芋と魚介類はかく語りき

三衣 千月

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四、試される大地、試される兄

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 季節は冬になっていた。
 その年は例年より早く木枯らしが吹き荒び、テレビの気象予報では厚着を推奨するキャスターの声が流れている。師走の風は冷たく、今年も気が付けば年の瀬であった。
 兄はじゃがバターを食べながらコタツに潜り込み、妹の淹れたほうじ茶をすすっていた。あの学園祭の日以来、律は家に来ていない。

「おねえちゃん、元気かなあ。あ、お義姉さんの方がいい?」
「あれは事故だ」

 ふてくされる兄に、妹は嬉しそうに自らの携帯電話を見せる。そこには朗々と愛の言葉を述べる兄の姿がしっかりと記録されていた。画面の端には泣き崩れる小池兄の姿も見える。

「小池君が録画しててくれたんだー」
「……随分と有能な忍びの者じゃないかチクショウ」

 しかしながら、兄にはその記憶がないのだ。酒を飲みすぎて記憶をなくすというのならば分かる。しかし兄は一滴すらアルコールを摂取していなかった。飲食したといえば教授とタケノコイモを食って茶を飲んだくらいである。
 思えば以前からおかしいと思うときはあった。まるで記憶が一部分だけ抜け落ちてしまうような感覚。記憶に完全なものなどないが、それにしても妙だ。考え込んだ果てに、兄は確かめる以外あるまいと考えた。

「妹よ。兄ちゃん、ちょっと出かけてくる」
「どこ行くの?結婚情報誌なら私が買っておいたよ?」
「気が早い小姑め。違う、そうじゃない」
「それじゃあ、なに?」

 思い立ったが吉日、迅速に行動すべし。

「北海道に行ってくる」

 そこは律が数週間前に向かった先であった。北の幸を食べてくると言い残して、律は兄妹の目の前から消えたのだ。フィールドワークと称してはいたが、単に季節の美味い物が食いたかっただけに違いない。
 ええい、似なくていいところまで教授に似ているやつめ。そう心の中で悪態をつき、兄はダウンジャケットを取りに部屋へと戻った。
 妹がとてとてと後ろを付いてきて言う。

「またお兄ちゃんだけ会いにいくの? ずるい! 私も行く!」
「お前は学校があるだろう。試験も近いし」
「小池君に身代わりの術を使ってもらえば……」
「彼ならやりかねんがやめてさしあげろ」

 妹は残念そうに口を尖らせた。兄は連れていけない代わりに土産をきっと用意すると約束して家を出た。見送る妹は手を振りながら有名な土産の名前を片っ端からあげつらっていた。



   ○   ○   ○



 兄は飛行機を乗り継ぎ、北海道南部の奥尻島にある奥尻空港へと降り立った。
 奥尻空港は函館空港から日に数便のみ運行している地方空港であり、フェリーと並んで奥尻島と北海道本土をつなぐ貴重な交通手段である。
 地図で見る限り、北海道の面積からすれば離島ともいうべき小さな島に見えるが、面積はそれなりに広い。おおまかにだが、車でドライブすれば一周約4時間ほどの島である。

 なんだってこんな辺鄙なところに来たのだあいつはと心の中で悪態をつきながら空港を出ると、なんとものどかな風景が広がっていた。見渡す限り平原である。人家も、建物も、ない。
 うむ。と一つ頷いて空港に戻り、兄はロビーで飲み物を買った。

「これは勢いに任せすぎたか?」

 試される大地の物言わぬ雄大な試練を前に兄は自らの矮小さを悟った。
 よくよく考えてみればなぜ自分は北海道まできたのだろう。なぜ離島の小さな空港にいるのだろう。携帯電話を取り出して律とのやりとりを読み返す。
 それは業務連絡めいた単語のやりとりであり、最後の通信は昨晩の「奥尻島に行く」というものだった。

「いや、俺はどうやら律に毎日芋を食わせると言ったらしい。ならばあればこれは契約を守らせに来ただけだ、そうとも」

 自らの行動の理由を暫定的に定めることで兄はいくらか落ち着いた。

「しかし北海道といえばじゃがいもの聖地であるというのに……。このような離島ではキタアカリもコナユキもインカの目覚めも望めん」

 一つため息をついてから再び空港を出てタクシーに乗った兄は、そこで再び試練を受けた。道南地方特有の方言に苦戦したのである。なんとか標準語で話をしてくれようと相手も努力していたが、一つのことがらを伝えるのに非常に時間を要した。

 兄はしどろもどろになりながらも「魚介類好きの半魚人のような女性が行きそうなところはどこか」と尋ね、島の南部にある港へと向かった。
 しかしながらそこでは対した収穫が無く、というかむしろ人がおらず、ただ人気のない港から眺める北の海に向かって兄は「ああ、津軽海峡冬景色」と呟いた。

 自棄になった兄はタクシーの運転手に対して美味いものが食えるところへ連れて行ってくれと頼んだ。
 律にメールでもすればよかったのかも知れないが、それをしなかったのは兄のちっぽけなプライドによるところが大きかった。
 北の大地に試されても、兄は自らの矮小な自尊心だけは守り切ったのだ。

 そして結論から言ってしまえば、律は見つからなかった。島の東部にあるフェリー乗り場でおこなった聞き込み作業の際に、律と思しき女性がこの島に来たと言う証言が得られたがそれきりだった。

 各地食堂で海鮮丼やほっけのしゃぶしゃぶなどを食べ、腹は膨れた。この頃にはタクシーの運転手ともある程度意気投合し、次はどこへ行くだの、あれが美味いだのを方言交じりで語ってくれていた。

「おめ、宿は決めあんか?」
「いいえ、どこかお勧めの民宿はありますか」
「うじさこ。そすが」

 兄は一瞬考えた後、この数時間でなんとなく覚えた単語を繋ぎ合わせて意味を考えた。どうやら、家に来いと言っているようだ。
 申し出は有難いがと告げようとする前に、運転手が言葉を続ける。

「三平っこまぐらえ。うじなあ、なまらめえぞ」
「ならば是非」

 意味はあまりわからなかったが、美味いものを食わせてくれるようだという気持ちは理解した。ならば厚意を無下にするわけにもいかない。
 快く返事をすると、運転手はにっかと笑って携帯電話でどこかへ電話をしはじめた。これまでに輪をかけて難解な言葉遣いであったので、どうやらかなり気を遣って話をしてくれていたと分かった。
 運転手の妻がこの地方の郷土料理を作ってくれるという。ここまでうまいもの尽くしならば、もう今日の所は律が見当たらなくともよいかも知れんと兄は考えた。



   ○   ○   ○



 日も暮れ、連れてこられたのは民宿だった。
 タクシーの運転手の家は民宿だったのかと驚き、案内されるがままに部屋に荷物を置いた。運転手の妻であるという人は民宿を経営しているだけあって言葉が標準語に近く、兄はようやく自分の知っている世界に帰ってきたような気になった。

「お夕食ば下の食堂へどうぞ。でげん今日は三平汁くらいですけ」
「三平汁……?」

 聞いたところ、それはニシンの塩漬けと野菜から作る汁菜であり、ここ奥尻町が発祥の地とされる郷土料理であった。現在ではタラやホッケなども身として使うことが多いと言う。なるほど律はこれを食いに来たのだなと兄は思った。

 小さい民宿であったため、食堂とは言っても一般家庭のダイニングのようなもので、まるで個人の家に泊まりに来ているような感覚であった。
 俺も家庭を持てばこのように暖かい食卓を囲むことになるのだろうか。いや、別に律と夫婦になることが嫌な訳ではない。しかし、自分の知らぬところで事が動いているような気がしてどうにも落ち着かないのというのが兄の本音である。

 そんなことを考えていたせいか、ダイニングに置かれていたテーブルに、律によく似た人影が見えたような気がした。民宿なのだから他の宿泊客も当然いるだろう。同じ卓を見知らぬ人と囲むのもまた旅の醍醐味である。袖触れ合うも他生の縁というやつだ。

 しかしどうにも目の前の宿泊客は律に似ている。
 相手もこちらを見て微動だにしない。お互いに知人に似ているとでも思っているのだろうか。

 いやしかし、ここまで似ている他人が存在するのだろうか。世の中には3人は自分と同じ姿をした人間がいると言うが、それはあくまでも見た目だけに限った話であって、たとえ似ていたとしても禁煙パイプを銜えているところまでは似ないだろう。

 するとこれは、率直に考えるにあたれば、一般的にいう所の、とどのつまりは、律ではないのか。むしろ律ではなかろうか。いやどうみても律だ。律本人だ。

「……律」

 兄が呆けた声でそう言うのと、律の顔がみるみる赤くなって思いっきりそっぽを向くのが同時であった。

 そして律は何一つ無駄のない動作で立ち上がり、脱兎のごとく走り出した。
 何事かとこちらを覗いた宿の主人はすぐさま兄に向かって言った。

「ぼっかけるが! おどごば、おなごぼっかけるもんぜ」

 日中、共に行動をした仲である。言葉は通じなくとも、兄には理解できた。

「いってきます! すぐに戻ります!」

 兄は走った。なんの因果か、ここで律に会えたのだ。今を逃してはいけない気がする。そう、兄の直感が告げていた。



   ○   ○   ○



 律に追いついたのは、すぐだった。
 海の見える道路沿いの街灯の下で、兄は律の手を掴む。

「待て待て! 何でアンタがここにいる!?」
「待てはこっちのセリフだ。なぜ逃げる」

 律はつないだ手を振りほどこうとしたが、兄は離すまいとしっかり掴んでいた。ひとしきり試した挙句あきらめたのか、律が大人しくなった。それを感じて、兄も掴む力を緩めた。
 そして律が口からパイプを外そうとするのを見るやいなや、もう片方の手でそれを制した。

「そのパイプ、やはり何かあるな?」

 兄は朝からずっと考えていた。律がパイプを使うようになったのは数年前からだ。つまり、自分たち兄妹が母を亡くした頃だ。兄妹が芋に念を込められるようになったのもその頃からである。この符号の一致と、律がパイプを外すのを見た後に記憶の欠如が起こることに思い至り、兄は事実を確認するためにここまで来たのだ。

 律はびくりと一つ身を震わせたかと思うと、観念したように口元にやっていた手を卸した。もはや抵抗も逃亡もしないと踏んだ兄は静かに律から手を離す。

「いつ気づいた?」
「確信を得たのはたった今だ。富倉祭の一件でおかしいとは思っていた」
「分かった。全部話す」

 律は自らの持つ特殊な能力のことについて話をした。別にパイプでなくとも何かを銜えていれば良いということ。会話した相手との間にだけ記憶を失くす効力が発揮されること。そしてどこか安心したような顔をして、能力を知った相手には効果がなくなることを告げた。

 街道沿いに広がる真っ暗な海を横目に見ながら、兄はもう一度、今度は静かに律の手をとった。

「では、俺にはもう効果はないわけか。俺の本心はすでに知っているのだな」
「呆れるほど聞いたさ。アンタが妹ちゃんをどれだけ大事に思ってるかも知ってる。でも、アンタだけが背負い込まなくたっていいじゃないか」
「それも富倉祭の時に分かったことだ。妹は妹なりに考えていたのだな」
「気づいてなかったのはアンタだけだこの芋兄貴が」

 そこで小さく咳ばらいをして、兄はまっすぐに律の目を見た。律の唇に手をのばし、銜えていたパイプをそっと外す。

「律。俺は芋を愛する男だ」
「ああ、知ってる」
「芋を愛するがあまりところかまわず芋への愛を語る変態だ」
「それも知ってる」
「そんな男でもいいなら、俺と結婚してくれ」
「ダメだと言っても却下するんだろうが」
「当たり前だ。俺は律を愛しているのだから」
「なら幸せにしろこの芋野郎」

 街灯の灯りの元、二人はそっと唇を重ねた。



   ○   ○   ○



 宿に戻った二人は郷土料理を食べ、酒を飲み、民宿の夫妻と大いに楽しい夜を過ごした。特に主人は兄に向かって何度も繰り返し「わのわげ頃みてっけさ」と肩をたたいていた。
 
 翌日、タクシーで二人は空港に送ってもらい、去り際に主人は「したっけ、まだご」と握手してくれた。兄はその手を力強く握り返し「必ず」と返した。

 ロビーで飛行機の搭乗手続きを済ませ、時間まで二人はロビーで缶コーヒーを飲んでいた。

「アンタ、いつ方言なんか勉強したんだ」
「男と男は心で通じるものだ。また来いと言っていた。なんだ、嫉妬したか?」
「まさか。変態ぶりが上がったなあと思っただけさ」

 兄は笑みを浮かべながら缶コーヒーを一口飲んだ。そして思い出したように律がパイプをしていない事に気が付いた。昨日の話からすれば、確かに二人でいる間は律にはもう必要のないものだ。あえてそれを話題にするものでもあるまいと兄は別の話題を持ち出した。

「そういえば、なぜ昨日は逃げたのだ」
「あん?恥ずかしかったからに決まってんだろうが。いいか?アタシは何度もアンタの本音を聞いてたんだ。ここまではいいか?」
「素晴らしく人権侵害だが不問にしよう」
「おう、でな? いつもいつも結婚はまだだって言われてた訳よ」
「お前、そんなことを俺に聞いていたのか」
「うるさい。で、あの文化祭の日は妹ちゃんがいたろ? アンタの本音を聞いてもらおうかと思ったんだアタシゃ」
「なるほど。繋がった。どのみち結婚を先送りされるとタカを括っていたものの、思わぬプロポーズに逆に恥ずかしくなったのだな。それでしばらく家にも来なかったのか」

 兄が事情を察すると、律は顔を赤くして俯いていた。

「詳細に言うんじゃねえよバカ」
「はっは、律にも可愛い所があるものだ」

 そして兄は追撃の手を緩めなかった。隠していたと思っていた自分の本心があずかり知らぬところでとっくに相手に知られていた挙句、肝心のプロポーズすら記憶に残っていないとなれば嫌味の一つや二つは言いたくなるものだ。

「小池学生はお前の魅力を滔々と語っていたなあ。しかし俺ならばあの数倍は言えるだろう」
「言えるもんなら言ってみろこの芋」

 兄は飛行機に乗って函館空港に着くまで、本当に律の魅力をとめどなく話し続けた。しまいには律が「分かった、アタシが悪かったよぉ」と羞恥やら何やらで紅潮した頬を手で覆いながら懇願した。兄は「分かればいいのだ」と満足げであった。

 函館空港から本州を目指す飛行機には乗らず、二人はそのまま札幌へと向かった。律を連れて帰ると連絡した兄が、妹から激しく責め立てられたためである。妹いわく、自分にも幸せのおすそわけが欲しい。幸せを感じられるものを持ってこい、具体的には札幌の時計塔の前で二人並んで写真を撮ってこい。とのことだった。

「家の主導権って、完全に妹ちゃんにあるんじゃねえ?」
「今頃気が付いたのか。あれは手ごわい小姑になるぞ。覚悟しておけよ」
「いや、アンタの立ち位置が低いだけだろ」

 札幌に向かった二人は札幌時計塔の前で写真を撮った。平日ということもあって人は多くなかったが、時計塔内の資料館には二人とも立ち寄ろうとはしなかった。兄は芋を愛し、律は魚介類を愛するからである。時計には残念ながら興味を示さなかったのだ。

 形だけでも観光しておくかと二人はそのまま札幌大通公園に赴いた。特に何もイベントらしきものは無かったが、屋台に売られているじゃがバターとイカ焼きを二人はそれぞれ食べた。

「なあ、そういえばさ」

 律が兄の食べているじゃがバターを見ながら言う。

「それ、今アタシが貰ったら惚れ薬になるのか?」
「そうか、こっちの能力も知っていたのか。情報の出どころは……まあ、妹か。結論から言おう。これは惚れ薬にはならん」

 兄は、作った芋料理にしか効果が及ばないことを語った。調理の行程が多ければ多いほど効果は高い。皮を剥く程度から多少は効果が得られることも伝えた。

「しかし、もう律には効果はあるまい」
「そうなのか?」

「家族には効果はない。正確には、家族と認識した相手には、だな。でなければ妹にも効いているはずだろう?」
「ああ、確かに。じゃあアタシに効果はない、と」
「うむ。安心して俺の芋料理を食べるがいい」
「ま、アタシゃ自力でアンタを好きになった訳だし。今更、惚れ薬の一つや二つで変わらんけどな」
「俺も惚れ薬の力などなくとも振り向かせられた」
「言ってろ、芋ニート」
「なんだと半魚人めが」

 二人は軽口を言い合いながら笑いあった。決して悪意があるわけではなく、これが二人の距離感なのである。それはこれから先も変わることはないだろう。
 兄と律はそのまま札幌で美味いものを食べ、帆立や鮭、棒鱈、芋、銘菓類などを買い込んで翌日に連れだって家へと帰ったのだった。
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