芋と魚介類はかく語りき

三衣 千月

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二、九ノ宮 律という女性

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 世の中には、二種類の人間がいる。
 魚介類を食う人間と、食わない人間だ。そして前者は正義であり、後者は最も唾棄すべき悪である。

 そう公言して憚らないのが、九ノ宮くのみやりつという女性である。

 すらりと長い手足。肩口で短く揃えられた頭髪。切れ長で二重の目は、周囲に鋭いイメージを持たせるがイメージだけではなく彼女は実際に気が強く、いつも加えている禁煙用のプラスチックパイプも相まってキツイ女性だと周囲からは認識されていた。

 彼女は大学で助教授として働いている。研究室に調理場が併設されている独特なゼミであり、食民俗学という民俗文化の中でも食を専門的に扱う分野であった。

 彼女は職場に来るなり調理場に入り、持っていたクーラーボックスを開けた。
 中には今しがた手に入れてきたばかりの鰹が横たわっている。秋のこの時期の戻り鰹は身に脂がのっている旬の魚である。ざらりと氷をかき分けてそれを手に取ったところで、学生がやかんで湯を沸かしていたことに気がついた。

「なんだ、いたのか」
「あ、九ノ宮助教授。おはようございます」
「オハヨ。早いねアンタも。鰹、捌きたいんだけど、いい?」

 早朝から魚河岸に行って手に入れてきたそれは新鮮そのものであり、彼女は一刻も早くそれを食したいと考えていた。そして早朝であるが故に、まさか研究室に人がいるとは思っていなかったのだ。彼女の専攻は魚介類であり、時間さえあればフィールドワークと称して各地の食材を集めてくる。

 学生が慌てて調理場のスペースを空ける。

「俺は夜勤バイト明けなんすよ。帰ったら起きられないと思って。そういえば、教授はどこ行ったんでしょう?」

 教授も、気ままにフィールドワークに出かける人間である。思いついた時に、思いついたように行動する。数年前には諸外国を周っていたこともあるらしいが、最近では海外への食材探訪は控えているらしい。流石に大学事務の人たちに怒られたのではないかと律は思っている。

「ん。確か岐阜に行くって言ってたね。この時期だと鮎だよきっと」
 
 沸かした湯をカップ麺に注ぎながら質問した学生は、律の言葉を聞いて不思議そうな顔をした。

「鮎、ですか? 秋なのに? 鮎って初夏が旬の魚だと思うんすけど」
「落ち鮎ってヤツだね。詳しくは自分で調べな。ほら、どいてどいて。アンタも捌かれたいの?」
「あ、すんません」

 慌てて学生は調理場を後にした。
 ちなみに落ち鮎とは晩夏から秋にかけてとれる鮎のことである。鮎の習性の一つとして、成体の鮎は秋風のふく頃に川下へと下り、そこで産卵を行うことが挙げられる。そして生まれた稚魚は川上を目指して上っていくのだ。落ち鮎の魅力はなんといってもその成熟したうま味であり、夏の鮎に代表されるような爽やかな味わいとはまた一風違ったものがある。

 鰹を捌きながら、律はふらりと出かけた教授を思い出す。
 まるで近所へ買い物へでも出るかのように「下呂に行ってくるよ」と着の身着のままで出かけて行ったその姿は決して教授という肩書にはふさわしくない見事な風来坊っぷりだった。

「ま、教授らしいけどね。アタシには関係ないか」

 いや、助教授と名がついている以上はじゅうぶんに関係があるはずだ。事実、教授が担当している講義はどうなるのだ。隣の研究室で麺をすすりながら律の不穏な呟きを聞いた先ほどの学生は戦慄した。

 律は捌いた鰹をさらに三枚におろし、各部ごとにてきぱきと調理を始めた。
 中骨や頭の部分はあら煮に、上身は刺身に。下身は炙ってたたきに。

「九ノ宮助教授、その、今日の講義は……」

 調理が終わるのを見計らって、先ほどの学生が控えめに声をかける。

「あぁん?」
「なんでわざわざ包丁持って振り向くんです!?」

 先にも述べたが、彼女の風貌はキツめという表現がしっくりくる。さらにその上で半眼になり、調理に使った出刃包丁がぎらりと光る様子を見せられては、たいていの者ならば身の危険を即座に感じ取ることだろう。さらに彼女はいかなる時でも禁煙用のパイプを口から外すことがないと周囲には知られているので、それも相まって威圧感はさらに大きなものへとなっている。

「アンタがやっといて。って訳にもいかないか。修士課程だもんね、アンタ確か。休講でいいよ。事務への連絡はやっとく」
「代わりに助教授がやるってのは……」

 おずおずとそう申し出る学生に対して、律は振り返らずに無言で包丁をきらめかせた。

「あ、はい、休講っすね、はい」

 彼は残念そうな顔をしながら、慌てて研究室を後にした。

 律の講義は学部の学生連中になかなかの人気である。教授の持つ深い知識に裏付けされた話も大変好評なのだが、律の講義は実際に自分の目で見て、その身で触れた体験を語ることが多い。大学の事務からはもっと講義の本題に沿うものにしてくれと小言が出るが、律はどこ吹く風で気ままに話したいことを話し、語りたいことを語る。

 作った料理を持ち運び用の器に入れて、律は研究室を後にした。
 彼女が向かう先は、芋をこよなく愛する、ある男の住む家だった。



   ○   ○   ○



 家の玄関の鍵は閉まっていた。しかし、家の主が留守にしていることなどない。ありえない。そう確信している律は鍵を取り出し、勢いよく扉を開け放って家の中へと入っていく。

「おらー、アタシが来たぞー。もてなせー」
「無作法にも程がある。おしとやかに出直してくれ」

 家の主、芋を愛するその男は台所で料理をしていた。

「なんだよ、せっかくアタシが来たんだぞ? 聡明で見目麗しい半分魚介類とやらのアタシが」

 律はジト目で男を睨んだ。妹からの連絡は滞りなく行われていたらしい。しかも、男が伏せて欲しかった内容まで詳細に伝わってしまっているようだった。

「……ようこそ、九ノ宮さん。お昼はまだかい? よかったら食べていくといい」
「アンタのその高速の手のひら返し、いつ見ても面白いわ」
「るせえ。で、今日は何を持ってきたんだ?」
「鰹。妹ちゃんに食わせてやってよ。アンタも食べていいけどさ」

 二人は軽口を言い合いながら昼食の準備をした。
 時々、律はこうして芋男の家を訪ねる。二人は幼馴染であり、幼い頃からずっとこうして気の置けない付き合いを続けている。

 芋男から言わせれば、彼女は魚介類で出来ている半魚人であり、また律から言わせれば男は他の追随を許さない芋野郎なのだそうだ。
 恋人かと言われればそうでもなく、他人かと言われるとそうでもない。ではなんだと問われれば、二人は考え込んだ末に近所に住む親戚のようなものだと答える。もちろん血縁関係ではないので、彼らなりの距離感の表し方なのだろう。

 出来上がった昼食を食べる段になって、ようやく律は銜えていたパイプを外した。
 男はその仕草をちらりと見てから律の目の前に皿を並べていった。

「刺身が新鮮で美味そうだ。さすが律だな。あら煮は夜まで寝かせておく」
「アタシの目利きを甘く見るんじゃないよ。たたきも夜か?」
「なんだ、今食べたかったか?」
「おう、出せ出せ。炙りがうまくいったから美味いぞきっと。にんにくは?」
「ある。なんなら土佐流でいくか?」
「やだよ、丸かじりなんざ。すりおろしてくれ。芋ニートと違ってアタシは昼からも仕事なんだよ」
「はいよ」

 男は職を持っていない。しかし家計に苦しんでいる訳でもない。贅沢などはしない男だが、食へのこだわり、特に芋に対してだけは情熱を余すところ無くつぎ込む。それゆえに、でんぷん質の過剰摂取が心配されるこの家の食卓に不足しがちな食材、および栄養源を届けるのが律の役目だった。

 その他にも律の狙いはあるのだが、今のところその企みが達成される気配はない。
 台所でにんにくをすりおろして戻ってきた男に対して、律は言った。

「なあ。芋ニート。いつになったら結婚してくれるんだ?」
「そうだな。やっぱり妹が心配でなあ」
「一緒に暮らせばいいだろうに。アタシは気にしないぞ? 本当の家族のようなもんだし」
「そうなんだがな。なんていうか、責任みたいなものがあってな」
「責任、ねえ」
「妹が独り立ちできるようになるまでは、俺が家を預かる。それまでは待ってくれないか」
「まったく……頑固モンの芋野郎が。いいよいいよ、いつまででも待ってやるよ」

 律はわざとらしくため息をついた。
 自分の事だけじゃなくて妹ちゃんの気持ちも少しは考慮に入れてみろこの芋兄貴が、と内心思いはしたものの言っても無駄なことはようく分かっていたので、それ以上は何も言わなかった。



   ○   ○   ○



 昼食を食べ終えて律は大学の研究室へと戻った。
 今朝、研究室にいた学生が同じようにカップ麺を手に持って出迎える。

「おかえんなさいっす。論文、見て欲しいんすけどよろしいスか」
「アンタ、またカップ麺? 仮にも食民俗研究室の一員でしょうが」
「これが俺の研究テーマなんで。カップ麺は21世紀の民俗食っすよ」

 食民俗。数ある民俗文化の中でもとりわけ食に関する部分だけを専門的に扱うこの研究室は、大学の中でもかなり異端とされる場所である。
 傍目から見れば、ただただ好き勝手に食べているようにしか見えず、大学の金でうまいもんを食うだけの金食い部門と揶揄されることもある。それでもこの研究室がつぶれないのは、やはり教授の力に依る所が大きいのだろう。
 東へ山菜を取りに出たかと思えば新種の植物を発見してみたり、西へ海の幸を求めていけば奇妙な土器を砂浜から堀り出す。またあるときには白米に合う調味料を自らの手で作ろうと試行錯誤している時に偶然に未知の化学物質が出来上がる。
 そして教授はそれらの偉大な成果を惜しみなくそれぞれの専門分野へと渡してしまうのだった。

 そうして教授はけろりと「だって君、名誉は煮ても焼いても食えんじゃないか」と言ってのけるである。
 教授からして変わっているのだから、助教授以下、研究生たちが一風変わっているのもまた当然なのだ。

「そうだ、助教授。後で外に行きませんか。美味い大福の店見つけたんすよ」

 学生が言う。律はパイプをくわえたまま手をひらひらと振った。

「悪いね。飲み食いは一人でするって決めてんだ。それにアンタ夜勤明けだって朝に言ってたろ。寝ろ寝ろ寝てろ」

 律は他人の前で決して飲食をしない。
 それは研究室にいる人間誰もが知っていることだが、常にカップ麺を食する1人の学生だけは懲りずにあれこれと誘いをかけてくるのだった。助教授に熱を上げるこの学生、名を小池こいけと言う。

「今回もダメかあ。甘いものならイケるかと思ったのに」
「アンタも諦めが悪いね。ま、その根性は大切だ。大事にしな」
「諦めなければ叶うってことすね」
「さあね。さ、論文は? 今はそれなりに時間があるから見られるよ」

 小池学生が落ち込んだ様子で論文を渡し、律は禁煙用パイプを銜えながらそれを読んだ。

 読む間、暇だったのだろう。小池学生が律に問う。

「そういえば助教授。タバコはお嫌いなんですよね?」
「ああ、舌が鈍るからね」
「昔、吸ってた訳では?」
「いんや、まったく」

 どうやらタバコをやめるために禁煙パイプを銜えている訳ではないらしい。では一体何のためだろう。「じゃあそのパイプは」と口を開きかけた所で、律が先手を打つ。

「いい女の条件って知ってるか?」
「はい? ……や、見当もつかないっす」
「秘密を持つことさ。いい女には、秘密の一つや二つあるもんだ」
「そんなもんすか」
「ああ。そしていい男の条件はね、それを詮索しないことさ」

 そう言って、銜えたままのパイプをゆらゆらと揺らした。
 小池学生はバツが悪そうにそっぽを向いて座り直し、律が論文を読み終わるのを待つ間にバイトの疲れもあってか眠りに落ちた。彼が目を覚ました時には日はとっくに沈んでおり、机の上には「考証材料不足。足で稼げ」と付箋の貼られた論文が置かれていたのだった。
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