたまに使わせてもらってんだ」

 カセットコンロの火をつけ、やかんで湯を沸かす。

「で、教授と何を話してたんだ?」
「まあ、色々と。落ち鮎は美味かったと言っていた」
「そうかい」

 やかんが鳴り出すまで、二人は黙ったままだった。甲高い音が鳴り始めるやかんを持ち上げて、紙コップに湯を注ぎながら兄は言った。

「しかし律よ。敷地外に逃げる手もあっただろうに。変な所で真面目なヤツだな」
「お仕事中だからな。一応」

 それが建前であることは兄にも見て取れたし、律自身がそれを一番よく分かっていた。

「そういうことにしておいてやろう。熱いから上を持てよ」

 兄はそういって紙コップを律に手渡す。

「そう言いながら自分は下の方を持つのな」

 ――なんだその不自然な優しさは。アンタは昔からそうなんだ。妹ちゃんのことにしてもそうだ。アンタが全部を被らなくたっていいじゃないか。

「面の皮だけではないんだぜ。厚いのは」
「うまくねえよ」

 律はパイプを銜えたまま、器用に一口すすった。

 ――アタシにも頼れよ。アンタが妹ちゃんを支えるんだったら、アンタの事は誰が支えるんだよ。そんなに強い人間じゃあねえだろう。知ってるんだよ。自分だけ格好つけてんじゃねえよ。

「このイモ野郎」
「そうとも、俺は類稀なる芋男だ。崇めたまえよ」
「るせえ。飲んだら行くぞ。アンタに捕まったことにしといてやるよ」

 ――本当は。

 ――本当は、ここに来てくれるんじゃないかと思った。勝手な妄想だ。それでも、そう思いたかった。妹ちゃんから兄妹で文化祭を見に行くとメールをもらって。昼に急なアナウンスで研究室から逃げることになって。真っ先に思いついたのがこの場所だ。
 アンタになら、捕まってもいい。ってか早く捕まえろよこの芋野郎。

「しかし妹がやたらと張り切っていた。あんな妹は久しく見ていなかったから愉快ではあるな」
「なら、妹ちゃんに捕まった方がいいか?」

 兄は飲み干した紙コップをことん、と置いた。

「いいや、妹にも譲れん。たまには俺も羽目を外すことにする」

 そう言って兄は律の手を取った。



   ○   ○   ○



 そこからの富倉祭は大混乱と言うより他はなかった。
 兄が律の手を引いて8号館近くの門から入るなり、見張りをしていた妹軍団の一人が「いたぞー!」と叫び、あちこちから高校生が湧いた。

 二人はそのまま8号館へと入り、上へと逃げる。

「追い詰めろ! 入り口は固めておけ!」

 おそろしくガタイのいい一人がそう命じて、数人を引き連れて8号館内へとなだれ込んだ。逃げる二人と追う軍団は館内を歩く人々をすり抜け、時にぶつかり、時に展示物を押し倒した。
 兄は空いている講義室へと律を連れ込み、すばやい仕草で鍵をかけた。

「おい、自分から袋小路に逃げ込んでどうすんだよ」
「相手が追い込んだと思ってくれているなら好都合」

 講義室の外ではリーダー格の男がどこかへ連絡したのか、増援が次から次へとやってくる。「ピッキング班はまだか!」と叫んでいるのを二人は聞いた。

「妹ちゃんがその気になったら犯罪集団の出来上がりだな」
「彼らは高校で何を学んでいるのだろうなあ。いやはや、多様な人材を持っていることにおそれいる」
「暢気に言ってる場合か」

 言いながら律が兄の方を見ると、兄は窓際でなにやらごそごそとやっていた。
 非常時用の避難装置である緊急梯子を展開していたようだ。

「うむ。さあ、行くぞ律」
「あーあ、もう、勝手に使って怒られるぞ」
「これは非常時に使ってこそのものだろう。今は非常時。何も問題はあるまい」
「アンタ、屁理屈って言葉知ってる?」
「屁理屈とて理屈のうちだ」

 これ以上の問答は無用と兄は律を抱え、そのまま器用に梯子を降り始めた。

「待て待て!アタシは自分で……」
「暴れると落ちるぞ。市場で買い込む芋袋よりは軽い軽い。しっかり捕まっていろ」

 律を抱え、するすると器用に梯子を降りる兄。下に着く頃にちょうど部屋の鍵開けが完了したらしく、上の窓から「いないぞ!」「窓から逃げた!」などと聞こえてきた。
 兄はなおも走る。しかしその方向はイベント本部とはてんで違う方向だった。

「どこ行くんだよ!」
「言ったろう。妹にも譲らんと。兄の威厳を見せてやらんとな」

 イベント本部から離れるように走ったかと思えば、建物の中へと消える。また別の入り口から出てきたかと思えば踵を返してあらぬ方向へと走る。
 妹軍の情報は混乱し、指揮系統は乱れに乱れていた。

 いかに妹が優秀であろうと、多様な人材を抱えていようとも、統率が取れていなければ軍として成り立たない。ただ獲物に集まるだけの烏合の衆であれば御するのはたやすい事だ。
 追うことに必死になり、各員連絡を取り合えるような状況ではなくなっていた。様々な情報が入り乱れ混乱する中、別の場所で指揮を取っていた妹は情報の断片をまとめながら兄が奔走しているのだと理解し、そして悔しそうに言った。

「お兄ちゃんめ……また私の邪魔をするのねっ!」

 らちがあかないと妹は走り出した。
 つまるところ、目指しているのはイベント本部である。そこで二人を止めれば良いのだ。

 そうしてもう一人、混乱の中で同じ事を考えていたのは小池兄だった。

 それぞれがイベント本部へと向かい、この妙な混乱騒ぎも最高潮からのクライマックスを迎える。



   ○   ○   ○



 息を切らせて走る兄と律は、ようやくイベント本部近くまで迫っていた。

 二人の後をついて走る妹軍団は四方八方から集まり、ついにイベント本部が見えてきたというところで速度を緩めた。本部前に彼らの総大将がいたからである。

 凛々しくたつその妹の姿に、軍団員は自然と跪き、こうべを垂れた。
 自然と、イベント本部のテント周りに人の壁ができる。その中心にいるのは手を繋いでいる兄と律。それを真剣に見つめる妹だった。
 イベント本部にいる大学生の面々はもう何がなにやら分からないと言った風にことの成り行きを見守るほかなかった。

「そこをどいてくれないか、妹よ」
「どかない」

 妹の胸中は複雑だった。もう自分でも何が正しくて何をしようとしているのか明確に説明できないでいた。

「お兄ちゃんは、ずるい」

 厳しい眼差しを向けたまま、妹は言う。

「全部一人でなんとかしようとする。仕事もやめちゃうし、色んな事を一人でこなしてた」
「そりゃお前、兄ちゃんは兄ちゃんだからな」
「守られてばっかりなのは嫌なの。私、そんなに頼りない?」

 睨み付けんばかりだった眼差しは、徐々に緩くなり、何かを必死で堪えているような顔になっていった。

「うちにはお父さんがいなくて。お母さんも死んじゃって。誰も助けてくれなくて……」
「いや、お前、それは」

 口を挟もうとした兄の手を、律が強く握る。兄を見て、ゆっくりと首を横に振った。しっかりと妹ちゃんの気持ちを聞いてやれこの芋が、と目で語っているのが分かった。

「ずっとお兄ちゃん頑張ってた。だから、恩返ししたいと思ったの。チケットで、二人で旅行に行って欲しいなって」

 イベント本部の何名かがうっすらと目に涙を浮かべている。

「でも、お兄ちゃんがおねえちゃんと一緒にいるって聞いて。お兄ちゃんに負けたくないって思った……。勝てば私もしっかりしてると思ってくれるんじゃないかなって。なのにやっぱり勝てなくて……」

 そこまで言うと、ついに妹の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。周りを取り囲む妹軍団も涙している。兄の手を握っていた律の手が離れた。

「ほれ、行ってやれ。兄の威厳とやらの見せ所だ」

 律が銜えたパイプを揺らしながら諭すように言い、兄の背中を叩く。
 さっきまでの壮大な捕物劇でもパイプを落とさなかったのかと妙なところに関心を持ちながらも、兄はゆっくりと妹に近寄った。

 そして妹に声をかけようとしたその時。
 イベント本部テントを取り囲む人壁の中から律に向かって飛び出す人影があった。

 それは妹軍団に紛れて、自らの勝機を坦々と狙っていた小池兄だった。
 彼は律の手を取り、兄に向かって叫んだ。

「お前も助教授を狙っているのか、そうはさせない! どうして皆して俺の恋路の邪魔をするんだ……。俺は助教授に惚れている! 二年前からずっとだ! 助教授は素敵な人だ。そうだろう、違うか!」

 そう言うと小池兄は恥ずかしげも臆面も無く自らが恋慕う九ノ宮律という女性の魅力を語ってみせた。論文を読む時の伏し目がちな姿の美しさ、魚を捌く時の真剣な眼差し。講義で語られるその豊富な経験。凛とした声、麗しい姿。両手の指でも足りないほどの褒めちぎりっぷりだった。
 その青春の暴走っぷりにイベント本部の面々は私的利用を許可したことを後悔し、高校生連中は追い詰められた人間の怖ろしさを教科書の外で初めて感じたという。

 あまりの熱にあてられ、涙もなにもかも乾いて引っ込んだ妹は隣の兄に言う。

「お兄ちゃん、あそこまでおねえちゃんの良い所言える?」
「悪いところなら同じくらい言えるぞ」
「聞こえてんぞ芋ニート、コラ」

 慌ててコホンと咳払いをした兄は、サスペンスドラマの犯人を諭すかのようにあえてゆっくりとした口調で尋ねた。

「あー、その、小池君、だったか。君はどうしてそんなにその半魚、いや、助教授が好きなんだ?」
「……あれは忘れもしない二年前の9月の事だ……」

 ゆっくりと、小池兄が語り始める。

「あの日、助教授は俺に手作りのスイートポテトをくれた。食った瞬間、体中を電気が走った。俺は思った! これが愛だ、これが運命だと! 分かるか、いや、分からんだろう。あれは、あの衝撃はッ!感じたものにしか分からんものだ!」

 周りを囲む人壁が、皆一様に納得したような顔で頷く。自分たちも妹に同じものを感じていると雰囲気で語っていた。

 おずおずと兄が問いを続ける。

「二年前、だと? その、それはあれか。ムラサキイモが練りこまれていなかったか」
「そうだ!淡いピンクのマーブル模様だった!」

 兄妹は全てを察した。それは兄がかつて作ったスイートポテトだったからだ。
 なんのことはない。元を正してしまえば全ては兄が元凶らしかった。

「アンタねえ。そんな昔のしょうもないこと憶えてたのか。ありゃアタシの手作りじゃねえよ。あれに感動したってんなら、ほれ。そこの冴えない男がアンタの運命のお相手だ」
「なっ!?」

 小池兄は硬直した。
 兄はおずおずと挙手し、妹は兄を指さす。

「ど、どうも生産者です」

 人間は真に驚いたとき、まったく何も出来なくなる。そして自らの生き様の土台が崩れ落ちていく中で、小池学生の顔はみるみるしわくちゃになっていった。

 小池学生は泣いた。男泣きに泣いた。

「俺は、今まで男の作ったイモ菓子に心奪われていたのか」
「そんなに美味かったか?」
「……あれを毎日食えるなら、俺は助教授を守るために世界を敵に回してもいい覚悟でした……」
「まあ、市販のヤツよかうまいなー、くらいには思ったけどな」

 ずるりと崩れ落ちた小池学生は地面にうずくまって咽び泣いた。その見事な泣きっぷりを見て、イベント本部の一人がテントから歩み寄り、「すまん、これは返すよ」とそっとテーマパークのチケットを手に持たせた。
 周囲が言葉を失う中、小池兄の嗚咽だけが聞こえていた。困ったような顔をしながら律がようやく口を開く。

「あー、なんだか良く分からんがアタシゃ研究室に帰っていいか?」
「いいや、許さん!」

 次に声を張り上げたのは、芋をこよなく愛する兄その人だった。

「はぁ?」
「お、お兄ちゃん?」

 怒気を孕んだ声に周りの面々がたじろぐ。

「律よ! さっき何と言った!」
「あ? だから研究室に帰っていいかって」
「その前だ!」
「冴えない男って言ったの怒ったか? 悪い」
「その少し後だ! 俺が冴えないのはこの際認めてやる!」
「認めるのかよ。なんだよ面倒だな。どこが気に食わなかったんだよ」
「俺の芋が市販品より上かなー、程度だと!?」
「そこかよ」

 唖然とした律は銜えていた禁煙用のパイプを落としそうになり、慌てて指を口元に運んだがふと周りを見回して「そういや、妹ちゃんがいるな」と瞬時に考えを巡らせた。妹ちゃんに兄貴の本音を聞かせるいい機会かも知れない。
 そして、律はパイプをゆっくりと外した。

 これで、目の前に相対する兄は嘘がつけず、本音をこぼすはずだ。指で挟んだパイプを兄に向けて律は言う。

「じゃあ、もっと食わせろよ。アタシを唸らせることが出来たら評価を改めてやるよ」
「どこまでも傲慢な半魚人め! いいだろう、毎日料理を作ってやろう」
「そりゃあれか、弁当でも届けてくれんのか?」

 兄は首を横に振り、大きく息を吸い込んで、そしてゆっくりと吐き出した。

「にぶいヤツめ。結婚してくれと言っているのだ!」

 あまりにも。あまりにも唐突なその言動に周りが目を丸くする。律も同じように驚いたが、この場で取り乱してしまうことは助教授としてのプライドが許さなかった。意識して口の端を上げて言葉を継いだ。

「い、言ったな?アタシゃ面倒な女だぞ?」
「知っている。知っているとも。悪いところを挙げれば両手の指では足りないくらいだ。しかし、良いところを挙げれば足の指を加えても足りん」
「アンタも物好きなこった」
「好きだから好きなのだ。文句はあるか」
「文句あったらどうなんだよ」
「却下するに決まっているだろう」

 指に挟んでいたパイプを銜えなおし、律はくるりと兄に背中を向け、下を向いて歩き出した。

「そういうことなら、ま、仕方ないね。末永くよろしく頼むよ」

 ひらひらと手を振って場を去っていく律を、ハッと我に返った兄はぽかんとした顔で見送った。隣では、妹が再び涙で頬を濡らしている。

「おめでとう、お兄ちゃん」
「……今、何が起こった。俺は何か言ったか、妹よ」
「大丈夫、夢じゃないんだから。おねえちゃんが本当のおねえちゃんになってくれるって!」

 にわかに沸き立つ群衆。飛び交う歓声。イベント本部の面々も慌ててマイクで放送を流しだした。

 ――ターゲット捕獲! ついにターゲット捕獲! まさかまさかの大団円ッ! ゲリラ借り物競争にて一組の夫婦が誕生! 豪華賞品はまさかのお嫁さんでしたぁ! お幸せに! お幸せに!

 やまぬ歓声の中、混乱する兄は何も言えずにいたが周囲はそれを肯定的に捉え、自分たちが人生の貴重なワンショットに立ち会えた興奮も混ざって騒ぎはしばらく続いたのだった。

 そして地面に伏せて泣き崩れていた小池兄だけが。皆がそろって兄妹を見つめる中、彼だけが去り際の律の顔を見あげる形でのぞき見ることができた。
 律が浮かべていた、幸せをしっかりと貼り付けた乙女のような笑顔を見て。彼は完全なる敗北を察し、彼の人生においてスイートポテトという言葉は禁句となった。

 さらに泣き面に蜂とはよく言ったもので、小池兄は文化祭の後始末にと同じ研究室の面々に打ち上げにかかった飲食の金を要求され、律からは勝手に人をターゲットにした罰としてペアチケットで教授と二人きりでテーマパークに行って来い、助教授と教授とでは一文字しか変わらんだろうが。と凄まれた。ちなみに教授は割と乗り気だった。
 小池兄は「一文字違いで大違いだ!性別まで違う!」と泣いた。
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