群青の緋

竜田彦十郎

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或いは夢のようなはじまり

09 マンションを後にし…

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「……帰っちゃったなぁ」

 一人きりになった部屋で香月は溜息をついた。

 基本、直樹は紳士的であろうとする。
 歳相応に下心ある反応を見せる事も多々あるが、それでもどこかで一線を引いているのは感じられた。それがたとえ気心の知れた香月相手であろうとも。
 時折、香月の身を襲う発作・・さえ無ければ、今夜のように夕食を済ませると同時に帰宅というのが常であるのだ。

「たまには、少しぐらい強引でもいいのにね」

 一人になった安心感からか、つい本音を漏らしてしまう。
 幼馴染みという下地があったにせよ、好意以上のものを抱いている自身に気付いたのは何年前の事だったろうか。

 直樹に恋心を抱く女子が、何人もいる事は知っている。その中には香月の友人もいた。
 最後に相手を選ぶのは直樹自身だからと、物分りの良さそうな態度を取ってきたものの、直樹の心が自分から離れていってしまう未来を考えると少なからず恐怖はある。
 今だってそうだ。こんな暗くなる時間にまで一緒に居てくれているかと思えば、帰る時はなんともあっさりしたものだ。
 まさか、保護対象……単なる妹として認識されているのではあるまいか。

「い……いやいやいやいやっ!」

 今朝だって、香月の脚と下着に欲情する気配を見せていた。妹相手にそれはないだろう。

「…うん、たしかに愛してるって言ってくれた。ずっと一緒にいるって……」

 頭を抱えて唸りながら、底の方に沈んでしまっている記憶を掘り起こしてみたりもした。
 しかし、それはいつの話だったろうか。それを思い出そうとしてさらに唸り声が重くなる。つまり、すぐに思い出せない程に過去の出来事なのだ。
 頭を抱えたまま床を転がり、壁にぶつかるようにしてやっと静止する。

「…やれやれ。こればっかりはねぇ」

 もっと自分に素直になれれば良いのに。
 雪乃達からも幾度となく言われている事を自身に問い掛けてみるも、出てくる答えはいつもと変わる事はない。
 カーペットに盛大な溜息を吹きかけ、数秒の後にがばと起き上がる。

「ええい! うじうじ考えたって何も変わらないんだから。明日明日っ!」

 誰に聞かせるでもない言葉を吐き出し、香月は寝室に足を向けた。
 一晩寝れば気分も変わる。宿題をやったかどうかも、明日にまた考えれば良い。

  ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 そうして香月が悶々と転がっていた数分後、直樹はようやくマンションのエントランスを抜けたところだった。
 香月が普段は口にする事のない不満を漏らしていたとは想像すらしていなかったように、香月もまた、直樹がまだ目と鼻の先に居るのだとは毫程も思ってはいない。

 香月の住むマンションは、裏通りの奥まった位置にある。一番近い表通りに出るにも10分程も歩かねばならず、その労力を払わねば24時間営業のコンビニに辿り着けない。周囲に目を向ければ雑草が伸び放題の空地も目立ち、うら淋しい事この上ない。
 そういった実情のせいばかりでもないのだろうが、互いに干渉し合わない程に間隔の開いた街灯の寂しげな光もまた、夜という存在の演出に大きく貢献していた。
 いずれはこの一帯も都心部のようにマンションが立ち並ぶのかもしれないが、交通の便がよろしくない状態ではそれもまだ先の話か。
 今、視界に入る中で一番眩しく光るものがドリンクの自動販売機だというのも、直樹の目には皮肉めいて映る。

(ま、そんなものなのかもな)

 なにしろ、香月の住居を選ぶ際に重視したのはその低価格なのだ。
 数年前、不慮の事故により他界した香月の両親。まとまった資産が遺されたとはいえ、社会人となって自立するまでに必要な金額を考えれば、可能な限り出費は抑えた方が良いに決まっている。徒歩での通学圏内に物件が見つかっただけでも幸運なのだ。

(まだ、そんなに経ってはいないんだよな)

 香月の両親に不幸が降り掛かってから、まだ5年も過ぎてはいない。

(…………)

 色々と考えようとして、直樹は軽く頭を振った。
 今ここでそれをしてみても、さしたる意味も無いからだ。様々な事情が織り交ざってはいるが、香月は元気に過ごしている。

 マンションに背を向け、ポケットから出した数枚の硬貨を自動販売機に投入する。客の存在を感知した自動販売機は大歓迎とばかりに光量を上げ、直樹は僅かに目を細めた。
 渓谷地の名称が付けられたミネラルウォーターを購入すると、キャップを捻りながら香月の部屋がある窓へと視線を上げた。

「……んむ?」

 香月の部屋の明かりが消えていた。寝るにはまだ早い時間帯ではなかろうか。
 僅かに眉根を寄せたが、香月の気紛れは今に始まった事ではないので取り立てて驚くでもない。

「それにしても…」

 廊下で見た通り、香月の部屋以外の窓も闇に閉ざされている。それどころかひとつ下の階も、どの窓にも明かりはなかった。

(まさか、入居者そのものがゼロだなんて事はないよな?)

 これまでの記憶を呼び起こせば、幾人かの住人と挨拶を交わしている。香月以外の住人が居ないという事はありえなかった。
 現に、さらに視線を下ろしてみればいくつかの窓には溢れんばかりの光が見て取れた。

 再び香月の部屋へと視線を戻す――と、その隣室の窓の奥で光が数回瞬くのが見えた。
 直樹と入れ違うように隣人が帰ってきたようだ。階段の途中では誰とも顔を合せていないので、エレベーターに乗って上がっていったのだろう。
 地上6階ともなれば大抵の者はエレベーターを使うので、階段を使っていた直樹と会わないのも道理だといえる。

 そんな事を漠然と考えた瞬間だった。
 瞬いた光は闇に包まれていた空間を白く塗り潰し、何の前触れもなく黄色に、そして紅に染まった。
 瞬きをする間もなかった直樹の視界の奥で窓ガラスが大きくたわみ、その圧力に耐えきれずに粉々に砕け散る。飛び散る破片ひとつすら逃すまいと、残された窓枠を舐めながら炎が追いかける。

 事態はそれだけに止まらなかった。
 窓を破壊しただけでは飽き足らなかったのか、炎はマンションの内壁を突き破り、香月の住まう部屋にまでなだれ込んだのだ。そして同じように砕かれる窓ガラス。
 直樹の頭上に爆発の余波が及ぶ事はなかったが、降り注ぐ様々な破片を前にその顔は蒼白になっていた。
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